下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

『Fill the groove』(KENTARO!!ソロ作品)@吉祥寺シアター

『Fill the groove』(KENTARO!!ソロ作品)@吉祥寺シアター

大人になってしまった全ての子供達に捧ぐ

新境地・リアリズムダンス・何もない

[出演] KENTARO!!

[音楽] 誰かの思い出(KENTARO!!×荒谷みつる)

[照明] しもだめぐみ [音響] 泉田雄太 [舞台監督] 熊木 進

[舞台美術] 杉山 至 [宣伝美術/WEB] Side mountain a.k.a.横山彰乃 

[宣伝映像] モッチャム a.k.a.高橋萌登 [記録映像] イリベシン

[制作]瀧本麻璃英、Crackersboat

東京ELECTROCKSTAIRS『アスモスノクラス』(ダンス作品)と『半永久的状況宇宙』(演劇作品)

[ダンス]東京ELECTROCKSTAIRS『アスモスノクラス』(ダンス作品)@吉祥寺シアターCommentsAdd Star

昨日から今日へ毎日にうんざりしながら

死んでしまった亡霊ひっそり呼び起こす

[出演] KENTARO!!、横山彰乃、高橋萌登、泊 舞々

山本しんじしんじ川口真知、吉田特別

[]東京ELECTROCKSTAIRS『半永久的状況宇宙』(演劇作品)@祥寺シアターCommentsAdd Star

これで最後になるかもしれない山脈

眺めて島を巡り真顔で泣いていた

[出演] 猪俣三四郎(ナイロン100℃) 、海津忠(青年団)

木引優子(青年団) 、熊川ふみ(範宙遊泳)

細谷貴宏(ばけもの) 、望月綾乃(ロロ)

(以上、五十音順

横山彰乃、高橋萌登、泊 舞々

(以上、東京ELECTROCK STAIRS)

第73夜「坂崎幸之助のももいろフォーク村ちょいデラックス」@CSフジテレビNEXT

第73夜「坂崎幸之助ももいろフォーク村ちょいデラックス」@CSフジテレビNEXT


セットリスト
(開演前:お台場フォークゲリラあり)
M1:古い日記 (夏菜子&和田アキ子和田アキ子)
M2:悲しい歌 (和田アキ子PIZZICATO FIVE)
M3:ゴリラパンチ (ももクロ和田アキ子ももクロ)
M4:タイガー&ドラゴン (杏果&和田アキ子クレイジーケンバンド)
M5:アイドルばかり聴かないで (ももクロNegiccoNegicco)
M6:Ring the Bell (ももたまい&Negiccoももたまい)
M7:夜更けのアモーレ (ももたまい/ももたまい)
M8:しあわせグラフィティ (ももたまい/リョウときりん)
M9:太陽とえくぼ (夏菜子&杏果/百田夏菜子)
M10:裸足の季節 (夏菜子&あーりん/松田聖子)
M11:ふたりの愛ランド (夏菜子&あーりん&村長/石川優子/チャゲ)
M12:しょこららいおん (いづみ&れにベース&しおりピアノ/高城れに)
M13:坂道 (れに&いづみ/加藤いづみ)
M14:Zero (れに&いづみ/加藤いづみ)
M15:紅 (Tochi&にゃんごすたー/XJAPAN)
M16:嵐を呼ぶ男 (杏果&にゃんごすたー/石原裕次郎)
M17:みかんのうた (ももクロ&村長&いづみ&ANCHANGSEX MACHINEGUNS)
Go!Go! GUITAR GIRLZ
M18:青空 (GUITAR GIRLZ&miwa&DMB男衆/THE BLUE HEARTS)
M19:don't cry anymore (しおりん&miwa/miwa)
M20:chAngE (あーりん&miwa/miwa)
M21:いつか君が (ももクロ&miwa/ももクロ)
M22:君に出会えたから (ももクロ&miwa/ももクロ)
M23:ワニとシャンプー (ももクロ&miwa/ももクロ)
M24:水の星へ愛をこめて (あーりん&森口博子森口博子)
M25:ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~ (れに&森口博子森口博子)
M26:to U (杏果&桐嶋ノドカBank Band)
M27:猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」 (ももクロ桐嶋ノドカももクロ)

燐光群「湾岸線浜浦駅高架下4:00A.M.(土、日除ク)」@下北沢ザ・スズナリ

2017年7月6日(木)〜19日(水)
東京都 ザ・スズナリ

作:深津篤史
演出:坂手洋二
出演:杉山英之、東谷英人、荻野貴継、橘麦、高野ゆらこ、武山尚史、山村秀勝、宗像祥子、田中結佳、和田光沙、高木愛香、中瀬良衣 ※出演者は一部回替わり

燐光群湾岸線浜浦駅高架下4:00A.M.(土日除ク)」観劇。初演の記憶は茫漠としかなく、何となくエロかったということしかなかった(笑)。坂出洋二の演出はクリアな感じでこれも震災劇だと腑に落ちた。とはいえ、深津特有の幻想感覚は生かされており魅惑的だった。他の作品の上演も見たい。

鳥公園♯14「すがれる」2012/2017(2回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:西尾佳織

2012年に北九州、大阪、横浜と都市を移動し、環境を脱ぎ替えながら、作品を少しずつ成長させるプロセスを踏んだ「すがれる」。本公演では、大阪バージョン再演と、横浜バージョンのリクリエイションとの2本同時上演を行います。


鳥公園
2007年7月結成。「正しさ」から外れながらも確かに存在するものたちに、少しトボケた角度から、柔らかな光を当てようと試みている。生理的感覚やモノの質感をそのままに手渡す言葉と、空間の持つ必然性に寄り添い、「存在してしまっていること」にどこまでも付き合う演出が特徴。東京以外の土地での滞在制作も積極的に行っている。
出演 武井翔子、山崎皓司(FAIFAI)、八木光太郎(GERO)

スタッフ
舞台監督:浦本佳亮+至福団
舞台美術:中村友美
照明:中山奈美
音響:中村光
衣裳: 藤谷香子(FAIFAI)
演出助手:長谷川皓大(富士フルモールド劇場)
宣伝美術:鈴木哲生
制作:合同会社syuz’gen

 2度目の観劇。最初の観劇では見逃していたことをいくつか発見、意義深い観劇体験となった。山崎皓司演じる男が小説家、室生犀星を想起させ、それはこの舞台の主題である「老い」「死」のイメージにつらなっていく。それと対比されるように武井翔子演じる女(母、編集者、金魚)が登場するがそれはそれぞれ別の役柄でありながら、イメージ上は通底し合っている。いわば三位一体のようなところがあり、しかも男の「死」「老い」に対し、「性」と「生」を象徴する存在なのだ。この対比の構図はある意味、非常に分かりやすい。
 ただ、この舞台には室生犀星のテキスト以外のいろんな要素も入り込んでおり、それらの中には意味が取りやすいものもあればそうでない部分もある。最初の観劇では室生犀星から引用部分に注目しながら、物語の解釈をしていくような見方をしていたが、この日もう1度見直してみるとそれだけではない部分に目がいった。冒頭ではいきなり陸上で発見された動物の骨のことが男によって語られて物語ははじまる。その後、それを女が受け、以前は猛獣(ライオン)だったという例え話なのかなにか受け取りにくい話になり、場面はそのまま老人を演じる女(武井翔子)とその孫らしい男(山崎皓司)との会話に変貌していくのだ。この時点ですでに武井は老女ではなく、老人の男を演じており、この舞台において演じられる役柄と演じる俳優の間には対応関係がない時もあるということが示される。

鳥公園♯14「すがれる」2012/2017@こまばアゴラ劇場

作・演出:西尾佳織

2012年に北九州、大阪、横浜と都市を移動し、環境を脱ぎ替えながら、作品を少しずつ成長させるプロセスを踏んだ「すがれる」。本公演では、大阪バージョン再演と、横浜バージョンのリクリエイションとの2本同時上演を行います。


鳥公園
2007年7月結成。「正しさ」から外れながらも確かに存在するものたちに、少しトボケた角度から、柔らかな光を当てようと試みている。生理的感覚やモノの質感をそのままに手渡す言葉と、空間の持つ必然性に寄り添い、「存在してしまっていること」にどこまでも付き合う演出が特徴。東京以外の土地での滞在制作も積極的に行っている。
出演 武井翔子、山崎皓司(FAIFAI)、八木光太郎(GERO)
スタッフ
舞台監督=浦本佳亮+至福団、舞台美術=中村友美、照明=中山奈美、音響=中村光彩、衣裳=藤谷香子(FAIFAI)
演出助手=長谷川皓大(富士フルモールド劇場)、宣伝美術=鈴木哲生
制作協力=​中山佐代(京都公演)、制作=合同会社syuz'gen
​助 成=日本芸術文化振興基金、公益財団法人セゾン文化財団、公益財団法人全国税理士共栄会文化財
提 携=こまばアゴラ劇場(東京公演)
共 催=アトリエ劇研(京都公演)
協 力=FAIFAI、GERO、舞台芸術工房六尺堂、富士フルモールド劇場、シバイエンジン
製作・主催=鳥公園

鳥公園の作品には余白が多い。この舞台でも室生犀星の小説などから引用された「死」や「老い」にまつわる複数のテキスト(老作家と金魚との会話で構成された「蜜のあはれ」、凄絶なガン闘病記「われはうたえどもやぶれかぶれ」、「蜜のあわれ」出版時の犀星自身と栃折久美子氏の装丁のことを題材にした「火の魚」)が舞台上で引用され上演されるが、それは厳密な意味でひとつのテキストに収斂されるということはない。舞台上ではそれぞれの物語はゆるやかに漂いながら響き合っている。


 室生犀星の小説が原作ではあるが、実はこの物語は2010年にNHKドラマ「火の魚」、昨年(2016年)に映画「蜜のあはれ」として映像化されている。「すがれる」には老作家の担当女性編集者が出てきて作家から金魚の魚拓をとって、小説の表紙の装丁デザインにするように依頼されるのだが、この部分が書かれているのが「火の魚」。NHKによるドラマは尾野真千子が若い女性編集者役、原田芳雄が老作家役を演じ、国内外の数多くの賞も受賞したのだが、この舞台を見てどこか既視感を感じたのは以前にこのドラマを見ていたからだったようだ。

すが・れる【▽尽れる/▽末枯れる】 の意味

出典:デジタル大辞泉

[動ラ下一][文]すが・る[ラ下二]

1 草木が盛りの季節を過ぎて枯れはじめる。
「梅が散って、桃が―・れて」〈風葉・恋ざめ〉

2 人の盛りが過ぎて衰えはじめる。
「自然 (じねん) と―・れて来る気の毒な女房の姿は」〈漱石・道草〉

3 物が古びる。
「―・れたる綿繻子の帯の間より」〈露伴・いさなとり〉

4 香が燃えつきる。
「―・れたれども名香とおぼしき空炷 (そらだき) に」〈読・逢州執着譚・五〉

 「すがれる」というのは耳慣れない言葉だが、辞書で調べてみると 「1 草木が盛りの季節を過ぎて枯れはじめる。」が転じて「2 人の盛りが過ぎて衰えはじめる」の意。先に書いたように老境に入った作家を描くことで「老い」やその先に来る「死」をモチーフとしていることは間違いないだろう。個人的な体験を書くのはどうかとは思うが、50歳をとっくに過ぎ、60歳を目前に控える年齢になるといろんな意味で「老い」を実感せざるをえないし、身につまされるようなことも多くて人ごとではない。
 前回公演の「ヨブ呼んでるよ」の観劇後の感想*1で鳥公園(=西尾佳織)の芝居の叙述の特徴を「通常は例えば小説の記述における地の文のようなものがあり、それが劇の中で何が語られているかの手掛かりになることで全体としての構造がつかめてくるのだが、劇描写の中にはそういう地の文のようなものがない。あるいはあるとしてもすごく分かりにくい形でしか存在していない。ネット上の感想などをみると「分かりにくい」というものが多いが、ひとつはそうした特徴にあるのではないか」と書いたが、この「すがれる」では手掛かりとなる描写の核がいずれも小説のテキストを元にしているものであるため、私にとっては「ヨブ呼んでるよ」のような根源的な理解不可能性を感じさせるものではなく、この人の作品としてはすごく分かりやすい。
 とはいえ、ことテキストという限りにおいてはおそらく「すがれる」の初演は2012年だから初演時にすでに室生犀星の原作小説「火の魚」だけではなく、脚色したドラマもイメージとして参照していたのではないかと思われる節*2があること。その後、昨年今度は二階堂ふみ主演の映画「蜜のあわれ」が公開されるわけだが、映画は私は見逃していてこれが演出家にとっての直接的な参照項になっているかどうかは不明だが、この時期にこの作品が再演されたことと映画の公開はまったくの無関係といえないのかもしれない*3 *4。 

*1:「ヨブ呼んでるよ」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20170319

*2:装丁家栃折久美子をモデルにしていた人物を編集者としていたのはドラマのオリジナルだったが、この舞台でも女は担当編集者として登場する。西尾によればドラマは存在は後で知ったが見ていない、編集者には私が変更したのでドラマとの一致は偶然とのことだった。

*3:少なくとも映画の公開を知らないで舞台を作っているとことは考えにくい。とりあえず未見の映画を何とかして見てみたいと思った。

*4:西尾によれば映画も見ていないということだった。

昇悟と純子「evergreen(エバーグリーン)@セッションハウスギャラリー

昇悟と純子が恋をした。明日のアー大北は初の長編。

作・演出 大北栄人(明日のアー)
出演 古関昇悟 宮部純子(五反田団青年団
宣伝美術:大伴亮介
音響照明協力:池田匠
舞台美術:佐々木文美(快快)
宣伝美術 大伴亮介<<
宮部純子が今年の春からこれまで所属していた五反田団

マームとジプシー MUM&GYPSY 10th Anniversary Tour vol.1 『クラゲノココロ モモノパノラマ ヒダリメノヒダ』@埼玉県 彩の国さいたま芸術劇場 小ホール

2017年7月7日(金)〜7月30日(日)
会場:埼玉県 彩の国さいたま芸術劇場 小ホール


作・演出:藤田貴大
音楽:山本達久
衣装:suzuki takayuki
出演:
石井亮介
尾野島慎太朗
川崎ゆり子
中島広隆
成田亜佑美
波佐谷聡
吉田聡
山本達久

MONOについて劇団結成10周年(1999年)に書いた文章

 MONOは京都に本拠を置く劇団で、89年にB級プラクティスとして結成され、その後、91年に現在の劇団名に改名したというから、今年は劇団結成10周年の記念の年となる。

 旗揚げ以来のメンバーである作演出の土田英生、水沼健ら個性的な俳優による少人数の質の高い会話劇が特色。こちらも最初に見たのは扇町ミュージアムスクエアの若手劇団発掘企画、アクトトライアルで大阪に初登場した時で、この時にはまだつかこうへいなどの影響を受けながら、自らの作風を模索している時期であったが、その後、京都のアルティで上演された「スタジオNO.5」でワンシテュエーションの群像会話劇に方向転換。都市に住む清潔なホームレスたちを描いた「路上生活者」、クリスマスを嫌う人たちが集まるイブのペンションを舞台にした「Holy Night」、大勢で詐欺にでかける詐欺師の集団を描いた「約三十の嘘」と実際にはありえないが、絶対にありえないわけではない奇妙な状況に置かれた群像を会話劇のスタイルにより、コミカルに描きながら、そこから現代がかかえる様々な問題を浮かび上がらせていく。

 元時空劇場の金替康博が正式メンバーとして参加したことで、一層パワーアップ、昨年、利賀フェスで上演された「きゅうりの花」、今年上演された「燕のいる駅」はいずれも年間ベストプレイの上位にランクされる好舞台であった。これまでは東京では以前に大世紀末演劇展に参加して「路上生活者」を上演したことはあるものの、松田正隆らの戯曲賞受賞で京都演劇界が注目される以前で一般の注目度はまだ低く、今回が満を持しての東京本格進出となる。奥村泰彦(一色正春の名前で俳優としても出演する)の美術ほか、スタッフワークのレベルの高さにも注目してほしい。

 「―初恋」は97年に京都、大阪で上演された舞台の再演。ホモアパートの名前で近所で呼ばれている「ハイツ結城」で集団生活している同性愛者たちという土田英生らしいひねったシチュエーションで起こるおかしくも哀しい恋愛事件が描かれる。微妙な会話のずれによって起こる笑いを交えて、進行していく芝居はエンターテインメント性がきわめて高く、単純に楽しむことも出きるが、それだけにとどまらずシニカルなものの見方を通じて社会に対する批評性をも合せ持っているのが土田の紡ぎだす世界の特徴である。G2プロデュースやM.O.Pへの戯曲の提供などで東京でも徐々に劇作家としては知られるようになっている土田だが、息のあった役者たちとの絶妙なアンサンブルはここでしか見られないもの。東京の演劇ファンにぜひ見てもらいたい公演のナンバー1である所以である。

 これも参考までにこれまで見たMONOの作品のうち私の個人ベスト3を挙げておくと

 1、「きゅうりの花」

 2、「燕のいる駅」

 3、「約三十の嘘

 3、「Holy Night」

 いちおう、1、2位をつけてはみたが、本当は「きゅうりの花」と「燕のいる駅」はコメディー色の強い「きゅうり〜」とドラマ色の強い「燕〜」と作品の方向性がかなり違い甲乙つけがたいといったところ。「約三十の嘘」は土田流ウエルメードコメディーの傑作。深みにこそ欠けるが、良質のコメディーとして、最上級といえる舞台だったんじゃないだろうか。「Holy Night」は女性の描き方などにやや不満もあるがストレートにMONOのよさが出た作品として、楽しめたし、奥村泰彦の天才的美術を堪能できた。

ロジェ×束芋@浜離宮朝日ホール

 パスカル・ロジェのピアノと、束芋の美術が出会う
 ドビュッシーラヴェルの音楽が生み出す幻想の時間
出演
パスカル・ロジェ(ピアノ) 束芋(たばいも)現代美術

演奏曲目:
ドビュッシー
パゴダ/雨の庭(「版画」より)
帆/野を渡る風/亜麻色の髪の乙女/沈める寺(前奏曲集・第1巻より)
そして月は荒れた寺院に落ちる/金色の魚(「映像・第2巻」より)
月の光(ベルガマスク組曲より)
●サティ
グノシエンヌ第5番/グノシエンヌ第2番/ジムノペディ第1番
ラヴェル
悲しい鳥たち(「鏡」より)
吉松隆
水によせる間奏曲/小さな春への前奏曲/けだるい夏へのロマンス/間奏曲の記憶/真夜中のノエル/静止した夢のパヴァーヌ(プレイアデス舞曲集より)

束芋の作品は以前から好きだ。だから、このコンサートに出かけて来たわけだが、端的に言ってこれはパスカル・ロジェのピアノコンサートだった。ロジェはいかにもフランス人らしい色彩感に溢れた音色を醸し出すピアニストである。ドビュッシーやサティはそうしたタッチによく合っている。ピアノコンサートとしてはとてもよかった。
ただ、それゆえにコンサートの最中に何度も感じてしまったのは束芋の作品は好きでもこのピアノに映像が本当に必要なのだろうかとの疑問なのだった。特にドビュッシーの楽曲などはもともとまるで音による絵画のようなとでも評されるような作風なので、そこに束芋のような具象的にイメージを付加されるというのはかえって自由なイメージを制限されるように感じ、蛇足ではないかと思ってしまった。
 ドビュッシーの音楽を最初に意識して聴いたのは当時大ファンだった冨田勲の作品集だった。ムーグシンセサイザーによる冨田の音づくりは完全に抽象的な音色というより、何かをシミュレーションしたような音。それは絵画的といってもいいが、それが最初の作品集が「展覧会の絵」だった大きな理由かもしれない。ドビュッシーラヴェルの作品化もそうしたラインに沿ったものと思われた。
そう考えて冨田の後、実はピエール・ブレーズの指揮による「牧神の午後への前奏曲」の演奏を聴いてみたのだが、オーケストラの演奏なのに冨田以上に音色豊かに感じられたのに驚いた。その後、ピアノによる演奏を聴いた時もそう思った。まだ、若かった頃の出来事であり、そんなことはすっかり忘れていたが、ピアノ演奏を見ながらそんなことを思い出したのは、ロジェの音のイメージ喚起力に感心したからだ。
 このコンサートのプログラムにはフランス音楽に加えて、日本の現代音楽家である吉松隆の楽曲も6曲入れられていた。こちらはドビュッシーなどと違って束芋の映像との親和性はより強く感じられた。
 ここまで書いてきて気がついたが、誤解があると困るので再確認すると束芋の作品がよくなかったとか、作品と映像が合っていなかったと指摘したいわけではない(事実、ネット上にはそういう批判も散見された)。アニメーション(というか束芋のものは動く絵画作品といってもいいのだが)と組み合わせるのにもともと音から絵画的といってもいいようなイメージを感じ取ることができるドビュッシーラヴェルの作品は適当だったのかということだ。どうもこれはあまりに説明的になるというか屋上屋を重ねるというようなことになっていたのではないか。
 それと比べるとより現代音楽でより抽象度の高い吉松隆との相性は悪くなかった。おそらく、ピアニストが弾きたい曲をまず選んだのではないかと思うのだが、全体のプログラムの流れがどちらの主導でこういう風になったのかが知りたいところだ。