下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

うさぎストライプ『ゴールデンバット』(2回目)(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

うさぎストライプ『ゴールデンバット』(2回目)(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

大人になれない
大人のための
うさぎストライプ


ゴールデンバット

菊池佳南の新作一人芝居。

数十年前、アイドルになるために上京した女は、叶わなかった夢を追うように地下アイドルのライブに通い始める。そこで出会った一人のアイドルに、女は心を奪われていく。

*第2回いしのまき演劇祭 参加作品


『セブンスター』

2012年、2016年と上演を重ね、今回が再々演。
ガレージで1人、自転車を組み立てる男は、幼い頃に宇宙飛行士になりたいと思っていた。JAXAのロケット開発者を目指していた兄と共に宇宙を夢見た彼は、未だに捨てられない宇宙への憧れと、初恋の〈あの子〉の言葉を忘れられずにいた。

作演出の大池容子に菊池佳南になぜ地下アイドルの役を書き下ろしたのかと聞いたら、「彼女はもともとオタ芸のようなことをやっていたことがあるから」などと言っていたので、ハロプロか何かアイドルのファンだったことがあったのかと本人に確かめてみた。
 それで分かったのは菊池佳南は青年団に入る前に「バナナ学園純情乙女組」のメンバーとしてパフォーマンスに参加していた時期があり、バナナ学園が組織改変で「革命アイドル暴走ちゃん」に変わってパフォーマンス色を強めた*1際に「私は演劇がやりたい」とそちらには加わらず退団し、青年団に入ったということであった。
それがキャラクターを生かされて青年団リンク ホエイ「小竹物語」では怪談アイドルひふみん役に続き、この「ゴールデンバット」では昭和顔の地下アイドル・憂井おびる(元・梅原純子)とずっと以前に宮城県から東京に歌手志望者として出てきた「エイコ」の2役を演じている*2
 
 

*1:spice.eplus.jp

*2:正確に言えばそれだけではなく、「エイコ」の父母、妹、大学の先輩、純子のマネージャーなど数多くの役柄をたったひとりで演じ分けている。似たようなことを井上みなみもやっていたから、青年団の若手女優たちは異常に高スペックである。

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション@横浜KAAT

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション@横浜KAAT

作品情報

「今はむかし、2003年3月の、イラク戦争が開戦した頃の東京を舞台にした芝居です。このひとむかし前の戯曲を新しい仕方で、若い(かつ力強い)七人の役者によって上演します。テキストも案外と大幅に書き換えて2017年12月の日本で『三月の5日間』が上演されることは何を引き起こすでしょう?
岡田利規


【作・演出】岡田利規

【出演】朝倉千恵子、石倉来輝、板橋優里、渋谷采郁、中間アヤカ、米川幸リオン、渡邊まな実

【舞台美術】トラフ建築設計事務所

チェルフィッチュ「三月の5日間」の新キャストによる再演。今年は東京デスロックの「再生」「三人いる」が再演されたり、2000年代(ゼロ年代)を代表し、その後のポストゼロ年代の演劇への流れに向けての先陣を切った作品の再演が続いた。
 その中でもこの「三月の5日間」の初演*1はそのスタイルの斬新さにおいて衝撃的なものであり、平田オリザの「東京ノート」に代表されるような「関係性の演劇」中心の日本現代演劇の状況をこれ1作で、一変させるほどのインパクト(衝撃)があった。 
チェルフィッチュと「三月の5日間」については演劇雑誌「悲劇喜劇」に簡単な解説*2を書いたほか、セミネールレクチャー*3、ブログ*4などにも何度にもわたって様々な角度から論じているので、自分としては論じつくしており、新たな観点が見当たらないほどなのだ。
それゆえ、今回の感想では「三月の5日間」がどのような作品であるかについてはあえて触れず、参照としてこのページにもリンクしてある文章などを読んでほしい。ここではあくまで今回の舞台を見ての印象に絞って書いてみたい。
 ネット上の感想などではこれまでの上演との違いをこと細かく解説したものが多いようだが、正直言ってその点についてそれほど大きな印象の違いはなかった。むしろ、驚いたのは初演のころ、演劇表現のエッジとして驚いた表現に今回はそれほどエッジ感は感じず、普通の表現に見えたことだ。
 そのことは一見「三月の5日間」が初演時に感じた斬新さを失い陳腐化したと言っているように思う人もいるかもしれないが、事実はまったく逆で岡田利規はこの1作でここ十年ちょっとの演劇の新たなスタンダードを作った。だから、最近見た表現などを踏まえてこの作品を見ると極めてオーソドックスな作品にしか見えない。そういうことではないかと思う。
 そして、そういう目でこの作品をもう一度見直すと非常にうまく構築された優れた作品という風に見えてきた。
 とはいえ、今回の上演が昔とそんなに大きく違って見えないのは観客である私の方の問題もあるかもしれない。初演では渋谷のラブホに行く男を山縣太一 が演じ「ミッフィーちゃん」を松村翔子が演じてそれぞれ忘れがたい印象を残した。
  もちろん、今回は別の俳優がその役を演じてしかも初演とはまったく異なる役作りでそれをするのだが、複数の俳優が特定の人を演じることで、そのうちのどれでもないイメージのようなものが間主観的に観客の脳裏に浮かび上がるという演劇の構造からするとそのイメージの構成には実は今見た俳優の演技と同等に記憶の中の山縣、松村の演技のイメージが関与してくる。作者としてはそこは分離して考えてほしいとは思うのだろうが、一度経験したものはなかったことにはできない。
 ましてや、今回は山縣が以前演じていた役を女優が演じていて、それゆえ喚起される想像力の発揮される部分が他の場合よりも大きい。それも以前に見た上演の記憶が関与しやすい要因になっているのではないかと思った。もうひとつはそういう想像力が喚起されるような仕掛けが上演の受容に関与していく仕掛けにおいて、デモの場面などにおいてマレビトの会の上演スタイルとの類縁性も感じさせられた。
 マレビトの会でのアイドルライブでのコールは模倣したわけではないと思われるが、「三月の5日間」のデモの場面でのシュプレヒコールと本当にそっくりだった。「三月の5日間」というと当時超現代口語演劇といわれた饒舌なモノローグが強調されることが多いが、実は多様な演劇スタイルのアマルガムのようになっていて、デモの場面の描写などはチェルフィッチュが大きくスタイルを変えたように見えた「わたしたちは無傷な別人であるのか?」以降の様式につながってきているのかもしれない。そして、マレビトの会との関係も再考する必要があるのかも知れないと考えた。
 
simokitazawa.hatenablog.com

うさぎストライプ『セブンスター』(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

うさぎストライプ『セブンスター』(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

大人になれない
大人のための
うさぎストライプ
『セブンスター』

2012年、2016年と上演を重ね、今回が再々演。
ガレージで1人、自転車を組み立てる男は、幼い頃に宇宙飛行士になりたいと思っていた。JAXAのロケット開発者を目指していた兄と共に宇宙を夢見た彼は、未だに捨てられない宇宙への憧れと、初恋の〈あの子〉の言葉を忘れられずにいた。

2016年の上演を見ているのだが、初恋の少女が事故に遇って亡くなり、そのトラウマで主人公が宇宙飛行士の夢をあきらめるという物語だという風に記憶していた。ところが今回の舞台を見終わって呆然としたのはそういうシーンはこの芝居にいっさい登場しなかった。
 こんな偽の記憶がどのように埋め込まれたんだろうか。「ひょっとして私はレプリカントで偽の記憶を埋め込まれたのかと疑った」というのは盛りすぎ(笑)で明らかに虚構だが、最近演劇にドラマが必要かどうかなどということを議論していたということがあって、私は「演劇にドラマはいらない」派ではあるのだが、ドラマへの欲求が記憶の改変を引き起こしたのかとの疑念が脳裏に浮かんだのだった。
 そして結論から言うと記憶は一部捏造されていたが完全な捏造というわけではなかった。前回上演では初恋の少女が交通事故に遭う場面はあったが、今回は削除されたこと、とはいえ事故には遭ったがそれで死んだというわけではなかったということが分かったからだ。
  大池容子によれば少女の事故を削除したのはこの作品において「彼女の存在というのは決定的に重要なものではないのに、それは観劇後、強い印象を
与えてしまうから」ということだが、事実、実際に上演では事故は直接「死」につながるようなものではないのになんとなくそういう記憶になってしまっていたのはそれが強い印象を与えていたからかもしれない。
 それゆえ、今回の舞台と前回ではかなり印象は違うはず。こんなことを言うのは私は彼女の最初の登場の場面から「この子は将来事故で死んでしまう子だ」という先入観で見てしまっていたので虚心坦懐には見られてはいなかったということがあったからだ。
前回公演とのテキスト上のもうひとつの大きな変更は小学生を相手にした塾で理科(特に宇宙のこと)を教えている場面を付け加えたことだ。
  前は実家の地下ガレージの中で自転車を組み立てたりして宇宙飛行士になるという妄想に浸っている人というような主人公のイメージが強かった。それゆえ、この人は結局夢が捨てられずにかといえかなうすべもなく、ずっとそこにいるのではないかという後ろ向きともいえるイメージが作品全体を覆っていたが、今回はそこも大きく異なったのではないか。それで宇宙飛行士への夢が完全に吹っ切れるかどうかは別にして少年の時にいけなかった種子島のロケット打ち上げ基地に自転車を飛ばしてもう一度向かおうと決意した姿が最後に提示された。
この作品の設定自体は漫画で映画にもなった「宇宙兄弟」と小説で大人気ドラマにもなった「下町ロケット」にヒントを得ていることは明らかで、その辺をどのように評価するのかが作品評価の分かれ目になってはくるであろうが、私自身はそんなことはこの作品の意義からすればあまり問題ではないだろうと考えており、一人芝居であるためそれゆえの特殊性はあるにはあるが、手法や主題の方向性においてうさぎストライプを代表する作品であることは間違いないと思った。
simokitazawa.hatenablog.com

 

劇評講座III「意識高い系」のなかの演劇と批評

劇評講座III「意識高い系」のなかの演劇と批評

【日時】2017年12月3日(日)18時~20時(予定)
【場所】座・高円寺地下3階けいこ場3(JR高円寺下車徒歩5分)
【講師】嶋田直哉(シアターアーツ編集長、明治大学准教授)
    (聞き手 野田学 シアターアーツ編集部、明治大学教授)
【会費】AICT日本センター会員無料、一般500円
  ※事前申込不要
  ※終了後懇親会を予定しております。参加自由です。
【主旨】
 「意識高い系」という言葉はそもそも前のめりに就職活動を行う学生を揶揄する言葉として2010年前後から頻繁に目にするようになりました。ネット上で自身を過剰に演出し、空回りなまでに前向きな生活を送る学生を「意識が高い学生(笑)」という表現で使われ出したのがその発祥と言われています。このように使われ出した「意識高い系」はやがてその意味範囲を広げ、学生のみならず、若者、ビジネスマン、主婦に至るまで多くの人を対象に用いられるようになりました。このような風潮を後押ししたのはTwitter, Facebook, InstagramといったSNSツールに他なりません。盛りすぎのプロフィール、人脈自慢、自己啓発セミナーへの執着的な参加、難解なカタカナ語の羅列、スタバ&AirMacなどなどSNSのタイムラインを少しでも眺めればこのような辟易とする投稿を確認することは実に容易なことです。またこのような意識が他人へ優位を示すマウンティングに直結することは明らかなことでしょう。このようななかで注目したいのは以前までは単に「(笑)」で済まされていた「意識高い系」が、最近は「インスタ映え」といった感覚を中心に「一(笑)」に付すことができない権力=圧力を獲得していることです。レストランの盛り付け、レジャーランドの風景などなど半ば強制的に「インスタ映え」の感覚(の実現)が求められてきています。このような現象は芸術の領域においても今後議論される必要があるでしょう。
 今回の劇評講座ではこのような蔓延する「意識高い系」の世界認識のなかに演劇というジャンルがどのように入り込んでいるのか(あるいはいないのか)、また「いいね!」に代表される承認欲求のなかで演劇に対する批評はどのような位置があるのか(あるいはないのか)について考えます。
 現在、SNSが劇団の、そして劇評家の発信ツールにおいて重要な位置にあることは事実です。劇団の情報告知、劇評の速報性など便利なことは多く、実際に弊編集部でもこのメディアを大いに利用しています。それゆえに今後SNSを通じてどのような演劇と批評のありかたが望まれるのかをみなさんとともに考えていきたいと思います。

—嶋田直哉(シアターアーツ編集長、明治大学准教授)

講師:嶋田直哉(しまだ・なおや)

1971年生まれ。シアターアーツ誌編集長。明治大学政治経済学部准教授(日本近代文学)。「語られぬ『言葉』たちのために--野田秀樹『ロープ』を中心に」(『シアターアーツ』34号、2008年3月)にて第12回シアターアーツ賞佳作)。

岩渕貞太ソロ・ダンス「missing link」(2回目)@こまばアゴラ劇場

岩渕貞太ソロ・ダンス「missing link」(2回目)@こまばアゴラ劇場

振付:岩渕貞太

ダンスと舞踏を学んだ岩渕貞太が、世界を先導する財産であると確信する舞踏を、自身の身体哲学から再解釈し、新たなダンスを創造するソロ公演。

『missing link』は、生物進化の環のなか、発見されていない存在、定かではない不在。
自身の身体の奥深く、『missing link』を探り続ける旅。
それは、他者の侵入を許しながらも抵抗し、名付けえない未知なるものを生み出す、変容と崩壊のダンス。
のみこむ漆黒の闇、あからさまに晒す光、残される蠱惑の肉体。
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岩渕貞太

玉川大学で演劇専攻、同時に、日本舞踊や舞踏も学ぶ。ダンサーとして、ニブロール伊藤キム山田うん等の作品に参加。
2007年より2015年まで、故・室伏鴻の舞踏公演に出演、深い影響を受ける。
2005年より、「身体の構造」「空間や音楽と身体の相互作用」に着目した作品を発表する。
2012年、横浜ダンスコレクションEX2012にて、『Hetero』(共同振付:関かおり)が在日フランス大使館賞受賞

げんこつ団『濁流サイダー』@下北沢・駅前劇場

げんこつ団『濁流サイダー』@下北沢・駅前劇場


■脚本・映像・音響/一十口 裏
■演出/一十口 裏・植木早苗
■振付/植木早苗

■出演:
植木早苗 春原久子 河野美菜 池田玲子(10・Quatre)望月文 津波
久保田琴乃 三明真実 皆戸麻衣(ナイロン100℃)林佳代 古川万城子
■声の出演/オフィスチャープ
■日程:2017年11月29日(水)〜12月3日(日)
11/29(水)=19時 11/30(木)=14時・19時 12/1日(金)=19時
12/2日(土)=14時・19時 12/3日(日)=15時
(受付開始は開演時刻の60分前から・開場は開演時刻の30分前から)

■問い合わせ/げんこつ団事務所 info@genkotu-dan.official.jp 03-6913-8012
■公式サイト:http://genkotu-dan.official.jp/

 げんこつ団は昨年11月の公演「四半世紀の大失態」が25周年記念公演であったから、記念ではないが今年が26周年となるわけだ。

岩渕貞太ソロ・ダンス「missing link」@こまばアゴラ劇場

岩渕貞太ソロ・ダンス「missing link」@こまばアゴラ劇場

振付:岩渕貞太

ダンスと舞踏を学んだ岩渕貞太が、世界を先導する財産であると確信する舞踏を、自身の身体哲学から再解釈し、新たなダンスを創造するソロ公演。

『missing link』は、生物進化の環のなか、発見されていない存在、定かではない不在。
自身の身体の奥深く、『missing link』を探り続ける旅。
それは、他者の侵入を許しながらも抵抗し、名付けえない未知なるものを生み出す、変容と崩壊のダンス。
のみこむ漆黒の闇、あからさまに晒す光、残される蠱惑の肉体。


岩渕貞太

玉川大学で演劇専攻、同時に、日本舞踊や舞踏も学ぶ。ダンサーとして、ニブロール伊藤キム山田うん等の作品に参加。
2007年より2015年まで、故・室伏鴻の舞踏公演に出演、深い影響を受ける。
2005年より、「身体の構造」「空間や音楽と身体の相互作用」に着目した作品を発表する。
2012年、横浜ダンスコレクションEX2012にて、『Hetero』(共同振付:関かおり)が在日フランス大使館賞受賞

岩渕貞太という人の作品を見たことは何度もあるのだけれど、単独の本格的ソロ公演を見たのは初めてだったかもしれない。この人の作品については見ていてすごくスリリングで刺激的な部分と少し分からない部分が共存していて、そこが面白いのだ。
 というのはダンスとしてスリリングで面白い部分が面白く、それ以外はつまらないという風に言えれば話は簡単なのだが、そういう風に間単に言うわけにいかないような空気があって、ひょっとしたらそれがこの人のダンスの一番「面白い」ところなのかもしれない*1
  「missing link」は大きく分けると3つの部分からなっている。衣装を着て踊る最初のパート、一度舞台からはけてから上半身が裸体となって出てくる第2のパート。そして、その状態のまま激しく動き回る第3のパートである。後の2つというのはひとつながりのもので前半と後半の2つの部分に分かれているのではないかと指摘する人も出てくるであろうことを承知でそれでも便宜上3つに分けているのでそこはとりあえずは納得しなくてもそうしておいてほしい。
 「missing link」という作品においてダンスとして端的に一番目を惹きつけられるのは真ん中のパートだろう。ここで岩渕はゆるやかな動きの中で、体中の筋肉や骨を制御しながら、じっくりと身体の変容のあり方を見せていく。この鍛え抜かれた身体のあり方は基本的に「舞踏的」なものであって、岩渕の経歴を見てみても2007年より2015年までの9年間にもわたって室伏鴻の公演に参加しており、室伏の影響を受けて現在も創作活動を行っているダンサーは鈴木ユキオ、目黒大路らほかにもいるが、室伏特有の体のあり方をかなり受け継いでいるようで一番直系と言っていい存在なのかもしれない。
 とはいえ、そこで体現されることは違ってもいて、いささか比喩的な表現になるが、全身銀塗りをした室伏のパフォーマンスにはどこか爬虫類的なところがあったのに対し、激しい咆哮を上げながら動き回る岩渕のパフォーマンスにはもっと野獣的なというか、いまだかつてみたことがない未知の生物に突然遭遇したかのような驚きを感じた。

*1:禅問答のように奇妙なことを言っているように聞こえるかもしれないし、そんなものは批評ではないと言う人も出てこようが、公演中に感じた「感じ」を再現しようとするとそんな風になってしまう

ナイロン100℃ 44th SESSION『ちょっと、まってください』@下北沢・本多劇場

ナイロン100℃ 44th SESSION『ちょっと、まってください』@下北沢・本多劇場

2015年「消失」公演からおよそ2年、新作は2014年の「社長吸血記」公演以来3年ぶりとなるケラリーノ・サンドロヴィッチ率いるナイロン100℃が再始動します。
タイトルは「ちょっと、まってください」に決定!
宣伝ビジュアルとともに、全出演者と地方公演詳細も公開致しました。

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:三宅弘城 大倉孝二 みのすけ 犬山イヌコ 峯村リエ 村岡希美 藤田秀世 廣川三憲 木乃江祐希 小園茉奈/水野美紀 遠藤雄弥 マギー

ケラの作品あるいは演出作品は随所で見てはいることもあってそんなに間があいていたというのは意外であったが、特にナイロン100℃の新作上演が2014年の「社長吸血記」以来ということには驚かされた。そういえば「しばらくはナイロン100℃の公演はスケジュールの関係でないのです」と話していたのを急に思いだしたが、ナイロン100℃の場合は今回出演している三宅弘城 大倉孝二 みのすけ 犬山イヌコ 峯村リエ 村岡希美 藤田秀世 廣川三憲といった劇団員はケラのナイロン100℃以外の舞台でもよく見かけるし、観客としては劇団公演だからといってそれほど特別なことを感じていなかったことも確かなのだ。
 作演出のケラ自身は今回の「ちょっと、まってください」に不条理喜劇と名づけて、ナイロンあるいはケラ作品がよく称せられるナンセンスコメディーとは別のものと位置づけている。だが、その違いは見ていてそれほどは分からなかった。
 あえて言えば「ちょっと、まってください」の不条理世界にはナンセンスコメディのように無意味な状況がエスカレーションしていくような流れは少なくて、例えば「娘が結婚してこの家に入ることになったので残りの乞食の家族も着いてくる」という流れになるのだが、一番最初の物語の前提である「娘が結婚してこの家に入ることになった」が明らかにおかしいのだが、その受け入れがたい前提を認めてしまえばその先は論理的な必然として進んでいくというような構造となっている。
 ケラはどうやら今回の作風の原点に別役実をおいているようで、こうした奇妙とも思える論理展開にも別役の影が見える。
実際、登場人物同士のかみあわない会話のやりとりには別役が多用するようなロジックがいくつも散見される。例えば手元に戯曲がないので不正確であることはあらかじめ断っておくが、乞食の兄妹の間の会話で兄が妹が家の中の様子を知りたいというので電柱に上ろうとしたが、カーテンが閉まっていたので中の様子が見えない。今度は降りようとしたが今度は落ちるのが怖くなって降りられずに電柱にしがみついていると今度は妹は「そんなことをしていると落ちてしんでしまう。死んだら兄さんは必ず地獄にいくなどといいだす」。兄はなぜ電柱に登ったのか説明しようとするが、今度は「落ちたら死ぬか死なないか」「死んだら地獄に行くかいかあいか、行かないか」の言い合いになり、「死なないというなら一度落ちて確かめてみろ」のようなことまで言い出す。会話はかみ合わずにずれにずれていく。
 不条理といえばそうではあるのだが、この芝居を見ていてふと疑念を感じたのは傍から見ていると条理が通っていないという意味では不条理にもみえるが、こういう会話の展開はどこか既視感があるというのに気がついた。これは私が妻とよくしている会話そのものではないか(笑)。議論の論理的整合性にはそれなりに自信があるのだが、妻と議論をする場合には私が例え論理的に妻を説き伏せようとしても都合が悪くなると相手は必ず輪転をずらしてくるし、なによりもやっかいなのは例え議論に勝ったとしてもそのことで相手が気分を害し、機嫌が悪くなってしまえばそのことによる不利益はあまりに大きく、議論に勝ったことのメリットなどなきに等しくなってしまう。
 もちろん、ケラの舞台の会話がそういうものだということでもないが、不条理とナンセンスを比較すると現実をそれなりに反映しているのが不条理であり、それとは切り離された意味不明の世界がナンセンスということなのかもしれない。
とはいえ、別役もケラも現在の世相に対し一見揶揄的に見えても風刺劇などと違い直接的に批判するという意図はおそらくない。この芝居の中には「賛成派」「反対派」「中立派」「中立派への賛成派」「中立派への反対派
などというのが出てきて、最近の日本の政治状況を批判するくすぐりのようにも見えなくもないため、これを政治風刺劇として評価する向きも出てきそうだが、そういう見方こそむしろ「ナンセンス」という風に私には思える。
電信柱、郵便配達などという別役的キャラ、別役作品の作中歌「雨が空から降れば」が作中で歌われたりとオマージュにも満ちていることは間違いない。
 この舞台を見ていて絶えず感じていたのはむしろ「ケラと別役には決定的に違うところがあると思われ、それは何なのだろう」ということの方だった。
最初に気がついたのは別役作品はほとんどの場合は一場劇であり、この芝居のような設定なら電柱がある庭の方か、建物内部の居間かそのどちらか一方で物語は展開する。そういうこともあり物語は複雑な起伏はあっても単線に近いものとして展開するが、この芝居では大きく分けて庭にいる乞食たちの物語と居間にいる家族たちの物語が同時進行で交互に展開していく。さらにいえば物語世界の因果律がまるでメビウスの輪のようにねじれた世界をケラは展開していく。そして、そこには「現実」からは少しずれた論理空間が展開されていくのだが、その論理空間そのものは不条理というよりはむしろナンセンスのようだという気がしてならないし、そこにはまだ分別できないなにかがあるという気がする。
  
 
 

うさぎストライプ『ゴールデンバット』(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

うさぎストライプ『ゴールデンバット』(作・演出:大池容子)@アトリエ春風舎

大人になれない
大人のための
うさぎストライプ


ゴールデンバット

菊池佳南の新作一人芝居。

数十年前、アイドルになるために上京した女は、叶わなかった夢を追うように地下アイドルのライブに通い始める。そこで出会った一人のアイドルに、女は心を奪われていく。

*第2回いしのまき演劇祭 参加作品


『セブンスター』

2012年、2016年と上演を重ね、今回が再々演。
ガレージで1人、自転車を組み立てる男は、幼い頃に宇宙飛行士になりたいと思っていた。JAXAのロケット開発者を目指していた兄と共に宇宙を夢見た彼は、未だに捨てられない宇宙への憧れと、初恋の〈あの子〉の言葉を忘れられずにいた。

うさぎストライプ「ゴールデンバット」@アトリエ春風舎観劇。菊池佳南のひとり芝居。青年団リンクホエイに引き続き2作品連続でアイドル役だが、前回の怪談アイドルに続き今回は懐メロアイドルと、地下の中でもB級感が漂うのはなぜ?これはもう「青年団のアイドル」と名乗っても間違いではない(笑)。
作者も主演も30前後のはずだが、渡辺真知子ちあきなおみフォーク・クルセダーズカーペンターズ……。この選曲はいったいどこで知ったのだろう?懐かしいけど受験時のBGM太田裕美なら私と同世代。大学時代には山口百恵やキャンディース。少しすれば大滝詠一も流れてたはずと指摘すると「あれはBGMだ」とのこと。そんなことがあるのだろうか。
 いずれにせよ自分も年をとったものだと少し悲しくなった。などと書いていたら、フォーク・クルセダーズはしだのりひこが亡くなったことが報じられた。はしだのりひこ青年団女優の端田新菜の御父君でもある。

青年団リンク 世田谷シルク日瑞共同制作『ふしぎな影』@こまばアゴラ劇場

青年団リンク 世田谷シルク日瑞共同制作『ふしぎな影』@こまばアゴラ劇場

脚本・演出:堀川炎、Nasrin Barati


スウェーデンの小さな劇場で終演後、スタッフさんに声をかけられました。
そして面白い人だから会ってみてと、そこの演出家を紹介してくれました。
その当時2015年、私はちょうどヨーロッパにいて、現地の人たちからシリア内戦とテロへの怒り、徒労感を聞いていました。ですから数日後にその演出家と会って、彼女が「愛」とそれを失くした「戦争」について児童作品を作りたいと言った時、私は迷いなく乗りました。それが、この作品のスタートです。パペットには西川古柳座さんに協力していただいた車人形を使い、両国の音楽家と共にサイレント演劇で上演します。

<世田谷シルク>

2009年旗揚げ。日常生活に突如入り込む奇妙な状況を、時にコミカルに描く。

近年は、パペットやマスクを使用した演劇やノンバーバルコミュニケーションを目的とした

サイレント演劇など、セリフと俳優のみの演劇にこだわらない新しい表現を模索している。

<Teater Sesam >

1987年に設立されたパペットと影絵のカンパニー。

伝統とモダンな手法の両方を取り入れ、スウェーデンにおいて表現の自由化を導いてきた団体。

通常上演している場所はGothenburgのChapman’s Square。

全ての年齢の人のための、そして子供たちと若者にメインの焦点を当て上演している。

出演

武井希未、堀川炎(以上、世田谷シルク)、
小寺悠介、中藤奨(以上、青年団)、
Alexander Hopman Lilja 、
Golnosh Hosseini 、
Gustav Borehed、

音楽家 やぶくみこ、Jesper Berger

スタッフ

舞台監督:土居歩、照明:阿部将之(LICHT-ER)
宣伝美術 本庄浩剛(デザイン)、白尾可奈子(イラストレーション)
制作:玉城大祐、太田久美子(以上、青年団
協力:西川古柳座

山の手事情社青年団演出部の堀川炎が率いる世田谷シルクとスウェーデン児童劇団Teater Sesam との共同制作作品。セリフはいっさいなく、ダンス、マイム(無対照演技)、人形劇、影絵などを組み合わせた無言劇である。
 児童劇というわけではなく、現代の戦争などをモチーフに取り入れて大人の鑑賞にも堪えるものを創作しようと試みてはいる。ただ現代アートの作品として受容するには表現の手法的にもモチーフ的にも新味に欠ける印象が強くて、やや物足りないかもしれない。描かれた対象も日本の事例ではなく、おそらくスウェーデンの事例でもないためにどこか寓話的、牧歌的になってしまっていて、現代の真摯な現実をリアルに作品化したものと考えると厳しいかもしれない。こういう形でやるなら何か固有のテキストを下敷きにしてそこに現代の風味を付け加えるようにした方がこうした表現手法には向いていたのではないかと思った。