下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

青年団第80回公演『ソウル市民1919』(2回目)@こまばアゴラ劇場

青年団第80回公演『ソウル市民1919』(2回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:平田オリザ
東京公演:2018年10月14日(日)〜11月11日(日) 30ステージ

会場:こまばアゴラ劇場

人が人を支配するとは、どういうことなのか。
日本の植民地支配下に生きるソウルの日本人一家を通して、植民地支配者の本質を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった平田オリザの代表作。
多くの要望に応え、青年団のホームグラウンドであるこまばアゴラ劇場にて再演。

『ソウル市民』
(1989年初演)上演時間=約90分
1909年、夏。日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。



『ソウル市民1919』

(2000年初演)上演時間=約110分
1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。篠崎家の人々は、今日も平凡な一日を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒がしい。噂では朝鮮人たちが通りにあふれているという。三・一独立運動を背景に、応接間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に描いた、渾身のシリーズ第二弾。


出演

山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 天明留理子 秋山建一 木崎友紀子 兵藤公美 島田曜蔵* 太田宏 申 瑞季 田原礼子 大竹直 村井まどか 山本雅幸 荻野友里 石松太一 井上みなみ 菊池佳南* 富田真喜
*=『ソウル市民1919』のみ出演

スタッフ

舞台美術:杉山 至
照明:三嶋聖子
衣裳:正金 彩
舞台監督:中西隆雄 黒澤多生
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:林有布子 石川景子 赤刎千久子
協力:(株)アレス

青年団第80回公演『ソウル市民』(2回目)@こまばアゴラ劇場

青年団第80回公演『ソウル市民』(2回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:平田オリザ
東京公演:2018年10月14日(日)〜11月11日(日) 30ステージ

会場:こまばアゴラ劇場

人が人を支配するとは、どういうことなのか。
日本の植民地支配下に生きるソウルの日本人一家を通して、植民地支配者の本質を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった平田オリザの代表作。
多くの要望に応え、青年団のホームグラウンドであるこまばアゴラ劇場にて再演。



『ソウル市民』
(1989年初演)上演時間=約90分
1909年、夏。日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。



『ソウル市民1919』

(2000年初演)上演時間=約110分
1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。篠崎家の人々は、今日も平凡な一日を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒がしい。噂では朝鮮人たちが通りにあふれているという。三・一独立運動を背景に、応接間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に描いた、渾身のシリーズ第二弾。


出演

山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 天明留理子 秋山建一 木崎友紀子 兵藤公美 島田曜蔵* 太田 宏 申 瑞季 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 荻野友里 石松太一 井上みなみ 菊池佳南* 富田真喜
*=『ソウル市民1919』のみ出演

スタッフ

舞台美術:杉山 至
照明:三嶋聖子
衣裳:正金 彩
舞台監督:中西隆雄 黒澤多生
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:林有布子 石川景子 赤刎千久子
協力:(株)アレス

現代口語演劇とボーカロイドの関係について

VOCALOIDに感情はいらない」@平田義久

VOCALOIDに感情はいらない」@平田義久を読んでみた。実は以前、平田オリザの現代口語演劇理論に基づくロボット演劇と初音ミクに代表されるボーカロイドの関係を論じた「平田オリザ/ロボット演劇/初音ミク*1という論考を演劇批評誌「シアターアーツ」に掲載したことがあった。私としては渾身の力作だったのだが、一般的な反響はほぼないに等しく、落胆させられたのだが、最大の理由は初音ミクを知る人の多くは平田オリザのことを知らず、平田オリザに興味を持つ演劇関係者は初音ミクのことを知らないうえに興味も持っていなかったからだと考えている。
 それだけに音声合成ソフト、初音ミクを用いて実際に楽曲制作を行っているボカロPの平田義久さんがボーカロイドとロボット演劇の関係について考察した論考「VOCALOIDに感情はいらない」を執筆、ネットで公開したことには大変心強く思ったのである*2
実は現在心ひそかに考えている野望がある。とはいえ、論考「平田オリザ/ロボット演劇/初音ミク」の最後にもう書いてしまっているから、ひそかにという表現は不適切ともいえそうだが、「ここまで初音ミク、ロボット演劇、平田オリザの関係について考えてきたが、ここに来てまだ未踏の領域が可能性として残っていることに気が付いた。この場合、初音ミクという固有のソフトがその能力上のスペックをどこまで持っているかというのが分からないので何とも言えないが、ボーカロイドがデジタル音源により人間の声をシュミレートする能力を持っている限りで、平田オリザによる初音ミク劇というのをぜひいつか見てみたい」というのが私の野望である。
 その時点では私はボカロ関係者には何のつてもなかったし、演劇プロデューサーでもなく、お金もないので、こうした夢想は文字通り、夢物語でしかなかったのだが、平田義久さんに先日初めて実際に会った際に平田オリザの「さようなら」の脚本をほぼそのまま使って初音ミクオペラが作れないかというアイデアをぶつけてみたところ、それは現在でももう技術的には全然可能ではないかという意見をもらうことができた。
 そういうわけで夢に向けて前進していきたいのだけれど、とりあえずまずはボカロ音楽の作り手(この場合はいまのところは一義的には平田義久さん)と作品制作をしてみたい、あるいは興味があるようという人はいないだろうか。彼の作品へのリンクもいくつか貼っておくので興味のある人がいればぜひ(simokita123@gmail.com)までメールしてみてほしい。年明けに関連のレクチャーも予定しているので見に行きたいとの便りでもいいです。

Hit The Floor / 初音ミクetc. MV

青年団第80回公演『ソウル市民1919』(1回目)@こまばアゴラ劇場

青年団第80回公演『ソウル市民1919』(1回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:平田オリザ
東京公演:2018年10月14日(日)〜11月11日(日) 30ステージ

会場:こまばアゴラ劇場

人が人を支配するとは、どういうことなのか。
日本の植民地支配下に生きるソウルの日本人一家を通して、植民地支配者の本質を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった平田オリザの代表作。
多くの要望に応え、青年団のホームグラウンドであるこまばアゴラ劇場にて再演。

『ソウル市民』
(1989年初演)上演時間=約90分
1909年、夏。日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。



『ソウル市民1919』

(2000年初演)上演時間=約110分
1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。篠崎家の人々は、今日も平凡な一日を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒がしい。噂では朝鮮人たちが通りにあふれているという。三・一独立運動を背景に、応接間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に描いた、渾身のシリーズ第二弾。


出演

山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 天明留理子 秋山建一 木崎友紀子 兵藤公美 島田曜蔵* 太田宏 申 瑞季 田原礼子 大竹直 村井まどか 山本雅幸 荻野友里 石松太一 井上みなみ 菊池佳南* 富田真喜
*=『ソウル市民1919』のみ出演

スタッフ

舞台美術:杉山 至
照明:三嶋聖子
衣裳:正金 彩
舞台監督:中西隆雄 黒澤多生
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:林有布子 石川景子 赤刎千久子
協力:(株)アレス

 三・一独立運動の日。歴史的な背景や無作為の差別的構造という主題のみが記憶に残っていたせいか、こんなにスラップスティックの色合いが強い芝居だったということはすっかり忘れてしまっていた。おそらく、初演以来のあてがきであったと思われる島田曜蔵の弱気な相撲取りには相変わらず笑わせてもらった。しかし、今回もっとも笑わせてもらい、キャラ萌えもしたのは井上みなみの女学生だ。はかま姿のままで跳ね回って踊るラストシーンはまさに衝撃的だった。
篠崎家に関わる配役では出戻ってきた長女役の荻野友里がいい。背後に隠されたいわくありげな関係性が垣間見える。詳細は明かされないが、太田宏演じる書生に必要以上に強く当たるのは結婚以前にこの二人の間に何かがあったからではないかと想像させるところがある。
 結婚が日韓併合のメタファー(隠喩)になっているのではないかと指摘する人がいたが正鵠を得ているかもしれない。
 

KERA・MAP『修道女たち』@下北沢 本多劇場

KERA・MAP『修道女たち』@下北沢 本多劇場

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2018年10月20日(土)~11月15日(木)
会場:東京都 下北沢 本多劇場

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:
鈴木杏
緒川たまき
鈴木浩介
伊勢志摩(大人計画
伊藤梨沙子
松永玲子ナイロン100℃
みのすけナイロン100℃
犬山イヌコナイロン100℃
高橋ひとみ

  以前、ナイロン100℃フローズン・ビーチ」(1998年8月/第43回岸田國士戯曲賞受賞作)、「薔薇と大砲 ~フリドニア日記 #2~」などの作風を称して「異世界を捏造する演劇」と評し、大きなウソ(虚構)をある種のリアルをもって体現するために小さな虚構を積み重ねると書いたことがあるが、「修道女たち」もそんな舞台のひとつと言ってもいいだろう。
 表題どおりにほとんどの登場人物が修道女である。何者かに毒を入れられたワインを飲まされて、43人の修道女が殺された陰惨な事件の翌年の物語。ケラ作品だから笑えるのは存分に笑えるのだが、全体を覆う悲劇的な色合いが舞台の進行にしたがって濃厚になっていき最後にはカタストロフィーに雪崩れ込んでいく。
 ラストの幕切れはそうなるしかないんだろうなとは感じながらもあまりにもやるせない。そうする必要はないのでないかとも感じながらももし違う終り方であればここまで強く複雑な感情は私に起こさせなかったのではないか。それこそケラ作品の魅力なのは間違いないのだ。

青年団第80回公演『ソウル市民』(1回目)@こまばアゴラ劇場

青年団第80回公演『ソウル市民』(1回目)@こまばアゴラ劇場

作・演出:平田オリザ
東京公演:2018年10月14日(日)〜11月11日(日) 30ステージ

会場:こまばアゴラ劇場

人が人を支配するとは、どういうことなのか。
日本の植民地支配下に生きるソウルの日本人一家を通して、植民地支配者の本質を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった平田オリザの代表作。
多くの要望に応え、青年団のホームグラウンドであるこまばアゴラ劇場にて再演。



『ソウル市民』
(1989年初演)上演時間=約90分
1909年、夏。日本による韓国の植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされる。



『ソウル市民1919』

(2000年初演)上演時間=約110分
1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。篠崎家の人々は、今日も平凡な一日を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒がしい。噂では朝鮮人たちが通りにあふれているという。三・一独立運動を背景に、応接間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に描いた、渾身のシリーズ第二弾。


出演

山内健司 松田弘子 永井秀樹 たむらみずほ 天明留理子 秋山建一 木崎友紀子 兵藤公美 島田曜蔵* 太田 宏 申 瑞季 田原礼子 大竹 直 村井まどか 山本雅幸 荻野友里 石松太一 井上みなみ 菊池佳南* 富田真喜
*=『ソウル市民1919』のみ出演

スタッフ

舞台美術:杉山 至
照明:三嶋聖子
衣裳:正金 彩
舞台監督:中西隆雄 黒澤多生
宣伝美術:工藤規雄+渡辺佳奈子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:林有布子 石川景子 赤刎千久子
協力:(株)アレス

いまから20年近く前、仕事の関係でそれまで住んでいた大阪から東京に住居を移転。当時、劇評などを寄稿していた関西の演劇情報誌「JAMCI」に演劇についてのコラム「下北沢通信」の連載を開始した。その「下北沢通信」で第0回にあたる特別編で取り上げたのが青年団「ソウル市民」のプサン公演のレポートだった。「下北沢通信」本編の連載ではまずvol.1で弘前劇場「職員室の午後」(1993)を取り上げた。いずれも私がその後、「関係性の演劇」と呼び、世間一般では「静かな演劇」などとも呼ばれた群像会話劇であり、その後、日本の現代演劇はこうした演劇の流れを主流としていくのだが、平田オリザがその中心的な役割を果たし、「ソウル市民」ならびにその翌年上演された「東京ノート」が里程となる作品だったというのは間違いないことだ。
最初に見たころの青年団の印象を描いた記述があるか検索して調べてみた。演劇情報誌「JAMCI」の演劇コラム「下北沢通信」が雑誌休刊後にこのブログの前身のサイト「下北沢通信」となったので、雑誌を参照しないと「ソウル市民」自体についての記述はないのだけれど、2000年7月に「カガクするココロ」を観劇した後の記録があったので当時の印象を転載する。

 7月9日 青年団「カガクするココロ」(3時〜)、拙者ムニエル「新しいペンギンの世界」(7時半〜)を観劇。前日の夜中まで昼にランニングシアターダッシュ「FLAG」(2時〜)を見に行くかどうかで迷っていたのだが、起きてみると2時半なのであった。選択の余地なくアゴラ劇場に走り、「カガクするココロ」を見る。

 「カガクするココロ」は若手公演でも何度も見ているので、青年団の芝居の中ではこれか「北限のサル」が一番、回数を見ているかもしれない。サル学研究室のロビーを舞台にした3部作の最初の作品に当たるわけだけれど、この3部作は「北限のサル」「バルカン動物園」と後になっていくほどシリアスなテーマを内包していくということがあって、この作品はそうしたテーマがそれほど前面に出ていないこともあって、一番肩が凝らずに気楽に楽しめる作品といえるかもしれない。

 今回は中堅・若手の劇団員中心の座組みということで、山内健司志賀廣太郎、平田陽子、松田弘子らこの劇団を支えてきたベテラン俳優陣がいっさいキャストに入っていないが、それでもかつて彼らが演じていた役柄を演じて見劣りがしないのは今や若手の域を超えて青年団における重要な役割を担いつつある秋山健一、太田宏、小河原康二といった中堅俳優の充実ぶりに負うところが大きいであろう。私が最初に青年団を見たのはザ・スズナリでの「ソウル市民」(詳しくは調べないと分からないが7年ほど前だろうか)で、その直後にプサンでの公演を見にいくことになり、この劇団とのけっこう長い付きあいが始まったのだが、その時の「ソウル市民」に出演していたキャストが今回の「カガクするココロ」には1人も出演していない(というより、今回のメンバーはほとんどがそれよりずっと後の入団)ということを考えると青年団が確実に新たなメンバーの参加によって、集団としての総合力をつけていっていることが感じられた。

 なかでも前回公演「ソウル市民1919」で次女幸子役を好演。今回も目立っていたのが辻美奈子である。辻の演じる役柄はこの芝居の中ではそれほどドラマ性といったものに関ってくる役柄でもないし、みせどころもそれほどあるというのではないのについついそちらの方に目がいってしまう。私の記憶違いでなければ辻は以前にも同じ役を演じたことがあるはずだが、その時は今回ほどの存在感を感じるということはなかった。今回のキャストの中ではキャリアの長い方だと思うし、今更こういう言い方をするのは彼女に失礼かもしれないのだが、舞台における華のようなものが目立ってきているのに「女優誕生」を感じた。今後がますます楽しみである。

 前作「日本文学盛衰史」でのベテラン、中堅、若手と幅広いキャストと書いたのだが、18年前にすでに「劇団を支えてきたベテラン俳優陣」と書いていた山内健司松田弘子がいまだ健在なのはこの劇団の強みだ。なかでも松田弘子は94年にこの舞台をやっていた時にすでに同じ役をやっていたのではないか*1。「若手の域を超えて青年団における重要な役割を担いつつある秋山健一、太田宏、小河原康二といった中堅俳優」とも書いたが、地点に移籍して中心的な役割を果たしている小河原康二はともかく、秋山健一、太田宏らはもはやベテラン俳優と言っていいだろう。
青年団「ソウル市民」三部作 – ワンダーランド wonderland

*1:ひょっとしたら女中頭だったかもしれない

マレビトの会・フェスティバル/トーキョー18『福島を上演する』(4日目)@東京芸術劇場

マレビトの会・フェスティバル/トーキョー18『福島を上演する』(4日目)@東京芸術劇場

2018/10/25(木)〜28(日)
歴史でも物語でもない。福島のいまを受肉し、「出来事」にする

F/Tでの上演も3年目を迎えるマレビトの会の長期プロジェクト『福島を上演する』(2016-)。複数の劇作家が福島に赴き、それぞれの視点から現地のいまを切り取った短編戯曲を執筆、ごくシンプルな空間で、俳優の身体を通し、「出来事」として出現させる試みは、現実と演劇との関係はもちろん、戯曲と上演、写実と創作の関係、とりわけ俳優の身体の可能性を捉え直すものとしても注目を集めています。過去2回の公演で上演された戯曲は51編。その多くは一見なんでもない日常の断片を映し取った芝居ですが、そのことがむしろ、一戯曲一回のみの上演とも相まって、「上演されゆく福島」という特異性のある時間、空間を創出してきました。今回は4日間4回にわたって、8人の劇作家による戯曲群を上演します。歴史でもない物語でもない、一度しか起こらない上演=出来事を、私たちはどのように目撃し、受け止めるでしょう。

◇本作品は1公演につき、複数の書き手(アイダミツル、神谷圭介、草野なつか、島崇、高橋知由、松田正隆、三宅一平、山田咲)による複数の戯曲で構成されています。
◇4公演全体で1つの作品というコンセプトのもと、各回、上演される戯曲・構成が異なります。
◇日本語上演
◇『福島を上演する』は『長崎を上演する』(13〜16)から続く長期プロジェクトです。上演戯曲・構成および関連インタビュー等、ご観劇の参考にご覧ください。(『長崎を上演する』アーカイブ

○上演戯曲:
10月25日(木)19:30
父の死と夜ノ森(松田正隆
漂着地にて(高橋知由)
座標のない男(アイダミツル)
広告を出したい男(神谷圭介

10月26日(金)19:30
草魚と亀(島崇)
峠の我が家(草野なつか)
みれんの滝(アイダミツル)
アンモナイトセンター(神谷圭介

10月27日(土)18:00
画塾(神谷圭介
福島の海辺(三宅一平)
郡山市民(山田咲)
いつもの日曜日(草野なつか)

10月28日(日)14:00
ゆきもよい(島崇)
水無月(三宅一平)
標準時周辺より(高橋知由)
いわき総合図書館にて(松田正隆


○日時:
10/25 (木) 19:30
10/26 (金) 19:30
10/27 (土) 18:00
10/28 (日) 14:00

作:アイダミツル、神谷圭介、草野なつか、島 崇、高橋知由、松田正隆、三宅一平、山田 咲
演出:関田育子、寺内七瀬、松尾 元、松田正隆、三宅一平、山田 咲
出演:アイダミツル、生実 慧、石渡 愛、加藤幹人、上村 梓、桐澤千晶、酒井和哉、佐藤小実季、島 崇、田中 夢、西山真来、三間旭浩、山科圭太、弓井茉那、𠮷澤慎吾、米倉若葉
舞台監督:高橋淳一
照明:木藤 歩
宣伝美術:相模友士郎
宣伝写真:笹岡啓子
記録写真:西野正将
記録映像:遠藤幹大
制作:石本秀一、中村みなみ、三竿文乃、森真理子(マレビトの会)
   荒川真由子、新井稚菜(フェスティバル/トーキョー)
制作協力:吉田雄一郎(マレビトの会)
インターン:円城寺すみれ、小堀詠美、山里真紀子
協力:Integrated Dance Company 響-Kyo、青年団、テニスコート、フォセット・コンシェルジュ、レトル
企画:マレビトの会
主催:フェスティバル/トーキョー、一般社団法人マレビト

 「ゆきもよい」は伊丹発福島行きの飛行機に乗り込んだ観客の様子を舞台にしたものだ。演劇は一場劇ならひとつのフレームしかないので、いくら群像劇でもこういうひとつのフレームには入りにくいような対象を捉えるのは苦手なはずだが、まるでピカソキュビズムのようにリアルな空間配置を無視できるマレビトの会の方法論がこうした作品を可能にした。
  最後を飾る「いわき総合図書館にて」もマレビトの会ならではの作品といっていい。図書館の利用客たちを1フレームで映し出したような写生作品でこちらは図書館という特殊性もあったセリフらしいセリフはほぼない。マレビトの会の多様性のなかにはこういう完全に風景のスケッチ的なものも含まれるという例示のための作品なのであろうと思った。
  逆に「水無月」(三宅一平作)と「標準時周辺より」(高橋知由作)は演劇として作りこんだ感の強いスケッチとは対極的な作品だが、それぞれのタッチは大きく異なる。
 「標準時周辺より」は今年の「福島を上演する」の白眉といっていい秀作戯曲。淡々とした描写の中に夫婦の微妙な関係の揺らぎが浮かび上がる。ある種の脳出血(脳溢血か?)により入院中の夫。その同室の患者のたわいないながらも意味ありげな描写が続くなか、妻が病院を訪ねてくるところから物語は始まる。
http://www.marebito.org/fukushima/text/fukushima18-hyojunji.pdf
 妻は園芸店の再開を準備していて、その準備と夫が入院している病院の光景が交互に展開する構成となっている。「標準時周辺より」という表題は話題として彼女らが住んでいる場所の近くに電波時計のための標準電波送信所があってそれか

オフィスコットーネプロデュース 大竹野正典没後10年記念公演 第1弾 第16回OMS戯曲賞大賞作品「山の声 ーある登山者の追想」@Space早稲田

フィスコットーネプロデュース 大竹野正典没後10年記念公演 第1弾 第16回OMS戯曲賞大賞作品「山の声 ーある登山者の追想」@Space早稲田

2018年10月26日(金)~28日(日)
東京都 Space早稲田

作:大竹野正典
演出:綿貫凜
出演:杉木隆幸、山田百次


考えてみれば海難事故で物故した劇作家・演出家、大竹野正典の最後の演出作品を見たのがこの「山の声」の初演だった。終演後の宴席で大竹野がこのところ演劇を中断してまで登山に入れ込んでいたこと、そんな時に新田次郎の小説「孤高の人」のモデルになった戦前の登山家、加藤文太郎のことを知り、その後、加藤が自ら書き残した手記「単独行」の存在を知り、新田の小説での加藤、そして最後に一緒に遭難した岳友・吉田登美久への扱いが不当だったのではないかと憤りを覚え、それが演劇活動を再開しこの作品を上演することになった強いモチベーションになったと熱く語っていたのを昨日のように思い起こすことができる。あれからすでに10年近い歳月が経過しているわけだ。
 優れた劇作家であることは間違いないが、大竹野正典は自らの劇団であった「犬の事ム所」「くじら企画」ともに観客動員は限られたもので、一般への知名度は高い作家ではなかった。それが現在は東京でもその名を知る演劇ファンが増え、小さな劇場とはいえこの日も満員の観客を迎えたのは劇作家としての大竹野に惚れ込んだプロデューサー、綿貫凜によるところが大きい。いささか個人的なことになるが、大竹野の作品と出会ったのも1993年の「密会」で25年近くになるけれど、今回吉田役を演じた山田百次も彼が弘前劇場という劇団に新人として入団してきた20年以上前からの知遇であった。
山田百次は10年前に弘前劇場を退団して上京。当然、当時は無名の存在だったが、劇団野の上で劇作をスタート。その後、青年団の俳優、河村竜也とともに劇団「ホエイ」を結成。気鋭の劇作家として注目されるとともに俳優としても複数の劇団から相次ぎ声がかかる存在となっている。その意味では私にとっては弘前と関西という全く離れた場所でそれぞれ活動していた知人が「運命の邂逅」を今回果たしたわけで演劇というものの生み出す数奇な運命に感慨深いものがあった。とはいえ、これはあくまで個人的な感傷に過ぎない。
 具体的に実際の舞台を振り返ることにしたい。大竹野は無名の存在であり続けながら演劇活動を続けてきた自らのことを加藤文太郎と重ね合わせた部分があったのではないかと思う。これまで見た「山の声」の舞台でもそう思ったし、今回の上演を見ても「山の声」が加藤文太郎の評伝劇であるということには変わりはない。ただ、冒頭に書いた大竹野の作品への思いが、今回急に記憶の彼方から甦ったかのように思い起こされたのは山田百次の好演のよるところが大きい。そして、吉田本人の心情が語られる部分は限られてはいるけれど、この戯曲では作中の「単独行」の引用は加藤文太郎役ではなく、吉田役の俳優が語るという演出上の指定が戯曲にあり、山田百次の朴訥ながらも抑えた語り口調の説得力がこの舞台のクオリティーを高めたことは間違いないところ。それゆえ、加藤に託した部分も含めて吉田の存在感がこの舞台に奥行きを持たせた。もちろん、それもこれも主役の加藤役の杉木隆幸のペーソス溢れる演技があってこそなのだが。

単独行

単独行

劇団ジャブジャブサーキット第59回公演「ビシバシと 叩いて渡る イシバシ君」@ザ・スズナリ

劇団ジャブジャブサーキット第59回公演「ビシバシと 叩いて渡る イシバシ君」@ザ・スズナリ

2018年9月27日(木)~30日(日)
愛知県 七ツ寺共同スタジオ

2018年10月26日(金)~28日(日)
東京都 ザ・スズナリ

2018年11月16日(金)~18日(日)
大阪府 ウイングフィールド

作・演出:はせひろいち
出演:栗木己義、荘加真美、空沢しんか、伊藤翔大、まどかリンダ、高橋ケンヂ、岡浩之 / 三井田明日香、イヲリ、林優花、松本詩千、小木曽木林
ゲスト出演:中内こもる(愛知公演)、コヤマアキヒロ(東京公演)、はしぐちしん(大阪公演)

※高橋ケンヂの「高」ははしごだかが正式表記。

ジャブジャブサーキット(はせひろいち)は青年団平田オリザ)、弘前劇場長谷川孝治)、桃唄309(長谷基弘)らと並んで、90年代後半の「関係性の演劇」を代表する劇団(劇作家)である。その作風には大きく2つの特徴があり、それが「関係性の演劇」の作家たちのなかではせの存在を目立たせている。そのひとつはその作品の多くが広義のミステリ劇(謎解きの構造を持つ物語)であること。もうひとつがはせ作品のなかで積み重ねられる小さな現実(リアリティー)の集積がより大きな幻想(虚構)が舞台上で顕現するための手段となっていることである。

 演劇的なリアルがそのもの自体が目的というわけではなく、日常と地続きのようなところに幻想を顕現させるための担保となっているという構造は実は平田ら同世代の作家よりも、五反田団(前田司郎)、ポかリン記憶舎(明神慈)ら私が「存在の演劇」と位置づけているポスト「関係性の演劇」の作家たちとの間により強い類縁性を感じさせるもので、その意味では世代の違う両者をつなぐような位置に存在しているといえるかもしれない。

 リアルな日常描写の狭間から幻想が一瞬立ち現れるというような構造の芝居ははせが幻想三部作と呼んだ「図書館奇譚」「まんどらごら異聞」「冬虫夏草夜話」ですでにほぼ確立されていたが、その後に上演された「非常怪談」「高野の七福神」といった作品では作品のなかに漂う幻想との距離感がより一層近しいものとなり、いわばひとつの作品世界のなかに日常世界と幻想世界が二重写しのように描かれるという手法が取られた。
 「ビシバシと 叩いて渡る イシバシ君」は迷走台風による土砂崩れで孤立状態にある元学校校舎を改装した宿舎で起こる謎めいた事件が描かれる。SFやホラー的な趣向もないではないが最後はアナグラムの解読が、鍵になる。

マレビトの会・フェスティバル/トーキョー18『福島を上演する』(3日目)@東京芸術劇場

マレビトの会・フェスティバル/トーキョー18『福島を上演する』(3日目)@東京芸術劇場

2018/10/25(木)〜28(日)


歴史でも物語でもない。福島のいまを受肉し、「出来事」にする

F/Tでの上演も3年目を迎えるマレビトの会の長期プロジェクト『福島を上演する』(2016-)。複数の劇作家が福島に赴き、それぞれの視点から現地のいまを切り取った短編戯曲を執筆、ごくシンプルな空間で、俳優の身体を通し、「出来事」として出現させる試みは、現実と演劇との関係はもちろん、戯曲と上演、写実と創作の関係、とりわけ俳優の身体の可能性を捉え直すものとしても注目を集めています。過去2回の公演で上演された戯曲は51編。その多くは一見なんでもない日常の断片を映し取った芝居ですが、そのことがむしろ、一戯曲一回のみの上演とも相まって、「上演されゆく福島」という特異性のある時間、空間を創出してきました。今回は4日間4回にわたって、8人の劇作家による戯曲群を上演します。歴史でもない物語でもない、一度しか起こらない上演=出来事を、私たちはどのように目撃し、受け止めるでしょう。

チラシはこちらから。

◇本作品は1公演につき、複数の書き手(アイダミツル、神谷圭介、草野なつか、島崇、高橋知由、松田正隆、三宅一平、山田咲)による複数の戯曲で構成されています。
◇4公演全体で1つの作品というコンセプトのもと、各回、上演される戯曲・構成が異なります。
◇日本語上演
◇『福島を上演する』は『長崎を上演する』(13〜16)から続く長期プロジェクトです。上演戯曲・構成および関連インタビュー等、ご観劇の参考にご覧ください。(『長崎を上演する』アーカイブ

○上演戯曲:
10月25日(木)19:30
父の死と夜ノ森(松田正隆
漂着地にて(高橋知由)
座標のない男(アイダミツル)
広告を出したい男(神谷圭介

10月26日(金)19:30
草魚と亀(島崇)
峠の我が家(草野なつか)
みれんの滝(アイダミツル)
アンモナイトセンター(神谷圭介

10月27日(土)18:00
画塾(神谷圭介
福島の海辺(三宅一平)
郡山市民(山田咲)
いつもの日曜日(草野なつか)

10月28日(日)14:00
ゆきもよい(島崇)
水無月(三宅一平)
標準時周辺より(高橋知由)
いわき総合図書館にて(松田正隆


○日時:
10/25 (木) 19:30
10/26 (金) 19:30
10/27 (土) 18:00
10/28 (日) 14:00

作:アイダミツル、神谷圭介、草野なつか、島 崇、高橋知由、松田正隆、三宅一平、山田 咲
演出:関田育子、寺内七瀬、松尾 元、松田正隆、三宅一平、山田 咲
出演:アイダミツル、生実 慧、石渡 愛、加藤幹人、上村 梓、桐澤千晶、酒井和哉、佐藤小実季、島 崇、田中 夢、西山真来、三間旭浩、山科圭太、弓井茉那、𠮷澤慎吾、米倉若葉
舞台監督:高橋淳一
照明:木藤 歩
宣伝美術:相模友士郎
宣伝写真:笹岡啓子
記録写真:西野正将
記録映像:遠藤幹大
制作:石本秀一、中村みなみ、三竿文乃、森真理子(マレビトの会)
   荒川真由子、新井稚菜(フェスティバル/トーキョー)
制作協力:吉田雄一郎(マレビトの会)
インターン:円城寺すみれ、小堀詠美、山里真紀子
協力:Integrated Dance Company 響-Kyo、青年団、テニスコート、フォセット・コンシェルジュ、レトル
企画:マレビトの会
主催:フェスティバル/トーキョー、一般社団法人マレビト