下北沢通信

中西理の下北沢通信

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長谷川孝治の「アザミ」について

 長谷川孝治(劇作家・演出家)と彼が率いる弘前劇場青森県にその活動の拠点を置いている。日本では大阪・京都の関西圏など若干の例外を除けば芸術分野で東京ほぼ一極集中といってもいい状況があり、特に演劇においてその傾向は顕著なものとなっている。そうしたなかで、弘前劇場は地方の一小都市に本拠を置きながら、海外公演でも高い評価を受けるなど全国レベルで見ても高水準の舞台成果を上げているきわめて稀な劇団である。
 90年代半ば以降の日本現代演劇を振り返ると群像会話劇の形式で背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」が大きな流れを作ってきた。平田オリザ岩松了宮沢章夫らがその代表である。弘前劇場長谷川孝治唐十郎に影響を受けたアングラ劇風の作風ですでに70年代初頭から劇団活動は開始していたが、劇団として大きな飛躍のきっかけとなる「職員室の午後」(92年初演)で劇作家協会最優秀新人戯曲賞を受賞、「関係性の演劇」を代表する作家として頭角を現した。
 長谷川は90年代半ばから2000年代初頭にかけて、この「職員室の午後」を皮切りに地方都市を舞台に家族の解体を描いた「家には高い木があった」、人間の生と死に焦点をあてた四季シリーズ4部作「春の光」「夏の匂い」「秋のソナタ」「冬の入り口」と群像会話劇の佳作を次々と精力的に発表していく。その最大の特徴は共通語で書かれた台本をもとに俳優が自身の生活言語に翻訳していくという方法をとっていることだ。長谷川はこの方法論を従来の演劇の「リアリズム」に対して「ドキュメンタリズム」、アウトプットとしての舞台に「現代口語地域語演劇」と名づけた。
 これは平田オリザが提唱した「現代口語演劇」の延長線上にあるものだが、生活言語としての地域語(方言)を舞台に上げることで、登場人物の会話の端々から、その隠れた関係性を浮かび上がらせるという点では共通語(東京方言)を主体とした平田や岩松らよりも有利な立場を得ている。「言葉はその人物同士の関係性によって変化する」というのが、関係性の演劇の前提だが地域語では同郷の親しい関係にある友人ないし恋人同士の場合の方がよりなまりは強くなる(特に弘前劇場が本拠を置く青森県の地域語、津軽弁はほかの地方の人にとっては意味をくみとるのが難しいほど特異な言葉である)、逆に公的な場ではほぼ共通語に近い言葉が話させるなど、より鮮やかに関係による言葉の変化の様態がとらえられるからだ。ここに一般には不利とされる地方に拠点を持つ劇団という特性を逆に利用して、東京の演劇では不可能な演劇的な実験を行ってみせた長谷川のしたたかな戦略があった。
 そうした方法論を生かして生み出されたのが前述の作品群なのだが、実は長谷川はこうした群像会話劇の作品と平行して、それとは少しスタイルの異なる系譜の作品群も生み出している。「フラグメント」シリーズと呼ばれる作品群がそれで、今回紹介する「アザミ」という作品は実はそちらの系譜に属する作品である。14、15人の俳優が、まるで日常生活を切り取ったかのように淡々とした台詞運びで人と人との関係性を舞台に展開していく前述の作品に対して、こちらはより少人数の俳優による舞台で、地域語はここでも台詞として話されるが、こちらの作品では「アザミ」でもラストの場面で出てくるような詩的な言語による非常に長い独白の表出など、作者の軸足はむしろその登場人物を通してよりダイレクトに作者の世界観を提示することにある。
 一見そのスタイルは大きく異なる。長谷川孝治は劇作のかたわら映画愛好者としても知られており、地元の映画好きの仲間と映画祭を企画、自らがフェスティバルディレクターを務めるほどなのだが、長谷川が好きな映画作家に例えれば前者に小津安二郎成瀬巳喜男のテイストが感じられるとすれば後者はゴダール北野武を彷彿とさせる。それほどの大きな差異が2つの作品群にはある。
 ただ、興味深いのは対極的な作風に見えても、どちらの作品群も構造自体は西洋近代劇(リアリズム演劇)とは異なる。やはり先述した「関係性の演劇」の特徴をはっきり示していることだ。日本を代表する劇作家のひとりである別役実ベケット論である「ベケットと『いじめ』」で「現代の社会的集団における『関係性』のありようが、西洋近代演劇が前提としてきた『内面を持つ独立した個人』=『個』から関係性の結節点としての『弧』に変容している」と書いている。別役はこれに引き続き「それを前提として登場したのがベケットの不条理劇だ」と主張するのだが、スタイルこそ違え、長谷川の劇作もこうした現実認識を共有している。
 「アザミ」にはラジオ劇の作家でもある大学専任講師、平井正とその教え子で助手的な仕事をしている林ふゆ、林と結婚するといいだす青年、野口光彦、平井に脚本を書かせるためにラジオ局からやってくる里中久美子の4人の人物が登場する。西洋近代劇であれば主人公と目させる大学講師を中心に1組あるいは2組以上のより複雑な関係のなかで、ある種の対立が生じて、それがドライビングフォースとなってドラマは進行するはずだ。
 例えばやはり大学教師を含む4人が登場するエドワード・オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」。ここではほぼ全編が中年の大学教授夫妻ジョージとマーサの対立と激しい会話のやりとりを通してのそれぞれの立場の強弱がドラマティックに逆転していくことが繰り返され、それにしだいに若いカップルも巻き込まれていくことで物語は進行する。人物それぞれにそうした行動が可能なのはそこでは内面を持つ独立した個人である「個」と「個」の関係が前提とされているからだ。
 これに対して「アザミ」ではそういうことはいっさい起こらない。芝居がはじまって観客はすぐにこの4人の関係がかならずしも表面通りのものではなくて、その裏にはある種の緊張感をはらんだ隠された関係性が存在することに気がつく。だが、それに反してそこで交わされる会話自体はコンビニのお握りとカップラーメンを巡る饒舌、奄美の民話にでてくるという虫、いずれもどうにもとりとめもないものばかりだ。平井と林は愛人関係にあることが分かってくるのだが、その林が突然、野口を結婚することになったと言い出す。ここからそのことを快く思わぬ平井が林を相手にその真意を徹底的に問いただすことになりそうだが、平井はその領域には踏み込まない。
 登場人物の行動はあらかじめ封じられていて、決定的な対立を引き起こすような行動ならびに言動は周到に回避される。会話がとりとめもないのはそれが常に本当にそれぞれが思っていて、それを相手にぶつけたいような気持ちを言葉にはださない(あるいはだせない)ために言葉は常に本当に大事なことには触れないで、その周縁だけを旋回し続けるからだ。この構造は例えばベケットの「ゴドーを待ちながら」を彷彿させる。ただ、「アザミ」が「ゴドー」と大きく違うのは「ゴドー」が永遠を連想させる円環構造を持っているのに対し、登場人物のひとりの突然の死というカタストロフィーにより切断されるということだ。
 「アザミ」という作品には別の側面もある。それは人間がフィクションを紡いでいく存在であるという主題である。平井はスランプに陥っているが、才能があるラジオ劇作家である。「アザミ」ではやはり現代演劇の所産であるメタシアター的な趣向を駆使しながら、物語が生まれる瞬間を紡ぎだす。それは港にあるという港立裏町図書館を少女が訪れるというなんとも美しい童話だ。その図書館には記憶を羽に吸い込んでしまって身動きがとれなくなったカモメが凍ったまま冷蔵庫に閉じ込められており、ここにきて自分に染み込んだ物語をとってもらうとはじめて川や海に帰っていける、という物語である。だが、この「アザミ」において物語はついに完結しない。チェホフの「かもめ」に登場するカモメは若い女優で愛人である作家に捨てられることになるニーナの象徴であった。ここではカモメは書けなくなった作家、平井を象徴する存在でもある。
 構造においてベケットを連想させると書いたばかりだが、「アザミ」はモチーフにおいてはチェホフの「かもめ」を思い起こさせる。作中人物の作品を劇中劇として盛り込んだメタシアターの趣向。「かもめ」では自らの才能に絶望したトレープレフが自殺するが、「アザミ」では平井は自殺さえできない絶望のなかで壊れていく。どちらの作品においても恋愛の挫折と芸術家としての才能への絶望は不即不離の関係にある。平井もトレープレフも作者のデフォルメされた自画像であるが、長谷川とチェホフの間には作品に対する構え方には大きな違いがある。フィクショナルなものを構築することへの絶望感はおそらく長谷川の方がより深い。「アザミ」の謎めいたラストはそのことを象徴している。
 「アザミ」はリアル/フィクションの対立を描き、そのなかでフィクションが敗北していく姿を描いているが、最後の場面では死んだはずの人物が現れ、「びっくりしたでしょ」と言って終わる。これは主人公の絶望のなかに現れた一瞬の幻影とも解釈可能だが、それまで起こったことすべてが嘘(フィクション)だと宣言して、作品内で語られたリアル/フィクションの対立構造そのものをメタレベルで否定する言辞とも受け取ることもでき、これがどのレベルのテクストかは物語内では判定不能。長谷川は一種のダブルバインド的な状況をつくってこの舞台の幕を引く。戯曲としては破綻してるともいえるのだが、現代における演劇(フィクション)の不可能性を暗示しているとも思われたこのラストシーンはそうせざるをえなかった長谷川の絶望感を素直に表しているようできわめて鮮烈な印象を残した幕切れでもあった。