下北沢通信

中西理の下北沢通信

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多田淳之介インタビュー「演劇×ダンス クロスオーバー」

 日本現代演劇で1990年代半ば以降メインストリームとなってきた平田オリザら現代口語演劇中心の流れが大きな転換を見せたのが2000年代(ゼロ年代)後半。若手劇作家・演出家の相次ぐ登場によってであった。その特徴は演劇とダンスのボーダー領域の作品が目立つことでチェルフィッチュ岡田利規)、ニブロール矢内原美邦)を先駆とした「ダンスのような演劇」「演劇のようなダンス」はゼロ年代半ばにすでに姿を見せていたがその動きは2010年以降の2年間でままごと(柴幸男)、東京デスロック(多田淳之介)、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)に加え、ロロ(三浦直之)、バナナ学園純情乙女組(二階堂瞳子)、マームとジプシー(藤田貴大)らより若い世代の台頭でますます顕著となった。
 「act」22号では「ダンス×演劇 クロスオーバー」と題してこうした動きがどのような背景によって生まれたのかを考えるためにその代表的な作家として多田淳之介を迎えインタビューを試みることにした。
 中西理(以下中西) 多田さんは演劇の分野で身体表現を多用した演劇作品を制作してきました。そのなかにはダンスに近いような要素が色濃い作品も多いわけですが、最初からそうというわけでなく、会話劇的な形でやっていた時期があってその後、そういうスタイルに変遷していきます。作風の変化するきっかけのようなものがあれば教えてください。

 多田淳之介(以下多田) 今のようなスタイルになったのは最初は2006年に制作した「再生」がきっかけだったと思います。その時初めて俳優が踊るということをやりました。しかしこの時はまだ演劇のスタイルとしては「静かな演劇」でした。つまり現代口語演劇ということですが、「再生」は現代口語演劇として創られた芝居を3回同じように繰り返すという構造だったのです。「再生」をきっかけにして、身体が例えば疲れていくこととか、どういう風に舞台上にいられるか、身体を舞台上にどう存在させるかということを考え始めました。だから、特にダンスを見て(影響を受けて)ということではなく、稽古していろいろやっていたらこうこう風になっていたという感が強いのです。
 中西 それではダンスの要素を取り入れようとして取り入れたというのではなくて、演劇をいろいろ試行錯誤しているうちにこうなったということでしょうか。それでは多田さんから見てダンスと自分がやっている演劇との違いはどこにあると思われますか?
 多田 ダンサーと俳優の違いは今回京都でダンサーと一緒に仕事をしてみてかなり明確に分かったのですが、作品としてダンスか演劇かという区分けについては特にダンス側についてはあいまいです。演劇の場合はなにが演劇であるのかということについては言えるんですが、ダンスに関してはまだ漠然としていますね。
 中西 それでは多田さんにとってはどういうものが演劇ですか?
 多田 演劇はまずドラマだと思っています。人間を見せるということが大きいかもしれません。俳優の機能としてはダンサーと一番違うのは身体を使うこともありますが、人間の枠からあまり出ないということがあります。だから、人間が人間を見るという構造が演劇だと考えています。ダンスの場のはお客さんは人間だけれど舞台上で見るダンサーたちはそのなかでなにか表象している生き物であったり、人間として見られているわけではないような気がしていて、なにかであることは確かですが、そこが演劇とダンスは違うなという気が今はしています。
 中西 多田さんの場合、基本的に演劇だと思って作っているわけですよね?
 多田 そうです。だから、今回のダンサーバージョンも演劇だと思って作っています。
 中西 その場合、その時のそこにおける身体的所作も演劇ですか? それともそれはダンスの時もあれば演劇の時もあるという感じでしょうか?
 多田 それはダンサーが踊っていようがいまいが僕にとっては作品は演劇の構造で作っているということなんです。昨日の作品だとダンサーつまり踊りを生業としている人間が踊るということだったり、彼らの今後の人生のなかで踊り続けるということを考えて作ったようなものなんです。それとやっぱり、僕は振付家ではないから振付もしていないし、本人たちに振付もしてもらっていて、言ってしまえばその振りが僕にとってはどうでもいい。ただ、演劇の構造で提示することで彼らの姿がかっこよく見えたらいいなと思いながら作ったわけです。だから、最近は確かに演劇を作っているのですが、演劇を使ってなにかを作っているという感覚の方が強いかもしれません。
 中西 演劇を使ってなにかを作っているというその「何か」というのは何なのでしょうか?
 多田 作品です。そして時間というかその場所を作っている。そういう意味ではインスタレーションみたいな感覚にも少し近いのですが、場所を演劇で構成するようなものでありたいなあと思っています。
 中西 今回のように境界線に近づくということはあっても、ダンスの方に完全に行かないで演劇にこだわる理由は何なのでしょうか?
 多田 それはまず僕が踊れないというのが大きいかもしれません。ただ、台本は書かないですけれど言葉を使うということに対するこだわりはあるかもしれません。しゃべらない作品も作りますけど、あれもやはり言葉でイメージさせるようなものを代わりに身体でやっているだけで、ダンスのように言葉ではないものをイメージさせるわけではない。物語・ドラマを想起させるというもので、それが好きなんですね。  
 中西 昨日の作品「RE/PLAY」にもセリフの場面がありますよね。焼肉についてのくだりですが、あれは別になくても構成的には成立しそうな気がするわけですが、あえてあれをあそこに入れた理由はなんだったのでしょうか?
 多田 あれはその後のシーンで皆ばらばらだっていうことを強調したかった。焼肉食べて別れたという会話をすることで、今舞台上にいる人たちが家に帰る途中なのか、ひとりなのかということを考えさせながら後半に行きたかった。焼肉自体にも意味はなくはないのですが、一番大事なのは皆で集まって離れるというのを入れて後半につなげたかった。 
 中西 それが多田さんの言う演劇的な構造、あるいは演劇的な仕掛けということなんでしょうか? あの場面はダンスということでいうとあまり必要ない蛇足のような風にも見えるのですが、どうしても必要なんでしょうか。
 多田 そうですね。あと時間軸のこともちょっと触りたかったということがあります。今上演している作品が終演した後の自分たちという会話を入れることで、じゃあ「今」はいつなんだというようなことです。
 中西 それでは多田さんにとっては出演している人がダンサーであっても俳優であってもある意味同じというか、ダンサーという存在、つまり人が見せたいので、俳優の場合も俳優の技術を見せるというよりは俳優という存在の面白さとかを見せたいということなんですね。
 多田 それは俳優の場合はそれが俳優の仕事と直結しているような気がするんです。だから、俳優を使う時はちょっと感覚が違うんですが、ダンサーを使う時はやっぱりそういう感じですね。例えば普段大工さんをやっている普通の人と演劇やるのとダンサーと一緒にやるのはそっちの方がちょっと近い。もちろん、ダンサーは舞台の人なんで全然大工さんとは違うんですけれど。 
 中西 最近、演劇をやっている若い人の作品にダンス的な身体所作が増えてきてちょっとダンスみたいな演劇になっていたり、逆にダンス作品のなかにセリフのある演劇のような作品が増えてきているよう感じます。この2つは分けて考えないといけないとは思っているのですが、実際にいくつか作品も見てらっしゃると思うのですがこういう状況について多田さんの目からはどのように見ていらっしゃいますか?
 多田 なんとなく共通しているのは舞台芸術なのでお客さんを眼の前にして舞台の上でやるということで、舞台の上にどうやって存在するかについての問題意識が強いとか、そこから発生していることでかぶっていることには僕は興味があるんですけど、ダンサーがしゃべるということに関してはやはり僕から見るとしゃべっている技術はままごとみたいな感じなので、僕の考えているしゃべるという行為を舞台上でやっているわけではないと感じてしまいます。そこに逆に違いを感じる部分もあるといってもいいかもしれません。ダンサーが僕の「再/生」の俳優版の映像を見て「これはかなりダンスだ」と言っていたのが、実際にやらしてみたら「ダンスじゃない」ということになった。ダンサーの人たちがなにをもって演劇を見た時にダンスだと思うのかということは僕には分らないわけです。チェルフィッチュがなぜダンスだと言われるのか。一つは踊っているっぽいからダンスだというのは、それは分かるんですけれど、それがダンサーにとってのダンスと受け取られるというのが今回ダンサーと仕事してみて少しだけ分かったような気がするわけですが、私は演劇がダンスによるとか、ダンスが演劇によるというようなことをあまり気にしてないでここまできていました。根本的な違いはどこかというと違いはあるような気はしてはいるけれど、特に若い人たちはいろいろ舞台の構造というか、いろんな上演形態について考えるようになっているので、そこで(演劇とダンスが)かぶってくることが多いんだろうと思います。単純に舞台上に人がいるという時に身体を動かすというのも演劇の人にはすっと出てくる発想だと思いますし。
 中西 演劇に関して言えば、特に若い人からそういう表現が出てきている動機として、平田オリザさんが現代口語演劇という手法を生み出して、それが一般化してから一時右も左もそればかりという感じになってから、もう20年近くの時が経過していて、もうそろそろ単純にそれだけだと言葉は悪いですけれど賞味期限切れというか、ある種の限界を露呈してきたかなとも思うんですけれど。
 多田 そうですね。身体に行ったというのはまあまあそういう感じの流れはあるとは思います。ただ、僕は青年団はダンスだと思ってるところもあるんです。ダンスの要素を相当にはらんでいるなと。
 中西 どういう点でそう思うのでしょうか?
 多田 あそこで俳優たちがやっている作業はものすごく繊細に身体をコントロールしているという点でほとんど振付なんです。毎日同じタイミングで、同じポジションに自分の身体を持っていく。同じ角度で手をさしのべるとか、同じ目線を再現するというのはちょっとした特殊技能ともいえます。ただそこまでいけない俳優というか、誤解してやっている人たちがほとんどなので青年団はちょっと特殊だなと思います。ダンスが好きな人も多いですし、あの人たちはちょっとダンサー的な感じはあります。
 中西 青年団がそういう意味でダンス的というのは面白い見方でよく分かる部分はあります。ただ、ダンスには即興のような要素もあるから、青年団的なものだけがダンス的というわけでもなくて、例えばもう少し即興的な要素も含んだ演劇がダンス的ではないとも思わないのだけれど。そういういう意味ではチェルフィッチュは一番最初は青年団的というか、ものすごく厳密に振り付けられていたのが、割と最近は即興にまかせるような感じにもなってきていますね。
 多田 そうですね。ただ、現代口語演劇を更新するような動きのなかで身体の問題が出てきたというのは僕もそう思います。
 中西 それで多田さんの場合の身体の出てきかたと即興と振付的な機能というのはどういう関係にありますか?
 多田 僕の場合は負荷をかけるというところから始まっていました。青年団の人たちと付き合っていたのが長かったこともあるのですが、あれだけ自分の身体をコントロールしながらセリフを言える人たちはけっこういろんなことができるなというのがあって、そこで相手を見ないでずっと話をするとか、日本語ではない言葉で会話するだとかいろんな負荷をかけはじめたのがひとつのきっかけとなっています。この俳優たちは一見ナチュラルに見えるような演技以外のこともたぶんできるんだろうなと思っていましたから。それでいろんな負荷をかけたり、演劇の構造をいじったりしてどこまでできるのかというのを探っていた部分もあります。そして、それが結果として身体の問題になっていったということです。
 中西 多田さんの側は特にそういうことは意識していないと思うのですが、観客の立場でダンスと演劇の両方を見ていると特に多田さんの演劇の場合には演劇の内部というよりは例えば同じ動きを何度も何度も繰り返すことで蕩尽していく肉体の限界と限界を超えていく力のようなものでいえば黒田育世さんとか、あるいは身体に負荷をかけることで立ち現われてくる身体の状態ということでいえば矢内原美邦さんとかむしろダンス系の演出家・振付家の人と問題群を共有している感じも受けるのですが。
 多田 どちらも見たことはあります。ただ、僕は少し違うなと思うのは僕は限界を超えているように見せたいと思っているだけで、本当に限界を超えてほしいとは思っていない。人が限界を超えた時に出すものというのをあまり信用していないんです。それが毎日できるんだったらいいんですけど、そこはなかなか微妙なところですね。できるだけ自分がコントロールして、疲れているようであったり、限界を超えているように見せる演技を構築してほしいと思っています。もちろん、それは本当にやらなければいけないところだったりもするので、何が本当で何が演技かというのは微妙なラインでもあるのですが。 
 中西 最初、稽古場で負荷をかけると負荷がかかっている状態のようなものがそこに立ち現れるわけですよね。それで、本番の時も毎回負荷をその時にかけるというのではなくて、負荷がかかって起きた状態みたいなものをキープするというか、再現するということでしょうか?
 多田 再現できるってことはかなり重要ですね。同じ結果がえられればいいということです。だから保険はかけてある。例えば昨日も「オブラディ・オブラダ」を10回やるという。あれも即興の振りを固めていくという作業だったわけですが、あれも振りがそんなに面白くなくてもただ10回繰り返すことでの効果というのはおそらく何をやってもある。そういう保険はかかっていて、ただその中で振りが面白ければよりいい。以前、2時間半磔になっている人が出てくる舞台を上演したことがあるのですが、磔になった結果、セリフが面白くなればいいんですが、そうならくても、2時間磔になっているだけで、それだけの効果はある程度保証されている。それと似たような保険は今回もかかっている。
 中西 そういう意味ではそこはダンスとは大きく違うところかもしれませんね。ダンスの場合は結果的に立ち現れてくる状態自体が面白いかどうかということが決定的に重要な気がします。昨日の場合だと前に演劇版も見せていただいているわけですが、松本芽紅見さんがすごくハイな状態で次第に限界を超えたようなダンスを踊りはじめて、それにはちょっと圧倒されたのですが、それを見ていて「ダンスとはこういうものなのか」と思ったということがありました。
 多田 なるほど。でも僕は予想していたわけではないけれど、あれは逆に願ったりかなったりの瞬間という感じでした。
 中西 そういう意味ではそういうことが起こりうる稀有な存在がダンサーなのかもしれないと思ったんです。少なくとも俳優とダンサーを比較するとダンサーの方がなにかが憑依したり、トランス状態になったりすることがより多いということがあるじゃないですか。
 多田 そうですね。松本芽紅見さんは大変なことになっていましたよね(笑)。
 中西 いつも起きるわけではないけれども、舞台っていうのはたまにこういう奇跡が起こることがあるというのがやはり生の魅力じゃないでしょうか。
 多田 奇跡の瞬間みたいなのがあるっていうのがそうですね。本当は毎日できるといいんですが。
 中西 ただ昨日も1ステージだけだからこそできたのでは。
 多田 それはあったと思います。何回かやるんだったら皆もう少しペース配分しただろうなと思います。それでも1ステの思いっ切りよすぎる感じがよかったですね。
 中西 素人の人を使ってやる場合もあるじゃないですか。その場合も1ステだけとか短い時間だったらこういう特殊な瞬間が現れることがあると思うのですが、それと劇団でやるツアーの公演というのは全然違うということでしょうか。
 多田 そうですね。普通の人の時はさすがに負荷はかけない。基本的にはできることしかやってもらいたくないという感じがあって、例えばダンサーと作る時にセリフ言うの下手だからうまく言えるようになるために稽古するという作業にはまったく興味がなくて、普通の人とやる時にはその人がいまできることだけを使って、あとプラスが生まれたらいいぐらいの感じです。俳優とやる時もそれに近いといえば近い感覚もあります。
 中西 話は前後するのですが、いわゆる身体表現的な表現形式が強まっていく過程について、2006年の「再生」がきっかけだったとおっしゃっていたと思うのですが、その後、「マクベス」「ロミオとジュリエット」と負荷をルールとして作ったうえで、そこで立ち現れる身体的なものを舞台に乗せていくような舞台が続きました。
 多田 疲れるということにかなり拘っていたというか、面白いと思っていたということがあります。「再生」で疲れる身体というのを初めてやってからしばらく、どういうことができるかなと考えていました。ただ、古典で身体を使うのはやはり古典のセリフを言うためにけっこう必要、というか素面で言われても困る。戯曲を使う時はどうしても戯曲に相当奉仕しているというか、かなり戯曲から考えることが多いです。
 中西 身体負荷をかけた時に見えてくるものがあるというのは私も同感なのですが、なぜそうなのか。多田さんはどのようにお考えでしょうか?
 多田 単純なのは負荷がかかっている人は可哀そうに見えるということがあります。最初に負荷をかけはじめたのは身体だけでじゃなくて、言葉のしゃべり方もありますが、気持ちよさそうにしゃべっている人を見たくないというのがありました。そういう演劇の恥ずかしいところは嫌だなと思っていて、俳優が俳優のしゃべりたいようにセリフをしゃべっている状態というのはつまらないという感覚があります。俳優の意思というか、つもりに拮抗する負荷をかけることでやりたいように言えない、やりたいようにいかないんだけれど、それが結果的に面白い言い方になったりするのが好きというのがあります。これは単純にセリフの言い方についてそうだということですが。それでその後、身体に興味が出てきた時にも同じようなことがあったんだと思います。 

(2012年2月5日、京都駅ビル某所にて収録)