下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

平田オリザ小論(平田オリザについての論考集)

 かつて大規模なロボット工場とその研究拠点があり、大勢の研究者・従業員が集まっていた日本のある地方都市。円高による空洞化で町は衰退し、工場は撤退。現在は小さな研究所だけが残っている。先端的なロボット研究者であった父親の死後、この町に残されて生活を続ける3人の娘たち。かつて、父親の部下だった研究者の一人の海外赴任が決まり、お別れに姉妹のもとにあいさつに訪れ、そこにかつての父親の同僚らも顔を見せに集まってくる……。チェーホフの「三人姉妹」の設定を日本の近未来に移し、その様相をシニカルに描き出す平田オリザの最新作がアンドロイド版「三人姉妹」だ。この舞台は日本での初演(10月20日〜11月4日、吉祥寺シアター)の後、つい先日フランスを代表する演劇フェスティバルであるフェスティバル・ドートンヌに参加しパリ郊外の劇場「ジュヌヴィリエ国立演劇センター」(12月15〜20日)でも上演された。
 「三人姉妹」は演劇としてのみでなく、ロボット工学の世界からも世界有数のロボット学者・石黒浩教授(大阪大学)と平田の共同プロジェクトとしても注目を集めている。両者はこれまでいかにもロボットらしいロボットである「ロボビー」が登場するロボット演劇「働く私」や本物の人間そっくりのアンドロイド「ジェミノイドF」が出演するアンドロイド演劇「さようなら」などの上演を通じてノウハウの蓄積に努めてきた。今回の「三人姉妹」はロボビー、ジェミノイドFの双方が登場し、ロボット・アンドロイド演劇としても、平田の方法論に基づいて制作された群像会話劇としても集大成といっていいものとなった。
 ロボット・アンドロイド演劇をはじめとする平田作品はフランスを中心に欧州各地の演劇フェスティバル・メディアアートフェスティバルなどに招へいされており、アビニョン演劇祭フェスティバルでの「ソウル市民」連作の一挙上演の準備も進んでいるなど日本を代表するパフォーミングアート(舞台芸術)として演劇の枠を超え高い評価を受けている。日本における認知度こそまだ差があるが、平田の海外での評価は小説の村上春樹、映画の北野武、現代美術の村上隆に現在のところは及ばぬにしても、特に欧州においてはその域に近づきつつあることは間違いない。「役者はロボットである」などの挑発的な発言から、反発するアンチ派を同時に生み出しながらも1990年代以降の日本現代演劇で平田がもっとも重要な作家であり、その存在を無視して日本の現代演劇を語ることなどは無意味である。
 国内でも11月には初の小説作品である高校演劇に打ち込む女子高校生を描いた「幕が上がる」(講談社)が出版され小説家デビューも果たした。想田和弘監督によるドキュメンタリー映画「演劇1」「演劇2」も10月から順次、全国公開され話題となった。これは平田オリザ青年団に想田監督が数か月にわたって密着し自らカメラを回し続け、その姿に迫ったものだ。2本を合わせた上映時間が5時間42分という長大なドキュメントなのだが、なかでも「演劇1」は執拗なほど粘着質に稽古場を撮り続けて、平田がどのようにその作品を演出しているのか、役者たちが実際にどのように演技を組み立ているのかについてを微細に克明に紹介する貴重な記録となっている。
 私が平田の舞台と最初に出合ったのは「ソウル市民」(1993年4月、下北沢ザ・スズナリ)だった。当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、困惑した。だが、作品自体はスリリングな刺激を受け面白く、東京公演の後すぐに韓国プサンの公演にも追っかけていくことになったほどだ。その後いくつかの作もを続けて見て、その本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかと確信し、当時の現代演劇を批評するキーワードとした。
 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のことである。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としていた内面を持つ個人としての全人的存在である人間を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されている。そういう違いがあるからだ。
 平田の演劇には「関係性の演劇」であるということに密接に関連した2つの特徴がある。それはまず第1に「現代口語演劇」であること。そしてもうひとつがそのほとんどの作品が「群像会話劇」であることだ。「現代口語演劇」あるいは「現代口語日本語演劇」は平田自らが著作のなかで何度も繰り返して強調している最大の特徴だ。平田の演劇は「リアルな会話とはいかなるものか」という現代の私たちが日常話す話言葉の精密な分析からスタートしている。
 これまでの演劇がリアルでなく、そのセリフ回しにリアリティーが感じられないのは普通の会話体としては使わないような言葉(セリフ)を俳優に強いて、そういうものを説得力のある台詞として語るのが俳優の技術であるとされていたからで、「それは間違っている」と平田はそれまでの演劇のありかた(これは特に直接的にはスタニスラフスキーシステムとその現代化された応用ともいえるメソッド演技の内面の再現という神話)に批判の目を向ける。そして平田はそのよって立つ理論的な基盤を現象学に置く。フッサール、メルロ・ポンティの現象学である。
 この辺の理論的な詳細については平田自身が著書に書いており、ここではあまり詳しくは踏み込みまないが、単純化をすれば、それまでの「リアリズム演劇」だとそれぞれが個人として独立している登場人物の内面を想定して、そのセリフを登場人物がどんな心情で述べたのかということなどを内面から想像し、自分の演技に落とし込んでいく(内面と演技の一致)のに対して、平田(青年団)の場合、個々のセリフの内容やそれが発せられた時の個人的な感情よりもコンテクストないしその会話によって立ち現れる登場人物の関係性の方をより重視するところに特徴がある。
 ただそれがどんなものかはこれだけでははっきりとは具体像を結ばないかもしれない。「演劇1」はそうした疑問にこたえる貴重な史料にもなっている。特に注目したいのは「東京ノート」の3人の姉妹(ひとりは弟の妻で義理の関係)による会話の場面だ。ここは故郷から上京してきた長姉(松田弘子)が美術館のロビーで妹・義妹と出会い、最初に会話を交わす場面なのだが、その会話のなかでこの3人の関係性やその背後にある(と想定されている)問題がそれとなく提示されていく、一見さりげない風を装いながらもきわめて重要な場面なのだ。
 平田はここでともすれば役に感情移入して「入り込んで」しまいがちなタイプの義妹役の女優に対して、セリフの「間」「強さ」「ニュアンス」についての細かいダメ出しを何度も何度も執拗に繰り返す。ここでの演技・演出法はその義妹の心持ちをつかめば自ずとその演技の仕方が了解されるといった普通よく行われると思われる役柄へのアプローチとまったく逆で、特にここで重要視されているのがセリフの間の指定でこの部分についての平田の指示は「あと○秒長く」などときわめて具体的で揺るぎがない。映画で紹介された演出風景で興味深いのはノートパソコンにの台本と役者の演技を同時に見ながら、平田が右手で机を軽くタップするようにリズムを取っている姿。それは私には楽譜をチラリと見ながら指揮棒を振るオーケストラの指揮者を連想させた。
 いわばここでは「演技のデジタル化」が志向されていると考えることができきるわけだが、ここでもうひとつ別の例えを導入すれば旧来のメソッド演技的な演技法と青年団の演技の関係はちょうど音楽における実際の楽器の演奏とMIDIデータを入力しての打ち込み音源の制作の関係になぞらえることができるのかもしれない。
 音楽ではある種の音楽ジャンルにおいてはパソコンに入力されたMIDIデータがあれば演奏者や場合によっては初音ミクに代表されるボーカロイドの出現で歌手もいらないのがむしろ普通のこととなっていて、演奏者もそういう状況を嘆くことはあっても反発することもあまり聞かないのだが、それを考えると演劇界では一部に激しい反発を受けたが平田の「役者=ロボット発言」はそれほど突飛なことを主張しているわけでもないことがうなずけるのではないだろうか。
 そして、それを体現したのがロボット・アンドロイド演劇であるという風に考えがちではあるのだけれど、実は話はそれほど単純ではない。アンドロイド演劇、ロボット演劇というとアンドロイドやロボットがあたかも人間のように演技する演劇だと想像するかもしれないが、平田の演劇では人間が人間を演じるのと同じようにアンドロイドはアンドロイドを演じ、ロボットはロボットを演じるのだ。
 アンドロイド演劇「そようなら」を例に取りもう少し分かりやすく説明しよう。詩を読むアンドロイドと死に至る病に侵された少女の物語が「そようなら」だ。この舞台では「死すべきもの=人間」と「そうでないもの=アンドロイド」の交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる」。といえば通りはいいが、物語自体は正直言ってステレオタイプだ。SFにはありがちな設定でしかない。石黒の製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイドは人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分のデータベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されているという設定だ。
 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。
 ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。その関係性を観客は読み取り、そこに実際にはない意識のようなものを読み取るのだ。 
 平田オリザの演劇を「関係性の演劇」と名付けたのは平田の演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間がリアルに存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためで、実際には不可視である登場人物の内面のためではない。つまり、ここでは内面のない俳優から観客が内面や意識を読み取るのと同じ原理をアンドロイドにも使っているわけで、そこでは人間とアンドロイドの間に有意な差異はないからだ。
 実はアンドロイド演劇「三人姉妹」では同じジェミノイドFを起用して、さらに複雑な仕掛けを平田は用意している。平田版「三人姉妹」では三女がアンドロイドの姿で登場する。具体的に示されることはないのだけれど、研究室にいた研究者らの対応などから、物語中で最初は奇異な存在と考えられるこのアンドロイドはどうやらもう亡くなってしまっているらしい三女の似姿として天才科学者であった父親が製作した形見である、というようなことが了解されてくる。これは近未来というような仮定では納得しがたい設定ではあるが、この設定は明らかに手塚治虫の「鉄腕アトム」を下敷きにしたんだろうと思わせる部分があるから、一応納得したような感覚のまま舞台は進行していく。
 実はこの三女が今回お別れにきた研究者とかつて恋愛関係にあって、彼の恩師であった彼女の父親も2人が一緒になることを期待していたというエピソードが出てくるに至り、物語の中段あたりではこの2人の関係の破綻と三女の死がどこかでつながっていて、その謎が後半のどこかで解明はされなくても、暗示されるようなことがあるんじゃないかなどと予想しながら舞台を見ていると私は物語後半に入ったところあたりで見事な背負い投げを食らわされて仰天することになった。これまでアンドロイドの動き・声を担当してきた井上三奈子がこの「三人姉妹」で同様に物語冒頭からそれを担当していたのだけれど、気がついた時にはアンドロイドのいる舞台上に三女として自らも登場し、セリフをしゃべりはじめたからだ。これは物語設定上いったいなにが起こったのか分からなかったのだが、実は三女は以前に亡くなったという態を家族以外には装いながら引きこもり状態で生きていて、このアンドロイドはそのための意思疎通のツールとして彼女が普段は操縦しているものだということが判明するのだ。それだけならいわば操り人形のようなもので、アンドロイド=三女ということで済む話なのだが、物語設定上でも舞台に同時に登場することから、このアンドロイドには自動操縦のような自律モードもあって、途中でアンドロイドが発した父親の同僚学者に対する告発などが果たして三女による意識的な発言だったのかというようなことが取りざたされる。
 だが私はもうひとつ論理階梯のレベルの違う問題が脳裏をかすめて「どうなのだろう」と頭を悩ませることになった。つまり、舞台の進行中はこのアンドロイドはこれまで通り井上によって操縦されているもの、いわば文楽の人形のようなものと考えていたのだけれど、途中段階で少なくとも同時に登場している部分は自動操縦(といってもこの場合は物語設定のように自律性があるわけでなく、一度実行された動きが繰り返されるだけだが)に切り替わりっているか、井上以外の操縦者が代わって操縦していることになる。実はすべてが自動操縦なのかもしれないという可能性を含めて、実際がどうなのかということは見る側には分からないということが分かってくるのだ。実は平田はその言動において内面再現的な演技法を完全に否定しているように見えて、そうではない。
 つまり、平田が俳優に求めるのは平田の要求する演技を寸分の違いもなく、再現するスペックの高さであって、その再現性の精度を内面再現型の演技が阻害するようであればそれはいらないということであって、俳優の内面は不可視であるから、あってもなくても区別できない。そしてそれはロボットやアンドロイドも同じだということなのだ。 
 平田の舞台の多くは様式的には複数の登場人物の会話のなかからある種の共同体の関係の総体が浮かび上がってくるというもので、大抵は「群像会話劇」の形態を取る。「現代口語を使う演劇」「群像会話劇」という2つの特徴は平田だけではなく平田の同世代あるいは後継者である「関係性の演劇」の作家らが共通して持つ特徴でもあって、それは1990年代後半には岩松了長谷川孝治弘前劇場)、長谷基弘(桃唄309)、はせひろいち(ジャブジャブサーキット)ら大きな潮流を形成し、2000年代(ゼロ年代)には前田司郎、三浦大輔ポツドール)らも登場し、日本現代演劇の典型的なスタイルとして流布されてきた。
 ただ、青年団育ちの作家らわずかな例外を除けば、演技を寸分のすきもなく再現するためにデジタル化していくというようなラジカルな演技・演出論をそのまま受け継いだ例はほとんどなかったといえそうだ。平田の劇団である青年団とその拠点であるこまばアゴラ劇場は近年、特にここ数年、前田司郎(五反田団)、柴幸男(ままごと)、松井周(サンプル)と立て続けに岸田戯曲賞受賞作家を輩出した。それ以外にも京都に拠点を移して活動している三浦基(地点)、埼玉県の公立劇場で全国最年少の芸術監督を務める多田淳之介(東京デスロック)、テレビドラマ脚本で向田邦子賞を受賞した岩井秀人(ハイバイ)らの俊英が集まり、いまや若い世代の演劇人にとっての梁山泊的な存在としても知られている。



 
 それでは「関係性の演劇」とはどんな演劇なのでしょうか。次は以前に書いたものですが、簡潔にまとめられていると思うのでここに再録してみました。

関係性の演劇とはなにか

 

 これまでの演劇批評の文脈では日本の現代演劇を分析的に取り上げるとき、演劇史のうえから新劇、アングラ劇、小劇場などその発生の系譜をたどって考える傾向が強かった。

 ところが、こと90年以降、あるいはもう少しさかのぼっても、80年代後半以降の日本現代演劇を俯瞰的にとらえようと考えた場合、こうした方法論が有効でなくなっているという現実があるのではないだろうか。ここ何年かのリアリズムの回帰を巡る一連の論争や最近の「静かな劇」を巡る議論などをみても、これまで、批評言語として使われてきたこれらの言説が今や無効なための混乱が、あちらこちらで顔をだし、それが一層議論の混迷を深めているような気がしてならない。多様な日本の現代演劇を捉えるには歴史的(通時的)に影響関係を捉えるのみでなく、歴史的な文脈を一度白紙にもどして、共時的に作品構造の分析そのものから、演劇の系譜をとらえなおさねばならないのではないかと考えている。これはそのための試論である。

まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」という概念で括れるのではないかと思うからである。

関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。関係性という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なタームで実体に対する対立概念である。近代の思想が主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置くのに対して構造主義現象学といった現代の思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。

これだけで、この種の演劇というものが、いわゆる「内面を持つ個人」というものを前提にした新劇的な演劇観とは全く異なるものであることが、はっきりと理解できるであろう。19世紀のロシアに生まれたスタニスラフスキーのシステムは当然ながら、この「内面を持つ個人」という人間観を前提にしたものとならざるをえないからであり、日本の新劇がいかに遠いその末裔であろうと、「内面を持つ個人」を描くという前提は動かせないからである。

では、関係性の演劇においてはなにが描かれるのか。ここで描かれるのは例えば登場人物の間の関係、登場人物とある種の共同体との関係である。関係の網の目ような描写から、直接、描かれることなくして、浮かび上がってくる結節点のようなもの、これが個人という風にして捉えられてきた人間というものの姿であり、これと離れた個人などというものは幻想にすぎない。これが、関係性の演劇の前提である。

 では具体的に「関係性の演劇」というのは、どんな作品があるのか。平田オリザ岩松了宮沢章夫と挙げていくと、そうか「静かな劇」のことをいっているのかととられかねないので、ここでは思い切ってまずベケットの「ゴドーを待ちながら」を取り上げて具体的に説明を始めることにしたい。

ベケットの書いたこの物語については、不条理劇の傑作として日本でも様々な形態で演出、上演されているし、この作品に啓発を受けた作品も枚挙にいとまがない。だが、これは実は「関係性の演劇」としての構造を持っているのだ。この物語の主要な登場人物はエストラゴンとウラジミールという2人の人物であり、この2人がゴドーというこの物語には登場しない人物を待ち続けている。ここで観客の前に与えられる構造はこれだけである。この物語の核心はこの3人の関係の中にあり、全てがそれだけに収れんする。

 エストラゴンとウラジミールはどういう人間かはこの物語のなかでは読み取れない。舞台の上では2人の対話が延々と繰り返されるが、それによって二人の素性が明らかになってくるということもない。むしろ、浮かび上がってくるのは鏡像のような関係の2人と2人が待ち続けて、そして舞台にはついに現れないゴドーという人物との関係の三角形なのである。だから、この芝居においてはエストラゴンにもウラジミールにも関係の三角形の一辺という以上の内実はない。これは独立した存在なのでなく、構造を浮かび上がらせるための仕掛けであるからだ。そういうわけで、エストラゴンにもウラジミールにも「個人としての内面」など存在しない。これが私が考える「関係性の演劇」の特質である。

 さて、現代の日本演劇に話をもどそう。まず、話を分かりやすくするために平田オリザを取り上げることにする。平田の演劇はゴドーなどに比べると具体的な描写をともなって形成されている。それゆえ、伝統的なリアリズム演劇と一見近い感じを受ける。


http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317

 

 「関係性の演劇」というのにいきなりベケットが登場したりして驚かれた方があると思うのですが、すでに不条理劇として知られているベケットのことをわざわざ「静かな演劇」と言いなおす人はいないと思われますが、私はベケットこそが関係性の演劇の嚆矢だと考えています。というのはここには明らかにそれまでのリアリズム演劇とは異なる人間観があるし、その流れはその海を渡り、別役実という劇作家に結実し、80年代において途絶えたかのように見えましたが、地下水脈としてとうとうと流れ続け、90年代の平田らの活動へと継続されていると考えているからです。

 さて、今度の文章は以前に書いた青年団「S高原から」のレビューの一部で「関係性の演劇」について言及している部分です。

平田の芝居と最初に出合ったのは「ソウル市民」だったのだが、当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、この「S高原から」を見てその本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかとはっきりと確信したのもこの舞台によってであった。

 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のこと。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としていた内面を持つ個人としての全人的存在である人間を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されている。そういう違いがあり、だから、一見見掛けが似ているところがあったとしても、「関係性の演劇」とリアリズム演劇(近代演劇)は別物であるということ。こういう演劇観は後に平田自身が著作のなかで明らかにしていることだから、現在時点でことさら強調するのも間抜けな感じが否めないが、要するにそういうことをはっきり感じさせた作品がこの「S高原から」だったわけだ。

 冒頭で「平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて」と書いたのにはちょっとしたアイロニーも実は含まれたもの言いでもあった。「関係性」ないし「関係的」というのは「記号的」と言い換えることも可能で、この戯曲には例えば「ソウル市民」ややはり平田の代表作と目されている「東京ノート」と比較してみたときに関係性の提示のありかたがあまりにも露わであり、それゆえ舞台を見終わった後の印象として個別の事象よりも全体として設計図のように描かれた骨組みがより前面にはっきり出てきて、図式的に感じられる欠点もあるということは指摘しておかなければならない。つまり、あまりにも平田の理論通りに作られていて余剰がないというか、教科書的な作品でもあるのだ。

 トーマス・マンの「魔の山」を下敷きに構想された「S高原から」は高原にあるサナトリウムの中庭にある休憩場所が舞台となる。ここには感染はしないけれど、治療の方法がなく完治することもないという病気*2に罹った患者が入院している。この芝居には大きく分類すると入院患者、病院のスタッフ、外部からこの病院への訪問者(患者の面会者)という3種類にグループ分けできる人物が登場し、それが相次ぎこの場所に現れ、さまざまなフェーズの会話を交わすことで物語は進行していく。

 「魔の山」から平田が引用してこの舞台のなかで何度も変奏されながら繰り返されるのがこの閉ざされた空間であるサナトリウムと下界との間に流れる主観的な時間の違いである。これは付き合っていた恋人との別れを経験することになる患者、「もうこんなに長くいるのだからここから降りてほしい」という婚約者と降りない患者などいくつかのエピソードによって繰り返し基調低音のように繰り返される。

 そしてそこに隠されているのはもちろん「死」ということだ。「死」は一般に私たちが暮らしている下界においては隠蔽された存在だ。だが、この患者たちにとってはいつか自分にもやってくる日常そのものでもある。ここに平田が描き出した会話を克明に観察していくと

 患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる。

 「死」とは「関係性の不在」であり、「関係性の演劇」においてそれを直接提示することはできない。繰り返される別れのエピソードは外部との関係性がしだいに希薄になってきていること、つまり、患者らが生きながら、ここで死んでいる状況を平田は象徴的に提示しているわけだ。

 平田の「関係性の演劇」には実はもうひとつ特徴がある。それは同じような関係を持つ2つの関係性がもうひとつの関係性を連想させるということ。簡単に言えば隠喩(メタファー)である。この舞台のラストは中庭に置かれたソファの上でまるで死んだように眠りつづけるある患者の姿で終わるのだが、この眠る患者の姿から観客はやがて来る「死」の姿を感じ取ることになり、そこでこの舞台は終わりを迎えるのである。


青年団「S高原から」のレビューから引用(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050716

 上記の「S高原から」についての文章で太字で書かれた部分が作品に即した、関係性の演劇の様相の実態である。単純な演技・演出のスタイルについてではないこういうことについては実際に1本まるまる作品を見てもらわないとなかなか実際のところというのがいえないというのがもどかしいところですが、「S高原から」の場合でいえば死という話題についてのそれぞれの登場人物のたちふるまいの違いの微細な書き分け、「患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる」などが、全体としての群像描写のなかに巧妙にちりばめられていること。そこがこの舞台の肝ということができるかもしれません。

 平田の演劇には「関係性の演劇」であるということに密接に関連した2つの特徴があります。それはまず第1に「現代口語演劇」であることです。そしてもうひとつがそのほとんどの作品が「群像会話劇」であるということです。

 「現代口語演劇」あるいは「現代口語日本語演劇」というのは平田自らが何度も口をすっぱくして強調している彼の演劇の最大の特徴です。平田の演劇はリアルな会話とはいかなるものかという現代の私たちが日常話す話言葉の精密な分析からスタートしています。

 これまでの演劇がリアルでなく、そのセリフ回しにリアリティーが感じられないのは普通の会話体としては使わないような言葉(セリフ)を俳優に強いて、そういうものを説得力のある台詞として語るのが俳優の技術であるとされていました。「それは間違っている」と平田はそれまでの演劇のありかた(これは特に直接的にはスタニスラフスキーシステムとその現代化された応用ともいえるメソッド演技の内面の再現という神話)に批判の目を向けるわけです。そして平田はそのよって立つ理論的な基盤を現象学に置きます。

 フッサール、メルロ・ポンティの現象学ですね。この辺の理論的な詳細については平田自身が著書に書いておりますので、ここではあまり詳しくは踏み込みませんが、単純化した言い方をすれば、それまでの「リアリズム演劇」だとそれぞれが個人として独立している登場人物の内面を想定して、そのセリフを登場人物がどんな心情で述べたのかということなどを内面から想像し、自分の演技に落とし込んでいく(内面と演技の一致)のに対して、平田(青年団)の場合、個々のセリフの内容やそれが発せられた時の個人的な感情よりもコンテクストないしその会話によって立ち現れる登場人物の関係性の方をより重視するところに特徴があります。

 平田の舞台の多くは複数の登場人物の会話のなかからある種の共同体の関係の総体が浮かび上がってくるというもので、大抵は「群像会話劇」の形態を取ります。チェルフィッチュの講義でも触れましたが、「現代口語演劇」「群像会話劇」という2つの特徴は平田だけではなく平田の同世代あるいは後継者である「関係性の演劇」の作家らが共通して持つ特徴でもあって、それは90年代後半には岩松了長谷川孝治弘前劇場)、長谷基弘(桃唄309)、はせひろいち(ジャブジャブサーキット)ら大きなグループを形成し典型的なスタイルとして流布されていきます。

 今回お見せする青年団「バルカン動物園」はそうした関係性の演劇の特徴が典型的かつ極度に発揮された作品です。実は平田オリザの作品には今言ったようなほかの作家だれにでも当てはまるような特徴だけではなくて、平田に特有だと私が考えている特徴があります。それは「作品の形式がメタフォールに作品に主題と関係する」ということなのですが、そのことに関してはこの作品を見た上で実際の作品に即して説明したいと思います。別に正解とかがあるわけではないのですが、ひとつこの作品を見るための手がかりのようなものを挙げておくと、脳とサルの研究を学際的に行っている研究室のことを描いているこの作品に平田はなぜ「バルカン動物園」という題名をつけたのか。それがすごく重要だと思います。

 (ここで「バルカン動物園」を上映する)

 どうだったでしょうか。以下の文章は初演時の「バルカン動物園」のレビューですが参考までにここに掲載しておきます。

 青年団の「バルカン動物園」はなんとも企みのある題名が、この作品の本質をよく表現していると感心した。バルカンといえばもちろん作中欧州の戦争の引きがねになったと想定されてるバルカン半島のバルカンだろう。文化、宗教、人種といった人間の紛争の原因になりがちな要素が狭い地域内にこれでもかって集まっている。そして動物園はいうまでもなく動物を人間が見るために人為的に集めた施設である。この芝居はあたかも観客に動物園の動物を観察させるように舞台上の人間を観察(覗き見)させていく。

 だから、あえて挑発的に決め付けるがこの芝居のテーマはチラシで書かれたように脳とか精神とかでなく「戦争する動物=人間」なのだ。(平田は芝居にテーマはいらないというが、ここでのテーマはあくまで私が平田のテキストから読み取った主題の意である)。この芝居で平田は人はなぜ戦争をするのかという疑問をあたかも動物園で観察される動物のように研室室にたむろする研究者を描くことで見せていく。

 舞台では欧州の戦争のことがたびたび背景として語られる。しかし、私はだからこの作品は戦争を描いているというのではない。当たり前のことだが、それだけでは戦争の話題を話す人が芝居にでてるというだけだ。あえてここでこんな基本的なことまで指摘するのは、そんな芝居も多いからで、平田の作品でも決してそれは少なくないのだが、ここではあえて具体的には指摘しない。

 この芝居では戦争はむしろ研究室の内部の人間関係と関連して語られる。具体的に述べよう。欧州の戦争で亡くなり、脳だけの存在になった脳医学者とその婚約者のことが登場する。それから、研究を取るために欧州に行き、婚約者というか彼を振ってしまう女性研究者のエピソードも語られる。この二つの話は一見なんの関係もないように見える。

 だが、ここで平田は周到に仕掛けを仕掛ける。この二つのエピソードは相同な構造を持ち、鏡像のような関係にあるのだ。

 

 一方は脳生理学者(男性)が研究を振り捨てて、生まれ故郷での戦争のため欧州に出かける。もう一方では女性研究者がよりよい研究の場を求めて、婚約していた同僚の研究者を捨てて欧州(こちらはノルウェーだが)に行く。二つのエピソードの照応関係を示すと脳生理学者/戦争/研究を振り捨てて欧州に行く/に対して女性研究者/研究/結婚を捨てて欧州に行く。このどちらも相手の男性(女性)を振り捨てて欧州に行くという話は互いに呼応しあっている。つまり、ここでは研究/戦争というひとつのペアができている。ほとんど研究室の中の人間関係についてのみが語られるこの芝居のなかで男女間の関係が語られるエピソードがこの二つだけだと考えれば作者の意図は明らかであろう。研究は戦争の隠喩なのだ。

 そして、もう一つ。脳医学者が戦争に参加した理由は妹が戦死したからだと語られる。そして、やはり、肉親について触れられるエピソードがもう一つだけある。それは自分の息子が自閉症だったために自閉症の原因究明に執念を燃やす女性研究者(山村祟子)の存在である。そしてこの芝居のなかでの最大の山場でもあるのだが、彼女がノックアウトボノボ(人為的に障害を持たせたボノボ)を研究につかおうとするためにそれと感情的に敵対する女性サル学者(安部聡子)のことが語られる。これは単純に考えれば、サルを異常に愛するゆえに感情的になっているサル研究者のわがままにも見えるのだが、それだったらサルのクローンではなくて人のクローンを使えとの捨てぜりふは幾分の真実もあって、法律的な問題を別にすれば、人のクローンを実験に使うことの可否について、使えないのはそれを人とみるかどうかという歯止めだけなのであり暗黙の前提としてはサルでは分からないのでボノボを使いたいという研究者の意思のなかには、「本当は人間で研究したいけどそれはできないので」という前提が隠されている。つまり、ここでも研究は戦争のメタファーとして使われる。

 こうした行動はみなそれぞれが自分の自由意志によって積極的に選び取ったものではあるがその選択にいたるには社会や人間関係を含め、被拘束的な情況があり、それを切り離していい悪いを言っても仕方のないものである。そして、この作品ではそうした立場から比較的自由な学部生が、大学院生、研究者と進むにつれて、自分の立場というどうにも抜けられない被拘束的情況へと巻き込まれていることもしっかりと描かれている。まさに研究室の人間関係という一見コップのなかの嵐的情況を描いて戦争のバルカン的情況を示唆したこの芝居が「バルカン動物園」という題名なのはぴったりだと思うのである。

 芝居の中で具体的に提示されているある事柄が別の事象を想起させるような構造を持っていること。平田の作品の多くはこうした2重の構造を持っており「関係性の演劇」の中で平田自身の特徴はなにかといえばそれはこの「メタファー構造」であという風に考えています。この「バルカン動物園」でいえば表題の通りに「研究室のなかでのささいな争い」⇔「バルカン半島の政治的対立関係」の対応関係を提示することで、なぜこの世界から戦争が簡単にはなくならないのかについての平田なりの分析が提示されているわけです。



 大阪大学石黒浩研究室(ロボット学研究)と劇作家・演出家の平田オリザの共同プロジェクトがアンドロイド演劇「さようなら」である。昨年夏のあいちトレンナーレで初演され、その後、各地を巡演しているが、私は昨年11月にフェスティバルトーキョー10で初見、今回のKYOTO EXPERIMENTでの上演は2回目(フェスティバルトーキョーでは2度見たのでステージ数としては3回目)の観劇となった。

 アンドロイド演劇と銘打っている通りに「さようなら」は石黒教授が開発した人間そっくりのアンドロイド、ジェミノイドFが出演し、これが人間の俳優を共演する2人芝居である。

 上演時間は15分程度と短い。それもあって、これを単なる演劇作品という風に考えると物足りない。見終わった後の感想は最初のアンドロイドが照明のに浮かび上がって見えた時には「これがそうか」と少しの驚きはあったものの、芝居自体はあっけなくて「もうこれで終わってしまうの」という感じであった。

 ただ、この公演では2回あった上演のいずれもアフタートークがついていて、ここで作り手側のアンドロイドについての話が聞ける。これはどうやら最近の上演ではトークと上演を組み合わせる方式がかならず組になっている。実はこれが決定的に重要なのだ。短いため、単独で演劇公演としてお金をとって見せるのは難しい事情もあるだろう。実はフェスティバルトーキョーでは公演をはしごせねばならずにトークの部分を聞くことができずに今回初めてトーク(私が見た回は石黒浩氏が登場した)まで合わせて聞いた。その結果、分かってきたのはアンドロイド演劇というのは単に「アンドロイドが登場する演劇」という見世物的なものというのではなく、一種の思考実験。アンドロイドと人間の俳優が同じ舞台に乗って共演することで、私たちが通常無意識である他者に対する認識のあり方について考えさせるものだということだ。さらにこれは平田が考える演劇という仕掛けの見事なプレゼンテーションにもなっていた。

 もう少し具体的に説明しよう。詩を読むアンドロイドと死に至る病に侵された少女の物語。「死すべきもの=人間とそうでないもの=アンドロイドの交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる」。といえば通りはいいが、物語自体は正直言ってステレオタイプだ。SFにはありがちな設定でしかない。石黒の製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。ちょうど、ロボット演劇「働く私」がそうであったようにアンドロイドはアンドロイドを、人間は人間を演じる。

 どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイドは人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分のデータベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するいう機能が付与されている。

 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないんだろうということが了解されてくる。 

 例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ロボット演劇「働く人」においては「ロボットはよりロボットらしく」という演出をしてみせたが、それはここでも同じなのだ。

 ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。 

 平田オリザの演劇を私が以前に「関係性の演劇」と名付けたのは平田の演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間がリアルに存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためで、実際には不可視である登場人物の内面のためではない。

 逆に内面などは見えないのだからあってもなくてもいいのだ。これをもって挑発的な表現として俳優をロボットや駒のようなものと例えたのが平田の演劇論だが、このアンドロイド演劇ではもちろんアンドロイドは一種の操り人形のようなもので、内面などないことは明確だから平田が以前語っていたことの証拠としては十分であろう。つまり、私たちはいわば幻というか幽霊のようなものといっていいが、関係性の中に実際には目に見えない意識や内面を見て取るのだ。

 ところでよく考えてみるとこれは実はアンドロイドだけに該当するわけではない。この舞台に登場している俳優にも該当する。俳優についても演じている俳優は役柄の少女の内面が実際にあるわけではなく、脚本と平田の演出というプログラムに従って動いており、そこに差はない。もっとも、アフタートークで説明されたようにこのロボットは実際には舞台の裏側の俳優が遠隔操作しているので、いわばその俳優の「アバター」のようなものと考えることもでき、ますますその間には差がない。

 平田が現在すぐには無理だが、いずれは俳優をアンドロイドに置き換えることも可能だとしているのはそのためだ。