下北沢通信

中西理の下北沢通信

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2000年5月下北沢通信日記風雑記帳

2000年5月下北沢通信日記風雑記帳

5月30日 ウィリアム・ギブスン「あいどる」を読了。代表作「ニューロマンサー」を以前に読んだことはあるのだが、どうも読みにくいという印象のみ強くて、苦手の部類の作家であった。もっとも、当時の私にとって仮想空間やヴァーチャルな世界というのがとっつきにくくて、それが障壁になっていたようなところがあるのに対し、それ以降、ネットの世界になじんだことなどで、「あいどる」で描かれる世界は近未来の世界ではあるけれど、現在のネット社会のある意味での到達点として比較的受け入れやすい世界だということがあるだろう。さらにいえばネット上でのロック歌手のファンクラブの存在やホログラムソフトウエアである仮想アイドルの存在などは少しデフォルメが加えられてはいるが今の日本のサブカルチャーにおいて半ば現実化されていることでもあり、その意味でも実在感があるからである。

 5月29日 高橋留美子のコミックス「犬夜叉」1巻〜15巻を一気に読んだ。新感線の「犬夜叉」を連休に見て、私はけっこう面白いと思ったのだが、賛否両論の評価だったので、どうしてなんだろうと思っていたのだが、これまで「犬夜叉」の原作を読んでなかったので、今ひとつ自分の見方に自信が持てないところがあった。ところで、原作を読んで思ったのは「犬夜叉」は原作ものとしてはけっこういい出来栄えだったんじゃないか。あの芝居は少なくともキャストの選定も含めて、原作「犬夜叉」の世界を壊すことなくうまく舞台化していた。原作を読んでみてあらためてそう思ったのである。「犬夜叉」はどうしてかこれまで読まずにきていたのだが、もともと高橋留美子の漫画は好きで、特に「めぞん一刻」は恥ずかしながら、わが青春の一冊。先日、ミステリ研のOB会で大学時代の友人の家に泊まったときに夜中懐かしくもアニメ版の「めぞん一刻」をテレビでやっていて他の人が全員寝てしまっていて眠られずにいたこともありついつい気が付くと知っている話なのに力を入れて見てしまった。

 もっとも、私の場合、高橋留美子の熱狂的なフリークというわけでもなく、「犬夜叉」には「めぞん一刻」ほどの思い入れもない(というより、芝居を見た時点ではそもそも読んでなかった)。さらに主演の佐藤あつひろのファンでもないし、新感線の舞台は好きではあるけれど、大ファンであるというほどの思い入れがあるわけではない。だから、そうである人の考えはよく分からないというのが正直なところながら、主要登場人物のかごめ、犬夜叉弥勒、のみの冥加じじいのレギュラー陣のはまり具合は相当いい線いっている。佐藤が声をからしていたのは多少、気にならないでもないが、新感線の場合、大音響のBGMに載せての台詞もあり、マイクで声をひろわないで生声でというのは無理だと思う。結局、不満というのは新感線が宝塚や歌舞伎と同様にスターシステムを取る劇団であり、古田新太橋本じゅん粟根まこと、高田聖子といった看板スターの欠けた公演を新感線と呼びたくない。この一点にあるのではないかと思うのである。

 今回の公演にこうした看板連が出演してないのはスケジュールの問題も多少はあったかもしれないが、原作のキャラクター重視のキャスティングというのが最初にあったのではないかと思う。原作のどのエピソードを中心に物語を構成するかにもよるが、「四魂の珠」を巡っての奈落/桔梗/犬夜叉/かごめの織りなす因縁に焦点を絞り込んだ今回の台本であれば上記の4人に役を振ろうにも振りようがないではないか。原作を読む前は粟根まことでも出来るのではないかと考えたのだが、弥勒の軽佻浮薄な性格と運命に立ち向かう強さが渾然一体となったキャラクターは京のめったにない当たり役というべきで粟根まことがやっていたら、成立する役柄を工夫したとは思うがここまで原作に近いキャラにはならなかったんじゃないかと思う。

 

 5月28日 東京バレエ団「オール・キリアン・プロ」、むっちりみえっぱり「インディアナポリス」を観劇。むっちりみえっぱり「インディアナポリス」は期待通りに面白かった。演技とか台本とか個々の要素を取り上げればそれこそ隙だらけというか「それってなんか間違ってないか」とツッコミたくなるところは山ほどあるのに実際に芝居を見てみるとそんなことはどうでもよくなってしまうのである。簡単にいうとその間違い方の方向性がざん新というかユニークで新鮮なのである。「私たちはユニークなことをやっています」という感じで芝居を作ろうとしている若手劇団はあるけど、そういう表現というのは作演出がよほどセンスがよくないと奇を衒ったつもりがかえってどこかで見たことがあるぞという感じで陳腐になってしまっていたり、どこかひとりよがりの表現になってしまっていたりするものだが、むっちりみえっぱりの芝居にはそういう大上段に振りかぶったようなところが全然ない。

 銭湯を会場にしたのもなにか深い理由があったのかと思って聞いてみると劇場は早めにスケジュールが埋まってしまうので、空いているフリースペースをタウンページで探したといっていたが、そうだとしても普通、銭湯の宴会場というのがたとえ、フリースペースとして分類されて載っていたとしても芝居を上演する場所という発想で電話して聞いてみるだろうか。ただ、芝居にしてもその周辺のことであっても本人たちはけっして奇を衒っているつもりは全然なくて、だから肩から力は抜けていてすごく自然体なのだ。

 この芝居でも聞いてみると最初の発想としては「山奥の話がやりたかった」「6人姉妹を出して家族の関係を描きたかった」「金持ちを出したかった」「途中でSF的な要素も入れたかった」……などと言うのだけど、それは確かに一応そういう設定は芝居に取り入れられているんだけど、それがどこでどう間違ったらこういうものになるんだろうか(笑い)。間違うというと言葉が悪いのだけど、彼女たちの発想にはどこか私のような長年生きてきて、悪しき世間の常識に縛られてしまっているものには伺いしれない創造的な論理の飛躍があって、ある種の共同創作というシステムとうまく合致してそれが私に取っては凄く面白く思える「破たんの仕方」をバランスよく形成している。それが危うさも含めて、むっちりみえっぱりの芝居を私にとって凄く刺激的な表現にしている。

 5月27日 桃園会「どこかの通りを突っ走って」、ロマンチカ「FLOALING BAR 『LOVE PORTION』」を観劇。時々自動を見るのはさすがに時間的に無理であった。「どこかの通りを突っ走って」は「うちやまつり」のようにとりつくしまもないというわけではないが、桃園会というか深津篤史の作品は本質的に難解さを含んでいる。それは以前、「黒子な私」のレビューに書いたのだが、複数の記述レベルの叙述(というか芝居なので場面)がテキスト内に混在しているいわゆる入れ子構造を取っていながら、その記述に小説でいうところの「地の文」が存在していないからじゃないか。「どこかの〜」を見てそんなことを考えた。まあ、こう書いただけでは具体像をイメージできないと思うのでこのことについては戯曲に当たってみたうえでもう一度詳しく書きたいと思う。  

 5月26日 今後の観劇のスケジュールが少し決まってきたので、ここに書いておく。あくまで予定ではあるが、27日の土曜日は桃園会「どこかの通りを突っ走って」(3時〜)を見た後、時間的に厳しいけど間に合えば時々自動(5時〜)、夜はロマンチカのひさびさの公演「FLOALING BAR 『LOVE PORTION』」(8時50分〜)を六本木のどこかで見ることに(いまだに公演場所が把握できていない。大丈夫か)。やることが分かったのが遅れたのでお薦め芝居では漏れてしまったけど、ロマンチカがひさびさに復活するというだけでも、この舞台は★★★★と今ごろ言っても遅いといわれそうだが。28日は東京バレエ団による「オール・キリアン・プロ」(3時〜)を見た後、待望にむっちりみえっぱり「インディアナポリス」(7時半〜)。こちらの方もどこかの浴場の宴会場だということだけ分かっていて、いまだにはっきりした場所を把握できていない。6月の予定も少し分かってきて、来週は3日が出社だが仕事が早めに終わればMONO「錦鯉」、4日がトム・プロジェクト「四谷怪談」(3時〜)、猫ニャー「夜の墓場で運動」。10日、11日はまだ完全にはスケジュールが固まってないけれどトリのマーク「木陰で話をするときは」、故林広志プロデュース「薄着知らずの女」★★★★、青年団「ソウル市民1919」をどう案配したらいいのか。17日にはひさしぶりに大阪に行って上海太郎舞踏公司パラドックス」★★★★を見なくていけない。というのは、大人計画のミュージカル「キレイ」が頑張ったけど18日2時の回のチケットしかとれなかったので、ばりばりに重なってしまって、静岡のク・ナウカ「王女メディア」も山の手事情社「印象 夏の夜の夢」も苦しい。

 5月25日 西澤保彦「彼女の死んだ夜」を文庫で購入、再読する。原作もいいのだけどあらためて、LEDによる演劇版について冒頭の死体発見の場面からカットバックして飲み会のシーンに移るところとか、その後、すぐにタックとボアン先輩の下宿の場面への移動とか脚本の流れがスピード感があってスムーズで、うまく書かれているというのが再確認できた。本当はなんとかして台本かビデオを手に入れて詳細に分析したいところなのだが、それも難しいので、記憶に頼って書いていて勘違いもあるかもしれないのだが、ビジュアルで登場する関係者のリアクションを見られるという点で、この作品は芝居の方が分かりやすいのではないかと思う。もっとも、これは以前にも書いたのだが、実際の登場人物の表情を演技によって見せなければいけないのだが、この芝居(作品)においては登場人物の行動ないし、細かなリアクションが、あの時にはそういうことでこういう表情と思ったのだけれど、後から考えるとそれが 2重の意味(ダブルミーニング)を持っていたというような場面が随所に見られるということがあり、演出・演技面でのハードルが前作と比べてもかなり高かったのではないかというのがあるので、その意味でも感心させられることが多かった。具体的にこの場面というのはいいたいけどネタバレ(小説としても)になるので、時間があれば文庫版の解説で法月綸太郎が書いていることも含めて考えたことを日記コーナー以外のところに書きたいと思っている。それにしてもある意味で困ったことだと思うのはこの小説を最初に読んだ時はそうじゃなかったはずなのに今となっては原作を読んでも芝居で演じた役者以外の顔が浮んでこないことである(笑い)。2作で俳優が入れ替わったタカチはまだしも特にタック、ボアン先輩、ウサコの3人については今後、新作を読んでもおそらく刷り込みになってLEDでのキャストが浮んできてしまう。ウサコはファンなのでそれでも構わないのだけれど(笑い)直塚和紀、橋本健の顔がどうしても浮んできてしまうことを考えると、それがなんとなく困ったことだと思うのである。だって、タックはまだしもボアン先輩、そうじゃない描写もあるとは思うのだけど芝居を見てから読んでみると小説の方が当て書きに見えてくるんだから、これはちょっと凄いことかもしれない(笑い)。

 

 5月24日 結局サッカー、欧州チャンピオンズリーグ決勝、レアル・マドリッドバレンシアの試合を明け方まで見てしまいホームページの方は全然更新できず。以前にも書いたようにサッカー観戦も私の中で芝居を見ることや本を見ることと同様、あるいはサッカー関連の記事を読むだけのために毎日、スポーツ新聞を買っていることを考えればそれ以上の関心を占めていることなのだが、本と同様にこのページではごくまれにしか触れることはしていない。

 5月23日 一応、このページは演劇(ならびにダンス)中心ということに自分の中ではしているので、芝居・ダンスについては全ての感想を書くのは無理でも見たものをこういうものを見たということはできるだけ全部書くことにしているのだけど、本についてはそうでもない。たまに ○○を読んだとか書いていることがあるけれど、あれは単にそれを読んだというだけでなくて、それにからんでなにかを書こうと思ってそうしてることが多いので、そうはいってもあまりこのページで書かなきゃならない芝居の感想などがたまっているのにそれを打ち捨てて、それ以外のことを書くわけにもいかないのである。もっとも、演劇のことについてなにか書こうとすればそれなりに考えをまとめて書くのにはやはり時間がかかるので、更新の頻度自体は落ちてしまうということがあり、そのあたりが悩みの種ではあるのだけど。

 弘前劇場の「三日月堂書店」のセットに使われていた本は6000冊ぐらいあったらしいけど全て作演出の長谷川孝治の個人的蔵書ということで、芝居の合間にしげしげと眺めてみたりした時に長谷川の読書傾向が伺われて興味深かった。もちろん、あれが蔵書の全てでなないとは思うのだが、実はあれを見ていて思ったのは実際の古書店では棚のうちかなりを占めているはずの漫画がないのはまだしも、ミステリ関係の蔵書がほとんどなかったのにも興味を引かれた。

 というのは本についてはまったくの雑食なのは私も同じながら、私の蔵書をああいう風になれべたら、漫画はさておきミステリ、SF関係の書物がかなりの部分を占めそうだからだ。ちなみにこの2、3週間で読んだ本をアトランダムに並べてみると小林秀雄「作家の顔」「本居宣長」(上)、トマス・ハリスハンニバル」(上)、佐々木涼子「世界のバレエを見てまわる」、別枝篤彦「世界の教科書は日本をどう教えているか」、若竹七海「火天風神」、小柳公代パスカルの隠し絵」、岡田嗣郎「孤高の棋士 坂田三吉伝」、グレゴリー・ベンフォード「ファウンデーションの危機」、北川歩実「猿の証言」、殊能将之「美濃牛」、あとこの他、アシモフのロボット物をシルバーヴァーグが長編にしたのとか森博嗣西澤保彦の新作も読んだはずだが、いま手元に本がないため正確な書名が分からない。

 5月22日 夏目漱石吾輩は猫である」をひさびさに再読してみた。もちろん、きっかけは小林秀雄同様に弘前劇場「三日月堂書店」に触発されたのであるが、音楽座の「アイ・ラブ・坊っちゃん」がきっかけで「坊っちゃん」を再読したり、青年団「S高原から」を見て、トーマス・マンの「魔の山」を読み返したり、きっかけがないとなかなか読み返すことのないような書物に再会できるのも私にとっての芝居の楽しみなのである。さて、5月12日の日記では小林秀雄の「モオツァルト」などを持ちだして、「三日月堂書店」を語るというような幾分強引な遊びをやってみたのであるが、芝居を見た時にはうかつにも気が付かなかったのだけれども、今回「吾輩は猫である」を読み返して思い当たったことがある。それは「三日月堂書店」という芝居が夏目漱石の「吾輩は猫である」を下敷きにしているのではないかという仮説である。

 「猫」は大体主人公苦沙弥の書斎を中心とし、その友人である自称美学者の迷亭、哲人独仙、苦沙弥の生徒であった物理学者の寒月、それから苦沙弥の書生をしていた三平などを主要人物とし、その一群に対立する俗世的人物として金持の金田、その細君の鼻子、その娘の富子を配し、富子と寒月の間に淡い恋愛が進行する間に、近所の車屋、魚屋、中学校の生徒たち、泥棒などがからまって話を進行させる。しかし読者はやがて気がつくであろうが、この作品の第1回が独立した作品であったためもあって、小説としての筋ははかばかしく進行せず、常に脇道に入って滑稽な話題や小事件のみが並んでいて、普通の意味での長編小説を為していない。(中略)「猫」の面白さは寒月と富子の恋という事件ではなく、それを取り巻いている雑談、珍談、色々な小事件、風呂場の描写、親戚の娘の洋傘の話、金田の細君と迷亭の言い合い、中学生の悪戯、寒月の演説などによるのである。

 以上、長々と引用したのは「吾輩は猫である」について、小説家、伊藤整が書いた解説からの文章だが、要するに「猫」の魅力はその細部にあるということであろう。しかも、次々と物語中に出てくる談話には当代一流の英文学者であった夏目金之助の和漢籍、西洋文学への教養が存分に発揮されたものであって、だからこそ、「三日月堂書店」の畑澤聖悟演じる社会学者が言うように「これを高校生に読ませるのは罪である」ということになるわけである。

 もっとも、漱石自身をモデルにしていると思われる中学教師、苦沙弥の生活を猫の一人称描写という仕掛けを使ってデフォルメして描いた「猫」の手法をそのまま演劇の世界に持ってくるのは無理なので、演劇でそれを行おうとする限りは舞台上で観客のよって見られる対象として、提示されるしかないのではあるが、長谷川のいつもの手管といえなくもないやりかたながら、今回の芝居の登場人物は終盤の福士賢治の登場により物語がシリアスな様相を呈するまではいつも以上に知的な軽業とでも呼びたくなるような会話を繰り返す。

 漱石の探偵嫌いはどうやら有名だったらしく、「猫」の中でも苦沙弥の口を借りて、「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有物を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。(中略)だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族で到底人の風上に置けるものではない」などと糾弾しているのだが、この「三日月堂書店」という芝居で冒頭にいきなり自称探偵などというのが登場するのはどうしてなのかについて少し理解に苦しむところがあったのだが、「猫」を間に置くとなんとなくその理由が伺われるような気がしてくる。

 姿を消した猫のエピソードも古書店の主人の妻が蒸発するということへの暗示としての役割を果たしてはいるのだけれども、「猫」を意識して登場されたと考えることもできるし、この芝居の核となるエピソードのうちのひとつは「縁談」がからんでのものでもある。

 実はこの芝居を見てどうにも気にかかって仕方がなかったのが、畑澤聖悟が演じる男のプレゼンスが異様に高いことで、特に社会学教室のゼミナールの打合せの部分が目立ちすぎていて、そのシーンは面白くはあったのだが、最後に明らかになる2組の関係がこの芝居のテーマそのものだとだけ考えると芝居全体の構成としてはそれとは直接の関係はない、ゼミの部分がここまで芝居の中で比重が高くなっているのがどうも解せなかったところがあった。ところが、この芝居がもともと「猫」を意識して構想されたと考えると、この人物というのはいわば「猫」における迷亭、寒月などの役割を一手に引き受けたような人物であり、芝居のバランスをかくことになるともそれなりの比重は必要なのである。

 漱石は東大で英文学の教師を続けながら、1905年40歳で「吾輩は猫である」を執筆、小説家としてのデビューを飾った。翌年には「坊っちゃん」「草枕」を発表、1907年には東大を辞し創作に専念、1916年に亡くなるまでわずか実働10年という短期間の間に「三四郎」「それから」「行人」「こころ」「門」といった傑作群をものしていった。漱石と同じく教員という立場に身を置きながら、演劇創作を続けてきた長谷川が40代半ばという年齢において漱石を意識しはじめたのはひょっとしたらどこかで自分の姿を漱石になぞらえているのかもしれない。10年間という短期間の創作期間でありながら、テーマの深化はもちろん、言文一致体という日本文学史上に残る壮大な実験の歴史をもの凄いスピードで駆け抜けたのが漱石漱石たる所以だと考えている。演劇の世界において、新たな言文一致体の獲得を目指したともいえる現代口語演劇を標榜してきた長谷川が100年の時を経て漱石と対峙したことにはどこか宿命のようなものを感じないでもないのである。    

 5月21日 タ・マニネ「悪戯(いたずら)」(2時〜)、げんこつ団「バカ 1990〜1999」(7時〜)を観劇。

 5月20日 清水きよし「幻の蝶」第100回公演を観劇。

 5月19日 エラリー・クイーン「シャム双子の謎」を再読。

 5月18日 劇団第三反抗期「妖精の探し方」について。この劇団の制作担当の人から個人的にメールで招待状をもらい、たまたまこの週は珍しく他に絶対見なければならない芝居もなかったし、最近、新しい劇団の公演を見る機会が減っていたので、この機会にと行ってきたのだが、正直言ってこの芝居にはちょっと困ってしまった。子どもたちが集まって近所の森に妖精を探しに行くという話とその森に住んでいるという妖精の世界。それから、この時の子どものひとりがその後、大人になって結婚し、娘の結婚式の直前に離婚届けを妻から突き付けられる。この3つのエピソードがある時はコミカルにあるときはシリアスに演じられていくのだが、全体としてよく出来た児童劇を見せられているという印象を拭いきれなかったからである。ここでよく出来たと書いたのは単純にハートウオーミングなハッピーエンドにはしていなかったことで、現実の逃避か、自分探しの旅にでたのか、昔自分が少年時代に親しんでいた森にいつの間にかやってきていた男を追いかけて妻がやってきて、そこで男は妻に昔、自分がここで妖精を見たかもしれなかったことを語りはじめ、それに対して、妻はそういう話をもっと前に聞きたかったと話し、そこでやりなおせないかと嘆願する男に対して、それは無理だと突き放す。この苦みを含んだラストが若干、物語全体の甘さを救っている嫌いはあったのである。

 ただ、全体として見ると妖精と人間が同じ世界に住んでいて、妖精の住む異世界と人間の住む世界にはほとんど差異がないという物語の前提がいくらファンタジーとはいえ、ちょっと受け入れ難いところがある。もちろん、演劇において日常だけではなく、幻想の世界が描かれること自体を否定するものではないのだが、少なくとも現代演劇として上演するのであれば幻想/現実の2重性においてなんらかのそれを受け入れる枠組みを作らない限り、私のような縁なき衆生にはこうした物語の大前提をちょっと受け入れ難いのだ。これがバレエのように様式化された世界(これも抵抗感はないことはないのだが)とか、シェイクスピアの「夏の夜の夢」の世界であれば受け入れられるのに現代演劇ではなぜだめなのかと聞かれてもそれは現代演劇表現に対して私が期待しているものと違うからとしかこたえようがない。この芝居を見て単純に楽しめた人がいたとしてもそのこと自体は否定する気はないし、個々の演技や演出なども演技スタイルについての大前提を疑うということがなければきちんと丁寧に作られていてレベルも低くないので、そういう人が少なからずいることはけっして不思議でないレベルにある劇団とは思うが残念ながら、今回の芝居については芝居が提示した世界観において、私の琴線に触れてくるものがあまりなかった。

 もっとも、今回の舞台は当日パンフによれば作/やまだちろる、脚色・演出/武末志朗とあり、看板女優であるやまだが脚本を担当しているという点でいつもと作風が違う可能性はあり武末作演出の作品を見てみないとこの劇団の本当の色は分からないというところがあるそうなのだが。

 5月17日 LED「彼女が死んだ夜」について遅ればせながら感想を書くことにする。前作「麦酒の家の冒険」同様にミステリ作家、西澤保彦原作の匠千暁(タック)シリーズの謎解きミステリを舞台化したものである。が、その趣はかなり異なる。前作がもともとアームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵物)を意識して書かれ、それゆえに舞台のほぼ全編は起こったかもしれない事件に対する部外者の会話に終始するためほとんど場面転換のないワンシチュエーションに近い会話劇として構成することができたのに対して、「彼女が死んだ夜」のプロットはそうではないからである。

 前作「麦酒の家の冒険」について数ある日本のミステリの中から非常に日常的な会話で展開していく作品を原作として持ってきたのがうまくいった最大の原因。成功の鍵は作品の選定を誤らなかったことにあるといえると書いたのだが、「彼女が死んだ夜」では異なる演劇的アプローチを試みられることになった。「彼女が死んだ夜」では事件関係者がいずれも主人公の身近な人間であるということもあって、群像型探偵ともいえるタック、ボアン先輩、ウサコ、タカチの前で事件は複数の場所、複数の時間にわたって展開していく。これは「麦酒の家の冒険」の舞台のようなワンシチュエーション劇に近い形式ではとうてい舞台化するのは不可能。そこで、今回は冒頭の居酒屋での飲み会の場面から、いきなり場面がタックの下宿に移るなど短いシーンを細かくつないでいく手法で構成されている。これは桃歌309の長谷基弘などが以前から続けていた手法で、こうした現代演劇の方法論を踏まえて作劇したことがおそらく新劇などの手法では難しいこの作品の複雑なシチュエーションを若干の単純化をほどこしたとはいえ、ほぼそのまま舞台に上げることが出来た要因になっていたのではないかと思う。

 もっとも、それだけであれば前回の芝居について書いた文章(昨年8月の日記コーナー参照)で予想していたことではあるのだが、この芝居ではいくつかの演劇的趣向が原作のミステリの持つミステリ的な要素とうまく組みあわされることで、面白い効果を挙げていたのが興味深かった。(これ以降は若干ネタバレになるので失礼)

 「麦酒の家の冒険」では演劇的リアル(本当らしさ)がひとつのキーワードだったのではないかと思うのだが、今回の芝居では単なるリアリティーを志向しない演技・演出が目についた。それは一言でいえば虚実ないまぜの世界である。芝居というのはもともと俳優が演技によって観客の目に自然に振る舞うといった風に嘘をつく、いわゆる虚構の世界ではあるのだが、この芝居はミステリという構造を利用して、いわば論理階梯の異なるさまざまな虚構を入れ子状に作品に挿入していく。その典型が冒頭の居酒屋の場面でのけんか騒ぎである。ここでは登場人物のうち2人が自分たちの本当の関係をそこに同席している仲間に悟られないように演技して振る舞っている。もちろん、そのことはその場面では観客には伏せられていて、ある程度自然な振るまいとして感じられなければいけないのだが、シーン全体として見た時にはそういえばちょっと不自然なところもあったという印象も残るほどの微妙なさじ加減が必要になっていくところなのである。

 ここでは原作ミステリにおける演劇的な趣向と演劇におけるミステリ的趣向が巧妙にオーバーラップして、重層的な構造を生みだすミステリ劇ならではの楽しみであって、そうした部分はアガサ・クリスティーがミステリの趣向としても、ミステリ劇の技巧としても独壇場といってもいいほど得意としているところだが、この冒頭の「劇中劇」場面や1人2役など今回の「彼女が死んだ夜」にはクリスティーを思わせるような様々な仕掛けが多用されていて、その意味でもミステリ劇らしいミステリ劇として水準の高いものに仕上がっていたのではないかと思う。

 この芝居はほぼ原作の通りの作りになっていたのにもかかわらず印象が異なる部分があり、その意味で原作をずっと以前に読んだ時には気がつかなかったことにいろいろ気をつかされたというのも個人的にはこの芝居が面白いところであった。初読の際にはどうしても作品に描かれる事件全体の構造はいかなるものかという謎解きの興味に引っ張られて読んでいくため、この作品では物理現象としての死体の移動にばかり目がいってしまい、ヒッチコックの「ハリーの災難」とかあるいは「ボーダーライン事件」などのことが連想されて、そういう種類の話(ネタ)として記憶していながら、読んでからしばらく時間が経過してしまったこともあって、詳しい内容はほとんど忘れていたのであった。だから、原作を読んだ時の印象ではクリスティーのことは全然連想しなかったし、先に挙げた「虚構の重層性」などという概念は思い浮かびもしなかった。

 ところが一度、LEDの芝居で舞台を見てしまうと死体の移動ひとつを取ってみても、ひとりの犯人による巧緻な計画というわけでなく、それぞれがいろんな思惑で計画sたことが複雑にからみあって、結果として、様々な不可解な状況が引き起こされるという事件そのものにしても、メインとなるトリックの質にしてもクリスティーの名前を持ちだしても全然おかしくないし、それゆえにまさにミステリ劇の原作のために書かれたかのように見えてくるのが不思議なところである。そのことについては現在、家のどこかにはあるはずなのだが、原作本が行方不明なので、原作を読み直して確かめわけに行かぬのが残念ではあるのだが、近く文庫も出るようなのでそれを待って確かめてみないといけないとは思っている。

 5月16日 伝言板で今月のお薦め芝居が読めないとの指摘を受け確認してみるとリンクがうまく張れていないことが判明。とりあえず直して再アップする。

 5月15日 仕事だけの1日。

 5月14日 京大ミステリ研時代の同期、永弘宅にて宿泊の後、、新幹線で東京に舞い戻り、以前、メールで招待状をもらっていた劇団第三反抗期「妖精の探し方」を観劇。

 5月13日毎年、連休近くに京都で行なわれるため顔を出していなかった京大ミステリ研のOB会にひさびさに出席した。長い間会っていなかった人も多かったのだけど、顔を会わせると昔のように話ができるのが大学時代の知りあいのいいところであろう。ここにはさすがに書くわけにはいかないが、創元推理評論賞にまつわる裏話も聞けたし、親しくしていた先輩が東京に転勤していることが判明するなどけっこう有意義な会であった。OB会会報にこのページのことを紹介してもらったので、少しは覗いてみる人がいることを想定してミステリねたを増やそうかとも思うが、とりあえず今は時間がなくて書けない。本のことは無理でもせめて、 LED「彼女が死んだ夜」の感想だけは早めに書かなくてはと一応、気にはなっているのだけれど。 

 5月12日 弘前劇場長谷川孝治さんに観劇オフ会の席で「いやしくも評論のようなものを志すなら中西さんは小林秀雄を読むべきだ」といわれたので読んでみた。まず読んだのは以前に読んだことのある「モオツァルト・無常という事」で、続けてまだ未読だった「本居宣長」を読み始めたが、こちらはまだ上巻の途中である。「モオツァルト」を読んで思いだしたのはいままでほとんどその存在を思いだすことさえなかったのだが、大学時代のある時期の私にとって小林秀雄はもっとも憧れた知的アイドルだったことである。小林の文章一流の魔力というのは、「モオツァルト」でいえば小林が例えば「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と語る時、その枠組みの外でモーツアルトの音楽を聴くことがもはや難しくなるような一種の引力にある。「ドストエフスキーの生活」も私にとってはそのような作品であって、ある時期まではこれの影響から離れてドストエフスキーを読むことは難しかった。それで恥ずかしくも若いころに小林秀雄を真似したような稚拙な文章を書き連ねていたことも同時に思いだしたりして思わずいたたまれなくなったりした。

 小林の「モオツァルト」における批評スタイルを今の目で再確認してみるとそこに見られるのは博覧強記、豊かな教養に裏打ちされた引用につぐ、引用。しかも、その引用は多くの場合、エピソード(物語)の形で挿入される。「モーツァルト」はもちろんウォルフガング・アマデウスモーツァルトについて書かれた評論文であるはずだが、小林はモーツアルトにはけっして一直線には切り込んでいかない。例えば冒頭。私たちはモーツァルトについての文章を一応、読まされることにはなるのだが、それはエッケルマンの「ゲエテとの対話」からの引用であって、それゆえ私たちが出会うのは小林のモーツアルトについての知見では決してなく、エッケルマンがゲーテから聞いたゲーテモーツアルトに対する一風変わった見方であって、それゆえ私たちから見ると小林(→引用)エッケルマン(→引用)ゲーテ(→見解)モーツアルトと3重の入れ子構造を経て出会うモーツアルトの姿なのである。

しかも、その後も小林の文章はモーツアルトにまるで近づかないことを決意したかのように迂回に迂回を重ねる。トルストイがベートーベンの「クロイツェル・ソナタ」を聞いた衝撃から同名の作品を書いたというエピソードに続いて、晩年のゲーテがベートーベンのハ短調シンフォニーの第一楽章をメンデルスゾーンのピアノ演奏に異常な興奮を経験したという話からそれをニイチェとワグナーの関係に比較してみせたして(ここまでで有名人がいったい何人でてきたことだろうか)まさにあらゆるジャンルの天才たちのエピソードのオンパレードである。

 モーツァルトはもちろんまったくかかわりを持たないというのではなく、それぞれのエピソードにおいて基調低音のように微かな音色を響かせ続けてはいるのだが、ここではそれは表面にはでない。小林の文章はモーツァルトを不在の中心であるかのごとくにその周囲で華麗にステップを踏んでみせる。

 こうして、モーツアルトを避けて通るのかと思ったその時、今度は「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の日の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフィニイの有名なテーマが頭の中で鳴ったのである」と自分の若き日のモーツアルト体験のことを憑かれたように告白調で語りはじめる。ここにおける突然の変調はこの「モオツァルト」という作品の中では一種の異物として私なんかの目にはあまりのノンシャランな自己表出ぶるに居心地の悪さを感じざるをえないのだが、全体を通してみた時、華麗なる引用の輪舞ではなく、この後の「ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものだろうと僕は思った」から冒頭に挙げた「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する」に至るある意味で理屈も超えた主観性にこそ小林の批評の本質があるのではないかと考えさせられたからである。

 いささか長々と柄にもなく小林秀雄論めいたことを書くことになってしまったが、実はこれは長谷川孝治論でもある。新作「三日月堂書店」で長谷川孝治は俳優の身体・演技を媒介にして「モオツアルト」における小林秀雄の体験告白のようにこれまで周辺での輪舞によって暗示しようとしていた「関係の不在〜死」について一歩踏み込んでみせたのではないか。小林秀雄を読みながらそんなことを考えたからだ。

 「三日月堂書店」も「モオツアルト」同様その主題に向かってけっして一直線には進みはしない。モーツァルトを語るにあたって小林がベートーベンを登場させたようにこの芝居では冒頭に探偵(第1主題)が登場する。ここでは探偵はある種の道化的な役割も果たすのだが、探偵とは隠された関係を探りだす存在であり、インターネットのメールを通じて暴かれることで引き裂かれた恋人たちを再び遭遇させることに関与することになるなど本人の意図とは関係なく「関係の構築」に携わるものとしても描かれていく。これは後ほどでてくるこの物語の本来の主題(第2主題)ではある「関係からの逃走」をめぐる2つのエピソードと調度裏返しの関係にある。

 そして、「関係の構築」は見方を変えると「関係の強要」でもあって、それはこの芝居の中段部に置かれている「社会学研究室のメンバー」による講座のシーンにおいて、「尾行」「ストーカー行為」「突然、ゴダールに会いに行くこと」「セクシャル・ハラスメント」……と話題を変えながら何度にもわたって繰り返し変奏される。一方、この部分は冗舌調での会話で展開され、軽口の応酬はこれまでの弘前劇場にも見られたものだが、怪優、畑澤聖悟の獅子奮迅の活躍ぶりともあいまって、話題も万葉集から「夏目漱石は高校生には読ませるな論」、変な小説家木島捷平……とまさに縦横無尽といったところである。

 音楽でいえばデベロッティメントかポルカという楽しい曲調といったところだが、これが軽犯罪を繰り返して(前科23犯)刑務所とシャバとを行ったり来たりしている男、大石利夫(福士賢治)の登場(第2主題)により、一気に転調する。実はこの芝居における第2主題はあたかもフーガ形式のように相互に関連した2組の関係から構成されていて、一方が後藤伸也が演じる三日月堂書店の主人、一戸進とその内縁の妻、工藤さなえ(佐藤てるみ)、もう一方が大石とその娘、めぐみ(藤本一喜)である。

 それは最初から明示されているわけでなく、「関係性の演劇」と私がこれまで呼んできた長谷川の劇作の形式(隠された関係がしだいに立ち現れてくる)によって芝居の進行にしたがって表面化してくる。一戸の妻には失踪癖があって、これまでもたびたび蒸発したことがある。さなえの失踪のことは「その時、いなかったから」というような言葉の端々とか、さなえがいなくならないための一戸が願をかけて置いている置物の存在などから暗示されるのだが、2人の会話でははれ物にさわるかのよう触れられることはない。だが、長谷川はその時期が遠くはないことを失踪した猫を巡る会話や置物がさなえの手のよって隠されたり、それが一戸の手によって元置かれていた場所に戻されたりすることなどで、不穏な雰囲気を匂わせていく。

 一方、大石はひさしぶりに出所してこの三日月堂書店にやってきているのだが、凶悪な犯罪者というわけでなく、社会と折りあいのつかないわゆる社会不適応者である。教師である娘、さなえは同僚の中本透と結婚することが決まっていて、中本の父と中本本人に結婚式への出席を求められるのだが、なんらかの関係を持つがゆえに相手を傷つけてしまうこと(その結果自分も傷つく)ことに恐怖する大石にはその勇気はない。

 長谷川孝治の作品ではこれまでも「関係の不在」がその作品の不在の中心として作品の中で重要な役割を占めてきた。それは「FRAGMENT1 F・+2」「家には高い木があった」「あの川に遠い窓」「約束」のように芝居には登場しない人物(多くの場合死者)が不在ないし、失われた関係として物語の中心に中空として存在することが多かった。「打合せ」ではその不在の中心にいるべき死者が異例にも回想シーンないし、幽霊(?)として登場したが、これは女優、森内美由紀にあてたオマージュ的な色彩が強く、今回の芝居についていえば福士賢治はまだしも藤本一喜が演じた大石の娘などは婚約者と父親にその役割を代行させて、出てこないというのがこれまでのいパターンだったのではないだろうか。

 それをあえて登場させて、その2人はこの芝居の中でついに会うことはないのだが、短い登場シーンと少ない台詞で表現することが難しい役柄をあえて、藤本に振り当てたというところ。そして、「関係からの逃走」という「完全なる関係の消滅」(=死)への一里塚に関係する登場人物4人を4人とも舞台に生身の形で登場させたことに長谷川の劇作家・演出家としての覚悟が読み取れるように気がしたのである。 



 5月11日 遅れたがお薦め芝居5月分を掲載。

 5月10日 風邪がやっと直ってきたのでとりあえず連休中に見た芝居の簡単な感想を書くことにする。

 いるかHotel「花火みたい」について。この芝居について欠点をあげつらうことはそれほど難しくはない。しかし、そうでありながら、この年齢ならではの「時分の花」を感じさせる若い役者たちの新鮮な魅力を含め、いろんな意味での可能性に溢れた芝居だった。芝居は4つのそれぞれ異なる物語を組みあわせたいわゆるオムニバス形式を取っているが、全く別の話というわけではなく、自殺の前に手当たりしだいの番号に携帯電話をかけ続けている女の存在によってゆるやかに結びあわされている。それぞれが完全に交わることはないが神戸の夜に上がる同じ花火を様々な思いで見つめるラストシーンに向かって同時進行していく。

 オムニバス物語には大抵は核となるストーリーと閑話休題的なスケッチとがあるものだが、「花火みたい」はでてくるいずれのストーリーにも起承転結があり、ほろりとするラストシーンまできっちりと丁寧に作られている。例えば、最初に出てくる学校を舞台とする話ではサッカー部の先輩に恋を打ち明けようととしている少女がコミカルに描かれるのと並行して、父親の再婚に素直になれないもうひとりの少女の揺れる気持ちが描かれる。それぞれの物語もワンアイデアのスケッチには終わってない。印象に残るシーンも多く谷省吾演じる河野先生とのやりとりの中で父親の再婚を認めたくない少女(竹原未来)の頑なな心が少しづつほだされていくところなど実にぐっとくる。このシーンで「○○に相談したのが馬鹿だった」という台詞が2度繰り返されるのだけど、その同じ台詞の微妙な調子の変化で少女の心境の変化を暗示していくところなど思わずうまいとうならされてしまった。

 4つの話の中でもっともまとまりがよく話としてもよくできているのは婚約者と一緒にが帰京した女性(園田知子)が出会う出来事が描かれたエピソードであろう。故郷での墓参りの帰りに女性とその婚約者は川原で浴衣姿の謎めいた女と出会って一緒に線香花火をすることになる。その川原は女性が少女時代に毎年夏になると訪れて伯母や従妹と一緒に線香花火をした思い出の場所でもあった。実家でもある伯母の家に帰って、女性は伯母からわずか3歳の時に死に別れた母親の形見の品であるといって浴衣を渡されるのだが、それはその日出会った女性が着ていたのと同じ柄の浴衣であった。さて、この芝居ではここからの展開がいかにも谷らしいのである。ここまではこの話は故郷にひさしぶりに戻った女性が結婚を前にした揺れる心でいるところに幼少の頃に死に別れた母親の幽霊と出会うというちょっと怪談めかしたいい話である。最近の大抵の劇作家ならおそらく、この浴衣を見せられた女性が婚約者の方をみて「あれ、これはひょっとして」という表情を見せたこところで暗転(カットアウト)にするところじゃないかと思うのだが、谷はそうはしなかった。

 まず、このシーンの後、半暗転の中スポットに照らされた女性と着物姿で線香花火をする女性が見つめあうというシーンを見せて、ちょっとやりすぎでくさくないかいと思わせた後で、この後もシーンを続ける。これはこの話に出てくるもうひとつのエピソードである漫才師を目指している少女たちの話がからんでいることもあるが、漫才のシーンが終わって女性が退場した間に伯母との話の中で愛媛に嫁いでいる女性の幼なじみが先ほど川原で2人と出会ったという話をしていたといって瞬間に先ほどの女性は母親でもなんでもなくその女性だったかもしれないことが分かりそうになると婚約者は急にそのことを女性に知られたくなくて、帰ろうと言いだすからである。これはそれまで、女性の前では頼りにならないところしか見せてなかった婚約者がこの一瞬だけでこの女性のことをどれだけ大事に思ってるかというのが垣間見える瞬間で、谷はこれが描きたかったために最初のシーンでこのエピソードを終えるわけには行かなかったのだというのが腑に落ちたのである。

 もっとも、この後、愛媛に帰るには列車か車であるのが普通なのに出会った女性は船に乗って帰ると言っていたことなどから、やはり、あの女性は黄泉の国から娘に会いに来た母親だったのかもしれないとの含みを残して終わるがこのことについては谷はどちらとも受け取れるように含みを残して終わる。

 もっとも、こうしたかなり複雑な構造を持った話が4つも続くと見終わった後、重い感じがするのも確かなのである。時間的に2時間半近いという上演時間はこの種の芝居としては長すぎるだろうというのを別にしてもそれぞれに起承転結があるだけにちょっと盛りだくさんすぎて、消化不良を起こしてしまうというような印象を受けざるをえない。純粋に戯曲として考えたら、物語は3つ程度に減らしてそれぞれの物語の中でのワキ筋のエピソードなどは刈り込んだほうが作品としてよりすっきりとしてその分完成度の高いものになったかもしれない。

 ただ、単純にそうすべきだったとは言いきれないところに現時点でのいるかHotelの魅力があるような気もする。それは谷省吾自身のキャリアは認めながらもいるかHotelというのはあくまで若手劇団であると思っているからで、今回参加した中にもいた「時分の花」の魅力を持った若手の女優たちを谷省吾が今後いかにダイヤモンドの原石を磨くように「真の花」を持つ女優として育て上げていくことができるか。それに今後とも注目していきたいと思わせた舞台だったからなのだ。

  

 5月8〜9日 風邪をひいてしまい会社には行くが、帰ってからすぐ寝てしまう。

 5月7日 弘前劇場「三日月堂書店」を観劇。

 5月6日 会社に出社。夜、弘前劇場「三日月堂書店」(7時〜)を観劇。

 5月5日 新感線+パルコプロデュース「犬夜叉」(2時〜)、弘前劇場「三日月堂書店」(7時〜)観劇。

 5月4日 弘前劇場「三日月堂書店」観劇後、観劇オフ会。 

 5月3日 デンマーク・ロイヤル・バレエ団「ナポリ」観劇。夜、いるかHotel観劇オフ会開催。当日、飛び入り参加の皆さんに加え、支配人、谷省吾さんをはじめ役者さんも参加していただき盛況に終えることができた。

 5月2日 ひさしぶりの平日休み。いるかHotel「花火みたい」を観劇。

 5月1日観劇オフ会の方はいるかHotelの「花火みたい」(5月3日 6時〜)についてはさらに2人がメールで参加表明してくれて、総勢3人(+おくむらさん微妙)になりました。せっかくですので、5月2日の深夜まで待ちますので引き続き参加表明をお願いします。それ以前の回を見たという人で宴会のみの参加も歓迎です。その場合、参加表明をしたうえで、終演後、駅前劇場ロビーで集合。おそらくしばらくはごったがえすと思うので残っていて下さい。弘前劇場「三日月堂書店」(5月4日 7時〜)についても引き続き募集中です。こちらの方も3人の予定でその後、参加者増えていないようで寂しいのでよろしくお願いします。月1日観劇オフ会の方はいるかHotelの「花火みたい」(5月3日 6時〜)についてはさらに2人がメールで参加表明してくれて、総勢3人(+おくむらさん微妙)になりました。せっかくですので、5月2日の深夜まで待ちますので引き続き参加表明をお願いします。それ以前の回を見たという人で宴会のみの参加も歓迎です。その場合、参加表明をしたうえで、終演後、駅前劇場ロビーで集合。おそらくしばらくはごったがえすと思うので残っていて下さい。弘前劇場「三日月堂書店」(5月4日 7時〜)についても引き続き募集中です。こちらの方も3人の予定でその後、参加者増えていないようで寂しいのでよろしくお願いします。