下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

2000年11月下北沢通信日記風雑記帳

 11月30日 「哲学入門一歩前」(廣松渉著)を読了。

 11月29日 ダンスセレクション2000 セクションIIIプログラムA(11月23日)、プログラムB(25日)を六本木のオリベホールで見た。これについて感想を簡単に書くことにしたい。いずれも3組のグループ(ないし個人)による3作品を並べたプログラム構成である。以下にプログラムを簡単に紹介すると。

 プログラムA
1、ニブロール「駐車禁止」 振付/矢内原美邦 映像/高橋啓祐・神戸千木・山本新介 音楽/坂井俊太郎・加藤由紀・岩田智夏子 出演/小野秀則・小浜正寛・前田愛実・澁谷径代・山本浩司・本原章一

2、原田拓巳作品「スリッピーな止まり木の上で」 構成/振付/出演 原田拓

3、86B210 「ゼリー状の眼球」 構成/振付/出演 鈴木富美恵 出演 井口桂子、吉田妙子ら


 プログラムB
1、レニ・バッソ「ドレッド・サカー 〜ハイパーボリックゾーン〜」 振付・演出/北村明子 作曲/江村桂吾 映像/兼子昭彦 出演/北村明子・二見一幸・前島弥惠子・小沢剛・水内宏之
2、CAGR「オペラ・ドゥ・サーカス『太陽の第九』より」 演出・振付/若井田久美
3、上島雪夫作品「マイ・セカンド・ハート」 演出・振付・構成上島雪夫
 ここまではしょりながらもとりあえずプログラムを写してはみたものの実はかなりむなしい。一応、私がこのダンスセレクションの両プログラムを見た理由はニブロール「駐車禁止」、レニ・バッソ「ドレッド・サカー 〜ハイボリックゾーン〜」が見たかったからで、その2作品については完全に満足とまで行かなくてもそれなりに面白く見られたのだが、他の作品(振付家)はいずれも見るのは今回が初めてで、ひょっとしたら掘り出し物があるかもと思ってそれなりの期待をしていたのにもかかわらず見終わってあまりのつまらなさに唖然ぼう然で正直言って疲労困憊状態になってしまったのだ。本当はもう少し早く感想を書かなくてはいけないところを遅れてしまったのはそういう理由があった。

 まずは面白かった方から書く。レニ・バッソ「ドレッド・サカー 〜ハイボリックゾーン〜」は今年の春バニョレ横浜プラットフォームで上演した作品を練り直して35分にまとめ直した作品。バニョレの時も私個人の評価では断トツの出来栄えだったのだが、今回も振付・コンセプト・ダンサーのレベルともにこのプログラムの中では群を抜いた完成度の高さであった。北村の作品構成はダンスにおける物語性を完全に排除しているため一見、とっつきにくくも見えるが、この作品はローザスやある種のフォーサイスの作品のように純粋に抽象的なムーブメントを見せるというよりは舞台背景に写しだされる映像(兼子昭彦)によって提示されるダンサーとダンサー(つまり人間相互)の関係性と同期するような形で全体が構成されているため、北村作品としてはテーマ性が濃厚に出た舞台といえるかもしれない。

 最初、照明によって作られた長方形の光の道に2人のダンサーが現れ、これが接近しながらも決して触れあうことなく、ダンスを続けるといういくつかのシークエンスが繰り返された後、次のシーンではこれが椅子とりゲームのようなものに変化していく。いずれも最初は1対1のような比較的単純な関係性からスタートして、それがしだいに関係における複雑さを増していくとともにそれと呼応するようにミニマルで幾何学的な動きから動きの枝葉を増やして、それと同時にドライブ感も増していく。

 この作品ではそうした全体の構造が個人と共同体の関係、個人とシステムの動きとメタフォールに重ねあわされていくように作られているのだが、その構造には単純な構造が一定のルールに従って、複雑化していくことで千変万化の様相を見せていく複雑系の図形(マンデンブロ図形やローレンツアトラクタなど)を思わせるところがある。あるいは最初に提示された単純な主題が複雑に変化し展開していくモーツァルトの変奏曲を連想させるといったら言い過ぎだろうか。

 もっとも、今回のこの作品では単純な構造がしだいに複雑になっていくということはあってもそれがしだいにオーバードライブして、構造を突き抜けていくという風になりきれないで終わってしまうという感があり、本当に主題が融通無碍の展開をしていく前の前段部だけを見せられたようで、「これで終わりなの」と欲求不満を抱いたのも確かであった。

 その意味では予告編のようで物足りないところもあるのだが、念のために確かめてみるとこの作品は来年2月にアートスフィアで上演される「Finks」という作品の一部を上演したということらしく、それゆえ、この後、この作品がどのように展開していくのかについてはそこでの全編の上演を期待して待つことにしたい。

 ニブロールというダンスカンパニーを見るのは今回が2回目である。前に見たのは渋谷の小空間で上演された「東京第2プール」という作品で、その後、アビニョンで作品を見たかったのだが、残念ながらうまく滞在期間が合わずすれ違いに終わったため、今回の新作「駐車禁止」には期待していた。ただ、期待が大きすぎたのか全体として振付家矢内原美邦のセンスのよさは感じられたものの今回の作品ではまだこの集団のやろうとしていることについてピンとこないところもあった。

 映像などを多用してコラボレーション的に作品を作っていくのはバニョレプラットフォームで見た発条トなどを思わせるところがあるが、これは最近の流行といっていいのだろう。いわゆるダンスらしいダンスを意図的に排除していく手法やはじめの方に自動車を連想させるような形で三輪車のようなものに乗った男を舞台に登場させるような遊戯的な要素を加えるところなど既存のダンスを宙づりにしてあえて距離を取るような構え方はイーストギャラリーで見た昔のキノコなどを彷彿とさせるところがあるが、そういった可愛らしさの一方で、レイプとか暴力的な現実などを連想させるような要素を挿入していったりするのが、キノコなどとはアプローチの違うところである。もっとも、そうした現実もリアルに描かれるわけではなく、コミカルな形に変容されているため、作品自体からはあまり直接的に暴力的な印象は感じられることはない。

 もっともこのカンパニーのダンスには例えばイデビアン・クルーのような歴然と分かるムーブメントのオリジナリティーというのは感じられないので、全体として見た時にはまだ2本を見ただけではその特徴をつかみかねているところがないではない。すごく表現が感覚的になって心苦しいのだが、どうも印象が淡いのである。それでは面白くないのかといえば例えばこのプログラムの他の作品と比較すると次の作品も見てみたいという気にさせられる妙な魅力はあるのだ。それは表現に対して矢内原美邦が取っている微妙な距離感覚とか、作品全体のトーンを規定していく美意識(センス)とかどうしても抽象的な表現になってしまって、それがナニなのかが具体的に指摘できないのがもどかしいのだが、重要なのはこの人が見ていて恥ずかしくならない作品を作る才能を持っていることで、日本のダンス界の現状を考えるとそれは貴重なことと考えざるをえないのだ。

 というわけで、他の作品にも少しは触れないといけないのだが、これが地雷を踏みまくることになるので困ってしまっている。全体としていえるのは上記の2作品以外では自分の作っている作品についての方法論的懐疑が全く感じられなかったということである。惜しまれるのがCAGR「オペラ・ドゥ・サーカス『太陽の第九』より」でこれは体操とか新体操などのいわゆる芸術スポーツの経験者が集まって作った集団ということでその身体的特異性がどのように振付に生かされてそこから新たな表現が立ち上がるのかと注目して見たのだが、これが唖然とするほどなにもないのだ。確かにバク転とか側転とか体操で見られるタンブリング系の動きとかアクロバティックな要素は入ってはいるのだけど体操を舞台で見せられてもなあという感じなのである。

 群舞で踊るところなのがまるでジャズダンスの振付なのは見ていて恥ずかしくなってしまったが、どう見ても「こういうことができます」というのをつなげただけでは振付とはいえないのではないだろうか。同じ場所で車輪が回るように速い側転を続けたのは「おおっ」て思わせるところがあったけど感心させられたのはそのぐらいなのが残念だった。

 上島雪夫作品「マイ・セカンド・ハート」では劇中劇のような形で井神さゆりがバレエを踊るシーンがあって、名古屋で見た山崎広太作品では全く精彩のなかった井神だがこういうのを踊るのを見るとさすがと思わされるところがあり、ちょっと得した気分にはなったが、作品については「これってダンスじゃなくてダンスシーンの挿入された芝居じゃないの。それも完全な新劇」と思わずツッコミを入れたくなる内容。しかも、芝居と考えたら多重人格の男の心象風景をいまさらダンスで見せられてもなあ。いくらなんでも何か落ちがあるだろうと思ったらそれもないし。

 「プラトン」(ジャン・ブラン著、文庫クセジュ)、「千年紀古事記伝」(鯨統一郎)、「脳ミソを哲学する」(筒井康隆編)、「バレエ入門」(三浦雅士)を読了。 

 11月28日 12月の仕事スケジュールが判明して23日が出社になった。夜には仕事が終わりそうなのでなんとかトリのマーク「迷路[スーク]を抜けて果樹園へ」(7時〜)は見られそうなのだが、またまた購入していたバレエのチケットがパーに。レニングラード国立バレエくるみ割り人形」(3時半〜、東京国際フォーラム、S席 1階 7列38番、1万3000円、シェシナ/メリクリエフの予定)。若手が伸びているカンパニーなんで、期待していたのだけどなあ。今なら6000円に値引きしますのでだれか引き取ってくれないかしら。とここに書いても無駄か(笑い)。

 今週末は予定どおりロリ男+むっちり公演「嫁ぶるえ」(土曜日、7時)を見られそうだけど、忙しくてぎりぎりになって準備が間に合いそうにないので、伝言板の方で朱夏さんから申し出のあった「演劇講座」の開催は今回は無理そうです。でも、もし同じ回に見る人がいたら気軽に声かけてみて下さい。なんとか、来年初めごろには実現したいのだけどいくらなんでも正月(1月1日か2日)に青年団でやるといってもだれも来ないだろうしなあ。日曜日(12月3日)は先週見逃した猫ニャー「ファーブルミニ」を見た後、東京文化会館でキーロフバレエ「バヤデルカ」(5時〜)の予定。見られたらキノコをもう一回見たいのだけれどスケジュール的にどうか。それから以前に書いたク・ナウカの映画のかかる第6回アート・ドキュメンタリー映画祭もユーロスペースで始まるのだけどスケジュールをどうしようか。

 来週は土曜日(12月9日)に森下スタジオでNEXT NEXTウエーブ(4時〜)。いくつかの若手ダンサーが参加するダンスショーケース方式の公演ですが、期待は前にも書いたダンスパントマイムの「水と油」と関西のCRUSTCEA(クルスタシア)です。これはどちらも★★★★の期待度。日曜日は大阪まで遠征して上海太郎舞踏公司マックスウェルの悪魔」(3時〜)。
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 11月27日 新国立劇場「ラ・バヤデール」(11月23日)について。主なキャストは以下の通り。

 ニキヤ/アンナ・アントーニチェワ(ボリショイバレエ団)、ソロル/カルロス・アコスタ(ロイヤルバレエ団)、ガムザッティ/田中祐子(牧阿佐美バレエ団)、ハイ・ブラーミン/ゲンナーディ・イリイン、マグダヴェヤ/根岸正信、黄金の神像/小嶋直也

 ガラ公演などで「影の王国」などを単独で見たことはあったのだが、実はこの「ラ・バヤデール」というバレエを全幕で見るのは初めて。今週末の日曜日にキーロフバレエで同じ演目(もっともこちらは「バヤデルカ」)を見る予定なので、その前に一度見て置きたくて、当日券目当てで出かけていった。本当は酒井はなの回のチケットを手に入れていたのだが、仕事で行けなくなったので、この回になってしまった。さて、ボリショイからのゲストダンサーのアントーニチェワだが、背が高くスタイルも抜群だし、テクニックも悪くはないのだが、いかんせん、「華」がいまいちというか線の細さを感じてしまった。作品全体としてはコールドバレエもよかったし、楽しく見られたのだが、やはり、酒井はなの回を見逃した悔しさがひしひしと沸き上がってきてしまったのだった。日本のバレエ団の全幕バレエを見ると衣装や美術でもう少しなんとかならんかと思うことが多いのだが、今回のプロダクションでは布で作られた森の美術が印象的であった。   

 11月26日 燐光群+国際交流事業団「南洋くじら部隊」(2時〜)、ポかリン記憶舎「砂・眠る」(6時半〜)を観劇。

 11月25日 珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」(4時〜)、ダンスセレクション2000プログラムB(7時半〜)を観劇。

 昨年のアートスフィアの公演「あなたが『バレる』と言ったから」で来日カンパニーにひけを取らぬコンテンポラリーダンスカンパニーとしての質の高さを見せてくれた珍しいキノコ舞踊団だが、純ダンス色の強かった前作と比べ新作「フリル(ミニ)」では狭い空間を使って遊び心に溢れた舞台を見せてくれた。ビートルズのアルバムに例えれば前作が巧緻に構成された「サージェント・ペパー」だとすれば一転して、肩の力を抜いてラフスケッチ風にいくつかのシーンをつないでいった今回の舞台は「ホワイト・アルバム」といったところだろうか。

 もっとも、前回公演でもダンス色の強い作品を振り付けたのは小山洋子で今回、構成・演出・振付を担当した伊藤千枝の作品はかなり遊びの色が強い作品だったので、今回の作品はそれを一層推し進めた作品ということになるだろうか。この舞台ではコンテンポラリーダンスとして踊りますよという感じを極力押さえて、等身大の若い女性が集まって、仲良くじゃれ合っているようなところから音楽に乗って身体を動かしているうちごく自然にダンスが生まれてくるというような構成を取っている。そして、踊っている彼女らが楽しそうなので自然と見ているこちらも楽しくなってくる。既成のダンスを宙づりにするようなメタダンス的なアプローチというのはこの公演の前に見たダンスセレクションでニブロールがやっていたり、キノコも過去にそういうことを何度もやってきたのだが、この作品ではそういうところを通り過ぎて「踊りって楽しいんだよ」というのをあえて理屈抜きにぬけぬけと演じてしまっている。

 山下三味子、井出雅子、樋田佳美、山田郷美、佐藤昌代、飯田佳代子、伊藤千枝の7人のダンサーがそれぞれの個性を発揮しているのもこの作品の魅力で、特に今回はイチゴプリントの衣装で踊ったダンサー(おそらく、飯田佳代子)の派手さはないけどちょっとすました品のいいダンスにいつのまにか引き付けられた。

 最初の方の若い主婦たちの井戸端会議風のシーンをはじめ、この作品ではこれまでキノコの作品で強調されていた少女性とか無垢な感じとはちょっと変わって、それでもやはり「女性」(女ではなく女性)を感じさせる表現で、これはこのカンパニーの今後の方向性を考える意味で非常に興味深いところがあった。

 11月24日 浅田次郎「地下鉄に乗って」を読了。 

 11月23日 新国立劇場バレエ「ラ・バヤデール」(2時〜)、ダンスセレクション2000プログラムA(7時半〜)を観劇。

 11月22日 パルコ劇場プロデュース「人間風車」についてもう少しちょっとくだらないかもしれない補足を書く。平川が子どもたちにお話を聞かせる近所の公園、これが怪獣公園って呼ばれているのはなぜなんだろう。初演の時からそれが気にかかっていた。インターネットの検索エンジンで試しに「怪獣公園」って検索してみると確かに近所の人からそう呼ばれている公園が実際にあることはあるのだ。それは東京の大森にあって、その公園がそう呼ばれているのはそこに何体かの怪獣の形をした遊具(滑り台とか)が置かれているのである(未確認情報だけどもう撤去されて今はないという話も)。だけど、この芝居でも初演の遊気舎の舞台でもそういう遊具は公園のシーンには登場しない。それで考えた時に趣向としてB級ホラーとかプロレスとか後藤ひろひとはいろんな隠し味をこの作品の中に入れ込んでいるのだけど、ひょっとしたらもうひとつこの物語の下敷きとなってる話があるんじゃないかと思われてきた。

 その下敷きとなった物語というのはテレビ番組「ウルトラマン」第15話落書き怪獣ガヴァドンである(この回のストーリーは正式には「恐怖の宇宙線」という題名らしい)。これは子どもが土管に書いた落書きの怪獣にある種の宇宙光線が当たり、それが実体化してしまうというストーリーで、ウルトラマンシリーズの中でも1、2を争う異色作であった。というのはなんといってもこの怪獣のシュールなビジュアルが怖くもなんともなくて凄かったし、(関連ページ探して見つけたけどこんなの)、この怪獣寝てばっかりいたのだ(笑い)。

 ちっとも怖くないという意味では直接の関係があるわけではないけれど、どちらも本来は虚構の産物(ウルトラマンでは落書き、「人間風車」では平川の語る童話)が実体化していく、さらに子どもたちがそのことに介在しているという点で共通点がある。しかも「恐怖の宇宙線」でも最初はそんなにでもなかった怪獣が子供たちが強そうに絵を書き変えていくことで強そうに変身していく。もっともガヴァドンの場合は姿は変わっても結局のところ寝てばかりいたので全然怖くなかったのだけど(笑い)。もっともこの仮説には証拠といえば怪獣公園の怪獣という言葉だけの連想だし、後藤ひろひとの年齢から言えばウルトラマンを到底リアルタイムで見ていたとは思えないという弱点はある。それにこれまでもスタートレックとかスターウォーズのパロディーを作品中に入れたことはあるのだが、日本のSF(?)番組に興味があると聞いた記憶はあまりないので、偶然の可能性は拭いきれないのだが。興味のあることなら「人間風車」とか「サンマルチノ」とか無茶古いことをよく知り尽くしているのはなぜなんだということもあるし(笑い)、後藤氏について昔から言われている年齢詐称疑惑は置いておくとしてもこの連想あながち完全の的外れでもないだろうと思ってるのだけどどうだろうか。

 11月21日 今週末はダンス公演の観劇予定が続く予定。23日夜はニブロール「駐車禁止」などが上演される「ダンスセレクション2000」(7時半〜、オリベホール)。その前にダンスカンパニーカレイドスコープ「時間のランドスケープ」(5時〜、東京グローブ座)かもしチケットが取れれば新国立劇場「ラ・バヤデール」に行くかも。ペテカン「嘘みたいな月」も気にかかるのだが、どうしようか。

 25日は珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」(4時〜)の後、「ダンスセレクション2000」(7時半〜)の別プログラムでレニ・バッソ「ドレッド・サッカー」を見る予定。26日は猫ニャー「将来への不安Z―2000/ファーブルミニ」(2時〜、新宿シアターモリエール)、ポかリン記憶舎「砂・眠る」(6時半〜)を予定。八時半「素足の日記」も見たかったのだけどこのスケジュールだとちょっと無理そう。とにかく今週はダンス、演劇ともに注目の舞台が集中した感じである。

 その次の週はまだ仕事のスケジュールが固まらないのだが、12月2日はロリータ男爵&むっちりみえっぱり「嫁ぶるえ」(7時〜)、12月3日はチケットを取ってあるのでキーロフバレエ「バヤデルカ」(5時〜)。今度こそチケットを無駄にしなければいいのだが。


 「ソクラテス」(田中美知太郎著、岩波新書)を読了。プラトンの対話篇を何冊か読んで少し興味を覚えたのでソクラテスないしギリシア哲学について知りたいと思い偶然古書店で見つけたこの本を読んでみた。この本によればソクラテスの得意とした問答法はエレア派の論法の遺髪を受け継いでいるということで、エレア派の哲学者といえば代表的人物はパルメニデスとゼノン。ゼノンといえば「ゼノンの矢」「アキレウスと亀」で有名な大逆説家、そしてパルメニデスはその師匠である。ともにギリシアを代表する詭弁論理の大家(と言ったら本人たちは怒るだろうけど)なので、ソクラテスだって詭弁家といって少しもおかしくない。プラトンの対話篇にはソクラテスがこのゼノン、パルメニデスと架空の会話をする「パルメニデス」というのがあり、これはけっこう面白そうなのでどこかで見つけて読んでみたいのだけれど。



 11月20日 パルコ劇場プロデュース「人間風車」について。ホラーなのに遊気舎の初演と比べて怖くないとかいろいろ否定的な評判を聞いていたので、どうなんだろうと思って見にいったのだが、これが面白かった。予想以上にきっちりと丁寧に作られていて、これまでのG2プロデュースの中では出色の出来栄えの舞台じゃないかと思う。ほぼ同じ戯曲を使っているとはいえ、今回の芝居はホラーの枠組みを使ったラブストーリー(失恋劇?)の色彩が強くほとんど怖がらせるということは演出側の念頭にはなかったのではないかと思う。遊気舎版の「人間風車」はサイコホラー(しかもスプラッタ色も強い)だったのだが、これはもうまったくの別物と考えた方がいいのであって、今回の作品に遊気舎の初演時の雰囲気を求めるのはほとんど木によって魚を求むの類でこの芝居に対してはフェアではない気がする。

 キャストではなんといっても童話作家、平川役を演じた生瀬勝久がいい。この芝居では劇中劇的な構成で、公演に集まったこどもたちに売れない童話作家の平川が童話を語って聞かせるくだりがあり、それが途中から他の役者たちによって演じられるのだが、その語りがそれぞれの登場人物を声色を使って演じ分ける演技力もそうだが、なんといっても抜群に声がいいのでそれだけで引き込まれてしまう魅力があるのだ。

 これまで「こどもの一生」などを除くとG2プロデュースではまずキャストありきという感じが強く新作の書下しをある程度あて書きしてもらうような形を取ってきて、そのためオールスターキャストによりそれぞれの俳優にできるだけ見せ場を作らせたいというような制約から戯曲が散漫になっていた嫌いがあった。今回はまず「人間風車」という本があって、その上で役柄に合わせてキャストを集めた感じが強く、それだけ配役は適材適所という感がある。このため生瀬はもちろんだが、サム役の阿部サダオ、国生役の升毅と光る配役である。ひと役だけでひとり何役も見られるのも楽しいところで、演じ分けという点では斉藤由貴のぎこちないオロもファンだから許すけど(笑い)、エキセントリックな童話作家、やさしくて力持ちのサンマルチノ、そして突如豹変して殺人鬼になるところとそれぞれ違った持ち味を存分に発揮した大倉孝二が印象的であった。

 もちろん、斉藤由貴のアキラはよかったのだが、これはあまりにも昔からのファンであるためそんなに冷静な判断はできてないかもしれない(笑い)。最後の結末を変えたのには異論がでてくるのは理解できるのだけど、多少甘いところはあっても斉藤由貴がアキラをやるかぎりはこの方がよかったと思う。興行的に成功したのならぜひ今後も再演をしてほしい作品である。

 11月19日 パルコ劇場「人間風車」(1時〜)、げんこつ団「外半球」(7時〜)を観劇。 

 11月18日 山の手事情社「印象 青い鳥」(7時半〜)を観劇。私は日本現代演劇の様式の多様性は世界に誇るべき財産であるということは以前から主張してきたのだが、なかでも様々な演劇的な実験を繰り返しながらスタイルを変えてきたという点では山の手事情社という集団はその典型といえるかもしれない。早稲田劇研のアンサンブル劇団として当初には第三舞台の影響を強く感じさせるスタイルだったのがある時点で、戯曲を中心とするのではなく集団創作による構成劇に転換。さらには演出の安田雅弘が提唱した「ハイパーコラージュ」と呼ばれる全く新しいスタイルの演劇に挑戦を開始した。「ハイパーコラージュ」とはダンス、パフォーマンス色の強い身体表現から会話劇までそれこそ多様なスタイルの身体表現を舞台上に同時多発的に展開することで、それらが渾然一体となってそれまでにそれぞれの表現が単独では表現できなかった新たな表現を獲得しようというまさに革新的な演劇理論で、それは考え方としてはそれがもし実現するならきわめて刺激的な考えであった。

 しかし、初期の「ハイパーコラージュ」はそれこそ舞台のそこここで同時多発的に事が展開するというスタイルを取っていたため、受け取る側としてはちょっとしんどいというのがあった。というのは、様々な身体表現が舞台上に渾然一体として展開するということ自体はこれまでもやられてきており、それがまさに安田の提唱する「ハイパーコラージュ」とかなり近い形で実現されているのだが、それはダンスだからである。あるいは演劇の世界でも来月ひさびさに再演される「マックスウェルの悪魔」の立ち尽くす少女と恐竜がオーバーラップするラストシーンなどいくつかの上海太郎の舞台でもそれは実現されている。実現できるのはそこに言葉が介在しないからである。

 安田の仮説では例えば舞台中央に会話劇を続ける役者がいて、その傍らをゆっくりと通りすぎていくパフォーマーがいる。普通の見方ではあくまで会話劇が主で、通りすぎる方が従だとしてもある瞬間、あたかも老女と少女の絵が見えるだまし絵のように地と図が逆転を起こす瞬間がある。それが「ハイパーコラージュ」の狙いである。当時のパフォーマンストークでこんなことを言っていた。それが考え方としては認識論的逆転などを思わせて魅力的だったので、きわめて印象が強かった。

しかし、実作を見る限りそれは必ずしもうまく機能していないように思われた。さらに当時作品を見ながらなんとなく感じていたのは「ハイパーコラージュ」の理論は確かに面白かったのだけれど、それが論理的には可能でも人間の生理に反していて、実際には難しいのではないかという疑念である。というのは演劇においては言語テキストがどうしても作品にからんできて、これが音楽やダンスと大きく違うのは時間軸の中に意味を持って現れるころである。例えば言語をともなっていてもそれが維新派少年王者舘の一部シーンのように意味性よりは音声なり言葉のモノ性に重きを置くような使い方をするならば別だが、これが会話劇のように断片ではなく互いに意味を持つパッセージの連続からなっているとすればどうしても人間は言葉を聞き取ろうとするため、そこに集中してしまう。そうするとそこ以外の舞台というのは背景に退いてしまい、その横でいくら面白いダンスをやっていても聖徳太子ならぬ私には単なるバックダンスになってしまうからだ。

 カクテルパーティー効果という言葉があって、これはカクテルパーティ(日本でいえば立食パーティー)のような喧騒空間でも人間には意識を集中すると聞くとりたい会話だけを選択的に聞き取ることができる。これは人間の意識というものが単なる集音マイクのような機械的なものでなく、志向性を持っているものだということが関係しているのが、これを逆に考えると当該の聴き取りたいもの、あるいは見たいもの以外の情報をサブリミナルな域にとどめてシャットアウトしてしまうということである。青年団の同時多発の会話で、理解したい会話を選択して聞き取ることができるのは私たちが日常なにげなく意識しないで使っている能力を引きだすように計算がされているためだ。「ハイパーコラージュ」ではこうした意識の集中ではなく無意識にカットされている情報を舞台上から同時に感じとるためにこの逆の作用が要求されるわけで、それは難しいのではないかと考えたのである。

 実は最初の「ハイパーコラージュ」を第1期と呼ぶとすると安田はこの後、第2期の「ハイパーコラージュ」の実験に入る。それは舞台上における台詞による会話と身体のあり方を分解して、そこにそれまでの演劇のような有機的な関連性を持たせないという方法論である。今回上演された「印象 青い鳥」はこの延長線上にある演出により上演されている。この方法論に入ってもしばらくは複数のテキストの共存というのは残っていたのだが、しだいに単一のテキストの舞台化という様相が強まりこの作品にいたっては幕間に場面転換の代わりに展開されるダンスのようなシーン(かれらはルパムと名付けている)を除くとこの舞台ではほぼメーテルリンクの原テキストがそのまま使用されている。

 演劇には大別すれば「語りの演劇」と「会話の演劇」があってテキストの再現という意味においては最近の山の手事情社の表現は「語りの演劇」への傾斜を深めている。日本の伝統演劇というのは能にせよ、歌舞伎によ基本的には「語りの演劇」であって、その場合、「語り」を聞かせるに際してそれに合わせて身体表現の方にはある種の様式化がなされる。これは現代劇においてもSCOTや蜷川幸雄のある種の舞台でも同様で、「語り」が具現化されるにおいて日常性から離れた身体が必要になってくるのである。これを極端な形におしすすめたのがク・ナウカでここでは「語り」の役者は動くことなく語りのためだけに存在する。

 山の手事情社の場合、特異なのは身体の表現が「語り」を異化するための阻害物として語りと無関係に存在するような形態を取ることだ。その動きはダンスとは全く違い抑制的なものだが、台詞回しにおける感情の表出とリアルな形ではシンクロしない。これはおそらく、「語りの演劇」と「ハイパーコラージュ」の混合的な様式となっているためではないかと思われる。つまり、ここでは「語る身体」(声としての肉体)と「動く身体」が普通の芝居のように言動一致体(宮城聰の用語による)とはならずそこにズレを生むことで1人時間差のような形で、「異なったスタイルの身体表現を舞台上に同時に展開する」ことになっているわけだ。

 もっとも、この方向性にもジレンマはある。というのは無関係とはいえ、動きも語りも同一のテキストを挟んでその具体化として存在する以上、なんらかの関係を持たざるえないからで、全く無関係ならどういう動きでもいいかといえばそうではない。現にこの「印象 青い鳥」では「Folklore〜ふるさと」などこの方法論に移行した初期の作品と比べると安定感はでてきているもの依然、様式的に見るとク・ナウカ(ムーバー)やSCOTなどと比べ様式的な安定度において格段の差がある。もちろん、山の手の方が不安定(座りが悪い)のである。

 もっともここで言いたいにはだからだめということではなく、だから、面白いということであるのだが、様式などというものは長く同じスタイルを続けているとしだいに洗練の度をいくらとも高めていくためで、ここに不安定な形長く続けることの困難があるわけだ。ク・ナウカのようにある種の様式性を獲得して洗練の道に向かうか、それともこれまで獲得した様式性を創造的に破壊し、あくまでもまたさまよえるユダヤ人の如く、苦難の道に乗りだすのか。個人的な希望としては後者の道を選んでほしいとは思うけど、どうやら前者の方向に向かいかけているようにこの公演からは感じられた。

 今回の場合、メーテルリンクの「青い鳥」をテキストに持ってきたことにそもそも問題があるような気もしないではない。というのは今世紀の初頭に最初に構想され時には夢幻劇として様々な思想的要素を含んでいたとはいえ、現在は童話とししかほとんど知られていないこの作品を通常の形式で上演してしまえば多かれ少なかれ児童劇のようものになってしまうことは否めない。この舞台では山の手独特の安定しない(つまり通常の様式に取り込まれない)身体表現による異化効果がいくぶんそうし印象を救っていたとはいえ、正直言ってシェイクスピアから西洋近代劇に射程を広げていくのに適した戯曲を選択したのかというのには若干疑問が残った。

 

 11月17日 伝言板の方でkikukoさんから「8月の南瓜と12月の西瓜とケンタウリ」について質問があったので、私なりに思うことをここで答えることにします。

念のため以下に質問を引用します。「中西さん、こんにちは。kikukoです。 実は、「8月の南瓜と12月の西瓜とケンタウリ」観劇中に、ふと思ったささいな事がずっと気になっています。 南瓜と西瓜だからケンタウリ(健太瓜)なんでしょうか・・・(逆も有りですが)

観劇中にふと思ったら、アタマから離れなくなりまして; 夏と冬ということで南瓜と西瓜なのでしょうけど、星の名前がケンタウリなのは(もしくは弟の名前が健太なのは)、やはり合わせてあるのかなあと。 理解できなくても諦められる本筋と違い、こんなトコロがどうにも引っかかってしまって。(笑) どう思われますか?やはり、当然でしょうか???

 この作品、はせひろいちの台本が1行もないときにすでにチラシは出来上がっていたので、題名の方が先にあってそれに合わせてゴロ合わせで登場人物の名前を決めたのは10中8、9間違いがないのではないかと(笑い)。手元に台本がないので詳しいことは言うことができないのですが、小劇場界きっての駄洒落王(はせひろいち)と言葉の魔術師(天野天街)のカップリングだけに(えらい差別だとのつっこみはなしね=笑い)、上に挙げた「ケンタウリ」以外にもこの作品の中では言葉遊び/駄洒落はまさに「ウォーリーを探せ」状態といえるでしょう。この題名自体も最初、いくつかの案をはせが考えて、それを適当に天野がコラージュ的に組みあわせて生まれてきたらしいです。

 題名の西瓜/南瓜からナツ/フユ、2人の少女カスミ/スミカ、カスミの弟、ケンタ大/ケンタ小、シリトリを続ける2人の男、合わせ鏡のようなモチーフがこの芝居には登場します。それがいかにもジャブジャブ/王者舘、はせ/天野の合わせ鏡として作られたこの芝居を象徴しているようでそこに面白さを感じます。劇中には SEWNの4文字を使っての言葉遊びなど天野的な匂いが強い部分とこれははせの台本に元からあったとしか思えない(事実もそうらしい)「ケガニ」と「カクニ」とかいろいろなパターンが混在していてこれも楽しめます。ちなみに「ケガニ」は似たようなネタをどこか別の作品でも聞いたことがあるような(笑い)。天野さんにこの駄洒落のレベルについて聞いてみたのですが「あえて言及を避ける」ということらしいです。今回は内容なくてすいません。

 なにか質問あればできるだけ答えますので伝言板に書き込んで下さい。初めての人向け伝言板の方も書き込みお願いします。特に東京以外で見ている人がいればそういうことも知りたいのでぜひお願いします。



 11月16日  トリのマークの柳澤明子さんからメールを戴いたので転載します。

  中西様

こんなメールを顧客のみなさまに出してみました。
よろしかったら、中西さんのサイトで
御紹介していただけるとありがたいです。

★★★12ヵ月連続新作上演も残り少なくなってまいりました。
その11は、下北沢のザ・スズナリにて「迷路[スーク]を抜けて果樹園へ」を上演いたします。
クリスマスシーズンでにぎわうこの季節、ぜひ私たちとのんびりお過ごしくださいませ。

なお、24日午後8時ぐらいから、下北沢近辺の別会場にて
2時間程度クリスマス会を開く予定です(会費制/3000円程度を考えています)。
この公演をごらんになった方ならどなたでも参加できます。
参加御希望の方は、あらかじめクリスマス会の御予約もお願いします。
場所など詳細については、御予約いただいた方にのちほどお知らせいたします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
12ヶ月連続新作上演その11
「迷路[スーク]を抜けて果樹園へ」
12月22日 午後7時
12月23日 午後3時と7時
12月24日 午後3時
出演/柳澤明子 出月勝彦 丹保あずさ 中村智弓 櫻井拓見 山中正哉

会場/下北沢ザ・スズナリ小田急線/井の頭線下北沢駅下車)
◆料金2500円  クリスマス会は別途会費制
◆御予約をおすすめいたします。
◆御予約はtori@bananawani.org
◆ホームページにて最新情報を掲載しています。


※「中西さんのHPで見た」とチケット御予約時にいっていただくと
料金2500円のところ2200円にて御入場できます。

トリのマークホームページはこちら

 11月15日 ク・ナウカの感想、昨日途中になってしまっていたのを加筆する。ク・ナウカといえば12月2日から渋谷ユーロスペースで開かれる第6回アート・ドキュメンタリー映画祭で「オイディプス王ク・ナウカ」と題して利賀フェスでのク・ナウカを取材したドキュメンタリー映画が上演される。このフェスティバルはこれまでもローザスダムタイプ、フィリップ・デュクフレの映像作品を取り上げるなど興味深い作品を上映してきているのだが、今回のラインナップを見てみるとウィリアム・フォーサイスの「ウィリアム・フォーサイス:Just dancing around ?」「ザ・インタビューズ」やマイケル・クラークのドキュメンタリーも上映されるなどダンスファンにとっては注目の内容である。また、これまでの例からするとドキュメンタリー映画は映画祭の後、ユーロスペースからビデオ化されて販売されることも多いためク・ナウカのドキュメンタリーがビデオ化されればこれまで舞台に触れる機会の少なかった地方の人に取っては朗報かも。作品のビデオはおそらく劇団でも販売していると思うけどク・ナウカの場合、いきなりそれを手に入れても上演の形態を知らずに楽しめるのかという疑問もなくはないので。

 今週末の観劇予定が固まった。18日土曜日は出社だが、仕事が早めに終われば山の手事情社「印象 青い鳥」(7時半〜)を観劇の予定。山の手事情社の本公演はこのところスケジュールが合わなくて連続して見逃しているだけにこれにはかなり期待しているのだが。新国立劇場「ラ・バヤデール」(2時〜)は行けそうにないのでまたチケット無駄にしてしまいそうだ。もったいないのでチケット直接手渡しできる人がいればただで上げてもいいと思ってるのだが、期日も迫ってしまったからなあ。もし、ほしい人がいたらメール下さい。19日日曜日はパルコ劇場「人間風車」(1時〜)を見てから、下北沢に戻ってげんこつ団「外半球」(7時〜)を観劇の予定である。

 「人間風車」は遊気舎版を見ている人の感想はかなりシビアなようだがどうだろうか。個人的には今回は斉藤由貴生瀬勝久がめあてでチケットを取ったので、2人がひさびさに生で見られればまあいいかというのがあるのだけど(笑い)。G2の演出でパルコプロデュースというと「子どもの一生」という悪い前例(コント芝居になっていて全然怖くなかった)もあるからなあ。


 H・アール・カオス「Dolly/砂漠の内臓」(11月11日、7時半〜)の感想を書く。公演概要は以下の通り。

世田谷パブリックシアター (2000/11/10-12 4ステージ)

構成・演出・振付:大島早紀子

舞台監督:北条孝照 明喜多村貴 音響:藤田赤目 音響オペレーター:水谷雄治
映像:太田実 衣装:朝月真次郎 宣伝美術:小田善久 宣伝写真:鈴木映里
キャストは
「Dolly」白河直子、菊池久美子、勝倉寧子、北山徹子、木戸志乃
 バイオリン演奏: 室屋光一郎 作曲:笠松泰洋
「砂漠の内臓」 白河直子、内田香、勝倉寧子、菊池久美子、北山徹子、木戸志乃、西田弥生 本徳亜希子

 今回の舞台は「Dolly」と「砂漠の内臓」の2本立てである。この2本はダンスの構成としてはかなり対照的になっていて、どちらの方が好きかという意味では好みが比較的分かれやすいかもしれない。「Dolly」には白河直子以外にも4人のダンサーが登場するが、これはほとんど白河直子とその動きを模倣する「影武者ダンサーズ」といった趣で作りとしては白河のソロダンスに限りなく近い。空間構成も舞台全体を使うというよりも舞台を暗くしてそこに四角に区切られた光を当て、ダンサーの周囲だけを照らしていく手法を多用している。その意味でも複数のダンサーが登場はするもののそれが関係性を持ってかかわるということはなく、白河自身も上半身を主体に激しく動くものの舞台上を動き回るということはなく、全体に静的な印象を与える構成となっている。その分、ダンスとしては余計な夾雑物がなく、舞台に向かう視線は白河ひとりの動きに集中されるため、そのソロダンサーとしての存在感はアンサンブル中心の「砂漠の内臓」と比べると水際だって見える。

 もっともイメージとしての広がりはいまひとつかもしれない。表題の「Dolly」は遺伝子工学によって生みだされたクローンの羊の名前から取られたらしいが、舞台右奥に置かれたコピー機のような装置やDNAの2重螺旋をイメージしたと思われる螺旋状の光の糸。しかも、コピー機の上に立った直後に方形の囲われた光の枠が増え、そこに白河の動きをなぞるようなダンサーが登場。舞台の終盤に向かってその数が次々と増えていく。最初に白河が英語で(だったと思う)「羊が一匹、羊が二匹」って台詞を発していたがこれっていくらなんでもあまりにテーマが直裁的に出過ぎているんじゃないのかと思い、鼻しろんでしまうところがなくもなかったのである。

 もっともそれでもなお痛々しささえ感じさせられる白河のソロダンスの魅力は絶対的なものがあって、私はホールの一階の左端の一番後ろの席で決して白河の動きがディティールまで見えたわけではないのだが、それでも白い照明に浮かび上がる白河の上半身裸体の姿はそこだけオーラを発しているようで、一度見たらそこから目を離せなくなってしまうような強力な磁場を放っていたのである。

 一方、「砂漠の内臓」はこれまでのH・アール・カオス作品の集大成のようにサービス精神に富んだ作品でアンサンブルのよさがよく発揮された舞台であった。ここでも舞台上手にパソコンが乗った机が置かれていたり、現代を感じさせるモチーフは随所に見られるのだが、見ている分にはそういうことはあまり気にならない。最初、砂の中から手をだして白河が踊るところとかは「春の祭典」を彷彿させるし、舞台の天井から白い砂が降ってきてそれに白い照明が当たるとこなどきわめてビジュアル的にも楽しめるものとなっている。構成的にも白河をはじめコートを着た男役のダンサーがユニゾンで踊った後、男女のデュオを何組か作ったりして変化をつけるなど飽きさせない工夫が随所に見られる。エンターテインメント性が高くスペクタクルとしての魅力が味わえる舞台なのである。吊り技法を使ったところなどはさすがにこの集団ならではの振付で、他の集団が踊るのは難しいかもしれないが、中段の男女役が入り乱れてのシーンなどはこれがそのまま海外のバレエ団(例えばパリオペラ座)が上演したとしてもおかしくない感じできわめて完成度の高いよく出来たモダンバレエを思わせる。もちろん、これは評価としては両刃の剣であって、こういう作品が作れるというのは大島早紀子が振付家としてきわめて能力が高いということを証明するとともにムーブメントそのもののオリジナリティーの高さからいえば白河を中心とした「Dolly」のようにある意味で尖ったところを露出するというより、自分の持ち味を生かしながらもバレエ、ミュージカルにもそのまま使えそうなといった既存のショーの形式にフィットさせていくような作品作りという匂いがしないでもない。

 ちょっと皮肉っぽい言い方をしているので、貶しているように感じる人もいるかもしれないけれど私として褒めているつもりなのだ。というのはこういう高度なスペクタクルが作れる振付家は日本にはいないし、世界でも限られているわけで、ローラン・プティとジェローム・ロビンスがその双璧だと考えているのだが、ひょっとしたら大島はそういうレベルの振付家にオオバケするかもしれない。そんなことを「砂漠の内臓」を見ながら考えたからなのだ。    

 11月14日 森博嗣の新作「魔剣天翔」を読了。道具立てに工夫して新しく見せてはいるがよくも悪くも古風な本格ミステリである。アクロバット飛行中の航空機の中で、2人乗りの後部座席に座ったパイロットが後ろから撃たれて死亡するという分かりやすくも大仕掛けな密室殺人というわけだが、これはもう取って付けたのような魔剣伝説といいまるで現代に甦ったディクソン・カーの世界ではないか。トリックもよくできているのだけど一読して最初は意味がよく分からなかったのもカーを彷彿とさせる(笑い)。偶然(ともいいがたいのだが)、殺人事件に巻き込まれた謎の美女を騎士道精神を発揮して助けるはめになる保呂草潤平の役どころなどまさにカーの登場人物そのものである。

 もっとも、冒頭の魔剣伝説のくだりなどもし本家が書いたとすればこんなにあっさりとやっつけのように済ませないで、悲劇の剣がたどってきた数奇な運命を描くだけで1章や2章は費やすはず。そのあたりはカーファンならもの足りなく思うかも(ちなみに私は全然カーファンではないので残念とは思わなかったが)。とはいえ、どこで勘違いしたのか裏表紙にもちゃんと「アクロバット飛行中のパイロットが撃たれて死んだ」と書いてあってそれを読んだはずなのに魔剣がでてきたくだり辺りから、私はどこでどう間違ったのか、後部座席のパイロットが後ろから剣で刺されて死ぬ話なんだとばかり勘違いしていて、そうじゃなかったのでがっかりしてしまった。どうせこの状況だったらその方が面白かったのに。カーらしいし。まあ、私はカーファンじゃないしどっちでもいいのだけど。


 伝言板でも朱夏さんにせかされてしまったのでミステリのことばかり書いているわけにもいかない。ク・ナウカ「王女メディア」(11月3日観劇)の感想を書くことにしよう。この作品は昨年の10月30日に浅草のアサヒスクエアで上演されている作品の再演である。念のため参考にしてみようと昨年の日記を見てみるとちょうどリージョナルシアターと時期がかぶっていたこともあり、今年のベストプレイになるかもしれないと美加理と阿部一徳の演技に簡単に触れて絶賛はしているのだが、細かく内容にまで触れてないのでほとんど今回書こうと考えていたことの参考にはならなかった。(笑い)。そうした俳優を主体とした舞台の評価については「王女メディア」の上演としてきわめて優れた舞台であるということは変わりはしないのだが、改めて再演を見て気になったことがあった。それは宮城聰がこの「王女メディア」の上演に際しエウリピデスの原作に新たに付け加えた解釈についてである。

 「王女メディア」といえば日本では蜷川幸雄の演出による上演があまりに有名だが、同じギリシア悲劇でも「エレクトラ」「オイディプス王」といった作品と比較すると上演される頻度は少ないのではないだろうか。海外では日本でも以前ギリシアの劇団の上演を見た記憶があるし、今年アビニョンに行った時には残念ながらソールドアウトで見ることはできなかったが法王庁宮殿中庭で上演されたオン公演のメインの作品がそうだったし、このページでもレポートした2年前のアビニョンでは一人芝居も見た(これはフランス語上演でスペクタクル性も皆無だったのでほとんど内容は分からなかった)。日本のこれまで上演例ではロマンチカがシードホールで上演したものが印象的だった。

 もっとも「エレクトラ」などが復讐劇としてまだそれなりの理解ができる内容なのに対して「メディア」は同じギリシア悲劇といってもちょっとそのまま上演するには躊躇するところがあるのではないだろうか。というのは夫の裏切りにより、自分を追放しようとしている夫とその愛人、さらにはその父親に復讐するというのはいいにしても夫との間に生まれた子供までも殺してしまうというのはただの激情として済ませるにはらちが開かない感じがするわけで、そのことを現代の観客に納得させるにはなんらかの仕掛けが必要となりそうだからである。

 ここまで書いてきたところで実はもう少しまとまったことを昨年の年末回顧に書いていることに気が付いた。以下、ク・ナウカ関連の部分だけを引用する。

 さて、最後に残ったク・ナウカ「王女メディア」であるが、宮城聰がこの作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」とこの作品のテキストそのものから立ち上げたメディアの情念を表出する美加理のミスマッチがどうも気になった舞台であった。そのため、それぞれの要素は面白いのに舞台を見ていてどうも違和感があったのである。これは宮城の解釈あるいは趣向の面白さというのが知的な面白さであり、美加理のがどうもそうじゃないところに違和感の原因はあるんじゃないかと思ったのである。ただ、美加理の演技そのものについていえばこれは素晴らしいのひとことであって、「エレクトラ」「天守物語」に続いてク・ナウカという装置においての美加理の到達点の高さを証明してみせたといえよう。ただ、問題は美加理の凄さは方法論的に言えばスピーカーとムーバーを分離するというク・ナウカの枠組みから生まれてくるものではありながら、事後的にはその枠組みなり、さらには戯曲の枠組みまでを超克していくということがあって、その場合、戯曲の枠組みから分析的に導きだされた解釈というようなものが逆に夾雑物に見えてしまいという困った現象があるわけだ。

 もちろん、古典劇のようなものを演出するには大抵の演出家にはよりどころとなる解釈の枠組みのようなものは必要なわけで、それは宮城に限らず、蜷川幸雄にしても鈴木忠志にしても同じだと思うのだが、SCOT時代の白石加代子の演技などを考えても俳優(パフォーマー)が素晴らしければ、素晴らしいほどある意味で演出家が用意した土俵をはみだしていくようなところがある。それはダンスにおいてより顕著であり、H・アール・カオスのダンスなどを見ると白河直子のダンスが素晴らしければ素晴らしいほど例えばその作品が「ロミオとジュリエット」だとして、その作品の枠組みに対して行った振付家の解釈が夾雑物に見えてきてしまうというパラドックスがある。もちろん、ダンスにおいては抽象化という道が残されており、物語というような要素を一切排除してしまっても作品は成立するわけで、演劇と同様に論じることはできないのだが。

 いささか横道にそれてしまったようだが、ここで言いたかったのはそれほど「王女メディア」における美加理の演技は素晴らしかったということである。ここで感じられた演技と解釈のベクトルのずれというのが偶然この芝居でだけそうだったということにすぎないのか、あるいはパフォーマーのいわば等身大を超えた超越的な表出力というのを暗黙の前提に置く、「身体性の演劇」が本質的に孕んでいるパラドックスであるのかはもう少し考えてみなければならないと思っている。その意味でも美加理のク・ナウカでの次回作が「オイディプス」だということはおおいに興味をそそられるのである。(以上引用)


 全体としての大きな枠組みではこの時の印象は今回と変わらないのだが、今回感じたのはこの作品の宮城による解釈の枠組の中での齟齬である。というのはここに引用した前回の感想では『この作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」』と書いたのだが、今回の上演を見るかぎりこの「男性原理と女性原理の対立」と「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」との間にも違和感が引き起こされる感があったからだ。後者の趣向は冒頭に登場してくる黒いフロックコートを着た男たちによる邦楽の会という外枠と劇中劇として上演される「王女メディア」の中で美加理が着ている衣装(朝鮮の民族衣装を思わせる)に象徴される道具立てによって表現されている。

 メディアはもともとイアソンがアルゴ船に乗って黄金羊毛を求めて遠征した時にその国で出会ってギリシアの地に連れてきた女性であり、ギリシア人の伝統的な感覚から言えば外国人(バルバロイ)である。もともとイアソンのために親、兄弟を裏切り、故国を捨て身ひとつで遠く離れたギリシアの地までやってきたのであり、いまさら故郷の地にも帰ることはできない身である。それゆえ夫の裏切りはメディアに取っては許すことのできないものであるわけだ。その意味では孤立無縁で故郷の地から離れ日本に連れてこられた「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」をこれになぞらえた宮城の解釈は幾分無理がある感じはあってもまだ「メディア」の解釈としては認めることができなくはない。

 しかし、ク・ナウカの「王女メディア」では最後のシーンでそれぞれ衣装をつけて芝居をしていた女性が扮そうを取り去り、シンプルな白の衣になって(つまり、女性そのものとなって)、フロックコートの男たちを皆殺しにする。ここにおいて、「王女メディア」であるとか「朝鮮人の花嫁」とかいった個別の事象を完全に超えて、「女性原理の男性原理に対する勝利」というテーマが直裁的に立ち現れてくる。これはおそらく、原作のエウリピデスの戯曲では最後に神の車が唐突に現れ、メディアがこれに乗って大空へと去っていくといういわゆるデウスエクスマキナ(機会仕掛けの神)という大団円があり、それをそのまま演じるのは無理と判断した宮城が原作とは関係のないモチーフとしてあえて付け加えたものではないかと思う。ところが、ここでの正面を向いて舞台に立つ女性たちと壁や空から落ちてくる本(おそらく、これも男性原理を象徴したもの)というあまりに分かりやすい図式に収まることで、それまで美加理が演じていた「一回性としてもメディアの悲劇」が抑圧された女性とその解放という分かりやすい構図に吸収されてしまう。それがどうも気にかかるのである。



 11月13日 このところ少しづつアクセスが増えてきていてそれはそれで嬉しいのだけどまだ1日100アクセスには届かない。レニ・バッソから依頼されていたチラシのための原稿を執筆する。2月の公演用のものだと思うのでまだしばらくは見られないと思うけどそのうち挟み込まれると思うので気が付いたら読んでみて。このページで取り上げているレビューとかは連絡さえしてくれたらチラシやパンフ(情宣用を含む)への転載は歓迎しますのでぜひ活用して欲しい。「このホームページについて」にも書いたけどもともと若手とかで知名度が低いためなどでなかなか批評の対象になりにくい集団などを批評する場を作りたいというのがこのページを立ち上げた狙いでもあったので。場合によっては書き直しや書き下ろしにも多忙で難しいというような特殊な条件がなければ応じるつもりなので。劇団/カンパニー関係以外のレビューも積極的に引き受けますので書かせてやってもいいというメディアがあればメール下さい。

 弘前劇場のレビューを書きたいと思って相変わらず準備中。下調べのためと思ってプラトンの対話篇を読みはじめ、それ以来何度も読み返しているのだが、これを読み返すとプラトン描くところのソクラテスがいかに三百代言か分かって面白い。とりあえず今読んでいる「プロタゴラス」では「ソフィストたち」と副題がついているように公式的にはソフィストの得意とする弁論術(レートリケー)に対する問答法(ディアクレティケー)の優位について書いたとされているようなのだが、現代に暮らす私たち(少なくとも私)が読みとる限りでは詭弁的な論理を操るという意味では両者に差異はなく、短い質問を続けながら三段論法で巧妙に言葉の多義性を逆手に取りながら相手を追い詰めていくソクラテスの論法には真理の追究者というよりは超絶技巧的な詐欺師の匂いを感じて笑ってしまう。

 まだ完全には考えがまとまっていないのだが、今考えているのは弘前劇場の「冬の入口」というテキストにおいて長谷川孝治がこの「プロタゴラス」にも取り上げられている二つのモチーフ「哲学」と「詩」の変奏として、人間の死と魂についてのプラトンの著作からの引用と「俳句」を持ち込みそれにどのような意味を与えようとしたのかということである。長谷川が登場人物の台詞に託してこうした要素を劇中にちりばめていくのだが、劇中での創作俳句を自らの手で鮮やかに捏造してみせるようにその手付きはあまりに遊戯的で、「プロタゴラス」でのソクラテスの論法同様に巧みではあるが真実味に欠ける。どうも、芝居を見ながらそのことが気にかかってならなかったのである。もっとも、演劇が作りものである限りはそれは嘘であるのだから、平田オリザの言を待つまでもなく、いかに上手く嘘をつかというのが問題なのである。その意味ではこの作品に登場する俳句のいくつかなどはいかにもそういう設定の人が作りそうなもので、いい嘘の要件は満たしているのだが、よく考えれば(いやよく考えなくても)告別式の後の斎場でプラトンの魂の3分説なんかをする人はいない(笑い)。

 だから、おそらくというよりほぼ間違いなくこうした会話は対比のためのレトリックなのである。言葉とはなにも関係のないところで「人間が生きて死ぬというのはどういうことなのか」を観客の1人1人に自省されるための仕掛けなのである。それが畑澤聖悟と佐藤誠の2人がもくもくと食事をするラストシーンへと観客をいざなうための仕掛けなのである。こう考えてみるとこの芝居で亡くなった兄弟の父親が出版社を経営し、俳句結社を主宰するとともに仕出し弁当屋も経営しているというのはきわめて暗示的である。これは「言葉」と「食」という人間にとって異なる意味でそれぞれ人間の営みにおいて根源的である事柄にかかわる職業であるからだ。さらにいえばまだ生きているらしいかつての愛人と認知したその息子の存在は暗示的ならもうひとつ「性」という事柄も連想させる。そして、死が生きているものに取って「喪失」「存在の消失」でしかないとすればやはり父親の不在のもとで、父親の好きだったものだけを詰めあわせた折り詰めを初めて出会った義理の兄弟がもくもくと食べ続けるというのは「1人の人間の生きてきた証」を暗示するにはきわめて象徴的な意味を持つシーンといえたのではなかっただろうか。印象に残るラストであった。 

 11月12日 起きたらすでに2時半だった。昼間の観劇は完全に諦め、理髪店に行った後、表参道でトリのマーク「冥王星を指で」(6時〜)を観劇。97年7月に上演された「四万年後の火星と私」@六本木・ストライプハウス美術館 (1997/7/4-6 5ステージ)の続編である。柳澤明子演じる傑作キャラクター、チキチキ探査機がその時以来の登場となる。わずか3年前のことだが、このところ連続公演で作品数が急速に増えていることもあり、印象的には相当前の作品という感じがするから不思議である。念のためトリのホームページの作品リストで調べてみると22本前になるからこれは昔の思えるはずだ(笑い)。前回の舞台は「火星のようなところ」だったが今回は題名からいっても「冥王星のようなところ」だろうか。いつものところだが場所はよく分からない。ただ、劇中に何度も繰り返される「寒くなって雪が降るかも知れない」というのがそうした極冠の惑星を暗示させる内容とはなっている。

 ただ、前回作品と違うのは今回は閉鎖空間であるストライプハウス美術館と違って、道路に向かって壁一面がガラス張りになったギャラリーラパンを使って、ここは外と直接つながっているわけではないが、内部から外の道が完全に見渡せる半開放空間で、実際に芝居を中だけではなく、外でもやらせたり、内部の部屋の置かれた測量機を覗くシーンなどではそのまま外を芝居の中での部屋の外に見立てるなど、この集団が開放空間を使う時によく使う見立て(借景)の手法が駆使されているからである。

 そのため、続編とはいっても「四万年後の火星と私」では部屋の中からは直接見えない外部で起こっているらしい様々な奇妙なこと(動く神殿とか)が物語の中心を占めていたのに対し、今回は柳澤・探査機を中心に探査技師(?)の山中正哉と2人の原住民(出月勝彦、中村智弓)のどうにもかみあわない奇妙にずれた会話が舞台の中核をなしている。以前は人間以外のキャラクターを演じることも多かった柳澤だが、最近はそれはあまりなくなっているので、今回の探知器なようなキャラクターはひさしぶり。だが、やはりこういう人を喰ったような役柄を演じさせると抜群ではある。嶋守千広が退団した後、しばらく苦しかったがこの12カ月連続公演を通じて中村智弓、(今回は出演していないが)櫻井拓見の新人組が成長してきたのが、柳澤をこうした遊び心の強いキャラに回せる力になっていることを伺わせる。

 11月11日 H・アール・カオス「Dolly/砂漠の内臓」(7時半〜、世田谷パブリックシアター)を観劇。特に後半の「砂漠の内臓」は日本のスケールを超えたまさにダンススペクタクルという相応しい作品であった。

 7日の日記コーナーで書きかけだったJCDN全国ダンス巡回プロジェクト「踊りに行くぜ!! vol.1」の感想を書き終えた。

 11月10日 お薦め芝居11月分を掲載。とはいえ、えんぺ用に急いで書いたのでひょっとすると時間ができたら下北沢通信用に書き直すかも。とはいえ、他にも依頼原稿の締め切りを抱えていてけっこう苦しい。遅筆な劇作家の悪口を芝居の打ち上げなどで言ってきたが人間、締め切りが迫らないと仕事にならないものである(笑い)。でも、どうもまとまったレビューが書きにくいと思ったのだが、ひとつだけ問題ありと思ったのは以前は公演の時に必ず台本を手に入れて、それを読み直して書くべきことについて熟考していたのだが、このところ劇作家が本が遅いために製本が間に合わず台本がその場で手に入らないことが多いんじゃないかと思われることである。半分は言い訳でもあるのだが、弘前劇場「冬の入口」などはひさびさに長文のレビューでも書こうかと構想を練ってはみたのだが、台本が手元にないのでディティールを文章で書くほどには完全に再現できない。一応、内容については分かってはいるつもりなのだが、台本がないと台詞とかを引き写せないのでどうしても抽象的になってしまうのだ。もっとも私の場合は戯曲評ではなくあくまで舞台のレビューを書くので台本はあくまで実際の舞台を時間が経ってから反芻するための参考文献ぐらいの意味しかもたないのだけれど。



 11月9日 やはりお薦め芝居を執筆。えんぺの締め切りが明日だが、全然進んでいない。今週末の予定を書くことにする。今週土曜日は出社だが、予定通り早めに仕事が終わればH・アール・カオス「Dolly/砂漠の内臓」(7時半〜)を観劇の予定。日曜日はとりあえずトリのマーク「冥王星を指で」(6時〜)を予定。昼はチケットが取れなかったので新感線「秋味R」に当日券で挑戦してみるかどうか迷っているところである。そもそも、当日券って出ているのだろうか。

 11月8日 お薦め芝居執筆中のため他のコンテンツが全然更新できない。

 11月7日 JCDN全国ダンス巡回プロジェクト「踊りに行くぜ!! vol.1」について感想を書くことにする。これは日本全国のコンテンポラリーダンスにかかわる劇場・スペース・製作者・アーティストなどによるネットワークを創り、ダンスと社会の新たな接点を目指すというNPO非営利団体)、Japan Contemporary Dance Network(JCDN)の設立に向けて準備を進めているJCDN設立準備室が組織の立ち上げに先立ち事業のプロトタイプとして実施した巡回公演で、今回はその1回目で今後こうした活動は設立された後のJCDNにおいても大きな柱になっていくという。(JCDNについてはこのホームページのリンク集からサイトにリンクしているのでそれを参照のこと)。

 今回は札幌(コンカリーニョ)、東京(セッションハウス)、横浜(STスポット)、大阪(トリイホール)の4カ所で行なわれ、私はこのうちセッションハウスでの公演を見た。セッションハウスの公演には会場となった4個所の小屋のプロデューサーの推薦により選ばれたパフォーマーのうち東京、大阪、札幌、京都から4組が参加した。

 以下簡単に演目を紹介すると

1.近藤良平&野和田恵理花(東京)「小さな恋のメロディ」(振付近藤良平&野和田恵理花)
2.エメスズキ(大阪)「fragment」(振付エメスズキ)
    (途中休憩)
3.平柳マリ子(札幌)「It's a fine day」(振付/出演平柳マリ子/出演苫米地理香)
4.ヤザキタケシ(京都)「Space Series vol1.スペース4.5 タナトス小僧のエロスな気分」

 この中ではまずダンスとして面白かったのが近藤良平&野和田恵理花による「小さな恋のメロディ」である。全体として2人の男女が出会って、知りあい、恋に落ちるまでの関係の変化のようなものをソロ部分とデュオによるからみを組みあわせながら、コミカルに綴っていくものだが、緻密な振付というよりはそれぞれのソロダンスの動きを生かしての即興性の高い振付のようだ。もともと南米育ちの2人が好きなラテンの曲目を並べてそれに合わせて踊ったというような形で作られており、その意味でも付突き詰めたテーマ性とかムーブメントの追求があるわけではないが、ことこの作品についていえば優秀なダンサーが音楽に合わせて自由奔放に踊った時に自然と表れる鍛え慣れた身体のしなやかさといったものの魅力が溢れた楽しいダンスに仕上がっていたのではないかと思う。特に自由奔放に踊ったり、ジャンプした時の近藤の身のこなしの軽やかさは天性のダンサーの輝きを感じさせる。野和田の落ち着いた感じとも相まって2人の間でどことなくほのぼのとした雰囲気を作ってみせそれは空間を共有している私の側の気持ちを自然とリラックスさせてくれた。ここで書くことでもないのだが、以前も書いているので、あえて書いてしまうと私はこれまで何度か舞台を見たもののコンドルズの舞台については否定的な評価しかできなかった。それはダンスとしても笑い(演芸)としても中途半端な印象しか受けなかったためである。しかし、それとはまったく逆にダンサーとしての近藤良平には以前、山崎広太のカンパニーで踊っているのを見た時から凄く引かれるものを感じていた。

 ここでは振付といっても基本的には自分の動きと2人で踊る時の動きのすり合わせが問題となる程度で、振付家としての評価をこの作品から下すのは難しい面もあるのだが、持ち味としてのコミカルな面もこの作品のように動きの中から自然と生まれてくるようなものであれば好感が持てる。特に野和田とのコンビは感性的に共有するところが多いためか2人の呼吸が合って静岡で見たソロ作品の時ともまた違ったインティメートな魅力が醸し出されているようで、今後もこのコンビでの作品も見てみたいと思わせられるものがあった。

 一方、ヤザキの「Space Series vol1.スペース4.5 タナトス小僧のエロスな気分」はなにもないフロアに白のテープで区切られた方形(4畳半)のスペースを描き、その中でソロダンスを展開していくという連作「スペース4.5」の中の作品。これまで静岡(シアターオリンピックス)でやはりこの連作のうちこれとは違う作品を見ているがほとんど作品の半分以上がグラウンドポジションで展開され、シリアス色の強かったその時の作品と比べるとエンターテインメントの要素が色濃くでた作品で見ごたえがあった。

 前半は細切れの短いシーンが暗転によってつながれていく構成で日本のコンテンポラリーダンサーとしては抜群のテクニックを持つヤザキだがここではそれはほとんど小出しのように見せるだけでもっぱら作品全体のトーン(雰囲気)を作り上げるのに費やされる。四畳半の部屋に住む男が夜寝付かれずにもだえているといった雰囲気の場である。もちろんここでも身体中をかきむしろうとしたり、いらついていたりといった神経過敏的なヤザキの動きは随所に顔をだすのだが、ここでは突然、演歌を歌いだすなどのデフォルメされたコミカルな要素を交えながらも基調としては繰り返しの多い構成にはダンス的な処理を感じさせながらも演劇的な日常的描写が続くのである。

 これが中盤以降にはしだいにクレッシェンド的にダンスの要素が増えてきて、徐々にヤザキタケシのダンサーとして凄みが姿を見せ始める。その中には「腕ぐるぐる」とか方形という狭い空間を逆利用しての切れ味鋭いターンの連鎖など他のダンサー(振付家)の舞台では」ちょっとみたことのないヤザキ流超絶技巧も含まれており、ダンサーとしてのオリジナリティーを存分に発揮し、次にナニが飛びだすかと息をもつかせぬ展開となっている。

 どう考えても関西人(出身は四国らしいが)としての受けをとりたいという本能がやらせたとしか思えない金髪のカツラをつけてのダンスシーンは思わず「テーマはどこいったんじゃい」とのツッコミを入れたくなるし、一度ならず二度までやってしまうという懲りないところは頭の片隅ではちょっとやりすぎじゃなのと思ったりもしたが、まあ芸としては楽しめたのでぎりぎりセーブとして許すことにしようか(笑い)。

 さて、後2作品についてはいずれも初めて作品を見たということもあってちょっと違和感を感じてしまった。エメスズキは以前から関西で活躍しているということで名前だけはよく耳にしていたため、どんな作品を作るのだろうと期待していたのだが、今回の作品では動きが単調すぎてバラエティーに欠く印象が否めず残念ながらどうもピンとこなかった。もちろん、今回の作品についていえば普通のダンスの動きから離れて可動部分の滑らかさを消し去りぎごちない動きをするというのは狙いのようにも思えるので、この作品からはどういうタイプの作品を作る人なのかまだ分からないところが多くて、ダンサー/振付家としての評価は保留。今度はぜひもう少し長い作りこんだ作品を見てみたいといったところである。

 平柳マリ子もちょっと判断に困ってしまった。共演の苫米地理香とそれぞれのソロ部分などでところどころに光る動きもあるのだけどそれがどうも作品全体の中で有効に生きてこないきらいがあり、ありもののモダンダンスをそのままなぞっているようにしか思えないので、見ていて恥ずかしくなってしまうようなところとダンスとして魅力があるシーンが混在してる感じなのだ。特にデュオとかでからんだりユニゾンで動く時に「ちょっと」と思うところが多くて見ていて思わず背中がかゆくなってしまうのだ。

 個々の作品については批判めいたことも書いたが今回の企画については日本のコンテンポラリーダンスが多様な表現を含んでいるということをダンスを見ることが初めてに近いような観客にも示すことができる内容だったし、巡回公演の趣旨に照らしあわせてもなかなかの成果を上げたということができるのではないだろうか。

 今回の出演ダンサーは会場となった4ホールによる推薦という形で選ばれたということでダンスにおいては各都市においてこのようにダンスに力にいれている小劇場がこの分野での情報センター的な役割を担いうるということがはっきりと示された。もっとも、こうした企画を継続的に続けていくには回を重ねるほどラインナップの組み方は難しくなってくるだろうし、地方のダンス状況というのは演劇以上に計りがたいものがあるので、今回以上に地方の現場が増えてくることになる今後を考えればレベルの問題も含めて今後はどうした形で参加ダンサーを拾い上げていくのかという問題は今回以上に難しくなってくるとも考えられる。

 しかし、こういう形で発足を前にJCDNの巡回公演が動きだしたことの意味は日本のコンテンポラリーダンスの普及においてエポックメイキングな出来事だと思うのである。  

 11月6日 このページの最初のジャブジャブ王者舘の感想を加筆。 

 11月5日 大阪に行き維新派「流星」を観劇。前日朝方まで「踊りに行くぜ!! vol.1」の東京公演打ち上げに付きあってしまい、ひさしぶりにヤザキタケシさんから話が聞けてそれはそれで有意義だったのだが、起きたら昼過ぎ。本当は早めに大阪に行き他の舞台も見たかったのだが、新大阪から直接、大阪・南港にタクシーで乗り付けやっと開演に間に合うというていたらく。終演後もはやばやと帰ってしまったので今年はいまいち維新派の雰囲気に心底まではひたれなかったのが残念であった。


 舞台自体も「南風」以来の芝居としての筋立てを重視した作風がまた変わりつつあることは確認できた。が、かといってこれは見る前に想像していたように「虹市」などヂャンヂャン★オペラの初期の作品に回帰したというわけでもないようだ。その意味どのように受容すべきかに戸惑う舞台であった。

 作劇においてはストーリーの重視。音楽もメロディーも前面に出し交響楽的な展開など「青空」以降、最近の維新派の舞台にはエンターテインメント性の高いポップな音楽劇としての色彩が強かったのが、この作品では一転して内橋和久がアルタードステーツで見せているような尖った現代音楽性/前衛性がより露わになった仕上がりとなっている。美術も黒く塗られた方形の柱が林立する抽象度の高いもので、衣装も途中一個所で赤が印象的に使われた以外は白と黒のモノトーンの世界。ヂャンジャン★オペラの重要な構成要素であるラップ風大阪弁の群唱はもちろんないわけではないのだが、無調的にリズムをきざむ音楽に乗せて、それぞれのパフォーマーが動きを繰り返すのを構成的に見せていくという手法の多用はこれまで以上に構成要素としてのダンスの重要度が高まってきていることを感じさせた。オブジェも舞台全体のトーンを支配するという点では依然重要な要素であることは間違いないものの最後の方で忽然と登場するUFOを除けば可動部分が少ない。装置の移動による万華鏡的場面転換という維新派のならでは醍醐味があまり味わえなかったのには物足りなさを感じざるをえなかった。

 もっともだからつまらないかというとそういうわけではない。内橋和久の音楽・ライブ演奏/松本雄吉の演出による音楽パフォーマンスだと割り切ってしまえば最後のクライマックス部分に向かっての壮大とも思われる盛り上がりはまさにオペラの名前に相応しいものだ。それでもどこか物足りなくなってしまうのはこの舞台では機会仕掛けのようにミニマルな仕草を反復するパフォーマーの群舞の中で、ソリスト的役割を割り当てられた石本由美の存在がこれまでのように核ではなくて、ある種「異物」的に感じられてしまったことにもある。これも「青空」以前への回帰ではなく、どこに着地点があるのかは不明ながらも確かに維新派はまた変容しつつあるとの印象を受けた一因なのだが、これがどういうことなのかは「流星」だけでは分からないというのが正直なところで、次回以降の作品を見たうえでもう一度考えてみたいと思う。

 11月4日 アプリコット「Believe」、JCDN全国ダンス巡回プロジェクト「踊りに行くぜ!! vol.1」を観劇。個別の演目への詳しい感想は後から書くことにしたいが、「踊りに行くぜ!! vol.1」はなかなか充実した公演だったと思う。近藤良平と野和田恵理花のデュオ「小さな恋のメロディ」も近藤の自由奔放な踊りにダンサーとしての高い資質を感じさせられ、しかも全体としても楽しさに溢れた作品でよかったがなんといっても圧巻であったのがヤザキタケシによるソロ。以前から優秀なダンサーだとは思っていたのだが、ひさびさにソロダンサーとしての凄みを見せ付けられた感があった。演目/出演者は変わるけどヤザキのダンスは11月7日〜8日の横浜STスポットでも見られるので今回の公演見逃した人にはお薦めである。

 11月3日 音楽座ミュージカル「メトロに乗って」、ク・ナウカ「王女メディア」を観劇。

 11月2日弘前劇場「冬の入口」がプラトンの対話篇をモチーフに使っていたのでレビューを書く前にちょっと読んで復習しておこうと思いプラトンパイドロス」「プロタゴラス」「テアイトス」を読み直してみた。読み直すといっても以前読んだのは大学時代なのでほとんどとというより全くといっていいほど内容は忘れており、初読に限りなく近い。もっとも読んではみるもので、私はなぜかプラトンの引用はほとんど「パイドロス」からだと勘違いしていたのだが、手元に台本がないのではっきりとはしないのだけれど、複数のテキストから取られているらしいことを発見(というほどでもないが)した。   

 11月1日 以前この日記コーナーで書き込んだ表紙を月替わりの公演写真でという件。伝言板でreset-Nの夏井孝裕さんが名乗りでてくれたので、( reset-N ver13.0 "LOCK" at Toga photo by T.Takayama )利賀フェスティバルでの「LOCK」の舞台写真を「今月の表紙」として使わせてもらうことにした。以前にも書いたけれど、これまでこのページで感想やレビューを書いた劇団で写真をメールとかで送ってくれる劇団ないし、ホームページの公演写真など使ってもいいよという劇団があれば今月以降しばらく月替わりで表紙写真を変えていくことにしたいので伝言板ないし、私宛のメールで名乗りでてほしい。とりあえず、飛ぶ劇場の谷瀬さんも名乗りでてくれたので来月の第1候補はいまのところ飛ぶ劇場である。他の劇団の皆さんも引き続き募集中なのでよろしく。