下北沢通信

中西理の下北沢通信

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 羊団「石を投げないで」(吹田メイシアター)を観劇。
内田淳子(元時空劇場)と金替康博による2人芝居。劇作家、松田正隆の新作をMONOの水沼健が演出した。これまでの羊団としての公演は次の3回だが、私はこのうち98年の「Jericho」だけを見ている。

1998年 3月 「Jericho」(作・松田正隆 演出・水沼健)
2000年11月 「水いらずの星」(作・松田正隆 演出・水沼健)
2002年 5月 「むずかしい門」(作・演出 水沼健)


 実は松田が脚本を担当した映画「美しい夏キリシマ」を見た後の感想*1で「今後はひょっとするとこういう古典的なタッチのものは映画、演劇ではもう少し実験的で前衛的なものをという風に書き分けていくのかもしれない。この映画はそんなことさえ思わせたのである」と書いたのだが、この舞台はまさしくそういう予感を的中させるような舞台であった。これまでの松田作品のなかでは特異な作品であった「Jericho」の系譜を引く作品で、直接にそれが描かれるわけではないが、表題の「石を投げないで」はどうもチラシにも引用されていたイエーツの詩から取られたものらしいが、その詩はイエス・キリストが十字架にかけられてゴルゴダの丘に引かれていく時にそれを見ていた群集から石を投げられたという聖書に描かれている故事を下敷きにしたもののようで、この戯曲にはキリスト教の描き出す人間の原罪についての問題が深く影を落としているようだ。
 ただ、こと舞台から読み取れることで判断する限りはそうした聖書を連想させるような神話的なイメージと幼女の拉致監禁や幼い子供を自らの過失で失ってしまった母親の嘆きなどがコラージュ風にそれらのエピソードが全体としてどういう関連性を作品全体のなかで持っているのかがはっきりとは読み取れないような断片的な形で集積しているため、いったい何を描こうとした作品であったのかがよく分からない。
 より問題であるのはそれを演じる内田淳子と金替康博が並み以上にいい俳優であるため、それがなにであるかはよく分からないエピソードを演じてさえ、そこには「分からないけれども、なにか凄いものを見たような気がする」というような舞台的な感興を生じさせし、特に内田淳子に関していえばその鬼気迫る気迫のようなものには圧倒されたのだが、少なくとも演出の水沼、出演者の2人が提供された松田戯曲をどのように解釈してだからこの演技なのだというようなことが意識して行っているようには思えなかった。
 だから、私はこの舞台を「分からないけれど、面白い」などと安易に誉めることはしたくないし、松田がこの舞台によって提供した、あるいは少なくとも提供しようとした問題群を自らのものとして共有することも残念ながらできなかった。こういう作品は難解とされている海外作家の作品のようにその問題群をはっきりと認識しないままで絶賛する人が出てきそうな気がするが、もしそういう人がでてきたら「あなたはこの作品をいかなるものとして受容し、そのどこが本当に面白かったのか」と聞きたいと思う。ひょっとすると私がこの作品あるいは一部で高い評価のあったらしい「Jericho」を面白いと思えなかったのは単純に理解度が不足してたせいかもしれないから。