下北沢通信

中西理の下北沢通信

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弘前劇場「職員室の午後」

弘前劇場「職員室の午後」ザムザ阿佐ヶ谷)を観劇。

出演 福士賢治 山田百次、古川康大、鈴木真、高橋淳、永井浩仁、林久志、濱野有希、青海衣央里、櫻庭由佳子・斉藤蘭(ダブルキャスト)、平塚麻似子・工藤早希子(ダブルキャスト

作・演出/長谷川孝治
舞台監督/野村眞仁・中村昭一郎
照明/石黒真紀
舞台美術・音響/石橋はな
装置/鈴木徳人
制作/有限会社弘前劇場
助成/文化庁
    平成17年度芸術創造活動重点支援事業

 最初にこの「職員室の午後」を見たのは1993年3月の「改訂版職員室の午後」東京公演/こまばアゴラ劇場(第5回大世紀末演劇展参加)。思えばこれが私と弘前劇場のファーストコンタクトであった。実はこれが大阪から東京・下北沢に引っ越してみた最初の芝居で当時のレビューに「さすがに東京の芝居はレベルが高いと思ったら、それは東京の芝居でもなんでもなく、青森県弘前市を拠点とした劇団の舞台なのだった」と書いたのを記憶している。
 さらにこの「職員室の午後」は95年6月に最初に見た時とはまったく異なった演出で東京のザ・スズナリで再演され、それがきっかけになって同じ年の12月にこの戯曲により長谷川孝治が第1回日本劇作家協会最優秀新人戯曲賞を受賞。この劇団の飛躍のきっかけとなった作品なのであった。
 長谷川はこの後、弘前劇場プロデュース公演Vol.2「休憩室」(1997年)、「職員室5:15p.m.」(2001年)と「職員室の午後」の続編的なテイストを持った作品を書きついでいくが、オリジナルの「職員室の午後」が弘前劇場によって上演されるのは11年ぶり。そういう意味では個人的にも見ていていろいろな感慨の念が浮かび上がってくる舞台となった。
 そういう意味では弘前劇場の代表作の弘前劇場による上演とはいっても、今回のキャストのなかで11年前に出演していたのは実は福士賢治、永井浩仁の2人だけで、演出は前回と同様に長谷川孝治によるものとはいえ、単に出演してないというだけではなく、この舞台を実際に見たことがない俳優たちがほとんどとなっている。そういういわば代替わりした若い俳優がこの芝居でそれぞれ自分なりの役柄作りに取り組んでいるのを見て、劇団という集団において、変わらずに受け継がれていくものと、変わって行くものとはなんなのだろうということを考えさせられた。
 具体的に今回の芝居について感想を述べると、まずどうしても言及しなくてはならないのはこの集団においての福士賢治という俳優の存在の大きさである。実は今回の公演は福士の演じていた役柄は福士と長谷川等とのダブルキャストになっていて、福士が出ていなかった時の舞台がどうだったのかというのは見ていないので分からないのだが、この日の舞台を見た印象では極端なことをいえば上演のイメージの継続性という意味では福士が初演当時と同じ役柄を演じていたことはこの芝居にしっかりとした屋台骨が入ったという意味で大きかった。
 もっとも、それとはまったく逆の感慨の念もあって、今回は前回上演では鈴木徳人が演じていた独特のペーソスを感じさせる子持ちの教員の役を山田百次が演じていたのだが、山田は弘前劇場への初めての出演が確かオーディション組で参加した「休憩室」で、その時は生徒役だったと記憶しているのだが、それが今回はやや役を作っているとはいえ、鈴木が演じた役を演じているということ自体にも時の流れということを感じさせられたのである。 
 「職員室の午後」は高校の職員室を舞台にした群像会話劇であり、現代演劇史的にいっても、平田オリザの「ソウル市民」や「北限の猿」と同様に90年代演劇において「関係性の演劇」の規範を提示したもはや現代の古典といってもいい作品でがあるが、学園ものというサブジャンルをなしている有利さはあるにしても、今見てもまったく古びたところがなく、しかもよく練られた脚本で、やはり、この芝居は本がいいというのが今回の上演で改めて感じたことだ。 
 古川康大、鈴木真、高橋淳ら今回キャストに入った客演陣も以前の上演と見劣りしない好演で、全体としてのアンサンブルのレベルも東京のトップクラスの劇団と比べても遜色がないもので、完成度の高さを感じさせた。
 ただ、逆にそうだからこそ現在の弘前劇場はいろんな意味で過渡期であるということも感じた。実は役者の役づくりという意味では長谷川はかなりの部分をそれぞれの役者にまかせているので、それゆえ役者が入れ替わればそれぞれの役の印象も変わるのだが、今回の演出について言えば、私が見たなかでは最初のアゴラで見た時のものと似たオーソドックスなテイストのものであった。舞台を見る前には今回は時間がだいぶ経過しているとはいえ、4演目になるので勝手知ったるテキストを使って。長谷川が今回はどんなことをやらかしてくれるのかについて期待していたのだが、弘前劇場以外からの参加者や入団して経験の浅い出演者も多かったこともあったのか、フリーハンドで遊んでしまうような昔のようなラジカルな演出は今回の上演ではあまり見かけられなかった。
 長谷川の脚本ではこのころに一番、遊びないし、遊べる余地がある余白があって*1、そういうところはその後、長谷川の脚本がよりシリアスな文学的な主題を志向するようになって徐々に姿を消していってしまうのだが、そういう余地のある戯曲だからどうなるかと注目していたのだが、ややウェルメードな方向に行って完成度を優先していたように思えた。
 もちろん、今回はこの作品を上演することを決めた時点で客演を呼ばないと男優の頭数がそろわないということがあっただろうし、次回公演も「夏の匂い」の再演ということもあり、キャスティングにおいては今回の延長線上にならざるをえないところがある。ただ、そのせいで今回の「職員室の午後」が舞台自体のレベルは高くはあったが、弘前劇場の本公演というよりは弘前劇場プロデュースの公演に見えてしまったのも確かなのだ。
 それゆえ、今後長谷川がどんな新作を書くのかを確認するまでははっきりしたことはいえないところはあるのだが、以前にテレビのドキュメンタリーで長谷川が強く主張していた「演劇におけるドキュメンタリズム」、あるいはこの「職員室の午後」でその方法論を確立したと言われている「現代口語地域語演劇」を2つの柱とする弘前劇場ならではのオリジナリティーをしっかりと保持していくためには主要キャストを客演陣が占めるやり方は限界があると思う。もっとも、地域劇団としての弘前劇場の特異性から、ある程度以上キャリアのある劇団員を補充するのはそれほど容易ではないことも分かっている。長谷川孝治弘前劇場がこのハードルをどのようにしてクリアしていくのか。そのことが気になった公演でもあったのである。
 

*1:そういう意味で言えば突出していたのは頭のてっぺんを剃って、河童頭で登場していた山田百次だが、これには不覚にも笑わされてはしまったのだが私にはそれは役作りの努力の方向性としてはちょっと違うんじゃないか(苦笑)と思われたのだが、どうだっただろうか