下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

LUCY/KOTA Project@京都芸術センター

LUCY/KOTA Project(京都芸術センター)を観劇。

「Setting」Lucy Guerin振付・演出
 出演 赤松美智代、森井淳 作曲・演奏HACO
「Chamisa4℃」山崎広太 振付・演出
 出演 フィービー・ロビンソン、リー・サール、ニック・サマービル、ジョアン・ホワイト 音楽 菅谷昌弘

 日豪友好協力基本条約30周年を記念した芸術分野においての国際交流事業「オーストラリア−日本 ダンスエクスチェンジ」の一環として行われた公演。日本の山崎広太とオーストラリアのルーシー・ギャレン(Lucy Guerin)が互いに相手の国でオーディションにより集めたダンサーにより、それぞれ現地に滞在して製作した作品を持ち寄り初演した。
「Setting」は日本人のダンサーたち(赤松美智代、森井淳)にLucy Guerinがインタビューをして、そこから立ち上げていった一種のドキュメント的な作品だった。ムーブメントやコリオグラフのシステム的なところから構想していったというより、異文化コミュニケーション自体を主題にしたようで、2人のダンサーのうち森井は英国の留学経験もあり、英語がかなり話せるのに対して、赤松美智代がほとんど話せないことから、舞台には2人のダンサー以外にも通訳である女性も一緒に上がり、赤松が舞台上でアドリブで森井にする質問に対して、森井が英語でそれに答えたのを同時通訳のように舞台上で日本語に訳したりと、舞台上での英語・日本語の交錯を観客にも分かりやすい形で補足してみせた。
 タイトに構築された「作品」というよりは日本における振付家とダンサーの交流を綴ったLucy Guerinのエッセイ風日本滞在記のような趣きもあり、そのほのぼのとした感じは好感の持てるものであった。ただ、これを「ダンス作品」という風に考えた時には物足りなさも残った。振付に関しては一見、ダンサーが自分の動きで動いたものを振付家がサンプリングして拾ったように見えるが、実は振付家からはかなり細かい動きについての指示がでていたということを後から出演者に聞いた。ただ、Lucy Guerinという振付家が普段どんなムーブメントを基調として作品をつくっているのかというのはこの作品からだけからだと分かりにくいきらいもあった。
 普段は作品を作る前に「こういう作品にする」ということを決めているのに対し、「今回は日本でダンサーと会っていろんなことを聞き、滞在している時に感じたことも含め、そこで感じたことを作品にした」とLucy Guerinはアフタートークで語ったが、そういうアプローチの違いがこの作品の方向性に大きく反映した、と思う。
 それゆえ、この作品を日本の観客がどういう風に受容するかというのは少し複雑なところがある。これはあくまでオーストラリア人の彼女が私の感じた日本はこうだったのという風に語りかけてるような作品であり、オーストラリアの観客はその同じ土俵で作品を受容することができるが、日本人にとってはそうではないからだ。
 日本人である私にとっては「日本に遭遇して日本のこんなところがLucyにとっては面白かったんだ、「へー」という感じで、それが意外に思えることも納得できることもそのなかにはあるのだけれど「外国人の目から見た日本」を作品を通じて観客である私たちは見せられ、「それは表層的な見方じゃないの」とか、「そういう風にいわれればそうだよな」とかいろんなことを考えさせられる。
 ひょっとしたら作り手の方にはそういう気はないのかもしれない。もう少し個人的、つまり質問の多くは日本というよりは2人のダンサーに対する個人的なことだし、特に日本あるいは異文化をことさら意識しているつもりはないのかもしれない。だが、結果的には2人のダンサーのマイム的な演技とそれに対する英語での解説で花嫁衣装を着る場面を再現したりする。この少し前に赤松が小さい時になにになりたかったのかという質問に対して、答えのひとつとして「お嫁さん」とこたえた場面に続くので、そうだとすれば個人的なことのイメージ化といえなくもないが、ウエディングドレスでないというのはLucyの選択だろう。「Setting」というのは通訳の女性がただ通訳するだけでなく、舞台上にいろんなものを置いていき、それがしだいにある種の美術インスタレーションのような形を現しはじめることにあるが、そのイメージが私にはある時には「いけばな」、ある時には日本の石庭を連想させ、これが象徴的にLucyが感じた日本のイメージを表しているように思われたのだが、これは考えすぎだろうか。
 一方、山崎広太の「Chamisa4℃」はより個人的な山崎自身のイメージを投影した作品。山崎の振付家としてのよさのひとつに舞台空間にダンサーを複数配置しての空間構築力の高さというのがあるのだが、ソロ作品などが多かったこともあって近年の作品ではそれがあまり出てなかったのがこの「Chamisa4℃」ではひさしぶりにそれを堪能することができた。
 山崎にとってはこのプロジェクトは国際交流というよりもひさしぶりにいずれもバレエを主体にした高い技術を持つ粒ぞろいのダンサーたちとの共同作業の場を与えられたということに大きな意味があった。振付は基本的にはかなり細かい部分までが「振り移し」であって、これらのダンサーたちがこれまでの経験である程度処理できるコンテンポラリーダンス的な動きと「舞踏」をベースにしたようなゆがんだ身体や静止ないし、微細な動き、痙攣的な動きのミクスチャーではあるが、今回の作品での山崎の振付が面白かったのはそうした要素の指示をダンサーに与えた後でそれを「舞踏の型」に無理やりはめ込むことはしないで、それぞれのダンサーがそれまでつちかってきた自分自身の身体性のなかでの処理をまかせていたことで、そこに結果として「舞踏でも西洋流のコンテンポラリーダンスでもないなにか」が生まれていたように思われたことだ。
 舞踏的身体を持たない西洋のダンサーが舞踏の振付家の作品を踊る時にこれまで見た舞台でありがちなのは表面的な形だけを真似ることで「ニセモノ舞踏」みたいな作品になってしまう、ということだが、山崎のはそうではなくて白人のダンサーが持つ彼ら特有の身体のありかたは生かしたままで、そこに振付として舞踏表現の特徴のうちのいくつかの要素を盛り込んでいった。山崎は日本でも自分の持っている身体とは大きく異なるバレエダンサーに積極的に振りつけたり、最近はセネガルのカンパニーとの共同作業によりアフリカ人のダンサーに振りつけたりしてきたが、そうした経験が生きて、このような作品が可能となったのではないかと思った。
 空間構成という意味合いでいえばこの作品ではきわめて効果的に鏡が使われていて、実際に舞台上に存在しているダンサーのほかにそのダンサーの姿が鏡に映って、その両方が観客の目に同時に映る。それに加えて、照明がこの作品では非常に短い時間の間に複雑に変化していく、ということも試みられ、この2つが相互作用することで、時間に合わせて刻々と変化していく非常に複雑な空間のイメージの変容が騙し絵的に舞台上に立ち現れた。

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編