法月綸太郎ミステリー塾 国内編 名探偵はなぜ時代から逃れられないのか
- 作者: 法月綸太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/23
- メディア: 単行本
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とここまで書いてきて念のためにと思ってネット検索で調べてみると「初期クイーン論」が発表されたのが「現代思想」1995年2月号、「笠井潔論」は「創元推理」1993年春号だから、実はこちらの方が先であった。勘違いしたのは「初期クイーン論」で展開される問題群のいくつかがこの論考で先取りされているということがあったからなのだが、克明に読んでいれば「クイーンという作家の形式主義的側面については、主としてこの試論で触れる余裕がないので、また別の機会に稿を改めて述べることにして」と来たるべき「初期クイーン論」についての構想がこの時点でほぼ固まっていたということを思わせる記述もあったのだが、これは要するにクイーンという巨大な怪物を相手にするにあたって、まだその時期は早いとして法月が笠井潔論の枠組みを借りて、その試行を試みたということになるのかもしれない。
興味深いのが笠井潔の「大戦間探偵小説論」に対して、法月がとってみせる微妙な立ち位置であって、「大量死が本格ミステリを生み出す要因となった」という笠井の立論に対して、その立論の前提に乗っかってみせるかのような擬態を見せたうえで、まずはそれを「本格ミステリ全般」から「大戦間探偵小説」へと限定してみせる。法月は笠井が言う「二十世紀の探偵小説」というのを「文字通りの広い意味ではなくて、両大戦間に書かれた本格探偵小説群」すなわち「大戦間探偵小説」に限定してみせるのだが、この手つきは笠井が実際には「大戦間探偵小説」について論じる論拠として、この「大量死」理論を持ち出しておきながら、その一方でその対象をできれば新本格まで含んだ「二十世紀の探偵小説」全体に敷衍したい意図がありありなのに対して、しっかり釘をさしたうえで、ヴァン・ダインとクリスティの「ABC殺人事件」については笠井の論拠を認めたうえで、クイーンについてはそれを保留する。
「大量死」がその創作のひとつの引き金になったということを認めながらも「二重の光輪に飾られた選ばれた死者」という笠井の立論はクイーンには当てはまらないと論じることで、これは鋭い笠井批判になっているのだ。 私の場合はミステリ自体については門外漢である時期が長く続いたので最近のミステリ批評においてはこの笠井の「大量死が本格ミステリを生み出す要因となった」という立論については最初に聞いた時に「そんな馬鹿な」と唖然とさせられた*1のだが、そのなかで法月が疑問を呈している「『大戦間探偵小説』とハイデッガー哲学が同根と論じている笠井がなぜその一方のハイデッガー哲学をレヴィナスの論点から批判しながら、『大戦間探偵小説』にはその矛先を向けないのか」という批判は痛いところをついているのじゃないかと思った。
この評論集にはほかにも刺激的な論考がいくつか収録されているのだが、思わず笑ってしまったのが島田荘司を現代美術家の赤瀬川原平と合わせ鏡のように論じてみせた「島田荘司論」で、これはある意味抜群に面白いのだが、疑問に思ったのはミステリ評論というだけでも読者はかなり限定されていると思うのに「老人力」などで脚光を浴びて以降の今ならまだしも、いくら芥川賞作家だからといっても、島田荘司の読者のうちだれが赤瀬川原平のことを知っているというのだろうか(笑い)。「生首に聞いてみろ」が現代美術の世界をバックボーンを含めて、正当にとらえた小説であったため、驚いたのだが、法月の現代美術への興味はこの文章などを読むと昨日今日の付け焼刃ではなくて、少なくともこのころ(1995年)からは継続しているのだということがうかがえて興味深かった。
最後にもうひとつ偶然の符合を感じたのは「PはパズラーのP」。東野圭吾の「容疑者Xの献身」についての論考だが、ここでは私がこの作品を読んでまず最初に疑問を感じた『P≠NP問題』についての東野の解釈の妥当性*2が分かりやすく解説されているのだが、やはり間違っていたか。この文章のなかではこれは東野のレトリックだとして擁護する姿勢を見せているのだが、数学者である探偵と犯人が登場するというのが売りの小説だし、この部分が喩えとしてもこの作品の主題においては大きな意味を持つところであるだけにこの部分が数学的に間違っているというのはこの作品にとってはかなり大きな瑕となるといわざるをえないが、どうなんだろうか。
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