下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派「nostalgia」(3回目)@ウルトラマーケット

維新派「nostalgia」ウルトラマーケット)を観劇。
http://www.ishinha.com/nostalgia/SP/matsumoto/matsumoto.html

M1 海の近くの運動場  映像で運動場
M2 移民たちの肖像 映像でヂャンヂャン創世記
M3 身体検査 四角い箱型の枠のなかに入った人たち
M4 <彼> 映像? 巨大なる人の出現
M5 7拍子のサンバ 緑のサトウキビ畑とコロニアル風の建物(新聞社) 
M6 渡河 河を次々渡って南米を縦断
M7 難民   
M8 風の旗 風にはためく旗が次々と(映像)
M9 ジャングルジム 巨大なるジャングルジム
M10 白と赤のタンゴ 排日運動に巻き込まれる
M11 護送列車 つかまって捕虜として収容される
M12 El dorado 映像と舞台装置の合成により巨大なる発掘現場を再現
M13 山高帽 巨大なる人と帽子を拾った少年に出会い

物語
1908年。ブラジル・サンパウロ。移民収容所で身体検査を受ける日本人少年ノイチ。その隣にはポルトガルからの移民の少女アン。2人はある日、先住民の花を売る少年チキノに出会います。ブラジルからアルゼンチン、チリ、ペルーと南米を縦断する3人の旅が始まります。


 維新派「nostalgia」3回目の観劇。大阪公演は11日まで続くが私は仕事の関係で見られずに今回が大阪では最後の観劇となった。やはり「キートン」「ナツノトビラ」と続いたアート路線に多少の変化が出てきたとは思うが、基本的には祝祭演劇としての維新派にもどったわけではない。また、そんな風に簡単に後戻りもできないと思った。
 作品の雰囲気が違うというのでひとつ大きいのは内橋和久の音楽の方向性だろうか。南米が主題(モチーフ)ということもあってか、静謐でモノトーンな香りのするいかにも現代音楽という曲想が多かった前2作品と比べると、トロピカルで乗りのいい曲が多い。もちろんそれは内橋の音楽が単体としてそうであるというのにはとどまらない。
 この作品も維新派らしく、また今回は一種の回想劇の構造をとっていることもあって全体としてはセピアめいたモノトーンの照明、衣装、装置でスタートする。ところがこの舞台では突然そのモノトーンの色調を打ち破るかのひとり真っ赤な衣装を着た少女が現れる。それがアンなのだがその赤の色遣いが思わずハッとさせるほどなのであった。
 そして次に現れるのはサトウキビ畑の目にも鮮やかな緑。ここ*1では収穫となった緑のサトウキビを持った白いスカート姿の女たちが実に楽しそうに踊るのだ。「喋らない台詞、歌わない音楽、踊らない踊り」を標榜している維新派ではあり、このブログでも維新派コンテンポラリーダンスと見なしうるかどうかが以前議論になったことがあった*2が、コンテンポラリーダンスであるかどうかではなくてもっと狭い意味でもここのシーンは少なくとも踊っていると思う。とにかくこの場面の色彩感覚が素晴らしい。ここまでカラフルな情景が維新派の舞台に現れるのは私の記憶する限りでは「南風」以来かもしれない。
 ビジュアルという意味では色彩感覚以上にこの作品の特徴となっているのは冒頭場面からスタートして映像を多用していることだ。そしてそのことでのプラス面とマイナス面の両方がこの舞台にはうかがえた。ひとつは映像を使うと聞いた時に以前は映像を使った作品もあったが、最近はほとんど使っていなかったことから、最近の維新派のタッチと映像がはたして噛み合うかについて若干の危惧があった。だが、今回の映像(高岡茂監督)はことのほか健闘していて、安心したのだけれど、今回は映像のせいで逆に維新派らしい舞台美術(黒田武志)が舞台狭しと展開するのは「M5 7拍子のサンバ」と「M12 El dorado」の2つの場面ぐらい。そこのところが美術ということに関していえば少し物足りない思いがしてしまうのも確かなのである。
 また、ビジュアルプレゼンテーションにおいて松本雄吉の演出がもちろん舞台全体を支配しているということはあるにしても「キートン」「ナツノトビラ」では黒田武志の舞台美術の存在感は圧倒的であった。それが映像を多用したことに加えて、この舞台においてかなり大きな存在感を見せる2つの美術的構築物(大きな人とジャングルジム)がいずれも黒田の手によるものではないということもあってか、やや全体の印象において方向性のばらつきが見られ、印象が散漫になっているのも否めないであろう。ただ、舞台美術が出てくる場面が少ないせいもあってか美術の登場する上述の2シーンは当該の美術そのものもそうだが、例えば「7拍子のサンバ」でいえば最初のサトウキビ畑の場面が絵画的に展開していき、そこに左右から新聞社のセットが登場していくことで、それまで近景として描かれていた緑の畑が次第に遠景に退いていく、そしてその新聞社の窓の向こう側では花火が打ち上げられ皆がダンスに興ずるカーニバルのような場面からプラカードを持った労働者たちが登場するゼネスト、そしてそれが次第に暴動化していき、遠くで炎が上がる。それと平行して窓のこちら側ではアンが男に襲われてレイプされるような生々しい場面も展開される。
 こうしたそれぞれの場面は登場人物であるアンやノイチに降りかかった個別の出来事であるが、ここではそれは同時に移民たちがその激動の渦に巻き込まれていく、20世紀という動乱の時代を象徴するような出来事としてもスペクタクルかつ劇的に描かれている。「キートン」や「ナツノトビラ」が静止画(タブロー)的だったのに対して、この「nostalgia」に松本の劇構成においても内橋和久の音楽においても一種のダイナミズムを感じるのは前者が一種の幻想譚として無時間的な時間を描いていたのに対してこの「nostalgia」が20世紀の歴史の流れという巨大な存在を叙事詩的に描き出そうという意図があるからであろう。
 それは当然等身大のものではありえないわけだが、そのための仕掛けとして松本がこの舞台で取り上げたのがひとつは実際に言葉どおり等身大を超えた「巨大な人」。そしてもうひとつが旧約聖書の見立てである。冒頭に映像として登場する移民船はブラジル移民船である笠戸丸なのではあるが、松本はこれを旧約聖書ノアの箱舟になぞらえてみせる。
 維新派のテクストはこれまでも「南風」が中上健二の小説を原作としていたり、「カンカラ」が宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きとしていたように特定のテキストを下敷きとしたことはなくはなかったが、基本的には言語テキストが単語の羅列を主としているということもあって、原テキストをそのまま引用することはきわめて稀であった。その意味ではこの「nostalgia」は
箱舟の長さは300キュビト。その幅は50キュビト。その高さは30キュビト。
箱舟に天窓を作り、上部から1キュビト以内にそれを仕上げなさい。
また箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、
それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたと一緒に生き残るようにしなさい。
それらは雄と雌でなければならない。
旧約聖書 創世記 6章 14節 - 19節 )

 この旧約聖書の言葉をそのまま台詞による「語り」で聞かせている。ここが特筆すべき特徴である。
 さらにそれだけではなく、この旧約聖書からのノアの箱舟の引用は旧約中に出てくるほかのモチーフも喚起していく。例えばこの大きな船の形は映像を見る限りどことなく鯨を姿を彷彿とさせるところがあって、それはただ映像を見るだけならば「そんな風にも見える」というだけだが、会場の入り口になぜか置かれている鯨のオブジェの記憶や開演前の曲に内橋が入れ込んでいる鯨の鳴き声のような音、これらが船が出現した瞬間にそれを見た観客に直ちに鯨を連想させる。連想ゲームではないが、ノアの箱舟、鯨ときたらここでは同じく旧約聖書にあるもうひとつの物語「ヨナがのみ込まれた巨大な魚(鯨)」を連想するのは必然であろう。
 この後、台詞は旧約のノアの系図のくだりがやはり引用されてはじまるのだが、この台詞は舞台の背後にスクリーンに映し出された日系移民たちの姿を描いた無数の写真とのコラージュにより、ここで旧約聖書のよるユダヤ人の運命が南米における日系移民の苦難の歴史と重ね合わさられることになる。つまり、ここでは松本の手により、
旧約聖書/南米の日系移民の歴史/ノイチとアンとリオに起こる出来事という3重の重ね合わせによるテクストの重層化が試みられている。
 移民の歴史というのはこれまでも「漂流民」の物語の形で松本が何度も取り上げてきたモチーフである。「水街」「王国」「カンカラ」などにそのモチーフは登場するがそれを象徴するのはこれまでは「水」のイメージであった。ところが「nostalgia」が興味深いのはこの「水」のイメージと対比されるようにいくつかの場面で「砂」のイメージが持ち込まれていることだ。つまり、ここでは舞台が互いに対照的な「水」と「砂」のイメージが交互に繰り返されることで、重層的に展開していくのが、この「nostalgia」の特徴で、そこから弁証法的に生まれるダイナミズムが魅力なのだ。

*1:シーンとしては「M5 7拍子のサンバ」となる

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060717