下北沢通信

中西理の下北沢通信

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五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」@京都芸術センター

五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」(京都芸術センター)を観劇。

作/演出:前田司郎
出演:尾方宣久(MONO)、岡嶋秀昭、立蔵葉子(青年団 )、用松亮、荒木千恵(同志社小劇場 )
中村真生(青年団)、浅井浩介、上田展壽(突劇金魚 )、大山雄史、駒田大輔、鈴木正悟
長沼久美子、新田あけみ、野津あけみ、肥田知浩(劇団hako)、深見七菜子、松田裕一郎、宮部純子、森岡望

 五反田団の前田司郎が劇作家・演出家として稀有の才能の持ち主であることには疑いはない。しかし、登場人物がほとんど全員舞台上で死んでしまうというきわめて斬新かつ人を食った趣向に前田らしさを存分に感じさせる作品でありながら、この「生きてるものはいないのか」が例えば昨年の「ふたりいる景色」「さようなら僕の小さな名声」のように前田にとってのベストアクトといいきれるかについては実は若干の疑念もないではない。演劇作品としての完成度をいうならばむしろ失敗作といえなくもない破綻を示しているのも確かだからだ。
 というのはひとつはこの「生きてるものはいないのか」が現代演劇において不可能とされているタブーにあえて挑もうとしているためで、そのために形式としては破綻せざるをえないというはめに陥っていて、そこが現代演劇表現の実験としてはきわめて刺激的なのだ。しかし、同時に通常の観客にとっては破綻ないしクオリティーの低さとというジレンマがあるからだ。 
舞台はある大学のキャンパス近くのきわめて日常的な世界から始まる。恋人をゆずって別れてほしいともうひとりの女性に迫る女、その二人の近くに座ってはいるがなんとなく煮え切らない態度の男、彼らが居座る喫茶店のマスター、後輩に横恋慕する医学部の研究者、都市伝説を探ろうという学生たち、子供を捜す母親、病院から抜け出してきた入院患者たち。都市伝説を探る学生たちによれば、自分たちの通う大学の大学病院の一室でなぜか、米軍がウイルスを研究しているらしいとの噂。しかし、そうしたことと関係なく、日常はあくまでも緩やかに流れていくはずだった。
 ところが、ほとんどなんの前兆もなく舞台上で咳き込んだひとりの女性がもがき苦しみながら突然の死を迎える。そして、そこからはこの舞台ではほとんどすべての登場人物が次から次へと舞台上で死んでいくのである。
 そして、もうひとつの特徴は通常の演劇の場合は劇中で死んだ人はそで近くまでなんとか這っていってそのすぐ外側で力尽きるとか、倒れて死んだらだれかの手で死体が運び出されるか、暗転か明転で舞台は転換され、その後では遺体は不在であるというのが通例。つまり、舞台上には死んだ人はいつまでも残ってないのが、演劇としての約束ごとなのだが、この舞台では一度倒れて死んだ人は芝居の終わりまでその同じ場所で死にっぱなし(笑い)なのだ。
 つまり、ここで挑んだタブーとは演劇における「死」の扱いで、平田オリザに代表される「関係性の演劇」では通常、これを「関係の不在」として暗示し、舞台上からはその存在を排除するのが通例であった。なぜなら、演劇におけるリアル(=いかにうまく嘘をつくか)に重点を置いた平田の演劇では舞台上における役者の死というのはその周到な嘘がそこから崩れ去ってしまう弱点となりかねない弱い鎖であり、それゆえそれは周到に排除されなければならない、そしてもうひとつは私たちの現代社会において死の存在は日常生活において周到に隠蔽された存在であり、それゆえ、その現実世界をモデルにした劇中での世界でも死は隠蔽されなければならないということ。この2つの理由があった。
 それではそれをあえて舞台に上げると逆にどうなるか。先ほど述べたのとちょうど裏側になるのだが、舞台上での俳優の死はしょせん、「死にまね」であり、ほかの行為を確かに演劇であるかぎりは「まね」には違いないのだが、「まね」であることがあまりにも自明すぎて、つまり「嘘くさい」のである。 
 つまり、演劇の形式としてはこの作品は演劇の持つ嘘くささを例えば平田オリザがそうしたように巧妙に隠蔽するのではなくて、逆に露悪的なまでに演劇におけるリアルの限界を白日のもとにさらけ出していく。ここで興味深いのは俳優の演技についての前田の演出で、ネットの感想などで俳優の演技が下手で見るに耐えないようなことを書いている人がいたが、そこには若干の誤解があるのではないかと思われた。一般にうまい演技というのはなんだろうかと考えると、そのひとつに演技に嘘がなく真に迫っている、あたかも本当のように思われる、というのがあるだろう。しかし、この芝居の場合、典型的なのは俳優たちが死んだ後も呼吸をしていたりするのがすぐに分かってしまうということに表れているように前田の演出は方向性としてその種のリアルをまったく俳優に要求していない。むしろ、ここで強調されるのは演技の持つ「ごっこ性」であろう。書きながらシェイクスピアの「夏の夜の夢」に登場するボトムら職人たちの手による劇中劇「ピラマスとシスビー」の中でライオンの役をやる指物師のスナッグが「私はライオンなのだが、本当にライオンだというわけではないので怖がらないでほしい」みたいなことを話す(そして、その演技はもちろん下手に決まっている)のだが、ここでも登場する俳優たちは「これは死にいく人です」「これは演技で本当にそうなわけじゃありません」という二重のメッセージをその演技のなかに込めるような構造になっている。だから、この舞台は演劇としては「死にいく人たちのさまざまな姿」「死ぬいく人たちを演じる俳優のさまざまな演技の試み」を二重に表現するものとなっており、その結果、批評的に浮かび上がってくるのは「死」ないし「死ぬという演技」に人々が抱いている固定観念の虚構性ないし、無根拠性でそれが見ていてとてもおかしいのだ。
 ただ、前田が隅に置けないのは虚構性が強調されるなかで一度「死という記号」に還元されたかに見えた「死」がそのイメージの過剰性のなかで、もう一度リアルな世界の内実を表す隠喩(メタファー)のようにも思われだすことだ。ひとつは舞台上で何の理由もなく人がバタバタ死んでいくこの舞台はある意味立ち表れている表現自体はいわば「死にごっこ」の連鎖からなる喜劇的なものではあるが、これはここと同じようなことが、舞台の外側の広い世界でも同じように起こっているらしいということを通して、世界の終わりを描いた一種の終末論演劇にもなっていることだ。
 
 



愛でもない青春でもない旅立たない

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