下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

チェルフィッチュ「フリータイム」@六本木SUPER Deluxe

チェルフィッチュ「フリータイム」(六本木SUPER Deluxe)を観劇。

「フリータイム」
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 足立智充 安藤真理 伊東沙保 南波圭

 その間、岡田利規アイホールや京都芸術センターで上演した舞台などは見ているし、「三月の5日間」も東京、大阪での再演を見ているが、新国立劇場での「エンジョイ」を見逃していたので岡田の新作というとずいぶんひさしぶりという気がした。実はこの公演は最初、別の日に見る予定でチケットも手配していたのだが、仕事の関係でその日は見ることができなくなり、ここでまた見逃してしまうとあまりにも岡田の舞台から遠ざかってしまうと思い、五反田団を見ていた駒場東大前から六本木に駆けつけ、なんとかこの日の舞台を見ることができた。
 チェルフィッチュの舞台がどんな風なもので、それについて私がどのように考えているのかっていうことは以前、雑誌「悲劇喜劇」向けに描いた小論*1に詳しく書いたので、ここでいまさらもう一度繰り返すことはしないが、今回「フリータイム」を見て感じたのは、「三月の5日間」や「労苦の終わり」「目的地」といったこれまでの作品では相当に複雑であった戯曲の構造が今回はものすごくシンプルになっているのだなということだった。物語の設定といっても、朝会社に行く前にファミレスに寄って1杯のコーヒーを飲みながら30分だけ自由な時間(フリータイム)をすごしている女性がいて、その時間は彼女にとってささいなことだけれどもかけがえのない時間なんだよ、ってことが複数の話者によって繰り返し語られる。こんな風に要約してしまうと本当にもともこもないというか「なによ、それ」って感じなのだけれど、こういうそこはかとない空気というか感覚のようなものを観客と共有できるかどうかというのがどうやらこの作品、あるいはひょっとしたらチェルフィッチュの方法論の核心なのではないかと舞台を見ながら思われてきた。