下北沢通信

中西理の下北沢通信

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藤原竜也 鹿賀丈史出演「かもめ」@シアターBRAVA!

藤原竜也 鹿賀丈史出演「かもめ」(シアターBRAVA!)を観る。

作:アントン・チェーホフ 
演出:栗山民也
出演:藤原竜也 鹿賀丈史 美波 小島聖 藤木孝 藤田弓子 たかお鷹 勝部演之 麻実れい ほか

 「かもめ」という芝居を見たのは何度めのことだろうか。東京乾電池、東京演劇アンサンブル、岩松了(樋口可南子 岡本健一 串田和美出演)、蜷川幸雄(原田美枝子筒井康隆、宮本裕子、高橋洋出演)の演出版、沢田研二がトリゴーリンを演じたひょうご舞台芸術版、最近ではチェーホフ四大戯曲連続上演を試みている地点がびわ湖ホールで上演したバージョン*1、後エジンバラ演劇祭ではペーター・シュタイン演出版のほか、いくつかのバージョンをフリンジで見た記憶がある。
 これだけの回数見ていても毎回どこか新たな発見があるのが「かもめ」の面白さだが、それはシェイクスピアの「ハムレット」同様にこの戯曲に謎が多いからでもある。まず分からないのはこの芝居の主役はだれなのか、ということだ。もちろん、トリゴーリン、トレープレフ、アルカージナ、ニーナの4人を主役とする考えかたはあって、チェーホフの芝居は群像劇であるから、それはもちろん間違っているわけではないのだが、私はまだ大学生ぐらいのころにこの戯曲を最初に読んだ時からこの舞台の主役はトレープレフだと疑いなく思い込んでいた。それはこちらも若いから、才能ある若き芸術家の恋と芸術への苦悩というきわめてロマン派的な主題をこの物語から読み取っていたからで、このテキストがそういうストレートなものではなくて、チェーホフが自らはコメディーと呼んだようにもう少しある種の悪意をもって戯画化された人物を描いたものだということに気がついたのはもう少し後のことであった。
 チェーホフは戯曲上も「かもめ」の下敷きに「ハムレット」を使っている。もう少し分かりやすく言うと、「かもめ」におけるアルカージナ、トレープレフ、トリゴーリンの関係は「ハムレット」のガートルード、ハムレット、クローディアスの関係を連想させるものとなっており、また舞台上でのモチーフに演劇があり、それを象徴するような劇中劇が芝居の中核部分に据えられているという共通点がある。さらにいえば劇中の台詞のなかにも、芝居前の口上をしゃべろうとしているトレープレフの前で突然アルカージナが「ハムレット」のガートルードの台詞の一節を朗誦はじめるという場面があり、それを受けてトレープレフがハムレット王子の台詞に呼応するように朗誦するという場面が冒頭近くにあるし、それだけではなく「言葉、言葉、言葉」とかほかの台詞の引用も劇中にあり、これは意図的にチェーホフがそうしたのだと気がついた時には思わずはっとさせられたものだが、どうやらこれは、チェーホフ解釈においては当然の常識であったようだ。
 その意味では今回の舞台はどうだったのだろうか。栗山民也の演出はそれぞれの俳優にどちらかというと抑制の利いた抑えた演技を要求したもので、その意味では奇をてらったところはなく、オーソドックスなもので好感が持てたのだけれど、どうも見ている間、ずっと違和感のようなものが消えないであって、それがなになのかがはっきりと分からないで釈然としなかったのだ。それはこの舞台がどこか分裂しているという印象であった。
 この舞台でアルカージナ、トリゴーリンはそれぞれそれなりに優れた女優、小説家という芸術家であるのに同時に俗物でもあるという戯画化された人物として描かれている。そして、麻実れい鹿賀丈史はある種の誇張を交えながらも喜劇的な人物として造形された人物をうまく演じていた。問題はトレープニフの方である。どうも、いつもせこせこと早足で歩きまわっていて、落ち着きのないところといい、藤原竜也のトレープレフはハムレットを思わせるところがある。ただ、そのハムレット諧謔的で戯画化された人物というよりは思い悩むメランコリックな人物の印象が強い。一言で言ってあまりに悲劇的なのだ。もちろん、それだけだったらそういう解釈もありだとも思うが、違和感がある、釈然としないと書いたのはどうもこの藤原が演じるトレープニフはひとり隔絶して悲劇の主人公でほかの登場人物との折り合いがよくない。そこにちぐはぐな印象の理由がありそうな気がした。
 ここでひょっとしたらと思ったのは栗山演出の骨子は同一舞台空間における悲劇と喜劇の同時進行を狙ったのではないかと思ったのである。モスクワ芸術座での上演における作者のチェーホフと演出家のスタニフラフスキーの対立以来の難問であった、チェーホフ劇が喜劇なのか、悲劇なのかについてはそれ以来延々と議論が続いているようで、最近では井上ひさしが「ロマンス」でそれを描いている。どうやら、井上はこの舞台の主題としてボードビルを書きたかった男というのを副題にしたいぐらいの勢いでチェーホフの主張の肩を持ちたがっているようで、この舞台を演出したのも今回の「かもめ」を演出した栗山民也であるから、この「ロマンス」で考えたことは当然今度の「かもめ」にも大きな影響を与えていそうで、ということは「コメディとしてのチェホフ」を演出したと考えたい。そうすると確かにバカバカしいとも思われる恋のやりとりに明け暮れる愚かしげな人物たちの群像を描きだしたという意味で、アルカージナ、トリゴーリンをはじめ恋に恋する第一幕のニーナ、以前はいろんな女性と浮名を流したドールン……。芸術という主題をとりあえず横に置いて、虚心坦懐に眺めてみればいずれも喜劇的な人物たちであり、栗山演出も彼らをそういうものとしてシニカルに描きだしていくのだが、そうしたなかで藤原の演じるトレープレフだけが悲劇を体現しておりそこがどうにもすわりが悪く感じてしまったのである。