下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ポかリン記憶舎*3「鳥のまなざし」@シアタートラム

ポかリン記憶舎「鳥のまなざし」(シアタートラム)を観劇。



撮影:清水俊洋

 脚本・演出:明神慈 音楽:木並和彦 美術:杉山至+鴉屋
 舞台監督:寅川英司+鴉屋 照明P:キイトス 照明OP :シバタユキエ
 音響:荒木まや 写真:松本典子 AD:松本賭至 衣裳:フラボン
 演出助手:渡邊佳奈子、小杉美也子、百花亜希 制作:遠山ちあき、フラボン
 主催:ポかリン記憶舎 提携:世田谷パブリックシアター 後援:世田谷区
 出演:
 日下部そう:リョウ
 福士史麻[フクシミマ 青年団]:サホ

 平原テツ:シン
 井上幸太郎:ユウ
 金田淳 :レイ

 寺内亜矢子:エリ
 市川梢  :リサ
 堀夏子[青年団]:セナ
 中島美紀 :ナミ

 山田宏平[山の手事情社]:カイ
 桜井昭子:サエ

「舞台上の俳優とその関係が醸し出す空気をただ見せていく」(=「存在の演劇」)という新たなフィールドを想定し、そこに宮沢章夫の群像劇から太田省吾の沈黙劇へ向かう補助線を引き、その途上に明神慈を置いた時にそこに新たな演劇の地平が立ち現れてきた。ここに明神の作家としての重要性がある。非日常的な身体を具現化する実験が試みられたことにより、明神慈は群像会話劇のスタイルから様式化された身体表現へと大きく舵を切った.
今から7年前、2001年2月の第8回公演「回遊魚」において、ポかリン記憶舎の舞台をこのように表現したのだが、その時にはまだ可能性の中心、予感のようなものにすぎなかったこの集団独自のスタイルがこの「鳥のまなざし」には見事なまでに具現化されていた。
 病院のようなところから出てくるリョウ(日下部そう)。家に帰ろうとするが、まるで浦島太郎のように自分の生きてきた痕跡は拭い去られて、恋人も両親もその存在自体が消え去ってしまっている。一方、通りがかりの人に道を尋ねてどこかに向かおうとしているサホ(福士史麻)。この世とあの世の狭間であろうか。それとも現実に似ているけれどどこか異なる異界であろうか。二人はいずれも目的地にたどり着けぬまま白日夢のような世界を彷徨い続ける。
 シアタートラムの中央に砂丘のようにも、なにか遺跡のようにも見える巨大な矩形状の盛り上がり(島)があり、その島の斜面に人々が横たわっている。リョウは主としてこの島の上を奥に行ったり、手前に来たりと移動を続け、サホは島の周囲を周り続ける。リョウ、サホ以外の登場人物はすべてほかの役者がひとりひとりが特定の役柄に縛られることなく、セリフの群唱なども交えながら集団で演じていく。
 明神慈は前述の「回遊魚」以降、通常の演劇公演以外に「和服美女空間」というセリフのないパフォーマンス公演を頻繁に行ってきた。これは主として和装をした女性パフォーマーたちがまどろむようなたゆたうようなたたずまいをアンビエントな音楽に乗せて見せていくというもので、こうしたパフォーマンスを通じて明神は日本の伝統的な舞踊・演劇である日本舞踊、歌舞伎、能といった古典芸能とは明らかに違い、そうして舞踏ともまた違う独自の「和の身体」の追求に注力してきた。
 この「鳥のまなざし」では登場人物はいつもの「和服美女空間」のように着物を着ているわけではないが、リョウ、サホ以外の集団演技には時として、円陣を組んだり、列をなしたり、その並び具合によってさまざまなフィギュアを舞台上に描き、舞台上に生きた造形物として存在するのだが、この際に見せる身体所作というのは「和服美女空間」から生み出されたもので、それがこの舞台では日常的な演技体とともに同じ舞台上で共存することで、日常/非日常の狭間が表現されていく。
 ポかリン記憶舎はこれまでその舞台を「地上3cmに浮かぶ楽園」と呼び、、日常の世界から3cm分だけ宙に浮かんだ楽園のような非日常の世界を描いてきた。時としてそれは死者の世界と通底するようなところもあり、そうした死者との一瞬の邂逅というのが典型的なポかリンワールドといってもいい。ただ、この「鳥のまなざし」では少し様子が異なる。もちろん、ここでも死の匂いはそこここでする。というよりはこれまでにないほどに死者の匂いは濃厚である。
 この物語の中心となる二人はリョウは幼馴染を、サホはかつての恋人をとそれぞれ大切な人を自殺で失っている。なんとかできたのではないかとの悔恨が繰り返し悪夢のように現れるというのがこの物語の基調となっているのだが、実はそれだけではない。これまでの明神作品なら悔恨の念を持つ主人公が死者と一瞬の交歓をかわすというのがこれまでの通例だが、この「鳥のまなざし」はそれだけではない。
 主体となるべき、リョウとサホがそもそももう死んでしまっているのか、まだ生きて幻想を見ているのかさえがはっきりとしないからだ。宮沢章夫遊園地再生事業団で上演した「蜜の流れる地 千の夜のヒネミ」、あるいは文学座アトリエの会に書き下ろした「河をゆく」がどちらも夢ともうつつともしれぬ街を彷徨い続ける話で、そこで登場人物はすでに亡くなってしまたはずの人とも出会ったりするなどこれと類似の世界観を描いていたが、大きく異なるのは宮沢があくまで日常性の演技のなかでそれをしたのに対して、明神のそれはその「非日常」を表現するのをある種の様式性をもってした。ここに冒頭で「宮沢章夫から太田省吾へ補助線を引き、その途上に明神慈を置く」とした真意がある。




ポかリン記憶舎「humming 2」@祖師ケ谷大蔵Cafe Muriwui
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20080320
ポかリン記憶舎「humming」@池袋・MODel T
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20070121
2006年演劇ベストアクトhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061231
ポかリン記憶舎「煙の行方」@京都公演http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060728
ポかリン記憶舎「煙の行方」wonderlandレビュー(明神慈小論)
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=511&catid=3&subcatid=4
2005年の演劇ベストアクト − 私が選ぶ10の舞台・ポかリン記憶舎「短い声で」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060123
ポかリン記憶舎「カミン」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/19991012