下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ままごと「わが星」@〔FINNEGANS WAKE]1+1

青年団リンク ままごと『わが星』
2009年10月8日(木)-12日(月)
三鷹市芸術文化センター 星のホール
http://mitaka.jpn.org/ticket/0910080/
「あー、地球に生まれてよかった。」
脚本・演出を柴幸男、音楽を口ロロの三浦康嗣が手がける
『わが星』上演!

夜空に瞬く無数の光 今そのひとつが消えた
そのことに誰も気がつかない だって夜空は広すぎるから
かつてあの星には色んな人が住んでいて 幾度となく慈しみあって争い
あって そして静かに滅んでいった
僕は彼らを思い出す いつか僕のことも誰かが思い出すのだろうか
あの星の話をしよう そこに暮らしていた人々の話 今はもう誰も知らない話
星の誕生から滅亡までをひそやかに語る 今回はそんな "ままごと"

脚本・演出:柴幸男
音楽:三浦康嗣(口ロロ
出演:青木宏幸、大柿友哉(害獣芝居)、黒岩三佳(あひるなんちゃら)、
斎藤淳子(中野成樹+フランケンズ)、永井秀樹青年団)、中島佳子、
端田新菜(青年団)、三浦俊輔

劇団 ままごと

青年団演出部に所属する柴幸男(劇作家・演出家)が主宰する劇団として2009年10月旗揚げ。主宰の柴幸男は、04年に『ドドミノ』で第2回仙台劇のまち戯曲賞大賞を受賞し、近年は演劇ユニット「toi」や個人名義にて作品を発表。何気ない日常の機微を丁寧にすくいとる戯曲の下、全編歩き続ける芝居(『あゆみ』)、ラップによるミュージカル(現代口語ミュージカル『御前会議』)、一人芝居をループさせて大家族を演じる(『反復かつ連続』)など、新たな視点から日常を見つめ直し、斬新な演出法を用い、普遍的な世界を描き出す。演劇を「ままごと」のようにより身近に。より豊かに。

青年団 ウェブサイト:http://www.seinendan.org/

口ロロ「00:00:00」

http://www.10do.jp/ooo/podcast/?p=episode&name=2009-11-11_natalie_digest.mp3
脚本・演出:柴幸男による「わが星」を遅ればせながら、大画面の映像により鑑賞した。生で見ることができなかったのは痛恨だとつくづく感じさせられる舞台で再演の予定もどうやらあるようだからぜひそれに期待したいところである。音楽を口ロロの三浦康嗣が製作し、そのラップ音楽に従って全編が進行していくラップ演劇。どんなものかというと上に引用したyou tubeの「00:00:00」という曲がこの音楽劇の原曲なのである。と一度は書いてみたが、そういう言い方も正しくはなくて、「ままごと」の公演は10月に上演され「00:00:00」が制作されるより先だけれど、その元になった曲想自体はその前からあったもので、いわば「わが星」と「00:00:00」は同じ卵から生まれた兄弟のようなものと考えた方がいいのかもしれない。
 「わが星」と「00:00:00」が兄弟と音楽劇であるということを強調したのは「わが星」全体の構造を音楽が規定しているというところにこの作品、さらにいえば全部がそうと決めつける気はまったくないけれど、柴幸男の演劇のひとつの特徴があると思ったからだ。最初の時報の音からはじまり一定のリズムで刻まれていく時間の流れはこの作品全体を支配していて、それはこの作品の主題自体が「生者必滅」という不変の法則にあるということを象徴している。それだけではなくここではある団地に生まれた「ちいちゃん」という女の子の生まれてから死ぬまでと「地球」も含まれたこの「宇宙」が滅びるまでの悠久の時間というスケールのまったく異なる2つの時間の流れが重ねあわされている。
 セリフの群唱によって舞台を構築していくという方法論はもちろんこれまでにもある。維新派少年王者舘がそうでそれゆえ、ネット上で目にした感想だけでも複数の論者がその類縁性を指摘している。もっとも維新派に関しては時に「大阪弁ラップ」とも言われる維新派のヂャンヂャンオペラのスタイルとままごとのラップ演劇が似ているということはあってもその類似性は限定的なものだが、途中に同じセリフ回しが何度となく繰り返されるという「無限ループ」が登場するなどの明らかな共通点があること、柴幸男が愛知県出身で高校演劇出身でもあること(つまり高校時代から演劇に親しんでいた)ことから、ほぼ間違いなくなんらかの影響は受けているのではないかという風に感じられた。
 少年王者舘の舞台では通常の物語(ナラティブ)の構造ではなく音楽におけるサンプリング、リミックス、美術におけるコラージュのように同一の構造が少しづつ変形されながら何度も繰り返されたり、まったく違う位相にある時空が突然つながるようによりあわせられたりしてひとつの構造物として構築されているが、そういう特徴はこの「わが星」という作品も共有しているといえるかもしれない。あるいはこれは天野天街のそれと比べるとほんのちょっぴりという程度ではあるのだけれど言葉遊びもこの作品では重要な要素を占めており、特に「校則」「光速」の掛け言葉は遠くで地球(ちーちゃん)を見つめ続ける少年との最後の出会いにとってかなり決定的に重要な意味を持つものであった。
 ただ、私がこの「わが星」を見た時に連想させられた作品というのは実は維新派でも少年王者舘でもない。それは上海太郎舞踏公司「ダーウィンの見た悪夢」「マクスウェルの悪魔」だった。というのは「わが星」と上海太郎のこの2作品は私たちが普通に生きているような日常的な時間と宇宙の誕生から滅亡までのような巨視的な時間がメタファー(隠喩)の論理により、重ね合わせられるという同じ劇構造を持っているからだ。
 上海太郎は「ダーウィンの見た悪夢」という作品では「進化」という独立してもたびたび上演された場面で「アメーバから人間へ」という生物の進化という悠久の時間の流れをダンスパントマイムという手法により20分弱の場面にまとめてみせた。さらに「マクスウェルの悪魔」という作品では「恐竜の時代」というシーンで恐竜がわが世を謳歌した後、滅亡していく何万年もの時間が十数分の場面にまとめられ、これが熱力学第2法則つまり「エントロピー増大の法則」により、日常の時間と重ね合わせられる。
 平田オリザに代表される群像会話劇では通常、上演時間である1時間強の時間がリアルタイムに取り上げられることが多いが、家族の場面では「現代口語演劇」の切り取るリアルタイムの時間の流れをところどころに残しながらも、冒頭で宇宙が生まれて終焉を迎えるまでを10分そこそこの場面に仕上げて、ラップに乗せて軽快に展開することで、演劇の虚構性の内部での伸縮可能な時間のありようを分かりやすく提示したうえで、その後は一定の速さで時間を刻むラップ音楽のリズムのもとで、「人間の生活」から「地球の誕生とその終焉」までの自在のスパンの時間を時に進行させたり、逆行させたりもしながら、張り合わせてコラージュしている。
少年王者舘「夢+夜」
 
 ここに登場する家族の末っ子であるちーちゃんというのが惑星である「地球」の隠喩であることは芝居を見ているうちに次第に判明してくるのだが、地球の誕生*1というのはおおよそ46億年前と考えられているみたいで、太陽が膨張して赤色矮星となりそれに地球がのみ込まれて消滅してしまうまで50億年といわれているから「地球の一生」というのはだいたい96億年ぐらいだろうといえるだろうか。一方、日本人の男の平均寿命は79.29年、女の平均寿命は86.05年だから、これは時間のスケールで比較すると1億分の1以下の長さということになる。ところでこの舞台の上演時間がおおよそ80分だったわけだが、これは人間の一生である80年と比べると1年÷1分だから365×24×60=525600すなわち52万5600分の1ということになる。つまりそうだとすればこの舞台が語るわが星(地球)の一生は10の13乗分の1の長さに短縮されているわけだけれど、ラップ音楽のカウントに乗せて、柴幸男はそのようにそれぞれ別々に流れる時間の流れ(地球の一生、ちいちゃんの一生、この舞台の上演時間)を重ね合わせてみせる。
 上海太郎はダンスパントマイムを武器にこの時間の自在な伸縮というのを舞台上で展開していったが、柴幸男の武器はやはり音楽だと思う。考えてみれば上海太郎の場合にもシーンの構造を規定しているのはセリフがないだけにやはり音楽であり、特に見る側の感情を単純な意味性を超えて引っ張り回し、心の琴線に触れるような感動を与えることにおいて音楽の存在は大きい。しかし、その音楽の性質を利用しながらも観客をある種の感動めいた感情へと引っ張っていく、その計算のしたたかさには上海太郎同様にこの柴幸男も端倪すべからざる演出家としての力量があると感じられた。