下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

少年王者舘「夢+夜 ゆめたすよる」@七ツ寺共同スタジオ


CAST
夕沈 白鴎文子 中村榮美子 丹羽純子 黒宮万理 雪港 ひのみもく 大人袋☆之 水元汽色 小林夢二 宮璃アリ 水柊 池田遼 PECO まえださち
井村昂
小林七緒(流山児★事務所) 石橋和也(ハレのヒ) 落合孝裕 竹内大介

STAFF

作・演出:天野天街
舞台美術:水谷雄司
映像:浜嶋将裕 田中博之
照明:小木曽千倉
音響:岩野直人
小道具:丹羽純子
音楽:珠水
振付:夕沈+夢+夜☆ダンス部
チラシ原画:アマノテンガイ
写真&宣伝美術:羽鳥直志
受付:藤田晶久
制作:少年王者舘制作部

協力:田岡一遠 山崎のりあき 小森祐美加 中村公彦 一色矢映子 岡田保 安野亨 うにたもみいち モッチィ&コージィ サカイユウゴ 金子達郎
がんば 村瀬満佐夫 ノボル プシュケ ヨーロッパ企画

杉浦胎兒 虎馬鯨 松宮陽子 山本亜手子 サカエミホ 日与津十子
蓮子正和 水谷ノブ 安達彩
http://www.oujakan.jp/

少年王者舘「夢+夜 ゆめたすよる」は昨年京都のアートコンプレックス1928で見ているのだが、その時には上演時間は1時間弱で未完成版だったらしい。この劇団にはよくあることとはいえ、東京で上演された完成版は2時間近い上演時間だったらしい。今回その完成版を名古屋の七ツ寺共同スタジオで上演されるというので観劇してきた。
 先日岸田戯曲賞を受賞した柴幸男がその受賞作「わが星」について、「わが星の半分は『夢+夜』だと思ってます。残り半分がクチロロで、残り半分がワイルダーですね」とソーントン・ワイルダーの「わが町」*1口ロロ「00:00:00」と同様にこの「夢+夜」に大きな影響を受けて「わが星」を構想したことを明かしているのだが、「わが星」の映像を何度か見た*2ところ、柴が天野天街に大きな影響を受けていることは確認できたものの京都公演を見た印象でいえばなぜ「夢+夜」なのかということは納得しかねるところがあり、ぜひ完成版で確認したいと思ったからだ。

少年王者舘の舞台では通常の物語(ナラティブ)の構造ではなく音楽におけるサンプリング、リミックス、美術におけるコラージュのように同一の構造が少しづつ変形されながら何度も繰り返されたり、まったく違う位相にある時空が突然つながるようによりあわせられたりしてひとつの構造物として構築されているが、そういう特徴はこの「わが星」という作品も共有しているといえるかもしれない。あるいはこれは天野天街のそれと比べるとほんのちょっぴりという程度ではあるのだけれど言葉遊びもこの作品では重要な要素を占めており、特に「校則」「光速」の掛け言葉は遠くで地球(ちーちゃん)を見つめ続ける少年との最後の出会いにとってかなり決定的に重要な意味を持つものであった。

 以前このように「わが星」に対する少年王者舘天野天街)からの影響を書いたのだが、今回実際に「夢+夜 完成版」を見て思ったのはわが星ではないものの「わたしの星」という言葉が作品中に出てくるし、万華鏡を覗き込む場面は「わが星」のなかでちーちゃんが誕生日プレゼントを覗き込む場面を連想させるし、予想以上にそのまま引用している部分が多いのに気が付き驚いた。
 「『わが星』が、セカイ系フィクションの構造を踏襲している」ことについてはブログ「白鳥の眼鏡」で柳澤望が指摘していて、それはなかなか慧眼であるとは思うのだが、そういう風に考えるならば「夢+夜」だけでなく、天野天街作品は以前から「セカイ系」なのではないか、そして「わが星」はその構造を映し、同型だからこそ「セカイ系」的な構造を持つのではないかと考えたからだ。実は天野天街作品は単一な形態に還元できないような複雑な構造をもっているため、これまではその「セカイ系」的な構造に気がつかないでいたのだが、柴幸男の「わが星」はその複雑な構造を整理しある意味枝葉の部分を刈り取り、その本質的な部分のみを取り出すような単純化をしたせいで、隠されていた天野ワールドの構造がその眼鏡を通して見ると露わになったからだ。
 

少年王者舘「自由ノ人形」の感想の続きを書く。天野天街の芝居はほとんどの場合、死者の目から過去を回想し、死んでしまったことでこの世では実現しなかった未来を幻視するという構造となっている。この「自由ノ人形」も例外ではなく、過去の私/現在の私/未来の私の三位一体としての私が登場して、失われた過去、そして未来がある種の郷愁(ノスタルジー)に彩られた筆致で描かれていく。この芝居ではひとつの街自体が姿を消してしまった情景が幻視され、失われた夏休みのことが語られるのだが、劇中に登場する言葉の断片から予想するにそれはおそらく原爆投下によって一瞬にして失われた命への鎮魂ではないかと思われるふしが強く感じられる。もっとも、天野はこの芝居でこの芝居の隠された中心点であると考えられる「死の原因」についてはほとんど迂回に次ぐ迂回を続けてそれをはっきりと正面からは明示しない手法を取っていく。この芝居では言葉の氾濫とも思われるほどの言葉が提示しながらも「中心点」にあえて直接は触れないことで、その不在の中心に陰画として、「原爆による死」が浮かび上がってくるような手法を取っているのである。
 実はこの描かないで描くという手法(省筆といったらいいのか)は90年代演劇のひとつの特色ともいえ、松田正隆平田オリザといった90年代日本現代演劇を代表する作家が使ってきた手法でもある。それは現代人のリアルの感覚にも関係があることだと思われるが、本当のものをただ直接見せるのがリアルなのかに対いての拭いきれない懐疑がその根底にはあるからである。1例を挙げよう。これはテレビというメディアにも関係してくることなのだが、ニンテンドーウォーとも一部で言われた湾岸戦争のテレビ映像あれは日本に住む我々にとってリアルだっただろうか。阪神大震災の映像、オウムによるサリン事件の映像はどうだっただろうか。現実でさえ、テレビのブラウン管を通して見るとそこにはなにかリアルとはいえないものが張り付いてくるのだ。ましてや直接描かれるのがはばかられるような大問題をそのまま舞台に挙げて、それをそのまま演じるのは例えそれがリアルなものであっても、あるいはリアルなものであるからこそ現代人にとってはそこに張り付いた嘘臭さを見ないですませることは不可能なのである。
 もちろん、この種の表現というのは現代人の専売特許というわけではなく、古代人にとって人間の力を超えた「神」というものがそれでそれは寓話か隠喩の形を取ってしか語られ得ぬものであった。あるいは「死」というものもそういう側面を持っている。それは不在という形でしか語られ得ぬものである。その意味では天野の作品がこういう手法を取るのは「原爆による死」というものじゃなくても、それが「死」を中核に抱える演劇だからということがいえるかもしれない。 

 以上はこの「大阪日記」の2000年9月にある「日記風雑記帳」にある少年王者舘「自由ノ人形」の感想の再録であるがここで注目してほしいのは「天野天街の芝居はほとんどの場合、死者の目から過去を回想し、死んでしまったことでこの世では実現しなかった未来を幻視するという構造となっている」という部分で、ここでは死者の視点からの実現しなかった未来の幻視となっているが、実はこの未来というのは「過去」「現在」「未来」が混然一体となった無時間的なアマルガム(混合物)ともみなすことができる。つまり、村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」に擬えるならばここで天野が描き出すのは「世界の終り」であり、そこには時間がないゆえにそこでの時間は伸縮自在でもあって、ループのように繰り返されながららせん状にずれていく平行世界のような存在でもある。
 そして、「幻視」される世界のなかで不可視なのはその中心にある「死」であり、天野ワールドではそれは明示させることはほとんどないが、まるで空気のように「死」に対する隠喩がその作品世界全体を覆いつくしている。