下北沢通信

BATIK「SHOKU」@サンケイホールブリーゼ

BATIK「SHOKU」サンケイホールブリーゼ)を観劇。

 構成・演出・振付:黒田育世
 照明:森島都絵[インプレッション] 音響:山田恭子 舞台監督:寅川英司+鴉屋
 衣装:後藤寿子 制作:ハイウッド
 出演:植木美奈子、大江麻美子、梶本はるか、田中美沙子、寺西理恵、西田弥生、矢嶋久美子

 黒田育世の代表作である「SHOKU」のひさしぶりの関西公演(大阪では初)である。この作品にはいろんなバージョンがあって最初に見たのは黒田自身が踊ったソロバージョン。その後、シアタートラムでBATIK版を初演。前に関西で見たのは2006年8月*1だから、その時からは4年が経過している。最近では昨年の「踊りに行くぜ!!」in福岡で短縮版の上演を見ていて、これが素晴らしい出来栄えだった。だが、これが黒田育世自身が出演していないバージョン。この時に本人に聞いたところでは「最近は自分が出演しない時もある」ということだったのだが、実は今日はロングバージョンでもあるし、黒田自身も出演するんだと実際に見るまで、勘違いをしていたこともあり、本人が出てないのはちょっと肩透かしをくらったような気がした。

うむを言わせぬような群舞の構成力の素晴らしさ。黒田育世の振付家としての端倪すべからざる力を見せつけられる思いがした公演であった。振付家には独自の身体言語の開拓においてその力を発揮するタイプと個々のダンサーのムーブメントというだけではなく、複数のダンサーの配置や動きによって、舞台上で空間構成をしていくことに優れたタイプがある。ソロダンサー出身の振付家が多いことなどもあって、後者のタイプは日本では前者と比べると稀な存在で、これまで上海太郎舞踏公司の「ダーウィンの見た悪夢」の「進化」のシーンで見せた上海太郎の振付や複数の作品で見せたイデビアン・クルー井手茂太の振付などにその数少ない例外を見てきたが、黒田育世もそういう面において、それに劣らぬ才能を持った振付家であることをこの作品を見て改めて確信させられた。

 以上が4年前の関西公演の時の感想でそれは基本的には今回も変わりはないのであるが、伊丹との大きな違いはその時には中心になって踊っていた黒田が今回は出演していないことだ。実は福岡で黒田出演しないバージョンを初めて見た時には黒田が出演している場合にはどうしても舞台の最中、無意識に彼女の動きを目で追ってしまい、そのせいで全体の群舞の構成などに目が届かなかったのだが、黒田がいない場合にはそういう中心が存在せずにいままで以上に個々のダンサーの顔が見えてくる。「だから、この方が作品としてはいいのではないか」と思い、そして同様のことを黒田自身にも話した。そして、それは今回も変わりはないのだけれど、福岡の時のイムズホールサンケイホールブリーゼの空間の大きさの差も関係あるかもしれない。あるいは福岡の時のメンバー(寺西理恵、伊佐千明、中津留絢香、田中美沙子、大江麻美子、梶本はるか)と比べると若干の入れ替わりがあり、これも若干印象の違いに関係したかもしれないのだが、黒田が出演していた時と比べるとほんの少しだけではあるけれど、線の細さが気になったのも確かなのだ。
 そういう細かな差異はあるとしても、BATIKがやはり日本のコンテンポラリーダンスにおいてワンアンドオンリーを感じさせるのは、黒田育世ならびにBATIKというカンパニーに魅力はやはり鍛えられたダンサーたちの強靭な身体能力と、それをもってさえ極限状態に追い込むような黒田育世の振付・演出との間の高度な緊張関係というかフリクション。それがそのまま作品の主題や方向性を体現するように位置づけられていることだ。
 これは特に東京の最近のコンテンポラリーダンスによく見られるような新ジャドソン教会派風だったり、あるいは言葉を使った「演劇のようなダンス」などとはまったく対極をいく動きで、本人でないのではっきりしたことは分からないけれども、例えば桜井圭介氏はこれをおそらく「コドモ身体」とは認めないだろうと思うけれども、私はこれを「アンコントローラブル(制御不能)な身体」の実例として、見かけはずいぶん違うけれども矢内原美邦と双璧ではないかと考えている。
 ただ、共通点はあっても、矢内原と黒田の間には大きな違いがある。実はこの日、舞台終了後に森山開次黒田育世によるアフタートークがあり、その中で森山が触れたのが、「同じ踊るといっても男と女では根本的な差異があるのではないか」ということで、確かに黒田の作品には作品において「女性性」と「性」が剥き出しに表出されるというのが大きな特徴となっていおり、この「SHOKU」という作品においてもそれは例えば「赤い」衣装であったり、パフォーマーのまるであえぎ声を思わせるような激しい息遣いであったり、音楽のリズムに同期しての激しい動きだったりする。
 話の流れの中では「男」と「女」の性差のような形で語られていたけれど、実は私は森山が話した話の中にはもうひとつ別の対立軸があって黒田のダンスがなになのかということを考えるのにキーワードとなってきそうな気がする。それは森山が話したダンサーが「演じる」ということだ。例えば森山の「TSUBASA」という作品で彼は民話「鶴の恩返し」をベースにしてダンスを構築。ここで「鶴」を演じるわけだ。「鶴」になるといってもいいのだが、これはバレエなどがその典型だが、歴史的に形式が確立されてきたひとつのあり方であった。これは「白鳥の湖」などを考えればすごく分かりやすいのではないだろうか。黒田以降に登場した振付家で同じく「女性性」「セクシャリティー」の問題に焦点を当てた作品を作り続けている振付家・ダンサーにきたまりがいる。実は私は彼女のダンスの本質はパフォーマーの「キャラ立ち」ということがあり、それはすなわち「演じる」ということで、ここに大きな差異があることが分かるだろう。
 「演じる」ではないダンスには実はもうひとつの系譜があり、それはマリウス・プティパからバランシン、マース・カニングハム、そしてW・フォーサイスに受け継がれた運動性に特化したアブストラクトなダンスだが、もちろん、これも黒田の作品とはもうひとつの対極である。
 それでは黒田のダンスにはどんな特徴があるのだろうか。それはダンサーがなにかに「なる」のではなく、また「運動性」という抽象的な存在物に仮象するのでもなく、ただ、そのものとしてそこにある。すべてを剥ぎ取り剥き出しにしていくダンスだ。これは実はある種の舞踏が目指していたものと通底ところもないではないが、黒田の独自性は圧倒的な運動負荷を連続してダンサーにかけ続けることで、ダンサーが持っている「演じる」ことや「身体を制御して動く」こと、そしてそういうことを可能にするような訓練によって獲得された技術(スキル)を無化するような振付・演出により「剥き出し」のダンサーの根源的な「性」「生」そのものをそこに立ち現れるようにさせようということにあるのではないだろうか。実はテレビ放映では「猥雑」などと表現されることもあった「SHOKU]ではあるが、記号ないし象徴的なレベルで性を連想させるような隠喩(メタファー)ないしもっと露骨かつ直接的表現(唾を口から垂らすとか)もあっても、実際に見た印象ではそうでもないのは同じエロスでも「性的」というよりは「生」を感じるからで、その理由はダンサーの「剥き出しの生」がそこにあるからではないかと思う。 
 最後に矢内原美邦に戻ると、矢内原の場合、彼女が演劇にも興味を持っていることからも分かるように、ダンスの場合でもやはりダンサーは社会的な関係性を持ってなにかのキャラを演じている。この場合、今までにない動きだから面白いというのを除いて、そうならばこの場合、矢内原にとってこの動きに負荷をかけて生まれてくるフリクションはどんな意味を持っているのかということについてはもう少し考えてみないといけないとは思うのだが、少なくともそれが黒田がそうであるような「剥き出しの生」ではなさそうなことは確かなようで、ここに両者の大きな差異はある。