下北沢通信

中西理の下北沢通信

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SPAC( 宮城聰演出)「天守物語」@静岡県立舞台芸術公園・野外劇場「有度」

SPAC「野田版 真夏の夜の夢」「天守物語」wonderlandレビュー(http://t.co/7sSVbOm)執筆。少し長文ですが宮城聰の小論にもなっています。興味のある人はぜひ覗いてみてください。感想などもいただけると嬉しいです。
SPAC「天守物語」PRのための市街地パフォーマンス


演出: 宮城聰
作: 泉鏡花
演奏構成: 棚川寛子
出演: 阿部一徳、石井萠水、大高浩一、片岡佐知子、榊原有美、桜内結う、鈴木陽代、舘野百代、寺内亜矢子、永井健二、仲谷智邦、本多麻紀、美加理、三島景太、吉植荘一郎

ク・ナウカ時代に宮城聰は数多くの作品を上演しているが、なかでも代表作といえるのが「天守物語」「エレクトラ」「王女メディア」の3作品であろう。なかでも「天守物語」は野外劇として上演されることが多かったこともあり、海外も含めいろんな場所でその場所、場所の「場の持つ力」を借景として取り入れながら上演されており、私自身の観劇歴においても小倉城の前での上演、お台場の海を背景にした上演、雨の利賀野外劇場、こちらも激しい雨の中での湯島聖堂……と忘れがたい印象を残した舞台を目撃してきたという意味では宮城のワン・アンド・オンリーの作品と言っていいかもしれない。
 宮城はSPACの芸術総監督に就任して以来ク・ナウカ時代のレパートリーは封印してきたのだが、今回<ふじのくに⇄せかい演劇祭2011>の演目に自らの演出作品2本を用意した、しかもそのうち1本は野田秀樹の「野田版 夏の夜の夢」と野田戯曲への初挑戦、そしてもう1本がク・ナウカ時代のオリジナル演出復刻版での満を持しての「天守物語」だった。ク・ナウカ版演出ではすでに昨年「王女メディア」を上演してはいるが、引き続き代表作である「天守物語」もレパートリーに加えたということに2007年に鈴木忠志からSPACを引き継いでSPAC芸術総監督に就任して以来5年。自らの手で若い役者たちを育て上げて、ようやくク・ナウカ時代に負けないような陣容が揃ったとの自信のほどを感じたのである。
 「天守物語」は主演の富姫役を演じる美加理をはじめ 阿部一徳、大高浩一、榊原有美、寺内亜矢子、吉植荘一郎らク・ナウカ時代からのオリジナルキャストに三島景太、仲谷智邦、舘野百代らSPAC創生期からの俳優陣が加わる合同公演のようなキャスティングとなった。もちろん、現在のSPACのシステムから言えば全員がSPAC契約俳優ということにはなるのだが、それでも昔からのファンにとっては美加理、阿部一徳、大高浩一とそろい踏みすればこれはもうク・ナウカ復活といっていいだろう。
 ク・ナウカの2人1役システムについてこれはなにより美加理という特別な存在をいかに魅力的に見せるのかという仕掛けだから実は「美加理システム」といってもいいものだと言って、演出家である宮城に嫌な顔をされたことがあるのだが、なかでも舞台上で日常とはかけ離れた美しさ、神々しさを体現できるという美加理の魅力が存分に発揮されるのが「天守物語」だ。
 美加理(ムーバー)、阿部一徳(スピーカー)のク・ナウカを支えた黄金コンビが富姫を演じるほか、大高浩一の図書之助
今回短い期間にSPACに来てからの最近の演出法に基づいた「野田版 夏の夜の夢」とク・ナウカ版の「天守物語」を続けて見ることができたことで、宮城の方法論がク・ナウカ時代と現在ではかなり異なることがはっきりと分かりそこが興味深かった。もちろん、もっとも大きな違いはSPACでの上演は言動一致体で「天守物語」のようにムーバ―(動き)とスピーカー(語り)が分かれてはいないことではあるが、どうやらそれだけではない。
  
 

ク・ナウカ「王女メディア」(2000年11月3日観劇)の感想を書くことにしよう。この作品は昨年の10月30日に浅草のアサヒスクエアで上演されている作品の再演である。念のため参考にしてみようと昨年の日記を見てみるとちょうどリージョナルシアターと時期がかぶっていたこともあり、今年のベストプレイになるかもしれないと美加理と阿部一徳の演技に簡単に触れて絶賛はしているのだが、細かく内容にまで触れてないのでほとんど今回書こうと考えていたことの参考にはならなかった。(笑い)。そうした俳優を主体とした舞台の評価については「王女メディア」の上演としてきわめて優れた舞台であるということは変わりはしないのだが、改めて再演を見て気になったことがあった。それは宮城聰がこの「王女メディア」の上演に際しエウリピデスの原作に新たに付け加えた解釈についてである。

 「王女メディア」といえば日本では蜷川幸雄の演出による上演があまりに有名だが、同じギリシア悲劇でも「エレクトラ」「オイディプス王」といった作品と比較すると上演される頻度は少ないのではないだろうか。海外では日本でも以前ギリシアの劇団の上演を見た記憶があるし、今年アビニョンに行った時には残念ながらソールドアウトで見ることはできなかったが法王庁宮殿中庭で上演されたオン公演のメインの作品がそうだったし、このページでもレポートした2年前のアビニョンでは一人芝居も見た(これはフランス語上演でスペクタクル性も皆無だったのでほとんど内容は分からなかった)。日本のこれまで上演例ではロマンチカがシードホールで上演したものが印象的だった。

 もっとも「エレクトラ」などが復讐劇としてまだそれなりの理解ができる内容なのに対して「メディア」は同じギリシア悲劇といってもちょっとそのまま上演するには躊躇するところがあるのではないだろうか。というのは夫の裏切りにより、自分を追放しようとしている夫とその愛人、さらにはその父親に復讐するというのはいいにしても夫との間に生まれた子供までも殺してしまうというのはただの激情として済ませるにはらちが開かない感じがするわけで、そのことを現代の観客に納得させるにはなんらかの仕掛けが必要となりそうだからである。

 ここまで書いてきたところで実はもう少しまとまったことを昨年の年末回顧に書いていることに気が付いた。以下、ク・ナウカ関連の部分だけを引用する。

 さて、最後に残ったク・ナウカ「王女メディア」であるが、宮城聰がこの作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」とこの作品のテキストそのものから立ち上げたメディアの情念を表出する美加理のミスマッチがどうも気になった舞台であった。そのため、それぞれの要素は面白いのに舞台を見ていてどうも違和感があったのである。これは宮城の解釈あるいは趣向の面白さというのが知的な面白さであり、美加理のがどうもそうじゃないところに違和感の原因はあるんじゃないかと思ったのである。ただ、美加理の演技そのものについていえばこれは素晴らしいのひとことであって、「エレクトラ」「天守物語」に続いてク・ナウカという装置においての美加理の到達点の高さを証明してみせたといえよう。ただ、問題は美加理の凄さは方法論的に言えばスピーカーとムーバーを分離するというク・ナウカの枠組みから生まれてくるものではありながら、事後的にはその枠組みなり、さらには戯曲の枠組みまでを超克していくということがあって、その場合、戯曲の枠組みから分析的に導きだされた解釈というようなものが逆に夾雑物に見えてしまいという困った現象があるわけだ。

 もちろん、古典劇のようなものを演出するには大抵の演出家にはよりどころとなる解釈の枠組みのようなものは必要なわけで、それは宮城に限らず、蜷川幸雄にしても鈴木忠志にしても同じだと思うのだが、SCOT時代の白石加代子の演技などを考えても俳優(パフォーマー)が素晴らしければ、素晴らしいほどある意味で演出家が用意した土俵をはみだしていくようなところがある。それはダンスにおいてより顕著であり、H・アール・カオスのダンスなどを見ると白河直子のダンスが素晴らしければ素晴らしいほど例えばその作品が「ロミオとジュリエット」だとして、その作品の枠組みに対して行った振付家の解釈が夾雑物に見えてきてしまうというパラドックスがある。もちろん、ダンスにおいては抽象化という道が残されており、物語というような要素を一切排除してしまっても作品は成立するわけで、演劇と同様に論じることはできないのだが。

 いささか横道にそれてしまったようだが、ここで言いたかったのはそれほど「王女メディア」における美加理の演技は素晴らしかったということである。ここで感じられた演技と解釈のベクトルのずれというのが偶然この芝居でだけそうだったということにすぎないのか、あるいはパフォーマーのいわば等身大を超えた超越的な表出力というのを暗黙の前提に置く、「身体性の演劇」が本質的に孕んでいるパラドックスであるのかはもう少し考えてみなければならないと思っている。その意味でも美加理のク・ナウカでの次回作が「オイディプス」だということはおおいに興味をそそられるのである。(以上引用)



 全体としての大きな枠組みではこの時の印象は今回と変わらないのだが、今回感じたのはこの作品の宮城による解釈の枠組の中での齟齬である。というのはここに引用した前回の感想では『この作品を演じるにあたって持ちだしてきた解釈「男性原理と女性原理との対立」や作品の枠組として使った趣向「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」』と書いたのだが、今回の上演を見るかぎりこの「男性原理と女性原理の対立」と「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」との間にも違和感が引き起こされる感があったからだ。後者の趣向は冒頭に登場してくる黒いフロックコートを着た男たちによる邦楽の会という外枠と劇中劇として上演される「王女メディア」の中で美加理が着ている衣装(朝鮮の民族衣装を思わせる)に象徴される道具立てによって表現されている。

 メディアはもともとイアソンがアルゴ船に乗って黄金羊毛を求めて遠征した時にその国で出会ってギリシアの地に連れてきた女性であり、ギリシア人の伝統的な感覚から言えば外国人(バルバロイ)である。もともとイアソンのために親、兄弟を裏切り、故国を捨て身ひとつで遠く離れたギリシアの地までやってきたのであり、いまさら故郷の地にも帰ることはできない身である。それゆえ夫の裏切りはメディアに取っては許すことのできないものであるわけだ。その意味では孤立無縁で故郷の地から離れ日本に連れてこられた「明治時代の日本に来た朝鮮人の花嫁」をこれになぞらえた宮城の解釈は幾分無理がある感じはあってもまだ「メディア」の解釈としては認めることができなくはない。

 しかし、ク・ナウカの「王女メディア」では最後のシーンでそれぞれ衣装をつけて芝居をしていた女性が扮そうを取り去り、シンプルな白の衣になって(つまり、女性そのものとなって)、フロックコートの男たちを皆殺しにする。ここにおいて、「王女メディア」であるとか「朝鮮人の花嫁」とかいった個別の事象を完全に超えて、「女性原理の男性原理に対する勝利」というテーマが直裁的に立ち現れてくる。これはおそらく、原作のエウリピデスの戯曲では最後に神の車が唐突に現れ、メディアがこれに乗って大空へと去っていくといういわゆるデウスエクスマキナ(機会仕掛けの神)という大団円があり、それをそのまま演じるのは無理と判断した宮城が原作とは関係のないモチーフとしてあえて付け加えたものではないかと思う。ところが、ここでの正面を向いて舞台に立つ女性たちと壁や空から落ちてくる本(おそらく、これも男性原理を象徴したもの)というあまりに分かりやすい図式に収まることで、それまで美加理が演じていた「一回性としてもメディアの悲劇」が抑圧された女性とその解放という分かりやすい構図に吸収されてしまう。それがどうも気にかかるのである。