下北沢通信

中西理の下北沢通信

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C.T.T.京都@京都アトリエ劇研

花本有加×松木萌『ENJOY!?』
大谷悠『彼岸の向こう』
淡水『メイソー』

 C.T.T.は演劇やダンスなど舞台芸術の人材育成を目指して舞台作品の試演会。今回は3組ともに若手のダンス作品がそろった。関西の若手ではきたまりの活躍が目立つが、それ以降の世代がいまいち出てきていない印象が強くて、それだけに次世代の作り手が顔を合わせた今回のC.T.T.は「次に誰がでてくるか」をうらなう貴重な機会として注目した。
 ただ、文字通り試演会なのでなかなか評価は難しい。つまり、作品以前のものを観客に見せて、そこから先の創作の方向性を固めていくための指針とするというのは分かるけれども、たとえ試演会であるとしても、本人たちでさえ作品の方向性がまだはっきりしていない段階の断片を羅列したようなものを見せられても、それをなにか評価するというようなことは端的に言って難しいからだ。
 KIKIKIKIKIKIにダンサーとして参加している花本有加と松本萌のユニットによる新作「ENJOY!?」はこの前の作品がCONNECTというコンペで選ばれ、3月に単独公演がされるということで、どんな方向性の作品なのかということに注目して見始めたのだが、どういうことがやりたいのかという作品の方向性さえがよく分からなくて、2人のキャラとか動き自体に面白さはあるのだけれど、「まだ作品以前のもの」としか思われなかった。
 このC.T.T.では作品上演の後に講評会がある。この舞台がなにがやりたかったのかということについてのヒントが得たくて、まずこれはどういうことなんだろうと思った途中のしりとりの場面について質問した。というのはこのダンスはきっちりと振付けられた動きが決まった場面と即興的に見える場面が入り混じったような作りになっていて、それをどういう風に構成しようと考えているかを知りたかったからだ。特に不思議なのはキャッチボールのようになにかを投げ合う場面で「それは一見普通のしりとりに見えたが途中『こいぬ』という同じ言葉が何度も登場したことに対して、そこまでやっているのは意図的なものであろうと考えて「その場面は一見しりとりに見えたけれど実際にはどういうルールに基づいていたのだろうか」ということを疑問に思ったからだ。
 「ルールを設定した即興」は「タスク系」などと呼ばれて最近、東京を中心に目立つようになっている。さらにいえば(「タスク系」といっていいかどうか若干の躊躇があるが)似たような仕掛けは花本が所属するKIKIKIKIKIKIのきたまりもよく使っていて、そういう問題意識と今回の花本らの作品がどういう風につながっているのかが知りたかった。それで最初の糸口としようとした質問がそれだったのだ。ところが、答えにびっくりした。しりとりの場面をしたのは「2人ともしりとりが好きだから」で、さらに「こいぬ」という言葉を3回言ったこと自体にダンサーが気がついていないことが分かったからだ。
 実は私の質問の後、別の発言者が「そんな間違いを責めなくても、私には面白かったんだから別に気にしないてもいい」というようなことを発言したのでより以上に唖然とした。どうやら、その人は私がダンサーの言い間違いを責めているかのように勘違いしたようなのだが、こちらが問題に思ったのは言い間違いをしたこと自体ではなくて、それに気がついていなかったことの方なのだ。
 つまり、答えが「このシーンにおいて重要なのは掛け合いをしながらモノを投げるということで生じる全体の雰囲気あるい身体の状態であり、だから言い間違えたかもしれないがそれはいいんです」でも納得したろうし、「逆にここは本来普通にしりとりするところだったのだけれど、緊張のあまり言い間違えてしまいました」というのもそれでいいと思う。思ったことができないで失敗するのは仕方ないので、そんなことをこの段階でどうこう言う気はない。だけれど、言い間違いに気が付いていない、それを何度も繰り返していることには少し引っ掛かりを感じたのだ。それはそもそもこのシーンの位置づけや作品のなかでの意味合いがはっきりしていればそういう間違いは起こらないか、起こっても意識が行き届かなくて気がつかないということはないのではないか。なんとなく漫然とその場面をやっているからそうなるのではないかとの疑念を私は抱いた。さらにトークの受けこたえでは場面はいずれももう少し長いのだけれど抜粋をつなげて短くしましたとも言っていたのだが、どうもそれも違うみたいで、とりあえず今出きてるところだけをつなげてみましたという方が実情に近かったのではないかと思われた。
 もちろん、試演会だから仕掛り品を舞台にのせるのもダメではないのだけれど、そうであるならばそうであるということがはっきりと分からないと作品というかその素材をどのように受け取ったらいいかというのは変わってしまう。そこにこの企画の難しさはあると思った。
 その意味では大谷悠『彼岸の向こう』は作者自身が自分は何がしたいのかということに対する意識付けは明確だったかもしれない。それはパフォーマンスの後の受け答えではっきりと分かったが、ただやはり問題はあった。それはパフォーマンスそれ自体からは作者の意図というのははっきりと分かるような形ではくみ取れなかったからだ。