下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

ミクニヤナイハラプロジェクトvol.6「幸福オンザ道路」@横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール

今回矢内原美邦が描くのは、生と死をめぐるサスペンスドラマ。
ビートジェネレーションの支離滅裂で躍動感あふれる狂騒の文体さながらに、俳優は舞台で駆けずり回り、叫び、歌い、ぶつかり、そしてまた叫ぶ。
死に向かって、生きている。

彼らは部屋の中で駆け足をする―詩の朗読は誰かを救うだろうか…?

Credits

作・演出・振付 矢内原美邦
出演 光瀬指絵、鈴木将一朗、柴田雄平、たにぐちいくこ、NIWA、守美樹、他
舞台美術 細川浩伸(急な坂アトリエ)
舞台監督 鈴木康郎、湯山千景
照明 木藤歩
宣伝美術 石田直久
イラスト アベミズキ
企画・制作 precog
主催 ミクニヤナイハラプロジェクト
共催 横浜赤レンガ倉庫1号館(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
助成 芸術文化振興基金
後援 神奈川新聞社tvkRFラジオ日本FMヨコハマ横浜市ケーブルテレビ協議会
特別協力 急な坂スタジオ
協力 STスポット

 ミクニヤナイハラプロジェクトでの矢内原美邦の舞台には「青ノ鳥」がメーテルリンク「青い鳥」とファーブル「昆虫記」、「五人姉妹」が(おそらく)チェーホフの「三人姉妹」、「前向き!タイモン」がシェイクスピアの「アテネのタイモン」とそれぞれ下敷きになる原作(のようなもの)があるのだが、いろいろ自分流に弄り回しているうちに「どこが?」というほど原作と似てもにつかぬものになってしまっていることがひとつの特徴といえるかもしれない(まあ、そのおかげで翻案はだめという岸田戯曲賞を見事に受賞したわけだが)。
 それでいうと今回の「幸福オンザ道路」は表題から言っても確かジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード(路上)」だったはずなのだが、「16歳で亡くなった少年が人造人間として蘇ったが16歳までの記憶しか持たずその後成長してしまった大人の身体と折り合いがつかずに彷徨している」というまったくと言っていいほど関係のないものになっているように見えた。準備公演ではまだ野外の場面があって、道を移動する映像もあったような記憶がおぼろげながらあるのだけれど、今回は完全に室内劇となっていた(笑)。準備公演の時点での発表資料(http://precog-jp.net/press-releases/happiness-on-the-road.pdf)を見つけたのだけれど、どうもその時とは細部の設定などはだいぶ変わってしまっているんじゃないかと思う。
 

 ミクニヤナイハラプロジェクトについてはこれまで最初の公演となった「3年2組」をその年のベストアクト1位に選んだのをはじめとしてその先端的な方法論を高く評価してきた。
2005年演劇ベストアクト http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060123
ミクニヤナイハラプロジェクト「3年2組」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050717

 矢内原は「3年2組」では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた。

 ここで興味深いのは矢内原の振付において特徴的なことのひとつにパフォーマー、ダンサーの動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではその方法論を身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていることで、そういう意味で言えばここでの台詞の発話に対する演出においてダンスの振付と同じことを目指しているように思われたことだ。

 ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さでもちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていくのに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。

 ここで思い起こされるのはチェルフィッチュ岡田利規が言葉と身体の関係性のなかから生まれてくるある種の乖離(ずれ)の重要性というのをやはり強調していたことで、それに至るアプローチの方法論としてはまったく異なるというか、逆のベクトルを持っているようにも思われるこの2人のアーティストが結果的に同じようなものを求めているのじゃないかと考えさせられたことだ。

 「3年2組」ではミクニヤナイハラプロジェクトでの方法論を以上のように分析して、それは1980年代に野田秀樹が「夢の遊眠社」で試みた実験とある意味通底する部分があると考え、「21世紀の遊眠社」と呼んでみた。実はミクニヤナイハラプロジェクトはこの方法論を維持しながらも、「ささやくようなセリフや身体表現、歌などさまざまな要素の舞台上での交雑」(「青ノ鳥」)などをへて、さまざまな表現方法の組み合わせを実験したうえで、この「幸福オンザ道路」では「台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせる」という原点に戻ってきているようなところがあった。
 その理由を考えるとひとつには「ビートジェネレーションの支離滅裂で躍動感あふれる狂騒の文体さながらに、俳優は舞台で駆けずり回り、叫び、歌い、ぶつかり、そしてまた叫ぶ」と公式サイトにあるように内容的にはもはやほとんど関係なく見えるもののその出発点がビートニク詩人・ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード(路上)」であることからして「疾走感」というのが決定的に重要だからかもしれない。そのことは分からなくはないのだが、実をいうと今回の舞台にはこれまで何度もミクニヤナイハラプロジェクトを観劇してきて初めて内容と形式(スタイル)のミスマッチ感を感じた。
 「路上」のイメージが喚起する疾走感と比較するときに「幸福オンザ道路」はひとつの方向に突っ走っていくような感覚よりはもう少し丁寧に行きつ戻りつしたような演技の方向性の方が適しているのではないかと私には思われたのがひとつ。もうひとつは今まで以上に強い負荷(セリフを早く言わせる)をかけたためか、「五人姉妹」「前向き!タイモン」ではなかった、本当にただ喚いていて何を言っているんだか全然分からない人が何人か役者のなかに含まれているように感じたということがあった。
 「役者が下手なのか」という疑いも持ったのだが、演出の要求によるものとも考えられ、そのどちらかというのを考えながら舞台を見たのだが、よく分からなかった。いずれにせよ今回の矢内原演出の方向性はそれが意図通りのものにせよ、そうなってしまったものにせよ、結果的にはそういう演技を許容しているようなところがある。それがどちらかはともかく、終演後気になって矢内原美邦本人に「今回の演出はこれまで以上に突っ走っていっていたように感じたのだが……」との問いに「今回はどうしてもそうしたかった」とのことで
時間がなくてあまり詳しいことは聞けなかったが、やはり今回は確信犯としてそうしたという可能性が強いのだろうなと感じた。
 私見ではあるがやはり矢内原演出の魅力は以前には「発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせる」と書いたが、「限界」のぎりぎりのところで負荷をかけることにあり、そこでは「意味も重要」と一方で強調するように一語一語を出来うる限りしっかりと発話しつつ早くしゃべるという原則が崩れてしまって、言えない部分を適当にごまかして発話しはじめると本来とは違ってきてしまう。一見ぶんまわし流の暴力的なダンスに見えて矢内原の振付がそうではないように、演劇の発話においてもそこの繊細さが決定的に重要で、それがあるからこそ単純にドライブ感だけでは表現しきれない複雑かつ繊細な戯曲上の表現が可能になるわけで、今回の「幸福オンザ道路」の場合はそこの部分で若干のかい離が感じられたのだ。
ワークインプログレミクニヤナイハラプロジェクト vol.5 『幸福オンザ道路』2010

 もうひとつの違和感は映像の使い方で、ワークインプログレスでは舞台で映像が多用されていて特に最後の方で「路上」劇が上演されるのに重要な要素として介在していて、そういうやり方があるんだと感心させられた。「五人姉妹」「前向き!タイモン」では映像と舞台との関係性がもう少し複雑かつ効果的に思えたのが、今回は舞台下手にモニターがあって映像はそこにずっと映されているだけで、ひょっとしたら最初はもっと舞台に重ねて使うはずだった映像が途中ではずされた可能性もとまで考えて聞いてみたのだが、これも「最初からこういう風に使う予定だった」という答え。これだったら映像は「場合によってはいらないのではないか」とさえ思ったのだが、結局、映像がこうなった必然的な理由がいまだにしっくりとこないのだ。
 そうした違和感を持ちながらも救いとなった気がしたのはこの舞台の最後の方の「死について」のモノローグのセリフがそれまでのような調子ではなく語られたことだ。この部分はワークインプログレスにもあったのかどうかが記憶としてはっきりしないのだが、「3・11」以降の作品としてこの部分の重要性は一層増しており、