下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ナイロン100℃ 44th SESSION『ちょっと、まってください』@下北沢・本多劇場

ナイロン100℃ 44th SESSION『ちょっと、まってください』@下北沢・本多劇場

2015年「消失」公演からおよそ2年、新作は2014年の「社長吸血記」公演以来3年ぶりとなるケラリーノ・サンドロヴィッチ率いるナイロン100℃が再始動します。
タイトルは「ちょっと、まってください」に決定!
宣伝ビジュアルとともに、全出演者と地方公演詳細も公開致しました。

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:三宅弘城 大倉孝二 みのすけ 犬山イヌコ 峯村リエ 村岡希美 藤田秀世 廣川三憲 木乃江祐希 小園茉奈/水野美紀 遠藤雄弥 マギー

ケラの作品あるいは演出作品は随所で見てはいることもあってそんなに間があいていたというのは意外であったが、特にナイロン100℃の新作上演が2014年の「社長吸血記」以来ということには驚かされた。そういえば「しばらくはナイロン100℃の公演はスケジュールの関係でないのです」と話していたのを急に思いだしたが、ナイロン100℃の場合は今回出演している三宅弘城 大倉孝二 みのすけ 犬山イヌコ 峯村リエ 村岡希美 藤田秀世 廣川三憲といった劇団員はケラのナイロン100℃以外の舞台でもよく見かけるし、観客としては劇団公演だからといってそれほど特別なことを感じていなかったことも確かなのだ。
 作演出のケラ自身は今回の「ちょっと、まってください」に不条理喜劇と名づけて、ナイロンあるいはケラ作品がよく称せられるナンセンスコメディーとは別のものと位置づけている。だが、その違いは見ていてそれほどは分からなかった。
 あえて言えば「ちょっと、まってください」の不条理世界にはナンセンスコメディのように無意味な状況がエスカレーションしていくような流れは少なくて、例えば「娘が結婚してこの家に入ることになったので残りの乞食の家族も着いてくる」という流れになるのだが、一番最初の物語の前提である「娘が結婚してこの家に入ることになった」が明らかにおかしいのだが、その受け入れがたい前提を認めてしまえばその先は論理的な必然として進んでいくというような構造となっている。
 ケラはどうやら今回の作風の原点に別役実をおいているようで、こうした奇妙とも思える論理展開にも別役の影が見える。
実際、登場人物同士のかみあわない会話のやりとりには別役が多用するようなロジックがいくつも散見される。例えば手元に戯曲がないので不正確であることはあらかじめ断っておくが、乞食の兄妹の間の会話で兄が妹が家の中の様子を知りたいというので電柱に上ろうとしたが、カーテンが閉まっていたので中の様子が見えない。今度は降りようとしたが今度は落ちるのが怖くなって降りられずに電柱にしがみついていると今度は妹は「そんなことをしていると落ちてしんでしまう。死んだら兄さんは必ず地獄にいくなどといいだす」。兄はなぜ電柱に登ったのか説明しようとするが、今度は「落ちたら死ぬか死なないか」「死んだら地獄に行くかいかあいか、行かないか」の言い合いになり、「死なないというなら一度落ちて確かめてみろ」のようなことまで言い出す。会話はかみ合わずにずれにずれていく。
 不条理といえばそうではあるのだが、この芝居を見ていてふと疑念を感じたのは傍から見ていると条理が通っていないという意味では不条理にもみえるが、こういう会話の展開はどこか既視感があるというのに気がついた。これは私が妻とよくしている会話そのものではないか(笑)。議論の論理的整合性にはそれなりに自信があるのだが、妻と議論をする場合には私が例え論理的に妻を説き伏せようとしても都合が悪くなると相手は必ず輪転をずらしてくるし、なによりもやっかいなのは例え議論に勝ったとしてもそのことで相手が気分を害し、機嫌が悪くなってしまえばそのことによる不利益はあまりに大きく、議論に勝ったことのメリットなどなきに等しくなってしまう。
 もちろん、ケラの舞台の会話がそういうものだということでもないが、不条理とナンセンスを比較すると現実をそれなりに反映しているのが不条理であり、それとは切り離された意味不明の世界がナンセンスということなのかもしれない。
とはいえ、別役もケラも現在の世相に対し一見揶揄的に見えても風刺劇などと違い直接的に批判するという意図はおそらくない。この芝居の中には「賛成派」「反対派」「中立派」「中立派への賛成派」「中立派への反対派
などというのが出てきて、最近の日本の政治状況を批判するくすぐりのようにも見えなくもないため、これを政治風刺劇として評価する向きも出てきそうだが、そういう見方こそむしろ「ナンセンス」という風に私には思える。
電信柱、郵便配達などという別役的キャラ、別役作品の作中歌「雨が空から降れば」が作中で歌われたりとオマージュにも満ちていることは間違いない。
 この舞台を見ていて絶えず感じていたのはむしろ「ケラと別役には決定的に違うところがあると思われ、それは何なのだろう」ということの方だった。
最初に気がついたのは別役作品はほとんどの場合は一場劇であり、この芝居のような設定なら電柱がある庭の方か、建物内部の居間かそのどちらか一方で物語は展開する。そういうこともあり物語は複雑な起伏はあっても単線に近いものとして展開するが、この芝居では大きく分けて庭にいる乞食たちの物語と居間にいる家族たちの物語が同時進行で交互に展開していく。さらにいえば物語世界の因果律がまるでメビウスの輪のようにねじれた世界をケラは展開していく。そして、そこには「現実」からは少しずれた論理空間が展開されていくのだが、その論理空間そのものは不条理というよりはむしろナンセンスのようだという気がしてならないし、そこにはまだ分別できないなにかがあるという気がする。