下北沢通信

ロジェ×束芋@浜離宮朝日ホール

 パスカル・ロジェのピアノと、束芋の美術が出会う
 ドビュッシーラヴェルの音楽が生み出す幻想の時間
出演
パスカル・ロジェ(ピアノ) 束芋(たばいも)現代美術

演奏曲目:
ドビュッシー
パゴダ/雨の庭(「版画」より)
帆/野を渡る風/亜麻色の髪の乙女/沈める寺(前奏曲集・第1巻より)
そして月は荒れた寺院に落ちる/金色の魚(「映像・第2巻」より)
月の光(ベルガマスク組曲より)
●サティ
グノシエンヌ第5番/グノシエンヌ第2番/ジムノペディ第1番
ラヴェル
悲しい鳥たち(「鏡」より)
吉松隆
水によせる間奏曲/小さな春への前奏曲/けだるい夏へのロマンス/間奏曲の記憶/真夜中のノエル/静止した夢のパヴァーヌ(プレイアデス舞曲集より)

束芋の作品は以前から好きだ。だから、このコンサートに出かけて来たわけだが、端的に言ってこれはパスカル・ロジェのピアノコンサートだった。ロジェはいかにもフランス人らしい色彩感に溢れた音色を醸し出すピアニストである。ドビュッシーやサティはそうしたタッチによく合っている。ピアノコンサートとしてはとてもよかった。
ただ、それゆえにコンサートの最中に何度も感じてしまったのは束芋の作品は好きでもこのピアノに映像が本当に必要なのだろうかとの疑問なのだった。特にドビュッシーの楽曲などはもともとまるで音による絵画のようなとでも評されるような作風なので、そこに束芋のような具象的にイメージを付加されるというのはかえって自由なイメージを制限されるように感じ、蛇足ではないかと思ってしまった。
 ドビュッシーの音楽を最初に意識して聴いたのは当時大ファンだった冨田勲の作品集だった。ムーグシンセサイザーによる冨田の音づくりは完全に抽象的な音色というより、何かをシミュレーションしたような音。それは絵画的といってもいいが、それが最初の作品集が「展覧会の絵」だった大きな理由かもしれない。ドビュッシーラヴェルの作品化もそうしたラインに沿ったものと思われた。
そう考えて冨田の後、実はピエール・ブレーズの指揮による「牧神の午後への前奏曲」の演奏を聴いてみたのだが、オーケストラの演奏なのに冨田以上に音色豊かに感じられたのに驚いた。その後、ピアノによる演奏を聴いた時もそう思った。まだ、若かった頃の出来事であり、そんなことはすっかり忘れていたが、ピアノ演奏を見ながらそんなことを思い出したのは、ロジェの音のイメージ喚起力に感心したからだ。
 このコンサートのプログラムにはフランス音楽に加えて、日本の現代音楽家である吉松隆の楽曲も6曲入れられていた。こちらはドビュッシーなどと違って束芋の映像との親和性はより強く感じられた。
 ここまで書いてきて気がついたが、誤解があると困るので再確認すると束芋の作品がよくなかったとか、作品と映像が合っていなかったと指摘したいわけではない(事実、ネット上にはそういう批判も散見された)。アニメーション(というか束芋のものは動く絵画作品といってもいいのだが)と組み合わせるのにもともと音から絵画的といってもいいようなイメージを感じ取ることができるドビュッシーラヴェルの作品は適当だったのかということだ。どうもこれはあまりに説明的になるというか屋上屋を重ねるというようなことになっていたのではないか。
 それと比べるとより現代音楽でより抽象度の高い吉松隆との相性は悪くなかった。おそらく、ピアニストが弾きたい曲をまず選んだのではないかと思うのだが、全体のプログラムの流れがどちらの主導でこういう風になったのかが知りたいところだ。