下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ニブロール(Nibroll)『コーヒー』@横浜赤レンガ倉庫

ニブロールNibroll)『コーヒー』@横浜赤レンガ倉庫

振付・演出:矢内原美邦
出演:上村有紀、鈴木隆司、友野翔太、昇良樹、間瀬奈都美、望月めいり、八木光太郎
映像:高橋啓
衣装:矢内原充志
共催:急な坂スタジオ
広報協力:株式会社プリコグ
協力:studio Nibroll近畿大学矢内原研究室・オンビジュアル・SNOW Contemporary・たかぎまゆ・岩渕貞太・高橋幸平・伊藤剛・滝之入海・加藤由紀・久野啓太郎

17年前に横浜ダンスコレクションの前身のダンス企画で横浜ランドマークホールで上演された作品の再演。初演の映像、音楽をそのまま使っているらしいのだが、思いの外古びてはおらず新鮮なパフォーマンスに見えた。
冒頭部分のカモメが飛んでいるアニメーション映像がシンプルで美しい。矢内原美邦の振付のムーブメント自体は暴力的な部分があるのだが、高橋啓祐の映像と純白を基調にした矢内原充志の衣装、加藤由紀の音楽はほぼ初演の通りにそのままで上演。出演者は総入れ替えとなり、若い出演者全員をオーディションで選んだ。興味深いのは当時暴力的だと言われた作品内容が「暴力」という要素を含みながらもむしろ洗練されきわめてスタイリッシュなパフォーマンスに見えてくることだ。
これは当時と現在の、「暴力」や「差別」など社会に噴出してきている様々な問題を作品としてビジュアル化する際の手つきに大きな違いがあるからかもしれない。この作品の後半に航空機による空爆とそれを地上から撃ち落とそうとしている場面がコンピューターのシューティングゲームのような画面で提示されるのだが、上演時期が2002年のことであるから、これは「三月の5日間」で描かれた2003年のイラク戦争バグダッド空爆ではなくて、9・11の米同時多発テロ後にブッシュ政権が引き起こしたアフガニスタン空爆とかを念頭に出しているのかもしれない。
 ニブロールというか矢内原美邦はこの後、特に東日本大震災などを経緯として政治的や時事的な主題に正面から取り組むような作品も増えてくるのだが、この頃はまだそうでもなくて、ゲーム画面を映したアニメーションや町を破壊しそうな怪獣の登場も具体的な問題の反映というよりはこの時期から世間を覆い始めた漠然とした不安や自分たちはなんだかよく分からない暴力のようなもに晒されているという空気感を表現したものだったのかもしれない。
このように感じられたのはひとつにはこの日ニブロールを見る前に横浜ダンスコレクション2018 「Dance Cross | Asian Selection」@横浜にぎわい座 のげシャーレで下島礼紗振付の 『sky』という作品を見て、これもやはり「暴力」に焦点を当てた作品ではあったのだが、女性ダンサーの裸体の臀部を掌で実際に叩いて赤くなってしまうようにしたり、箱型に小さく切り取った氷をやはり実際に素手で持たせたりと身体的な負荷が直接かかるようになっていて、ニブロールにあるような振付けられたダンスを介しての抽象化のようなことがされてないことだ。その結果、その表現はよく言えば生のものとなっているとはいえ、ここから表現としての洗練などは出てこないだろうし、それを目指してもないように思われること。
 ところがニブロール「コーヒー」が初演された当時を振り返ると「コーヒー」の1年前2001年には北村明子率いるレニ・バッソが「FINKS」を初演。これも都市文明における侵犯とそれに対する防御反応などある種「暴力」と隣接する領域の表現があったより、これには同じく映像を多用してもニブロールのような具象的な要素は少なく、それゆえよりスタイリッシュをきわめたような作品であり、それとの比較においてはニブロールの表現は「暴力的」で「荒々しく」も見えたのだろうと思われた。
ただ、もうひとつ言えそうなのは2002年の「コーヒー」の時点ではまだ矢内原の振り付けによる方法論も模索の過程であり、初演の映像などを見るとパフォーマーも「ただ暴れているだけ」みたいに見えかねない部分があったのだが、その後、彼女の方法論は「ある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるが、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく(典型的にはW・フォーサイス。彼は彼の常識はずれの身体的負荷を持つ振付を具現化するためにサイボーグとさえ称される超絶技巧を身体化できるフォーサイス・ダンサーを育成した)のに対して、ここではその『振り』を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出す」というものに収斂していった。
 今回の再演ではそれぞれの動きの「振り」自体は初演のそれをなぞってはいるものの、これ以降、矢内原の作品作りのなかで明確化されていった方法論は若いダンサーの動きのなかにより洗練された形で落とし込まれている。
 こうした演出・振付の洗練も全体としてスタイリッシュな印象の理由となっているのかもしれない。
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