下北沢通信

中西理の下北沢通信

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モモンガ・コンプレックス プロジェクト大山 MOKK ダンス30s!!! シアターコレクション特別上演/トリプル・ビル

モモンガ・コンプレックス プロジェクト大山 MOKK ダンス30s!!! シアターコレクション特別上演/トリプル・ビル(1回目)

プロジェクト大山『てまえ悶絶30s』(2006年初演)
 振付:古家優里
 出演:三輪亜希子、長谷川風立子、三浦舞子、松尾有記、菅彩夏、加藤未来、辻滋子、古家優里
モモンガ・コンプレックス『勘違いの庭。』(新作)
 振付:白神ももこ
 出演:北川結(Wキャスト)、白神ももこ(Wキャスト)、内海正考、土路生真隆
MOKK『Dum Spiro, Spero.』(2015年初演)
 振付:村本すみれ
 出演:金子愛帆、亀頭可奈恵、郡満希、菅彩夏、手代木花野、村田茜

  今回の3人の振付家の共通点は群舞をふくむような複数のダンサーの登場する作品を得意とするところだ。日本の場合、「踊りに行くぜ!!」などに応募してきた作品を見ても女性のダンサーがソロで踊るタイプのものが多くて、この場合往々にしてあるのが「踊っている私を見て」という類のものになりがちなのだ。ただ、この3人はそういう悪癖は脱している。カンパニーの主宰者というのも共通しているが、それは彼女らにとっては自分以外のダンサーの存在が不可欠だからなんだろう。。
 プロジェクト大山の古家優は「トヨタコレオグラフィーアワード2010」(トヨタアワード)の受賞者であるから本来この世代のスターと目されるような存在だったはずだが、その彼女にしても舞台芸術におけるプレゼンスがその直前の世代(KENTARO!!、きたまり、鈴木ユキオら)と比べるべくもない。このことがある意味、2010年以降の急速なコンテンポラリーダンスの注目度の縮小を象徴しているかもしれない。
「てまえ悶絶」は頭部をかぶるようにした衣装に見覚えがあったのでこれでトヨタアワードを受賞したと間違って記憶していたのだが、2006年初演というクレジットから考えるとそうではなく、調べてみるとこの作品で「踊りに行くぜ!!」in大阪にも出演しているのだった(その時はトヨタは2次選考まで進んだが、そこで落ちていたようだ)。
おかしみのある群舞で見せていくという作品傾向からするとイデビアン・クルー井手茂太の系列かもしれない。ただ、井手にはそれまでに見たことのないようなムーブメントの奇天烈さという武器があった。古家のダンスはそういう強烈な個性は欠けているきらいがある。もっとも、それはなにも古家優里だけに言えるのではなく、白神ももこにも村本すみれにも共通して言えることだ。これはひょっとしたらカンパニーのメンバーも含め、彼女たちがバレエやモダンダンス、現代舞踊といった既存のテクニックで鍛えられて育ってきたダンサーであり、そういうなかで古家にせよ、白神にせよ、村本にせよ、それには飽き足らずにそこから脱皮したり、ずらしたりしようという意図は強く感じられるが、既存のテクニックを根本的に解体するような新たな方法論の模索という風にはなっていない気がするからだ*1
 もちろん、作り手の側もことさらそういうものを求めてないのかもしれない。その意味では大山のダンスがどういうものなのかということにはひさしぶりに見てみたけれどいまだよく分かっていない。私の目にはどうしても既存のダンスにキャラ付けした「面白ダンス」に見えてしまう。この公演はもう一度見るのでそこを再度考えてみたい。
  白神ももこもこの世代では代表的な振付家ではあるが、F/Tにおける「春の祭典」の上演などモモンガ・コンプレックス単独での大規模な公演はなくはないが、これまでの実績で目を引くものはままごと「わが星」の振り付けや木ノ下歌舞伎での共同作業など演劇におけるダンスシーンの振り付けなどで知られてきたことも確かなのである。
その作風は今回単独公演で再演した「ウォールフラワーズ。」のように既存のダンスに対して批評的な距離感を取りながら、解体とか再構築などといった前衛的な手法ではなくて、エンターテインメントとして楽しませながら擽りや揶揄のようなものを織り交ぜていくというものだ。
 「ウォールフラワーズ。』」は「壁の花」のことで通常はダンスパーティーなどで自信や勇気がなく、中央のダンスフロアーには行けず壁際に佇んでしまう女性のことを意味しているのだが、この作品の冒頭シーンでは舞台の中央にはスポットライトが当たっているのに誰もそこには行く勇気がないという状況がまず物語られたり、次に一人で舞台の隅にいるとスポットライトが当たっているのでそこに入って踊ろうとするとスポットが次々と位置を変えてしまう。さらにはやっとのことでスポットに入っ踊ろうとすると自分の前には別のダンサーが割り込んできて、いいポジションの取り合いになるなどというシークエンスを続けて、バレエにありがちなことを戯画化して見せてみせる。
 さらに言えばこのバレエにおける「壁の花」状態を描き出したこの作品はコンテンポラリーダンス界あるいはもう少し広く言えばダンスの世界における白神ももことモモンガ・コンプレックスの立ち位置を自ら自虐的に揶揄して描いたような部分があり、そこが「クスリ」というおかしみを誘うのだった。
 それに比べると『勘違いの庭。』は何を意味しているのかが理解しにくい作品と思えた。とはいえ表題からこのダンスの意味合いを考えると「理解しにくい」という印象には無理ないところもありそうだ。「勘違いの庭。」という言葉を語義どおりに解釈すればこの作品の主題が「勘違い」すなわち「ディスコミュニケーション」にあるのだろうということはまず間違いないと思われるからだ。
前半は男2人がそれぞれ離れて庭に陣取っている間を白神ももこがその間をぬいながら自由に踊って回るシーン。後半冒頭で男2人が「君は僕で僕は君だ」などとアニメ「君の名は。」を連想させるようなセリフを叫ぶと今度は白神がセンター、左右に男たちがい踊った、男たちは交互に白神の踊った振付を真似ようとするがうまくいかなくてまったく似ても似つかぬ動きになってしまう。その後は同じ動きで3人が横並びで動きながら白神を挟み込んで動きが取れないようにするなどコミカルな動きが続いた。
 最後のMOKK『Dum Spiro, Spero.』(2015年初演)は村本すみれが日本女子体育大学の学生らに振付して初演。その後、ダンサーを入れ替えて韓国、国内で再演を繰り返してきた作品。子供が遊んでいる光景を作品の中に取り入れながら、激しい動きやリフトなどこのトリプルビルで上演された3本の中ではもっともオーソドックスにダンスであり、ダンス関係者(特に踊り手)には評判が高いようだが、それゆえかこういう傾向の作品がどうも私は苦手であるという風に思われてきた。ところがどのように表現したらいいか微妙なのだが、私はいわゆるノンダンス系の踊らない作品には否定的。より正確に言えばタスク系とかの「踊らないダンス」を妙に持てはやし現代のダンス表現の最前線のように言い立てる言説はよくないと考えてみる。今回参加した3団体などはそういうような東京の最近のダンスを巡る状況のなかで、端に追いやられてきたきらいがあるとも思っている。
 ではなぜそういう中でMOKKのようなダンスを素直に楽しめないのか。ひとつには「踊る」と言うことが私には無根拠の前提となっているように思われて、踊ることに対する根源的な疑義の思考が感じられないからなのだが、かといって「踊らないダンス」がいいわけじゃないのが難しい。

*1:矢内原美邦、伊藤千枝、黒田育世井手茂太という前世代の振付家にはそれが感じられた