下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

「ポストゼロ年代演劇の新潮流① チェルフィッチュと身体 ゲスト山縣太一」@SCOOL セミネールin東京vol.4

「ポストゼロ年代演劇の新潮流① チェルフィッチュと身体 ゲスト山縣太一」@SCOOL セミネールin東京vol.4

【日時】2018年5月29日(火)p.m.7:30~
【ゲスト】山縣太一(オフィスマウンテン)
【場所】三鷹SCOOLにて (JR中央線三鷹駅南口・中央通り直進3分 右手にある「おもちゃのふぢや」ビル5階)
【料金】前売:2000円
当日:2500円 (+1drinkオーダー)
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 2010年代が終わりをつげる時期が近づいてきたが、演劇においては平田オリザの現代口語演劇、群像会話劇のくびきを離れて、後に私が「ポストゼロ年代演劇」と総称することになった若手の作家群の先駆けとなったのがチェルフィッチュ岡田利規)と東京デスロック(多田淳之介)だった。チェルフィッチュについてはちょうど10年前に大阪で開催した「チェルフィッチュという現代」を嚆矢として数度のレクチャーを行ってきたが、これまで論じてきたのは主として作家・演出家である岡田利規と彼が生み出した作劇・演出の方法論についてであった。
 一方で初期のチェルフィッチュには怪優、山縣太一をはじめとして個性豊かな俳優陣がおり、身体的なノイズを多用するようなそのユニークな身体論は彼ら俳優との共同作業から生み出されたものだったともいうこともできそうだ。今年は岡田利規がKAATで若い俳優を集め、その代表作「三月の5日間」のリクリエーション版の上演を行ったが、それと呼応するかのように初演のオリジナルキャストの山縣太一演出による「三月の5日間」も上演された。今回は山縣をゲストに迎え、初期のチェルフィッチュにおいて俳優はどのような役割を果たしていたのか、あるいはチェルフィッチュから離れ、オフィスマウンテンを設立した山縣が追求し続けていることは何かについても考えてみることにしたい。
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電話での問い合わせ
090-1020-8504 中西まで。


(参考情報)

[セミネール]「チェルフィッチュという現在」 Web版講義録

【日時】2008年9月22日(木)p.m.8:00~
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて
チェルフィッチュ


プロローグ
 本編に入る前に今回のレクチャー全体の趣旨についてお話ししたいと思います。私が講師を務めさせていただく中西と申します。演劇やコンテンポラリーダンスの批評を雑誌とかWebとかでしたりしています。もともと、今回セミナーみたいな形でやってみようと思ったのはどうしてなのかをまずお話しします。
 参考資料として1枚ぺらのコピーをお渡ししましたのでそれをまず御覧ください。これは「1997小劇場分類図」*1と書いてあるのですが、10年少し前に「東京人」という雑誌に私が書いたものなんです。これは当時に90年代の演劇を図式化したものです。全体としてどういう傾向があるのかというのを分析しようとして作ったものなのですが、その後、日本現代演劇においてここに書かれている状況よりはもう少し新しい状況が2000年以降生まれてきたということがあるのです。今回取り上げるチェルフィッチュもそういう新しい流れに位置づけられる代表的集団のひとつなのですが、先ほどの表にトレースしてチェルフィッチュを載せようとしても載せる場所がない。そのくらい全体的な状況も変化している。「2008年小劇場分類図」になるか、あるいはそれが「2010年小劇場分類図」になるかはちょっと分からないのですが、2000年以降の状況をトレースできるようなマップをもう一度作っていきたいと思っていまして、個別のカンパニーや作家を取り上げていき、そうした個々の動きのようなものを連ねていくことで最終的には2000年代の演劇やダンス全体の大状況のようなものを俯瞰したいなと考えています。

 なので、それぞれの個別の作品を解説して見ていただくのだけでなく、おそらくその時その時で、状況全体を説明するような専門用語(テクニカルワード)も出てきます。それは私独自の批評用語として創作し一般には耳慣れないもの言葉も含まれているかもしれませんが、それはその都度説明していきますので、それが分からなければ全体の流れがのみこめないということでもあれば、質問タイムも設けたいと思っていますので、ご自由に質問してください*2
ただ、最初は90年代以降の演劇・ダンスの大きな流れを提示していこうと思いますので、そういう耳慣れない言葉が次々出てくるかもしれませんが、半分以上は今回取り上げるチェルフィッチュと直接の関係はないものもありますので、その辺は話半分にして聞き流してください。そういう言葉にしてもすべて説明はするつもりですが、その概念について直接関係ある作品の実例を示さないで説明しても実感がわかないしたぶん分からないものもあるとと思うので、その辺はご容赦ください。
 やり方としては今日は第一回なのでまず話を少ししてから作品の映像を実際に見てもらって、その後でもう一度補足していきたいと思うのですが、どのくらいの内容をしゃべるとどのくらいの時間が立つのかというのはやってみないと分からないので、実際にやりながら試行錯誤することになってしまいますが、よろしくお願いします。
90年代演劇の流れ
 それではレクチャーをはじめようと思います。まず、急ぎ足で行くことにはなりますが、チェルフィッチュについて入る前段としてそれがいかにして出てきたかということを解説するために簡単に90年代演劇の流れを説明したいと思います。  まず「1997小劇場分類図」*3というのを見てください。図の横に文章として書いてありますが、少し引用します。

これまで演劇ジャーナリズムは、現代演劇を「アングラ演劇」または小劇場空間で作品を上演したという意味で、「小劇場」と名づけ、第一世代(鈴木忠志唐十郎ら)、70年代(つかこうへい、竹内銃一郎ら)、80年代(野田秀樹鴻上尚史ら)とその世代によって分類してきた。だが、90年代に入ってからは「静かな劇」などの新しいタームが登場したものの、こうした場当たり的な分類では複雑化した全体像が見えにくくなっている。ここに「最近の演劇状況は分かりにくい」理由があるのではないかと考える。

 これがまあ10年前の状況だったわけですが、要するに単純にいうとそれまでの演劇の紹介というのはほとんど時系列だったんですね。○〇があって、その影響を受けて××が出てきたとか。それとどこの劇団からだれが出たとかいうそういう人脈図のようなもの。一度そういうことを無視して、共時的な構造をそこから取り出して、分類しなおしたのがこの座標の入った分類図です。ただ、実際にはここにはそういうことははっきり書いてないですけれど、図のど真ん中に井上ひさしがいるのですが、ほとんどの演劇はこの辺にあるんですね。だから、ここに載っている演劇というのはある意味、普通の演劇というよりは特異なスタイルを取っているものばかりで、前衛と言っていいと思います。それで、今の演劇の前段として90年代の状況を説明しますと、当時「静かな演劇」と呼ばれていた演劇、この図では左下の領域にあたります。

 ただ、「静かな演劇」という言葉としてはあいまい。テクニカルタームとしての意味がないので、これを私は「関係性の演劇」と呼んでいました。特徴として人物間の関係の細密な描写を通じて、作者の世界観を提示するもので、代表的なのは平田オリザ。ただ、注目してほしいのはなにも平田オリザだけが孤立して存在していたのではなくて、この人たちというのは60年代に別役実という人がいるんですが、その人以来、続いていた地下水脈が平田らの登場でようやく、表舞台に出てきた。
 逆に言えばそれ以前の70年代、80年代の演劇は身体的なものを重視したものが中心でした。身体的な表現を重視した演劇のうち特に様式性の強いものを「身体性の演劇」と名づけています。これは従来は「アングラ演劇」などと呼ばれているこちが多かったのですが、この時に作った表でひとつの特徴でもあるのですが、当時の劇団で「アングラ演劇」とはまったく無関係とされていたものがいくつかここに入っています。右上のところ、鈴木忠志ク・ナウカがここ入るのはそれほど意外ではないかもしれませんが、惑星ピスタチオという劇団もここに入っていまして、惑星ピスタチオというのは一般には演劇集団キャラメルボックスの加藤さんというプロデューサーがすごく気に入って動員に協力したりしたので、キャラメルボックスのお友達劇団のように世間一般では思われていて、エンタメ劇団という風に片づけられて、ほとんど批評の対象になっていなかったのですが、実は身体表現において前衛的な実験をいろいろやっていた集団です。

 今日紹介するチェルフィッチュのスタイルとも少し関係します。チェルフィッチュは一人が一役を演じるのではなくて、一人の役者がいろんな人を演じるわけなのですが、惑星ピスタチオチェルフィッチュのやり方とは違うのですが、一人一役ではなくて一人の役者が次々といろんな役を演じていくという演出法・演技法というのはチェルフィッチュが初めてというわけではなくて、惑星ピスタチオ西田シャトナーという演出家がやっていました。彼はスイッチプレイと呼んでいたのですが、それを演出上多用していたということですね。
 それともうひとつは左上の方に松尾スズキがいて、一般的には当時は大人計画唐十郎が似ているなどという人はほとんどいなかったんですが、私は大人計画が出てきた時からあれは唐十郎の90年代的な再現というか「いまやろうとするとあんな風になるのじゃないか」という風に以前から思っていました。もっとも、これは松尾スズキが今のようにメジャーになる以前のカルトな戯曲を書いていたころの話で最近は大劇場でも上演できるようなものという制約があるのか、少し変わってしまったですが。それでは本論に入ることにしましょう。
その2に続く→

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000229
 

「悲劇喜劇」2006年8月号原稿
 平田オリザ岩松了長谷川孝治松田正隆ら九〇年代の「関係性の演劇」の影響を受けながらも、先行する作家たちと志向性の異なる若手劇作家が今世紀に入り、相次ぎ登場している。そうした「ポスト平田オリザ」世代の劇作家のなかでももっとも目立つ存在でもあり、ここ一、二年私が「今もっとも刺激的な演劇を見せてくれる」といい続けたのがチェルフィッチュ岡田利規ポツドール三浦大輔である。「悲劇喜劇」の「今年の収穫」特集でも連続して取り上げたが、周囲の批評家らの取り上げる舞台とあまりに場違いな感もあり、肩身の狭い思いもした。ここに来て昨年の岡田に続き、今年は三浦が岸田戯曲賞を受賞。年末には岡田は新国立劇場での新作上演もひかえており、ようやく表舞台でも注目されてきたのは喜ばしいことだ。
 「悲劇喜劇」の読者層にはまだ彼らの試みている演劇的実験がどのようなものなのかがぴんとこない人が大多数とも思う。そこで今回は特集の場を借りて、本格的な論考というよりは「試論」の形に近くはなるが、彼らの舞台について簡単に紹介してみたい。
 平田オリザが自らの演劇を「現代口語演劇」と名づけたように岡田利規の場合も現代口語を舞台にのせるという意味では先行する平田、岩松らと共通する問題意識から出発している。先行世代が舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形で追体験されていくような「リアル」志向の舞台(いわゆるリアリズム演劇ではないことには注意)を構築したのに対し、チェルフィッチュの岡田のアプローチは会話体において「ハイパーリアリズム」、演技・演出においては「反リアリズム」というところに違いがある。
 チェルフィッチュはハイパーリアルに既存の演劇が捉えることができなかったような現代の若者の地口のような会話体に迫っていく。そのせりふ回しは渋谷の若者がそのまま舞台に出てきてしゃべっているような伝統的な劇言語の常識からすると許しがたいほどに冗長きわまりないものだ。以前、平田オリザは「現代口語といっても現実に交わされる女子高生の会話などはそれだけではあまりにたわいがなくて、芝居にはならない」と発言したことがあったが、岡田のアプローチはそのままでは芝居にならないようなたわいないせりふを拾い上げて、舞台にのせるための戦略だといえる。
 第一の特徴は岡田の芝居が現代口語演劇の劇作家たちがそうであったような群像会話劇ではないことである。それはモノローグを主体に複数のフェーズの会話体を「入れ子」状にコラージュするというそれまでに試みられたことがない独自の方法論により構築されるまったく新しいタイプの「現代口語演劇」なのである。
 チェルフィッチュでは役者が舞台に登場して「これからはじめます」と客席に向かって語りかけるところから舞台ははじまる。この客席に向かって語りかけるモノローグはブレヒトの異化効果やシェイクスピアの傍白を連想させるが、こういうモノローグ的なフェーズと会話(ダイアローグ)を自由自在に組み合わせてテキストを構成していくのが大きな特徴だ。作品のなかで提示される出来事は多くの場合、伝聞ないし回想として語られ、リアルタイムにいまそこで起こっていることとしては演じられない。断片化されたエピソードは実際に出来事が起こった時系列とは無関係に行きつ戻りつしながら、ループのような繰り返しを伴い、コラージュされたテキストのアマルガム(混合物)として観客に提示されていく。
 ここでブレヒトの例を出したのはおおげさな物言いに聞こえるかもしれない。しかし、実は岡田自身も刺激を受けた劇作家として、平田オリザと一緒にブレヒトの名を挙げており、平田の方法論と対峙し、それを超克するためのモデルのひとつがブレヒトだったことも確かのようなのである。
 もう少し具体的に説明したい。岸田戯曲賞を受賞した「三月の5日間」を例にとる。そこでは米軍によるイラクバグダッド空爆と同時進行する五日間の出来事がその間ずっと渋谷のラブホテルにこもりっきりになってセックスしていたある男女のことを中心に語られる。だが、そのカップルをはじめとする主要人物を通常の芝居のように1人1役で特定の役者が演じるわけではない。例えばある場面をある俳優が語るとすると、そこには「その時の自分」と「その時の会話の相手」、さらにそれに加えて「その両方を俯瞰する第三者としての自分」という小説でいう地の文的のような階層の異なるフェーズが岡田のテキストには混在している。これをひとりの俳優が連続して演じわけていく。そうすることで演じる俳優と演じられる対象(役柄)との間にある距離感を作るのが、岡田の戦略で、さらに舞台では同じエピソードを違う俳優が違う立場から演じ、それが何度も若干の変奏を伴いながらリフレインされる。
 岡田の舞台のアフタートークク・ナウカの宮城聰はチェルフィッチュのスタイルをピカソキュビズム絵画の傑作「アビニョンの娘たち」になぞらえた。その発言は本質を鋭く突いており、非常に興味深かった。ピカソは「アビニョンの娘たち」本来は同時には見えないはずの複数の視点から見た対象の姿をひとつの画面に同時に置いてみせた。岡田の舞台では複数の俳優が同じ人物を演じることで、それぞれの人物について、複数の視点を提供し実際に舞台上で演じられている人物の向こう側に自らの想像力である人物像を再構成する作業を観客にに要求する。それはある時は上から、ある時は横からと見え方を変えてリピートされ、それを見る観客はインターテクスト的な読み取りによって「そこで起こったことがなんだったのか」を脳内で再構築することになる。これが岡田の作る舞台がそれまでの演劇と決定的に異なるところだ。
 チェルフィッチュのもうひとつの特徴は舞台のなかで演じる俳優がたえず手や足をぶらぶらさせたり、落ち着きなく動き続けているという独特な演技スタイルだ。ダンス的とも評されるところで、一見無造作にだらしなく動いているように見えて、実は細かく演出された動きであり、そこには日常の身体の持つ不随意運動のようなノイズを俳優の演技にとりいれようという狙いがある。これは日常的な身体のあり方を舞台に取り入れようと試行錯誤してきた最近のコンテンポラリーダンスの成果の演劇への応用と見て取ることも可能で、そこにこの集団が演劇よりも先に一部の舞踊評論家により注目され、ついにはトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされるなど評価された理由がある。ノイズ的な動きもこれまでの演劇だったら、やってはいけないことの典型なのだが、そこには現代人の身体と言葉の乖離という現象への岡田の鋭い問題意識がうかがえる。
 一方、ポツドール三浦大輔は舞台の登場人物による会話を覗き見させるような形でいまそこにあるそこはかとない雰囲気を追体験されていくような「リアル」志向の舞台を構築していく。その意味では平田らの方法論を批判的に継承した岡田と異なり、三浦はその正統な後継者と考えることができるかもしれない。「覗き見させるような」と書いたが、これは平田が90年代に登場した時によく冠せられていた言葉でもあり、ポツドールの場合はその覗き見する場所を風俗のような悪場所に設定することで一層、「覗き見」の快楽をピュアに追求しようという確固たる意思が感じられる。
 例えば岸田戯曲賞を受賞した「愛の渦」。そこで三浦が描き出すのは見知らぬ男女が集まって乱交パーティーをする場所を、会員制のクラブとして提供しようという風俗店での一夜の出来事だ。
 芝居がはじまると上手にフロアに低い机とゆったり座れるソファが置かれている。下手にはどこかの部屋に通じていると思われるドアと2階に通じる階段。舞台の奥にはカウンター席、上手寄りに狭い通路があり、その先に店の入り口が見える。セットは相当に緻密に作られたリアルなものだ。一見ラウンジにも見えるこの空間が乱交パーティーを目的とした風俗店であることがしばらくすると分かってくる。店内には大音響でBGMが流れていて(今回はダンスミュージック)、上手側には四人の女性、下手側には四人の男性が座っているのだが、音楽のためにそれぞれの会話はほとんど聞き取れない。
 このいろんなものに邪魔されて聞き取れない、あるいは聞き取りにくい会話というのが三浦演出のひとつの特徴である。それが極限的に展開されたのが、大音響のヒップホップ音楽のために劇中の会話が一切聞き取れなかった「ANIMAL」。岸田戯曲賞受賞後第一作となった「夢の城」ではさらにこの方法論を一歩推し進め、舞台上には登場人物同士のセックスや食事などのやりとり以外には一切の言語的コミュニケーションがない無言劇も試みた。
 こういう既存の演劇スタイルに対する挑発性が三浦の特徴である。しかし、その奇異なスタイルはただ奇をてらっているわけではなく、観客の舞台への構え方をお茶の間でテレビ番組を見ているような受動性からある種の能動性に変えようという明確な狙いがある。その意味では三浦の無言劇には平田オリザが始めて一般にも普及し、最近ではそれほど珍しい演出でもなくなっている「同時多発の会話」と似たようなところがあるかもしれない。
 平田は同時多発会話により、同時には聞き取れない会話のうちのどちらかを観客が主体的に選択することで、舞台に対する受動的な構えを突き崩し、それぞれの場面で観客が注意深く、その会話を聞き取ることによって、発話で直接的に提示される内容だけではない発話の構造が提示する登場人物相互の関係性に観客の目が無意識に向くようになる仕掛けをつくった。三浦の場合も意図的に会話を聞き取れなくし、会話以外の仕草や役者の視線や表情のようなビジュアル情報を総合することで、その場面で展開されていることを観客が解釈や想像力がおぎなうことを要求する。
 このように書くと観客に無理難題を強いているように感じる人もいるかもしれない。だがそれはこれまで演劇が制度的に行ってきたことに縛られているだけで、これは日常生活では特別なことではなく経験していることなのだ。会話の全体が聞こえないとしても、人はそこで直面している状況に合わせて聞こえた部分の断片をつなぎあわせて解釈することができる。クラブや昔でいえばディスコのような喧騒空間のなかでも仲間内のコミュニケーションがある程度成立するのはそのためだ。
 「激情」「ANIMAL」など直近の作品ではしばらく遠ざかっていたが、いくつかの作品で三浦は「身体検査」(抜きキャバ)、「騎士倶楽部」(AVの撮影現場)、「メイク・ラブ」(ラブホテル)などと性風俗の世界を好んで取り上げた。そこにはある種のスキャンダリズムのような側面もあって、そういう特異性がこの劇団の知名度サブカル的に高めてきたが、それだけではない。
 この「愛の渦」で三浦は風俗店を舞台にしてセックスを前提とした場に集まる人間を描くことで、好んで描きつづけた性の欲望に支配された性的動物としての人間を赤裸々に描きうる場を選択する。そこにはそれ以外のそれぞれの背景を意図的に捨象することで性という主題に特化した人間の姿を描き出す狙いもあった。
 これは本来は複雑な関係性をフラットなものに還元するため安易に見えかねない危険も含んでいるが、三浦が巧妙なのはこういう設定においても人が優れて関係的な生き物で性欲だけで生きているわけではないことをきわめて冷徹な筆致で提示していくところだ。平田の演劇について以前、「あたかも動物を観察するかのようにある空間で登場人物に起こる出来事を観察させるような演劇」と書いたことがあったが、三浦のこの芝居にも作演出の三浦と舞台の間の俯瞰的な距離感に同じような印象を感じる。
 それがもっともよく表れたのは途中で会話が途切れて気まずい雰囲気が漂いだした時に明らかに不適な会話なのに登場人物がそれぞれの職業とか出身地を聞き始める場面だ。これで思い出したのは平田オリザの「冒険王」という芝居。こちらは日本を捨てた放浪者的旅行者が集まる安宿に自分の夫を探しに日本から主婦が訪れる場面。ここでこの主婦だけが会う人会う人に「なにをなさっている人ですか」のような職業や出身などを聞くので、その場の雰囲気がしだい険悪なものになっていく。ここで平田は日本人の他者との関係のとり方を描写したわけだが、三浦のこの場面も日本人によくある状況を取り入れた会話で、観察眼鋭い切り口に感心させられた。
 もうひとつは後半の登場人物それぞれの本音が爆発して、一触即発になりそうな場面で、これはこういうフラットな関係にも当然、登場人物にはそれぞれの思惑があって、この場がけっして、性のユートピアのようなところではありえないということが、明らかにされるところだ。モチーフに直接的に暴力やセックスなど、人間の抱える暗部をもってくるためにどうしてもサブカル的な方面から興味本位に紹介されることの多いポツドール(三浦)だが、会話の緻密な構築やそれをあえて捨て去った無言劇など、そのラジカルな前衛性はチェルフィッチュ同様に「今もっとも刺激的」なのである。
 平田に代表される前世代の作家たちもそのラジカルな実験性においては岡田や三浦に劣るものではないが、岡田・三浦の舞台の魅力は彼らが公演ごとに自らのスタイルを変貌させ、その可能性を追求している模索の段階にあることにもある。それは極端なもの言いをすればそこから、これまでの日本演劇の歴史を変えるような新たな地平が誕生する期待をいままさに孕んでおり、実験性ゆえに見慣れぬスタイルへの激しい拒絶が起こることや、公演ごとに毎回賛否両論に評価が割れることも含め二人の舞台はスリリングで目が離せないのだ。

 


チェルフィッチュ関連の執筆原稿など
岡田利規三浦大輔(雑誌「悲劇喜劇」に掲載の文章 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000012
ガーディアンガーデン演劇フェス公開選考会http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20030923
2004年の演劇ベストアクト - 私が選ぶ10の舞台http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/10010925
「労苦の終わり」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041107
「ポスト・労苦の終わり」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/10010926
「目的地」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050806
「フリータイム」@六本木Super Delux http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20080309
「三月の5日間」@神戸アートビレッジセンター http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040604
「三月の5日間」」@六本木Super Delux http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060311
「三月の5日間」@国立国際美術館 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20071208
「体と関係のない時間」@京都芸術センターhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060922

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000228

*2:このサイトでも質問いただければできるだけお答えしたいと思っています

*3:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000228