下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「平田オリザと関係性の演劇」 Web版講義録

【日時】2008年11月28日(木)p.m.7:30〜
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて


 ご無沙汰しておりました。今回取り上げるのは青年団平田オリザです。いわゆる「静かな演劇」の中心人物として90年代後半の日本現代演劇の流れをリードしてきました。最近は大阪大学の教授もつとめ、学際的な共同研究の一環として実際に舞台にプログラミングされたロボットが登場し生身の俳優と共演するというロボット演劇を制作、その試演が先日大阪大学で行われ、私も見てきたところですが、いかにも平田らしいというかとても興味深いものでした。そして、その会見の席上などでたびたび言っていたのは「ロボットに内面がないように俳優にも内面は必要ないので、それは結局同じことだ」というような趣旨の言葉だったのですが、それはどういうことなのでしょうか。そういうことも一緒に考えていきたいと思います。それではさっそく始めましょう。
平田オリザのロボット演劇
TPAM in Yokohama 2011: Robot-Human Theatre


 きょうは今回初めての人もいらっしゃるようなので、まず簡単な復習から入ります。チェルフィッチュの時にも配布しました「1997小劇場分類図」雑誌「東京人」原稿*1を配布しましたので、もう一度眺めてみてください。

関係性の演劇としての平田オリザ
 平田オリザはこの表のうち左下の象限に位置する「関係性の演劇」を代表する劇作家・演出家です。通常この領域の作家は「静かな演劇」とか「静か系」とか呼ばれたりしていますが、前回のニブロールの講義で「コドモ身体」を「ノイズ的身体」と呼び変えたようにここでは「静かな演劇」という呼称は採用しません。というのはその言い方では作品の内容をまったく反映していないし、この種の作品において「静か」というのはまったく本質的な条件とはいえないと思うからです。
 それでは「関係性の演劇」とはどんな演劇なのでしょうか。次は以前に書いたものですが、簡潔にまとめられていると思うのでここに再録してみました。

関係性の演劇とはなにか
 
 これまでの演劇批評の文脈では日本の現代演劇を分析的に取り上げるとき、演劇史のうえから新劇、アングラ劇、小劇場などその発生の系譜をたどって考える傾向が強かった。

 ところが、こと90年以降、あるいはもう少しさかのぼっても、80年代後半以降の日本現代演劇を俯瞰的にとらえようと考えた場合、こうした方法論が有効でなくなっているという現実があるのではないだろうか。ここ何年かのリアリズムの回帰を巡る一連の論争や最近の「静かな劇」を巡る議論などをみても、これまで、批評言語として使われてきたこれらの言説が今や無効なための混乱が、あちらこちらで顔をだし、それが一層議論の混迷を深めているような気がしてならない。多様な日本の現代演劇を捉えるには歴史的(通時的)に影響関係を捉えるのみでなく、歴史的な文脈を一度白紙にもどして、共時的に作品構造の分析そのものから、演劇の系譜をとらえなおさねばならないのではないかと考えている。これはそのための試論である。

まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」*2*3という概念で括れるのではないかと思うからである。

関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。関係性という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なタームで実体に対する対立概念である。近代の思想が主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置くのに対して構造主義現象学といった現代の思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。

これだけで、この種の演劇というものが、いわゆる「内面を持つ個人」というものを前提にした新劇的な演劇観とは全く異なるものであることが、はっきりと理解できるであろう。19世紀のロシアに生まれたスタニスラフスキーのシステムは当然ながら、この「内面を持つ個人」という人間観を前提にしたものとならざるをえないからであり、日本の新劇がいかに遠いその末裔であろうと、「内面を持つ個人」を描くという前提は動かせないからである。

では、関係性の演劇においてはなにが描かれるのか。ここで描かれるのは例えば登場人物の間の関係、登場人物とある種の共同体との関係である。関係の網の目ような描写から、直接、描かれることなくして、浮かび上がってくる結節点のようなもの、これが個人という風にして捉えられてきた人間というものの姿であり、これと離れた個人などというものは幻想にすぎない。これが、関係性の演劇の前提である。

 では具体的に「関係性の演劇」というのは、どんな作品があるのか。平田オリザ岩松了宮沢章夫と挙げていくと、そうか「静かな劇」のことをいっているのかととられかねないので、ここでは思い切ってまずベケットの「ゴドーを待ちながら」を取り上げて具体的に説明を始めることにしたい。

ベケットの書いたこの物語については、不条理劇の傑作として日本でも様々な形態で演出、上演されているし、この作品に啓発を受けた作品も枚挙にいとまがない。だが、これは実は「関係性の演劇」としての構造を持っているのだ。この物語の主要な登場人物はエストラゴンとウラジミールという2人の人物であり、この2人がゴドーというこの物語には登場しない人物を待ち続けている。ここで観客の前に与えられる構造はこれだけである。この物語の核心はこの3人の関係の中にあり、全てがそれだけに収れんする。

 エストラゴンとウラジミールはどういう人間かはこの物語のなかでは読み取れない。舞台の上では2人の対話が延々と繰り返されるが、それによって二人の素性が明らかになってくるということもない。むしろ、浮かび上がってくるのは鏡像のような関係の2人と2人が待ち続けて、そして舞台にはついに現れないゴドーという人物との関係の三角形なのである。だから、この芝居においてはエストラゴンにもウラジミールにも関係の三角形の一辺という以上の内実はない。これは独立した存在なのでなく、構造を浮かび上がらせるための仕掛けであるからだ。そういうわけで、エストラゴンにもウラジミールにも「個人としての内面」など存在しない。これが私が考える「関係性の演劇」の特質である。

 さて、現代の日本演劇に話をもどそう。まず、話を分かりやすくするために平田オリザを取り上げることにする。平田の演劇はゴドーなどに比べると具体的な描写をともなって形成されている。それゆえ、伝統的なリアリズム演劇と一見近い感じを受ける。


http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317

 
 「関係性の演劇」というのにいきなりベケットが登場したりして驚かれた方があると思うのですが、すでに不条理劇として知られているベケットのことをわざわざ「静かな演劇」と言いなおす人はいないと思われますが、私はベケットこそが関係性の演劇の嚆矢だと考えています。というのはここには明らかにそれまでのリアリズム演劇とは異なる人間観があるし、その流れはその海を渡り、別役実という劇作家に結実し、80年代において途絶えたかのように見えましたが、地下水脈としてとうとうと流れ続け、90年代の平田らの活動へと継続されていると考えているからです。
 さて、今度の文章は以前に書いた青年団「S高原から」のレビューの一部で「関係性の演劇」について言及している部分です。

平田の芝居と最初に出合ったのは「ソウル市民」だったのだが、当時、「静かな演劇」ないし「静かな劇」と呼ばれていた平田の舞台について、その呼称には違和感があったもののそれがなにであるのかは分からず、この「S高原から」を見てその本質から平田オリザによる群像会話劇を「関係性の演劇」と呼ぶべきではないかとはっきりと確信したのもこの舞台によってであった。

 「関係性の演劇」とは登場人物の関性をそれぞれの会話を通じて提示することで、その設定の背後に隠蔽された構造を浮かび上がらせるという仕掛けを持った演劇のこと。平田の作品をこう呼ぶことにしたのは「静かな演劇」と呼ばれていながら、一部では新劇(リアリズム演劇)への回帰とも当時、解釈されていた平田の演劇は西洋近代劇の理論的支柱と目されていたスタニスラフスキー(そしてその後継であるメソッド演劇論)が前提としていた内面を持つ個人としての全人的存在である人間を否定して、人間というものはいわば複数の関係性を束ねる結節点のようなものとして存在しているにすぎないというまったく前提の異なる人間観をもとに構想されている。そういう違いがあり、だから、一見見掛けが似ているところがあったとしても、「関係性の演劇」とリアリズム演劇(近代演劇)は別物であるということ。こういう演劇観は後に平田自身が著作のなかで明らかにしていることだから、現在時点でことさら強調するのも間抜けな感じが否めないが、要するにそういうことをはっきり感じさせた作品がこの「S高原から」だったわけだ。

 冒頭で「平田の方法論がよくも悪くも典型的な形で具現されていて」と書いたのにはちょっとしたアイロニーも実は含まれたもの言いでもあった。「関係性」ないし「関係的」というのは「記号的」と言い換えることも可能で、この戯曲には例えば「ソウル市民」ややはり平田の代表作と目されている「東京ノート」と比較してみたときに関係性の提示のありかたがあまりにも露わであり、それゆえ舞台を見終わった後の印象として個別の事象よりも全体として設計図のように描かれた骨組みがより前面にはっきり出てきて、図式的に感じられる欠点もあるということは指摘しておかなければならない。つまり、あまりにも平田の理論通りに作られていて余剰がないというか、教科書的な作品でもあるのだ。

 トーマス・マンの「魔の山」を下敷きに構想された「S高原から」は高原にあるサナトリウムの中庭にある休憩場所が舞台となる。ここには感染はしないけれど、治療の方法がなく完治することもないという病気*2に罹った患者が入院している。この芝居には大きく分類すると入院患者、病院のスタッフ、外部からこの病院への訪問者(患者の面会者)という3種類にグループ分けできる人物が登場し、それが相次ぎこの場所に現れ、さまざまなフェーズの会話を交わすことで物語は進行していく。

 「魔の山」から平田が引用してこの舞台のなかで何度も変奏されながら繰り返されるのがこの閉ざされた空間であるサナトリウムと下界との間に流れる主観的な時間の違いである。これは付き合っていた恋人との別れを経験することになる患者、「もうこんなに長くいるのだからここから降りてほしい」という婚約者と降りない患者などいくつかのエピソードによって繰り返し基調低音のように繰り返される。

 そしてそこに隠されているのはもちろん「死」ということだ。「死」は一般に私たちが暮らしている下界においては隠蔽された存在だ。だが、この患者たちにとってはいつか自分にもやってくる日常そのものでもある。ここに平田が描き出した会話を克明に観察していくと

 患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる。

 「死」とは「関係性の不在」であり、「関係性の演劇」においてそれを直接提示することはできない。繰り返される別れのエピソードは外部との関係性がしだいに希薄になってきていること、つまり、患者らが生きながら、ここで死んでいる状況を平田は象徴的に提示しているわけだ。
 平田の「関係性の演劇」には実はもうひとつ特徴がある。それは同じような関係を持つ2つの関係性がもうひとつの関係性を連想させるということ。簡単に言えば隠喩(メタファー)である。この舞台のラストは中庭に置かれたソファの上でまるで死んだように眠りつづけるある患者の姿で終わるのだが、この眠る患者の姿から観客はやがて来る「死」の姿を感じ取ることになり、そこでこの舞台は終わりを迎えるのである。


青年団「S高原から」のレビューから引用(http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050716

 上記の「S高原から」についての文章で太字で書かれた部分が作品に即した、関係性の演劇の様相の実態である。単純な演技・演出のスタイルについてではないこういうことについては実際に1本まるまる作品を見てもらわないとなかなか実際のところというのがいえないというのがもどかしいところですが、「S高原から」の場合でいえば死という話題についてのそれぞれの登場人物のたちふるまいの違いの微細な書き分け、「患者のグループは冗談などに見せかけて頻繁に「死」のことを話題にするのに対して、訪問者たちはその話題を回避する、あるいは見て見ないふりをする。そして、患者の友人たちは患者本人がいない時だけ、直接それに触れることを避けるようにして「あいつ相当悪いんじゃないか」などとそれを話題にするが、本人の前ではそれを本人が話題にしても笑ってそれを回避するような態度をとる」などが、全体としての群像描写のなかに巧妙にちりばめられていること。そこがこの舞台の肝ということができるかもしれません。
 平田の演劇には「関係性の演劇」であるということに密接に関連した2つの特徴があります。それはまず第1に「現代口語演劇」であることです。そしてもうひとつがそのほとんどの作品が「群像会話劇」であるということです。
 「現代口語演劇」あるいは「現代口語日本語演劇」というのは平田自らが何度も口をすっぱくして強調している彼の演劇の最大の特徴です。平田の演劇はリアルな会話とはいかなるものかという現代の私たちが日常話す話言葉の精密な分析からスタートしています。
 これまでの演劇がリアルでなく、そのセリフ回しにリアリティーが感じられないのは普通の会話体としては使わないような言葉(セリフ)を俳優に強いて、そういうものを説得力のある台詞として語るのが俳優の技術であるとされていました。「それは間違っている」と平田はそれまでの演劇のありかた(これは特に直接的にはスタニスラフスキーシステムとその現代化された応用ともいえるメソッド演技の内面の再現という神話)に批判の目を向けるわけです。そして平田はそのよって立つ理論的な基盤を現象学に置きます。
 フッサール、メルロ・ポンティの現象学ですね。この辺の理論的な詳細については平田自身が著書に書いておりますので、ここではあまり詳しくは踏み込みませんが、単純化した言い方をすれば、それまでの「リアリズム演劇」だとそれぞれが個人として独立している登場人物の内面を想定して、そのセリフを登場人物がどんな心情で述べたのかということなどを内面から想像し、自分の演技に落とし込んでいく(内面と演技の一致)のに対して、平田(青年団)の場合、個々のセリフの内容やそれが発せられた時の個人的な感情よりもコンテクストないしその会話によって立ち現れる登場人物の関係性の方をより重視するところに特徴があります。
 平田の舞台の多くは複数の登場人物の会話のなかからある種の共同体の関係の総体が浮かび上がってくるというもので、大抵は「群像会話劇」の形態を取ります。チェルフィッチュの講義でも触れましたが、「現代口語演劇」「群像会話劇」という2つの特徴は平田だけではなく平田の同世代あるいは後継者である「関係性の演劇」の作家らが共通して持つ特徴でもあって、それは90年代後半には岩松了長谷川孝治弘前劇場)、長谷基弘(桃唄309)、はせひろいち(ジャブジャブサーキット)ら大きなグループを形成し典型的なスタイルとして流布されていきます。
 今回お見せする青年団「バルカン動物園」はそうした関係性の演劇の特徴が典型的かつ極度に発揮された作品です。実は平田オリザの作品には今言ったようなほかの作家だれにでも当てはまるような特徴だけではなくて、平田に特有だと私が考えている特徴があります。それは「作品の形式がメタフォールに作品に主題と関係する」ということなのですが、そのことに関してはこの作品を見た上で実際の作品に即して説明したいと思います。別に正解とかがあるわけではないのですが、ひとつこの作品を見るための手がかりのようなものを挙げておくと、脳とサルの研究を学際的に行っている研究室のことを描いているこの作品に平田はなぜ「バルカン動物園」という題名をつけたのか。それがすごく重要だと思います。
 (ここで「バルカン動物園」を上映する)
 どうだったでしょうか。以下の文章は初演時の「バルカン動物園」のレビューですが参考までにここに掲載しておきます。

 青年団の「バルカン動物園」はなんとも企みのある題名が、この作品の本質をよく表現していると感心した。バルカンといえばもちろん作中欧州の戦争の引きがねになったと想定されてるバルカン半島のバルカンだろう。文化、宗教、人種といった人間の紛争の原因になりがちな要素が狭い地域内にこれでもかって集まっている。そして動物園はいうまでもなく動物を人間が見るために人為的に集めた施設である。この芝居はあたかも観客に動物園の動物を観察させるように舞台上の人間を観察(覗き見)させていく。

 だから、あえて挑発的に決め付けるがこの芝居のテーマはチラシで書かれたように脳とか精神とかでなく「戦争する動物=人間」なのだ。(平田は芝居にテーマはいらないというが、ここでのテーマはあくまで私が平田のテキストから読み取った主題の意である)。この芝居で平田は人はなぜ戦争をするのかという疑問をあたかも動物園で観察される動物のように研室室にたむろする研究者を描くことで見せていく。

 舞台では欧州の戦争のことがたびたび背景として語られる。しかし、私はだからこの作品は戦争を描いているというのではない。当たり前のことだが、それだけでは戦争の話題を話す人が芝居にでてるというだけだ。あえてここでこんな基本的なことまで指摘するのは、そんな芝居も多いからで、平田の作品でも決してそれは少なくないのだが、ここではあえて具体的には指摘しない。

 この芝居では戦争はむしろ研究室の内部の人間関係と関連して語られる。具体的に述べよう。欧州の戦争で亡くなり、脳だけの存在になった脳医学者とその婚約者のことが登場する。それから、研究を取るために欧州に行き、婚約者というか彼を振ってしまう女性研究者のエピソードも語られる。この二つの話は一見なんの関係もないように見える。

 だが、ここで平田は周到に仕掛けを仕掛ける。この二つのエピソードは相同な構造を持ち、鏡像のような関係にあるのだ。

 

 一方は脳生理学者(男性)が研究を振り捨てて、生まれ故郷での戦争のため欧州に出かける。もう一方では女性研究者がよりよい研究の場を求めて、婚約していた同僚の研究者を捨てて欧州(こちらはノルウェーだが)に行く。二つのエピソードの照応関係を示すと脳生理学者/戦争/研究を振り捨てて欧州に行く/に対して女性研究者/研究/結婚を捨てて欧州に行く。このどちらも相手の男性(女性)を振り捨てて欧州に行くという話は互いに呼応しあっている。つまり、ここでは研究/戦争というひとつのペアができている。ほとんど研究室の中の人間関係についてのみが語られるこの芝居のなかで男女間の関係が語られるエピソードがこの二つだけだと考えれば作者の意図は明らかであろう。研究は戦争の隠喩なのだ。

 そして、もう一つ。脳医学者が戦争に参加した理由は妹が戦死したからだと語られる。そして、やはり、肉親について触れられるエピソードがもう一つだけある。それは自分の息子が自閉症だったために自閉症の原因究明に執念を燃やす女性研究者(山村祟子)の存在である。そしてこの芝居のなかでの最大の山場でもあるのだが、彼女がノックアウトボノボ(人為的に障害を持たせたボノボ)を研究につかおうとするためにそれと感情的に敵対する女性サル学者(安部聡子)のことが語られる。これは単純に考えれば、サルを異常に愛するゆえに感情的になっているサル研究者のわがままにも見えるのだが、それだったらサルのクローンではなくて人のクローンを使えとの捨てぜりふは幾分の真実もあって、法律的な問題を別にすれば、人のクローンを実験に使うことの可否について、使えないのはそれを人とみるかどうかという歯止めだけなのであり暗黙の前提としてはサルでは分からないのでボノボを使いたいという研究者の意思のなかには、「本当は人間で研究したいけどそれはできないので」という前提が隠されている。つまり、ここでも研究は戦争のメタファーとして使われる。

 こうした行動はみなそれぞれが自分の自由意志によって積極的に選び取ったものではあるがその選択にいたるには社会や人間関係を含め、被拘束的な情況があり、それを切り離していい悪いを言っても仕方のないものである。そして、この作品ではそうした立場から比較的自由な学部生が、大学院生、研究者と進むにつれて、自分の立場というどうにも抜けられない被拘束的情況へと巻き込まれていることもしっかりと描かれている。まさに研究室の人間関係という一見コップのなかの嵐的情況を描いて戦争のバルカン的情況を示唆したこの芝居が「バルカン動物園」という題名なのはぴったりだと思うのである。

 芝居の中で具体的に提示されているある事柄が別の事象を想起させるような構造を持っていること。平田の作品の多くはこうした2重の構造を持っており「関係性の演劇」の中で平田自身の特徴はなにかといえばそれはこの「メタファー構造」であという風に考えています。この「バルカン動物園」でいえば表題の通りに「研究室のなかでのささいな争い」⇔「バルカン半島の政治的対立関係」の対応関係を提示することで、なぜこの世界から戦争が簡単にはなくならないのかについての平田なりの分析が提示されているわけです。
 以上で今回の講義は終了します。次回は平田オリザと並び90年代の「関係性の演劇」の系譜の作家でもっとも重要だと考えている長谷川孝治弘前劇場)を取り上げたいと思います。→
現代日本演劇・ダンスの系譜vol.5 演劇編・弘前劇場セミネールin東心斎橋Web講義録 
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000402
平田オリザ
青年団「革命日記」@アゴラ劇場 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100516/p1
青年団「バルカン動物園」誤読的深読みレビューhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000024
青年団「ソウル市民」三部作連続上演
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061209
青年団「ソウル市民」三部作連続上演wonderlandレビュー
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=613&catid=3&subcatid=4
青年団「S高原から」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050716
青年団「山羊 シルビアってだれ?」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040502
関係性の演劇
別役実ベケットと『いじめ』」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060625
長谷川孝治の「アザミ」についてhttp://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000019
松田正隆試論http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000120
青年団プロデュース「月の岬」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000023
ポツドール「愛の渦」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050424

simokitazawa.hatenablog.com

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000228

*2:後ほど「関係性」という語句はラカンが使用していて、そういう思想的な背景を連想させるので誤解を与えやすいのではないかとの指摘があったが、ここで「関係性」と呼んでいるのはラカンが想定したようなそれよりは一般的な意味合いである。

*3:https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/44/1/44_117/_pdf/-char/ja