下北沢通信

中西理の下北沢通信

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流山児★事務所「満州戦線」@下北沢ザ・スズナリ

流山児★事務所「満州戦線」@下北沢ザ・スズナリ

作:パク・グニョン[劇団コルモッキル]
翻訳:石川樹里
上演台本・演出:シライケイタ [温泉ドラゴン]
芸術監督:流山児祥


出演
伊藤弘子
清水直子俳優座
みょんふぁ(洪明花)
いわいのふ健 [温泉ドラゴン]
カゴシマジロー[TRASHMASTERS]
木暮拓矢


1943年3月、満州の首都・新京。
朝鮮から満州に渡り、満州国陸軍軍官学校(実質的には、大日本帝国陸軍士官学校)を卒業したアスカの卒業を祝うために、朝鮮人の友人たちが集う。彼らは満州でそれぞれ、働きながら暮らしており、みな日本名を持ち、その名前で呼び合う。祖国独立のために戦う運動家たちを匪賊と呼んで憎悪し、アスカの妹が持ってきた朝鮮の味噌壺は虫が湧いて非衛生的だと扱き下ろし、日本の有田焼を尊ぶ。有田焼は豊臣秀吉朝鮮出兵の際に連れられてきた朝鮮陶工が作ったという歴史認識もないままに。そして市役所で働くヨシエは日本人上司との不倫がばれて、リンチにあっても、日本人と結婚し、日本人の子を生み育てることを願うのであった。
満州という新天地で五族協和を信じ、日本人として生きた朝鮮の人々の歴史から現代社会を照射する。

 シライケイタ(温泉ドラゴン)と韓国の劇作家、パク・グニョン(劇団コルモッキル)による第2弾。戦時中に満州にいた朝鮮人のうち陸軍士官学校を卒業したアスカをはじめ、いわゆる対日協力派の朝鮮人の群像を描いている。
 これまで見てきた韓国作家の作品ではほとんどの場合、他の部分での価値観はどうであっても、当時の日本人とそれに協力するような人たちについては「極悪非道」「裏切り者」的なステレオタイプな描き方しかしない傾向が強かった。この「満州戦線」でももちろん対日協力者を肯定することはしていないけれども、彼らにも背景にはそれぞれもう少し複雑な内実があったということを描いている。その意味では一歩踏み込んだ表現といえるのかもしれない。
 この人たちの日本をめぐる会話は日本人でさえ「わー」となってしまうようなところがあるわけで、韓国の観客がこれを見たら直視するに絶えず、相当嫌な気分になるんだろうなと想像はできても、本当のところどうなのかということはよく分からない。
 終演後関係者に話を聞いたところ、実はこの話の登場人物には韓国の人だったら「ははあ」と気がつくモデルがあり、特に主人公格のアキラのモデルは満州国軍軍官学校を出ていることが広く知られている朴正煕だというのが分かった。そして、もちろん、朴正煕は当時の大統領、朴槿恵の祖父なわけで、本作ではそれを踏まえたうえで揶揄したようなところがあることは確かだ。こういうところがパク・グニョンが前政権に目の敵にされたことの要因のひとつであるらしい。
 ただ、今回のシライケイタの演出ではそういうことはあまり分からない。というより、それが分かったとしての大半の日本人観客にとってはほとんど意味がないことであるから、そうした個別の事例は強調されておらず、それぞれが故郷を捨てて、満州に出てきて立身出世を目指した若者たちの青春とその挫折の物語となっている。
ただ挫折の原因がどう考えても日本の植民地政策に巻き込まれた(加担した)がゆえの悲劇というよりも個人のエゴのためとしか思えないようことに設定されている作者の意図がよく分からない。市役所で働くヨシエの運命などは日本人が朝鮮人を非人道的に扱った例としてはあまりに不適である。というのは上司との関係は相手が日本人であるかどうか以前に不倫なので、ヨシエの自業自得の側面が否定できないし、相手の妻が「この朝鮮人が」などとなじったとしても、その罵倒は人種差別というよりは不倫行為で自分たちの家庭を壊した相手への怒りのあまりの言葉だ。
 逆にシュバイツアーを尊敬する理想家だった男が最後に簡単に恋人を裏切るのも利己的な出世欲のためであり、これは冒頭で語られる美辞麗句がいかにも美辞麗句でしかなかったことを示すという意味で、対日協力者たちを揶揄するものではあるのだが、これではもともと自分勝手だった人たちが自滅したということでしかないように受けとれてしまう。
あと、教会での聖劇として上演される劇中劇はハチャメチャで笑わせるのだが、なぜそういう内容のものがここに入るのかと言う意図はよく分からなかった。終演後考えたのだが、このくだらない劇中劇も自分勝手な友人たちもアスカ=朴正煕という暗黙の了解というか、政治的な揶揄があってはじめて機能するものだったのではないだろうか。こういうビビッドな政治的批判を作者が想定していない観客の前で上演する時には往々にあることではあるが、やはり作品が本来持っているポテンシャルが発揮されにくい状態での上演となったのかもしれない。