下北沢通信

中西理の下北沢通信

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映画「幕が上がる」@秋葉原UDXシアター

映画「幕が上がる」@秋葉原UDXシアター

WOWOWの 放送*1では見たけれど有安杏果の卒業後、映画「幕が上がる」を劇場のスクリーンで見るのは初めてだった。撮影時は3年前になるのだろうか。あの時の杏果が夏菜子がフィルムに定着されていまも目の前で私たちも見られるというのが映画の素晴らしさだ。それとともにその後にももクロに起きた様々な出来事を踏まえて、この物語をもう一度見ると映画公開時には考えもしなかったいろんなことが「走馬灯のように」(BY夏菜子)脳裏に浮かび上がってきて、まるで違う意味を持って迫ってくるのが不思議であった。
 さおりが尊敬する吉岡先生からの別れの手紙を体育館で聞き、絶望に打ちしがれる家に帰る場面から決意を固めて皆の前に立つまでの描写。映画製作時にはももクロ史の中では早見あかり脱退の場面を思い起こさせる場面ではあったが、今見ると杏果から卒業の意思を聞かされて「目の前が真っ暗になった」という夏菜子の述懐」(闘響導夢での挨拶)を予言していたかのように思われてならない。
 そして、逆に杏果の側から見たら、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラを演じる中西悦子という存在は映画の中での立ち振る舞いからして、有安杏果とはまったく別の人格なのだが、その存在のあり方そのものが、ももクロに入り、いて、そして去っていった有安杏果という人を象徴する存在としか思えなくなってくるのだ。そして、実は吉岡美佐子も挫折を持ってももクロに入ってきて、そしてメンバーに出会い成長して、そこから去っていった有安杏果のことを象徴していると思えて仕方がないのである。
 つまり、私には今回見た「幕が上がる」という映画はカンパネルラとして一度は天上に去り、されど舞台の世界に吉岡美佐子として戻ってくる有安杏果を描いた物語としか受け取れなかった。
 こんなことは間違っているのかもしれないが、こういうことが起こる理由はある。ひとつは平田オリザの作品が持つ隠喩的構造である。「幕が上げる」という小説はもともと作中に登場する登場人物の出会いと別れがそのまま劇中で演劇部員である彼女たちが上演する宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」と二重重ねになるように作られている。
 本広克行監督と脚本の喜安はさらにその外側にももいろクローバーZの物語(出会いと別れと成長の物語)を重ね合わせて、重層的な構造を作り上げてみせた。こうした構造を持つ物語だからこそ、ももクロ有安杏果との別れなどその後に起こる物語もこの映画が包み込んで取り入れていくのはむしろ当然なのだ。
 例えばこの映画ではついに未完となり描かれることはなかったが、佐々木彩夏演じる後輩が先輩の担ってきたものを受け継ぐ物語ともなっていくという物語も可能性としては含まれていて、それは今後のももクロの物語と響きあうのかもしれない。
もう3年後にもう一度見たらまた全然違う物語に見えてくるのかもしれない。その時、5人はどうなっているのだろうか。特に杏果はどうしているのだろうか*2

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:私はソロシンガーとして復活していると考えているが。