下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

DULL-COLORED POP 福島3部作・第1部先行上演『1961年:夜に昇る太陽』@こまばアゴラ劇場

DULL-COLORED POP 福島3部作・第1部先行上演『1961年:夜に昇る太陽』@こまばアゴラ劇場

作・演出:谷賢一

劇団活動再開! 2年間の取材を経て、福島と原発の歴史を解き明かす「福島3部作」、第1部のみ今夏先行上演。福島はいわきアリオスにて初日を開けた後、東京こまばアゴラ劇場にて20ステージ上演。

私の母は福島の生まれで、父は原発で働いた技術者だった。私自身も幼少期を福島で過ごし、あの豊かな自然とのどかな町並みが原風景となっている。

原発事故はなぜ起きてしまったのか? 震災以降ずっと考えてきた問いに答えを出すべく、2年渡る取材を経て福島の歴史を執筆・上演する。第一部は1961年、双葉町原発誘致を決定した年。あの頃、人々は何を夢見ていたのか? 当時の夢であり現在の悲劇の発端でもある1961年を「演劇」、つまり人間同士のドラマとして描き出したい。

作・演出 谷賢一



DULL-COLORED POP
2005年、主宰・谷賢一が旗揚げ。日英の大学で学んだ演劇学を基礎に置き、古今東西の演劇的手法を積極的に摂取。「演劇だから何でもできる!」と絶叫しながら、「演劇でしかできないこと」を追求し続ける純粋演劇集団。


出演

東谷英人、大原研二、塚越健一、百花亜希(以上DULL-COLORED POP)
古屋隆太(青年団)、井上裕朗
内田倭史、大内彩加、丸山夏歩、宮地洸成

スタッフ

舞台監督:藤田有紀彦、松谷香穂
照明プラン:阿部将之(LICHT-ER)
制作:小野塚央

谷賢一が地元福島県の出身であり、いくぶん当事者といえなくもないからというだけでなく、やはり平田オリザの薫陶が大きいのではないかと思う。東日本大震災ならびに福島第一原発の事故を巡る問題は単純に原子力発電所を「絶対悪」として描いて糾弾する内容のものが多く、住民の多くが反対しているのに政治の力で原発政策が強行されたからこんなことになったというようなステレオタイプな「反原発劇」が多かった。
 DULL-COLORED POP の「1961年:夜に昇る太陽」は全体を3部構成とし、福島と原発の誘致決定から3・11での原発事故発生までの50年の歴史を振り返ることで福島第一原子力発電所の事故がなぜ起こったのかに切り込んでいく。
 第1部は原発双葉町が誘致することになる経緯が原発用地の土地を東京電力に売却することになる家の兄弟たちの目によって語られる。
 主要登場人物には実はそれぞれ実在のモデルがある。物語の核となる穂積家の3兄弟は長男は谷賢一自らの父が、」次男・忠は故岩本岩本忠夫元双葉町長、3男も実在するあるジャーナリストがそれぞれモデルだという。
 県は反対運動を恐れてか、地元に十分に説明をすることなしに秘密裏に原発立地調査を進める。原発立地についての是非の論議が町民たちの総意のコンセンサスを得るということではなくて
、「絶対に安全だ」との一方的な説明だけで話をすすめ、この芝居ではただひとり技術的な側面から疑問を呈することのできる東大で物理学を学ぶ長男の質問には直接答えることをしないで、売却を躊躇するなら、他にも適地はあるなどと圧力をかけ、即断即決を迫る。ひとつの家族とするなどいくぶん実際の話をデフォルメしている点はあるけれど、当時の福島県そして双葉町が置かれた絶望的な状況と大方このような経緯で、実際の現実的なリスクなどは論議されることなく、原発の誘致が決まっていったのだろうなということは一定以上の説得力があった。
 純粋に技術的な側面だけから言えば原子力発電はそれぞれの発電の方式や技術のあり方によってそれぞれの原発にどの程度の事故リスクがあるのか、そしてそのリスクの度合い(事故の起こる確率とその被害の程度)と運営側のリスク管理能力などいくつかの要素を勘案したうえで判断すべきだ。だが、特に日本の場合は実際にはそういう風になっていないのが一番の問題だ。
 なにかの問題に対して疑問を呈してもそれに対してまったく答えようとしない今の政権の態度をみてもそうだが、住民の持つ様々な危惧に対して、「原発は安全だから今回の事故のようなことは二度と起こらない」などと繰り返すだけの電力会社や現政権にはこの原子力発電という高度な制御能力が必要な技術を任せることはできない、というのが私の原発に対する立場で、それは原発後の各電力会社を見るたびに強化されてしまう。
 東京電力もそうだが、そのことをもっともひどいと感じるのは関西電力で、一連の会社側の動きを見ていると原発をとにかく再稼動させて利益を出したいということしか考えていないようにしか思えない。
 そういえば原発事故後しばらく忘れていたが、被爆国として、あるいは被爆国だからこそ「原子力の平和利用」においては世界のトップに立うべきだという論理は一時原発推進派の旗印のようなところがあった。それがいつの間にか地球温暖化などを受けて原発はCO2を出さないクリーンエネルギーなどと電力会社や政府が言い出したことに気がついたときには「たちの悪い冗談」としか思えずに唖然とした。もちろん、原発はもし一度事故が起これば環境に対して不可逆的に壊滅的な影響を与えるリスクを持つ技術で、それでもそれにあえて目をつぶって必要悪として、万一の場合のカタストロフィーは覚悟のうえで使っている。そういう技術だと認識していたからだ。
 それが3・11の後で原発についての議論で出てきた電力会社が「安全だ」といっていたから安全だと思っていた。「騙された」との論にも唖然とさせられた。安全神話的な説明で住民を納得させようという電力会社も電力会社だが、こんなものは「飛行機は墜ちない。安全運航に努めている」との航空会社の説明と同じで、最初から危険な状況になる確率は高くないけれど「絶対安全」というのは単なるレトリックにすぎないのは自明だというのが少なくとも大学で工学部を専攻した人間には常識だったからだ。
 こうした状況がおそらく何かが起こった時に少しでもリスクを低く見積もろうとする会社あるいは技術者側の体質と事実を見ないでリスクを最大限に算出して危機をはやしたてる「反原発論者」の不毛な対立構造を生み、それが実利のある対策の遅れをもたらした。この3部作でこうした構造的な問題にどこまで踏み込むことができるかに注目していきたい。