下北沢通信

中西理の下北沢通信

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The end of company ジエン社 『ボードゲームと種の起源』@アーツ千代田3331 B104

The end of company ジエン社ボードゲーム種の起源』@アーツ千代田3331 B104

脚本・演出 山本健介


キャスト 高橋ルネ 寺内淳志 名古屋愛(無隣館) 沈ゆうこ(日本のラジオ)


あらすじ


ボードゲームも妊娠も実際に会って、しないと、できない。
ボードゲームを作ることは、「法」を作る行為と似ている。
デジタルゲームのプログラミングと異なり、アナログゲームのルールの裁定は人が担う。だから、ゲームのルールは絶対なものに成りえない。ゲームのルールは――法は、人が運用することが前提でないといけない。だから、その法は運用しやすいものでないといけない。しかも、法を犯しても罰を与える力がない以上、法に従う事が魅力的なものとならなければならない。思わず従ってみたくなるような法。自分を縛ってみたくなるような法とは、どういった法なのか。

ボードゲーム作家という、親や地元の友達に説明しにくい仕事をしている僕は、一人で黙々と新しい「法」を作るため、ただ部屋に居た。『螺旋城』と名付けようとしているボードゲームの基本的な法は「盤面の側面を一周する」「お互いに相手の次に進もうとしている数を読み合い、的中したら相手の前進を阻止できる」「相手より先に目的のマス目に入るか、相手を殺すことに成功したものが勝利」といったものだ。

「殺すの?」
「うん。相手と同じマスに入ったら、先に居た相手は死ぬ」。

彼女にそういうと、彼女は長い髪をだらりとたらしながら起き上がる。

バックギャモンとまわり将棋をベースに、運要素の少ないゲームにしたくて」
「あなたはツキがないものね」
「妖怪イチ足りない、に取りつかれているから」



 


ダイスを使うゲームは苦手だ。
ダイスを使うなら、究極すべてのゲームはくじ引きでよくなってしまうんじゃないか、と思う。

「重いゲームはもう作らないの?」

重いゲームとは、ルールと準備が複雑で、プレイ時間が長くかかるものを指す。

「やってくれる人が少ないから」

彼女は重いゲームに付き合ってくれる数少ない僕のゲーム仲間だ。

「あなたの作るゲームは、説明されるとすごく複雑に見えるけど、やってみるとびっくりするくらい優しくて、だけど意地悪。相手を妨害する手段や、ルールを知ってない人を陥れるハメ技ばかり」

重くなった彼女の体を、彼女は自分ひとりで支えて、どこかへ行こうとする。体は、運要素はなるべく少なくあるべきだ、と思う。そうでなければ、あまりに不条理で、不公平なのではないか。
その一方で、運要素が少なくなればなるほど、ゲームに参加できる間口は狭くなる。妊娠という事実は、運に左右されるものであっていいのか。重い体を女性だけに支えさせていいのか。補助要素を考慮すべきではないのか。法は、その律を犯した時、責任の取り方として罰以外の何かはないのか。僕は罰せられるべきものなのか。どうして彼女は、このゲームを降りないのか。ゲームは誰でも参加できるものでないといけないんじゃないか。彼女は誰とでも寝る女じゃないのか。

それとも、あらゆるものをゲーム、と考えてしまう僕のアナログは、すでに何かに縛られていて、次の一手、運以外で勝利条件にたどり着くには、法を曲げるしかないんじゃないか。

 作中ボードゲームの内容が作中人物と二重重ねになっていくような構造となっているところが面白い。ただ、ゲームについて言えば物語内で細かくルールを知らされても、実際にそのゲームをプレイしてみないとどのようなゲームであるのか実感を持って理解するのは難しい。ゲームの経験の多い少ないはかなり関係すると思われるけれど少なくとも私には物語内でプレイされているゲームについてそれが、どういうものなのかなかなかピンとはこないもどかしさがあった。 

 この舞台あるいは作品と直接の関係はないが、ここからはあるゲームについて語ろうと思う。私のゲーム観というのがそれに大きく影響を受けているからだ。そのゲームとは「犯人当て」というもので、はるか昔のことになるが、京都大学に6年間在学していたいまより40年近く前に京都大学ミステリ研究会の仲間とそれに興じていた。
 これは簡単に説明すると問題編という小説のようなものを出題者が書いてきて、それを読み上げ、残りのメンバーはそれを聞いて「挑戦状」という形式で問われた問題についての回答をそれぞれ提出し、正否を争うというものだった。特に私たちの時代には回答する側は相談ありだったので出題者にとってはきわめて厳しい状況で、この圧倒的に出題側が不利な状況で解答者に対して勝利をおさめるためにありとあらゆるアイデアが試みられた。その中の有効な方法論のひとつにいわゆる叙述トリックと分類されるものがあり、京大ミステリ研出身の作家の作品にその類のものが多いのは実はそれが原因ともいえる。
 このように説明すれば「犯人あて」なら分かるよと考える人がいるかもしれない。ところがおそらく、私たちのやっていた「犯人あて」というゲームと普通に「犯人あて」と思われているものは実はまったく異なるゲームだったのだ。
 京大ミステリ研の初期に書かれた犯人当てでその後の犯人当ての方向性を決定的なものとしたトリックに挑戦状トリックというのがある。犯人当てではよく「読者への挑戦状」というのが用意されている。これは通常のミステリ小説でもフェアプレイを旨とするものには使われることが多く、エラリー・クイーンが国名シリーズで用いた形式が有名だ。 
 これは便利なものでもあって、「犯行は単独犯によるものとする」などの注釈をここに入れることで推理の中で本来は煩雑であるはずの可能性の絞りこみを一気に単純化することができる。