下北沢通信

中西理の下北沢通信

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新聞家「遺影」について フェスティバル「これは演劇ではない」@こまばアゴラ劇場(2回目)

フェスティバル「これは演劇ではない」@こまばアゴラ劇場(2回目)

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企画プロデュース:綾門優季/カゲヤマ気象台/額田大志

ヌトミック『ネバーマインド』 構成・演出・音楽:額田大志
新聞家『遺影』 作・演出:村社祐太朗
青年団リンク キュイ『プライベート』 作:綾門優季 演出:橋本 清(ブルーノプロデュース)


オフィスマウンテン『海底で履く靴には紐がない ダブバージョン』 作・演出・振付:山縣太一
カゲヤマ気象台『幸福な島の誕生』 作・演出:カゲヤマ気象台
モメラス『28時01分』 作・演出:松村翔子

 

現代演劇の最前線で注目の6集団(劇団)が終結しての演劇フェスティバルが「これは演劇ではない」。この日は前半スケジュールで上演される青年団リンク キュイ、ヌトミック、新聞家の3作品を観劇。いずれも2回目の観劇。
 この日も3本すべてを観劇したが、新聞家「遺影」はこれが最後の観劇となりそうなので、この作品についてまず触れておきたい。1回目の観劇で「2人の俳優は椅子に座ったまま正面観客席に正対し、身体所作やカラダのノイズ的な動きはいっさいなく、与えられたテキストをただ語るという形式」と書いたが、この日もう一度見て気が付いたのは「椅子に座ったまま正面観客席に正対し」というところまでは正しいが、「身体所作やカラダのノイズ的な動きはいっさいなく、与えられたテキストをただ語る」というのは厳密に言えば間違い。テキストはどちらも結婚式で体験したことを2人の人物(新婦の妹夫婦であると想定される)モノローグであるため、座っている俳優のそれぞれが相手と視線などを交わして演技をするということはないが、劇中でハンドクリームを取り出し、相手に塗るという行為は男女それぞれが行い、観客からの視覚上はほかに目立つ所作は客席に視線を向け何かを探すというような微細なものに限られているためかなり目立つ行為になっている。
 同じフェスティバルで上演された青年団リンク キュイ「プライベート」のテクストでもやはりモノローグが挿入されるが、それは回想であったり、実際には起こらなかったことを語る虚構(フィクショナル)な語りであったりとそれぞれ機能の異なる複数の「語り」が混在するような形式となっている。
 これに対し新聞家のテキストは少なくとも「遺影」の場合は「語り」の主体が結婚式の場において体験したことがかなりストレートに語られている。もっとも上演の場においてはかなり複雑に見える部分もあるが、この「語り」の中には12月に行われた姉の結婚式で直接体験したことの描写とその式の場でスクリーンに映された姉や家族との過去の映像のことがそれぞれ語れているからだ。さらに言えばより厳密にテキストを比較検討してみないと詳細は分からないが、女性と男性のそれぞれがそこに見るものが最初は同じ描写から始まりながら、後半にずれを生じるようなものとなっているのは二人の間に過去の映像に映っている出来事に対する直接的な体験の有無の違いがあるからではないのだろうか。男性の語りの方が女性の語りと比べると直接的な把握が困難に感じられるのは二人の「語り」の演じ方の違いもあるのはあるのだろうが、そういうテキストの質の違いが関係しているのかもしれないというのが観劇からしばらく時間が経過して思われてきた。
 実演後の質疑応答の際に村社祐太朗は彼が自分で書いた言語テクストと俳優の演技が過不足なく合致することが重要というような趣旨のことを話していて、彼の考えでは既存の演劇はほとんどの場合それが出来ていない、ということがあるらしい。すなわち、特殊にも思われる新聞家の演技、演出法はこのテキストを舞台という形式で提示するためには今追及しているやり方が一番合致していると考えているからということらしい。
 こうしたことをそのまま考えている劇作家・演出家は限られていると思うが、最終的にアウトプットされた形式にはあまり類似点はないが、チェルフィッチュ岡田利規の戯曲(言語テクスト)と発話、身体所作の関係性のありかたが、過去に見たものとしては一番近く感じられている。
 チェルフィッチュも岡田の特異な文体のテキストを俳優の演技により具現化するためにあの奇妙とも当時思われた演出、演技法があり、具体的な身体所作において山縣太一らの寄与があったことは間違いないが、テキスト→演出・演技という方向性であり、逆のベクトルはあまりなかった。
 実は新聞家の今後について今一番興味を持っているのは村社祐太朗が今年岸田國士の戯曲を上演する予定があるということだ。岡田利規チェルフィッチュの初期に外部から依頼によるプロデュース公演として自分以外のテキスト(安倍公房「友達」など)を上演しそれはあまりうまくいったものとは思えなかった。ただ、今考えればそれは全く意味がないことだったのではなく、少し長いスパンの時間軸において岡田の書く言語テクストのスタイルの変貌にはなんらかの影響を与えたのではないかとも考えている。