新春浅草歌舞伎@浅草公会堂
第1部 | お年玉〈年始ご挨拶〉 | 11:00-11:05 |
戻駕色相肩 | 11:05-11:40 | |
幕間 20分 | ||
源平布引滝 義賢最期 |
12:00-1:25 | |
幕間 25分 | ||
芋掘長者 | 1:50-2:30 |
第2部 | お年玉〈年始ご挨拶〉 | 3:00-3:05 |
寿曽我対面 | 3:15-4:00 | |
幕間 25分 | ||
番町皿屋敷 | 4:25-5:45 | |
幕間 25分 | ||
乗合船惠方萬歳 |
「新春浅草歌舞伎」
2019年1月2日(水)~26日(土)
東京都 浅草公会堂第1部
「戻駕色相肩」「源平布引滝 義賢最期」「芋掘長者」
第2部
「寿曽我対面」「番町皿屋敷」「乗合船惠方萬歳」
出演:尾上松也、 中村歌昇、 坂東巳之助、 坂東新悟、 中村種之助、 中村隼人、 中村橋之助、 中村鶴松、 中村梅丸、中村歌女之丞、大谷桂三 / 中村錦之助
若手中心の「新春浅草歌舞伎」は以前は何度も行っていた記憶があるのだが、ここ最近はご無沙汰しており、昨年ひさびさに出かけて、座長格の尾上松也がことの他よかったとの印象もあり、歌舞伎好きの妻と一緒に出掛けることにした。松也が「新春浅草歌舞伎」の座長を務めるのはこれが5回目。浅草の新年の歌舞伎公演には猿之助、海老蔵、菊之助、勘三郎、七之助、獅童ら現在すでに歌舞伎界の中核となりつつある世代の役者が 若手とみなされていた時期に観劇したことがあったのだが、その後、関西に引っ越ししたことなどでしばらく出かけていなかった。
昨年の「元禄忠臣蔵げんろくちゅうしんぐら
御浜御殿綱豊卿」の印象で松也がことのほかよかったと書いたのだが、今年の昼夜通しでも松也がを務めた「源平布引滝 義賢最期」が出色の出来栄えであった。私生活のあれこれやその見かけから誤解を受けやすそうな松也ではある*1が、舞台への取り組みは真摯であり、次代を背負う人材であることは間違いなさそうだ。それに加えてこの「義賢最期」も当代の片岡仁左衛門が自らの演出上の工夫により戸板を組み立てその上に立ち、戸板ごと倒れていく「戸板倒し」、階段上からバッタリ倒れ階段を頭からずずっと落ちる「仏倒れ」などを取り入れ、スペクタクル性の高い人気演目に仕立て上げたようだが、このところの歌舞伎界では仁左衛門や玉三郎ら現在は長老格になりつつあるベテラン俳優が若手への役柄の伝承に意図的に取り組んでいるのではないかと感じされた。玉三郎が七之助に立ち続けに大役を伝授しているのもそうだが、逆に言えば平成の最後の年を迎えて、七之助や松也が歌舞伎界を担う時代がもうそこまで来ているのだろうということも感じられた。もっとも、外連の演出の一方で女だてらに敵の軍勢を蹴散らし、異常に強い小万の存在や孫を背中に背負いながら敵と戦う小万の父などリアルという観点からすれば「そんなわきゃないやろ」と思わず突っ込みの入れたくなるような場面にも事欠かないが、こういう荒唐無稽なおおらかさも歌舞伎の魅力なのかもしれない。
一方、こちらは初見だったが、舞踊劇「芋堀長者」も舞踊なのにおかしみがあり、笑えるという意味でも演者の踊りの達者ぶりを味わえるという意味でも面白かった。「棒しぼり」など狂言由来の演目が好みの妻はこれが一番お気に入りだったようで、坂東巳之助がすっかりひいきとなってしまったようだった。
逆に古典以上に妙にリアリズムを意識した新歌舞伎が時代の変遷に従い現在上演するにはいろんな意味で難しさをはらんでいるのが明らかになったのが「番町皿屋敷」かもしれない。私も違和感を感じざるを得なかったが、歌舞伎に感情移入しがちな妻などは逆切れして自分勝手にお菊を切り捨てた青山播磨に対して「なんという小さい男。しょうもなさすぎる」とすっかり腹を立てていた。うがった見方をすれば観客にそこまで感じさせた中村隼人は好演したといえなくもないわけ(笑)だが、演目としてそれでいいのだろうか。歌舞伎をよく知る歌舞伎ファンであればこれはそういう演目だから、無知なことを言われてもと言うのかもしれない。例えば「義賢最期」であれば小万一家に対する態度がひどいとは思っても、「そういうものだから」ですませるのだが、岡本綺堂となるともうそれは戦前とはいえ近代の人だからこれほど明確な男尊女卑的な思想が提示された時にどう受け取られるかを興業側が勘案することは多少とも必要かなと思わないでもないのである*2。
*1:私自身も人となりについて、実際に舞台を見るまでは若干誤解していた。
*2:とはいえ、もちろんポリティカル・コレクトネスに従い改作せよなどと主張しているわけではもちろんない。