下北沢通信

中西理の下北沢通信

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The end of company ジエン社「ボードゲームと種の起源・拡張版」@こまばアゴラ劇場

The end of company ジエン社ボードゲーム種の起源・拡張版」@こまばアゴラ劇場

作・演出:山本健介


演劇とボードゲームの共通点は結構多いのです。実際に他者と時間と場所を共有しないとできないこととか。
逆に言えば、今は実際に他者と時間と場所を共有しなくてもできることが多いという事なのかもしれない。
世間から取り残された、親戚のようなつながりの、ボードゲームと演劇を、結び付けられるような公演になったらいいなと思っています。

2007年12月、早稲田大学を拠点に活動していた山本健介により活動開始。

劇団名は、山本の主宰していた前身ユニット「自作自演団ハッキネン」の「自作自演」と「最後の集団」という意味の「ジエンド」から。

脱力と虚無、あるいは諦念といったテーマが作品の根底にあり、すでに敷かれている口語演劇の轍を「仕方なく踏む」というスタイルで初期作品を創作していたが、次第に「同時多発の会話」や「寡黙による雄弁」といった、テキストを空間に配置・飽和・させる手法に遷移した。

作品の特徴としては、特異な対話やコミュニケーションを舞台上で展開するというものがある。

出演

須貝英 高橋ルネ 寺内淳志 名古屋愛(無隣館) 善積元 中野あき 湯口光穂(20歳の国)

スタッフ

美術:泉真
音楽:しずくだうみ
音響:田中亮大(Paddy Field)
照明:みなみあかり(ACoRD)
舞台監督:吉成生子
衣装:正金彩
演出助手:寺田華佳
写真:刑部準也
Web・宣伝美術:合同会社elegirl
制作:加藤じゅん
総務:吉田麻美
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)/かまどキッチン

 ボードゲームと演劇を組み合わせた作品の第2弾。上記にも一部転載したこまばアゴラ劇場の公演情報ページに作者である山本健介は「演劇とボードゲームの共通点は結構多いのです。実際に他者と時間と場所を共有しないとできないこととか。逆に言えば、今は実際に他者と時間と場所を共有しなくてもできることが多いという事なのかもしれない。世間から取り残された、親戚のようなつながりの、ボードゲームと演劇を、結び付けられるような公演になったらいいなと思っています」とこの舞台の狙いを書いている。
 ボードゲームと演劇を重ね合わせて、そこに重層的なテーマのようなものを浮かび上がらせようとしているようなのだが、実はこの両者には決定的な違いもある。
 それはボードゲームで場所と時間を共有するのはゲームの参加者であり、演劇では場所と時間を共有するのは演者同士ということもあるけれど、演者と観客だということだ。つまり、ボードゲームはあくまでも当事者が楽しむものであって観客のような外部からの目はそこにはない。
 この作品には作者である山本が自ら制作したというオリジナルボードゲーム「魔女の村に棲む」が出てきて、登場人物が劇中でこれをプレイする。そして、この「ボードゲーム種の起源・拡張版」という演劇作品の中ではこのゲームの世界観とそこでこれをプレイする7人の登場人物の関係性がいくぶん重なり合って感じられるように設計されているようだ。
ただゲームはプレイするものであって、他人がプレイするのを外部から見るものではないため、プレイした経験のない人がそのゲームがどんな世界観を持っているのかを理解するのはそんなに簡単なことではない。このようにいえばゲーム実況や麻雀の中継放送などゲームをしているのを見せるコンテンツもあるではないかと指摘する人もいるかもしれない。こういうことが成立する前提条件としてはゲームを観戦する人にプレイの経験が十分にあってその世界観や暗黙のものも含まれたルールを周知しているからだ。
 ところがこの「魔女の村に棲む」の場合は観客にはプレイ経験がない全くの新しいゲームだ。当日パンフにはあらましのルールが記載されているほか、作品中でもルールやプレイにあたってのノウハウ的なものが繰り返し語られるのだが、舞台を見終わってもいまだにそれがどのようなゲームであるのかの具体的なイメージが脳裏に再生されるということがあまりない。ゲームは恐らく、毎回同じように進行すると考えられ、この世界とゲーム内の世界が何らかの呼応関係にあることもうかがえるが、それにも増してゲームの参加者がゲーム内で選択する選択肢が、ゲームの外側の関係性を反映するということも描かれていそうだが、一度だけの観劇ではそれを汲み取るのは困難だった。 
 一度目の観劇で気になったのは「怪物」のガードを持っている人(そつある)を誰かが守ったこと。勝ちを意識したゲーム内だけの選択では「怪物」は本人がそれに気がつくと他のプレイヤーを皆殺しにして勝利できるため、「怪物」以外の全員が脅威を取り除くために「怪物」の方を指差すのが必然と思う。それなのにどんな動機なのか「怪物」を守るプレイをした人間がいた。それが何故なのかをいま考えているところだ。
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