下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

関田育子『浜梨』@三鷹SCOOL

関田育子『浜梨』@三鷹SCOOL

クリエーションメンバー

黒木小菜美
小久保悠人
佐々木圭太
関田育子
冨田粥
中川友香
長田遼
長山浩子
馬場祐之介

公演日時

6月7日(金)19:30
6月8日(土)14:00 / 19:30
6月9日(日)14:00 / 19:30
6月10日(月)19:30

アフタートーク

6月7日(金)
19:30-佐々木敦
6月8日(土)
14:00-桜井圭介
19:30-村社祐太朗
6月9日(日)
14:00-山縣太一
19:30-徳永京子
6月10日(月)
19:30-長谷川優貴
(敬称略)

料金

前売り一般 3,000円
U-18 1,000円
当日一般 3,500円

6.7 - 19:30
6.8 14:00 19:30
6.9 14:00 19:30
6.10 - 19:30

受付開始・開場は各回とも開演30分前から

人間は自身の生活の有用性に合わせてものを見るため、俳優の身体と建物(劇場)の壁や床が観客にとって等価に見えることはありません。一方、演劇では、物語あるいはそこにはないものへの眼差しと、実際に俳優や劇場という空間がそこにある、という事実が重なっています。そこで私たちは、有用性の中で規定された距離感、あるいは物事に対する遠近法を一度解体し、新たな視線を構築する「広角レンズの演劇」の創作を試みています。今作は、SCOOLにて約1年前に上演した『夜の犬』とは少し違った角度から「広角レンズの演劇」にアプローチします。

関田さんの演劇は何回も見ています。いつも気になってることは、会場のドアが開いていること。もしくは半開きみたいになっていること。演劇はたいてい密閉されたクローズドな空間でおこなわれるモノですが、関田さんの演劇は外の世界と繋がっています。外からの風が、劇場内には流れてきています。しかしその演劇で語られる物語は物語然としていて、ソリッドです。だから僕はたとえばだだっ広い河原で風に吹かれ雨晒しになっている固い岩のようなものを、見ていていつも想起します。
(犬飼勝哉)
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関田育子の演劇を観るといつも私は、目の前の空間で今まさに起きている出来事が、確かなものである筈の現在形からすっぽりと外れていって、いつでもない時間のどこでもない場所に移行してしまうような不可思議な感覚にとらわれる。
目の前に確かにいる筈の俳優たちも、役柄とも本人自身とも異なる、ある意味で抽象的な、だがまたある意味ではひどく生々しい存在感を身に纏ってゆく。
演劇の時空間は「今ここ」でも「かつてどこかで」でもないというおそるべき真理を、彼女の演劇は教えてくれる。
佐々木敦

関田育子の演劇は、きわめて小さな、些細な、出来事・光景・会話から出来ている。にもかかわらず「驚き」に、さらに言うならば「スリルとサスペンス」に満ちている。これは、彼女の演劇が想起させる(と誰しもが言うところの)小津安二郎の映画と相同である。つまり、小津作品が「市井の人々のささやかだがかけがえのない日常が(ノスタルジックに)綴られた」物語であるかに見えながら、そのきわめて奇妙な・大胆な(したがってきわめて不穏等な)カット/構図に一瞬ごとに驚かされる運動体=フィルムであるように、関田育子の演劇でも、その大胆・不敵(不埒)な表象の「仕方」にただただ唖然(陶然)とするばかりの私なのだった。
(桜井圭介)

関田育子はマレビトの会のコアメンバーのひとり。マレビトの会に演出部の一員として参加している*1が、それと並行して「関田育子」名義でもこのところコンスタントに活動している。上演作品についてのクレジットはクリエーションメンバーとして、黒木小菜美、小久保悠人、佐々木圭太、関田育子、冨田粥、中川友香、長田遼、長山浩子、馬場祐之介の9人の名前が連記されている。しかし、言語テクスト(戯曲)は関田ひとりで書いたもので、演出の部分を共同作業で行っているということのようなので、あくまでクレジット上のこととは言え、実態をよりうまく表すためには「関田育子作」ということでよかったんじゃないかと思うのだが……。
 関田の作品について言及する際に小津安二郎の名前を出す論者はけっこう多いのだが、この「浜梨」は平行して語られる2つの物語のうちの1つが父親が迎える後妻とそれにともない転勤を機に家を出る娘というかなり典型的に小津的なモチーフを描いていることもあり、よりそうした空気感は濃厚だ。
 マレビトの会はどちらかというとドラマ性の高い物語を立ち上げるというよりは淡々とした描写の中に出来事を風景のように立ち上げていくというタッチの作品が多い。これに対して、今回の関田の「浜梨」はスケッチ的にも見える小学生のパートと父親と娘、そして父親と再婚することになる女性の出てくる場面とが交互に提示されるようになっていて、特に父親と娘の場面では父親の再婚で引き起こされる娘の感情の揺れのようなものが丁寧に描写されていて、対象を客観的に捉えるマレビトの会のやり方からは一歩踏み出したような形になった。
 一方、スケッチのように見えたという子供たちの場面が何を意味しているのかはよく分からなかったのだが、距離感の違いで言うと父親娘らの場面が近景とすると、こちらは遠景のようにも感じられ、この遠近の対比が近景をより鮮やかに浮かび上がらせているように感じた。
 そして、ここからは迂闊なことに舞台が終わって少したってから「あれ、ひょっとしたら」と気がついたので確かめることが出来なくて、まったくの勘違いかもしれないが、小学生の場面は父親の少年時代のこと、あるいはその記憶ではないかと思われてきた。そして、そうであるとするといろいろ了解されてくることが出てくる。
 小学生役は父親、その再婚者、娘と同じ俳優によって演じられていて、それゆえ、役柄のイメージが自然と一部、重なってくるようにも作られているのだが、父親とその友人による場面で、友人により彼女が自分たちのマドンナ、憧れの人だったようなことが語られる。そうだとしたら、小学生時代に集団登校していたなかのリーダー的存在の彼女が実は再婚相手なのではないかと思われてきた。
 そして、ここから先はもっと曖昧にしか描かれていないので、かなり解釈というよりは妄想に近いのだが、父親が結婚した亡き妻はやはり一緒にいた最年少の女の子(娘を演じた女優が演じていた)なのかも、そして、もしそうなら、その子を世話していた男の子が再婚者の亡くなった夫ではないのかと思われてきたのだ。
 実際にそういう風に設定されているのかどうかは分からない。しかし、人物像をそんな風に想定した時に突然ピントがあったように感じられて、それぞれ、ジグソーパズルが完成したようにはまりこむようにくっきりと感じられたのも確かなのだ。
 関田の演劇の魅力は最初はぼんやりとしてないピントが次第に合っていくように提示された事物のディテールが解剖されるように微細に見えるこのタイムラグにあるのではないかと思う。

*1:マレビトの会には戯曲提供はしていないという