下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

劇団桃唄309 『アミとナミ』@座・高円寺

座・高円寺 夏の劇場08/日本劇作家協会プログラム 劇団桃唄309 『アミとナミ』

戯曲・演出 長谷基弘

2019年06月12日(水) - 16日(日)

東京/座・高円寺

そえられた てのぬくもりと こきゅうおん
ひとがきらい ひとがすき

出演
楠木朝子/佐藤達
國津篤志/山西真帆/富山聡子

小林あや/五十嵐ミナ(office HATTA)
竹田まどか/石坂純(劇団ひまわり)
中嶌聡/元尾裕介(カムカムミニキーナ)
綾田將一/キタタカシ
中野架奈/山口泰央(劇団ひまわり)

長谷基弘と桃唄309をシアターアーツの劇評講座で取り上げたのが、3年前(2016年)。その年の5月に桃唄はハンセン病を主題にした「風が吹いた、帰ろう」(座・高円寺)を上演した。今回の「アミとナミ」もその続編的な作品でやはりハンセン病を取り扱っている。
 とはいえ、作品の色合いは大幅に異なる。社会問題を取り上げ、政治に対して警鐘を鳴らすような作品は最近増えてきていて、これはある意味、この時代の閉塞感を象徴しているといえなくもないが、「風が吹いた、帰ろう」はかなりストレートにハンセン病とその療養施設がある島・大島の歴史に迫ったもので、長谷の作品群の中ではこうしたストレートさは異色ともいえそうな作風の作品だった。
 そういう意味では今回の「アミとナミ」は直線的に対象に迫った前作とは異なり、重層的で複雑ともいえる桃唄309本来の魅力に溢れた作品に仕上がった。

桃唄 309の長谷基弘は短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独自のスタイルを開拓した。時空を自由に往来する劇構造は従来、映画が得意とし演劇は苦手としてきた。それは映画にあるカット割りが、演劇にはないからだ。ところが、短い場面を暗転なしに無造作につなぎ、次々と場面転換をするという独特の作劇・演出の手法は映画でいうところのカットに準ずるような構造を演劇に持ち込むことを可能にした。演劇で場面転換する際には従来は暗転という手法が使われたが、これを多用すると暗転により、それぞれの場面が分断され、カットやコラージュ、ディソルブといった映画特有の編集手法による場面のつなぎのようなスピード感、リズム感は舞台から失われてしまう。これが通常劇作家があまりに頻繁な場面転換をしない理由なのだが、これに似た効果を演劇的な処理を組み合わせることで可能にした。

 以前、長谷の作風をこのように解説した*1ことがあるが、実はより興味深いのは長谷作品においては時空が次々と飛ぶというのにとどまらず、一場、一場が劇内に登場する著述物の内容、虚構の物語など通常の出来事とは異なる階層(レベル)の描写であっても、それがシームレスにつながってひとかたまりの創作物を構成していることだ。
 「アミとナミ」でもひとつの作品の核となっているのはハンセン病についての実際の歴史そのものではなく、そうした史実を調べたうえで何か作品のようなものにまとめようとしたひとりの故人の残したノートとそのノートが後にカフェ(喫茶店)に置かれるようになってそこに書き加えられた内容、そしてそのノートを取り巻く人物ら行動。こうしたすべてがある時は登場人物がそれを劇中劇として演じこととして、別の時は元劇団員である登場人物がそれを演じてみせるという設定で、それはそれぞれがバラバラでありながら、渾然一体でもあるものとして我々の現前で演じられる。そのほかにも登場人物の一部は山からこの街(東京?)にやってきた狸の一族*2としても描かれ、それも現実・史実と一体のものとして描かれていくのだ。文字通り虚実ない交ぜである。この感じは誰もがどこかで体験した感覚があると思う。それはこれが私たちが眠っている時に見る夢の記憶と近しいからだ。
 「なんだ夢落ちか」と感じる人もいるかもしれないが、この作品が他の作品と決定的に異なるのはではこれは誰の夢なのかと考えても主体が分からないことだ。まず、考えられるのは最初にノートを書き留めて残した人物だが、それはすぐに他の人たちがそこに介入することではっきりしなくなる。集合無意識のようなものが作品を覆い、それは狸たちのような共同幻想も取り込んでいく。こういう舞台は他にはないと感じた。