下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

オフィスマウンテンvol.7 『NOと言って生きるなら』 @横浜STSPOT

オフィスマウンテンvol.7 『NOと言って生きるなら』 @横浜STSPOT

​オフィスマウンテンの会話劇。新しい会話劇を作りたくていろいろ試してみる。顔と上半身と下半身をそれぞれに担当して動かしてみたり。体話には見えても会話には見えない。口からでる言葉だけじゃない会話劇。まだまだ試行錯誤。(8/5)

作:山縣太一

出演:大谷能生、山縣太一、横田僚平、岡田勇人

作・演出・振付:
大谷能生、山縣太一、横田僚平、岡田勇人、萩庭真、馬場祐之介、飯塚大周

音楽:大谷能生
音響:牛川紀政

日程:2019年11月5日(火)-11月17日(日)
5日(火)20:00
6日(水)20:00★
7日(木)20:00★
8日(金)休演日
9日(土)17:00★
10日(日)17:00★
11日(月)休演日
12日(火)20:00★
13日(水)20:00
14日(木)20:00
15日(金)休演日
16日(土)17:00
17日(日)17:00

★の回はゲストをお迎えして終演後にアフタートークを行います。(敬称略)
11/6(水) 村上啓太 (在日ファンク・ベーシスト)
11/7(木) 荘子it (トラックメイカー/ラッパー)
11/9(土) 島貫泰介 (美術ライター)
11/10(日) 飴屋法水
11/12(火) 中原昌也 (作家/音楽家)

料金:
前売 3,000円
当日 3,500円
マウンテンチケット 5,000円
《特典:①台本+サントラ+振付メモ ②公開稽古にご招待(9/12 または 10/5※両日共15時開始)
③出演者4人のインタビュー映像 ④サイン入りポストカード》

《早期予約特典》9/30 (月)19時までのご予約で、
マウンテンチケットの【特典②、特典③、特典④のいずれか一つ】をプレゼント!

予約フォーム:https://www.quartet-online.net/ticket/noikiru


お問い合わせ:
mail:mountain.ticket@gmail.com
web:https://mountainticket.wixsite.com/mysite

企画・制作:オフィスマウンテン
共催:STスポット
特別協力:急な坂スタジオ

 オフィスマウンテンは観劇する人間に対して極めて高い負荷を要求する。少なくとも私に取ってはそれを集中して見続けるということは相当以上の消耗を伴う行為であり容易なこととはいえない。これは通常の演劇を見る時とも、ダンスを見る時とも異なる体験なのである。その意味でこれは興味深い試みなのだが、とはいえこれを単純に「面白い」とか「素晴らしい」と評している類の言説に対しては大きな疑問も感じる。それというのも今回もやはり舞台を見ながら感じたのだが、彼らが舞台上で試みている行為はまだしも観客である私たちがそれを見て何かを感じ取ろうとするとそこで「生理的な不可能」が立ちはだかるのではないかと思わざるえないと感じたからだ。
 それはどういうことか。それは簡単に言えば今回の 『NOと言って生きるなら』 という舞台では種類の異なる様々な情報が提示されるのだが、そのディティールを同時に汲み取ることは普通の人間の生理的キャパシティーを超えているのではないかということがひとつ。もうひとつはもっと身もふたもない言い方になってしまうけれども見えないものはいくら努力しても見えないんだという事実なのである。
 まず最初にオフィスマウンテンの発話は通常の会話劇や様式的に洗練された「語りの演劇」のように観客にとって聞き取りやすいような形で発話されるものではないため、発話されたセリフの意味内容を咀嚼するのにかなりの注意深さと集中力が必要となる。さらにいえばそのセリフは言葉遊びというか、意味と同等あるいは意味以上に語感が重要な役割を果たしている。そして、これは山縣太一自身が披露している方法論にも関わることだが、オフィスマウンテンの場合はセリフと同時に演者の動きはセリフを基にしてそれに呼応するように演者自身が創作した「第二のテキスト」を演者はそれぞれ持っていて、それぞれの演者の身体の演技はセリフではなく、そちらを基にして構築している、ということになっていて、それは発話される場合もあるが、されない場合も多い。とはいえ、それはあるんだという前提に立てばこの公演では4人の俳優が登場して、ひとりが発話してしているうちに発話者本人も含めて4人の演技がされることになるが、それを同時に把握することは生理的に不可能、人間のキャパシティーを超えることなのであって、それを感じながら演技を見続けるということは自らの「不能感」を絶えず感じ続けることになるがそれができない徒労感から消耗してしまう。それが観劇後のただものではない疲労感につながっているのではないかと思うのだ。
 もちろん、あくまでその中でぼんやりと感じ取れることのなかにも感じ取れることはなくはない。それは例えば4人の身体のありようはそれぞれ全然違っていて、それが面白いね、とか。その中で横田僚平の身体の動きはひときわシャープな陰影を紡いでいる*1とか、やはり本家だけあって山縣太一の身体所作には味があるとか。そういうことだが、正直言ってそのレベルのことがこの作品の本質なのだろうかとどうしても思ってしまうのだ。
実は内容はまったく異なるが類似の印象を以前にも感じたことがあった。それはハイパーコラージュを標榜していた時代の山の手事情社の舞台でだった。山の手事情社の舞台ではセリフを語る俳優と身体表現だけを行う俳優が舞台上で同時多発的に登場していて、通常はこういう場合演技する俳優とバックダンサーのように見えてしまいがちなのを演出の安田雅弘は両者は等価であり、ある瞬間に地と図が逆転するようなことがあると面白い。それがハイパーコラージュの真骨頂だというようなことを話していた。
 演劇理論としては非常に魅力的な立論だったのだが、しばらく続けるうちにそれが根源的な生理的不可能性を含んでいるのではないかということが判明してきた。
 というのは観客はどうしてもセリフがある方に注目する。それはセリフというのは継続的な時間の流れを前提にしていて、だから観客がそちらに注目するのは生理的に自然なことであって、それがダンスのような身体の動きとかいうことであれば注目があちらこちら移動するということはできるのだが、セリフがあるとそれは起こりにくい。つまり、地と図は逆転しないということだ*2
 オフィスマウンテンの場合もどうしても我々観客の注意はどうしてもセリフを発話する俳優に集中、それ以外の俳優の動きや演技は背景に退いてしまいがちになり、そうなるとディティールの把握は困難になってしまう*3
 もともと、オフィスマウンテンでは山縣太一が稽古初日に用意している上演テキスト(戯曲)をもとにそれぞれの俳優がそれに呼応するような独自のテキスト(マイライン)を書き上げ、発話される山崎の台本のほかにそれぞれの演技の動きや表情、所作についてはマイラインをもとに作り上げていくのだという。ここで問題があると思うのは観客である我々は観測者として、そこにないもの(発話されないマイライン)は見えず、俳優の動きは実際に発話される山崎の台本と関係付けてみることになる。
 それは俳優がマイラインから所作を組み立てることはできるとしても、観客が俳優の動きからマイラインを想像することは不可能だからだ。実は演じる側はそれぞれのマイラインがどういうテキストだということを知っているから、それを前提としてそれと込みでそれぞれの演技を解釈することになるわけだが、それは観客からは不可視でそこには絶対に超えられない壁があるからだ。
 以前、松田正隆はマレビトの会の上演でかつて演じた演技の記憶をもとにそれを再現しないで心のなかでそれを想起するだけで、実際にはただそこに立っているという演劇を上演したのだが、私は「それは無意味だ」と考えた。それは見えないものは見る側にとって「ない」のと同じで、そこに幽霊のように見えない何かを見て取るなどということは不可能だと考えたからだ。オフィスマウンテンにおけるマイラインはそれを実際に俳優が発話する場合は別だけど、そうでない時にはマレビトの会同様に不可視なものでそれゆえ、それ自体は「ない」のと同じとなるしかない。

*1:そういう意味では次は横田僚平ひとりの作品が見たいということは今回思った。

*2:その後、山の手事情社は「ハイパーコラージュ」を断念。現在も継続している「四畳半」と呼ばれる表現形態に移行した。

*3:もっとも私の場合、情報のマルチタスク的な処理が苦手ということもあり、それで余計にそういうことを感じる可能性はある。そのため山縣太一が演じる一人芝居であればそういうストレスはあまり感じないですんでいる