下北沢通信

中西理の下北沢通信

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世田谷シルク第11回公演『青い鳥』@シアタートラム

世田谷シルク第11回公演『青い鳥』@シアタートラム

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 メーテルリンクの「青い鳥」という同じテキストを使ってはいても親子で楽しめるという円こどもステージの「青い鳥」とはまったく違った印象の作品だった。
 上演時間は2時間。使用したテキストは若干のカットなどはあるにしてもほぼ原作通りだ。ただ、演出家の堀川炎は劇の空間と構造に大きな変更をほどこした。劇構造の大きな変更はチルチルを病院に入院中の老人として、物語全体をその男が見た夢というメタシアター的な二重構造にしたことだ。
 「青い鳥」のモチーフは生命と死だとすると少年チルチルを老人の見た夢としたことで、「死」の要素がより色濃く反映されたものとなったと言えるだろう。その分、童話的な雰囲気は後退している。

原作 モーリス・メーテルリンク

脚本・演出・翻訳・振付 堀川炎

2019年12月25日(水)~28日(土)



会場

シアタートラム

東急田園都市線三軒茶屋駅/東急世田谷線直結

東京都世田谷区太子堂4丁目1番地1号

山の手事情社「印象 青い鳥」
11月18日 山の手事情社「印象 青い鳥」(7時半〜)を観劇。私は日本現代演劇の様式の多様性は世界に誇るべき財産であるということは以前から主張してきたのだが、なかでも様々な演劇的な実験を繰り返しながらスタイルを変えてきたという点では山の手事情社という集団はその典型といえるかもしれない。早稲田劇研のアンサンブル劇団として当初には第三舞台の影響を強く感じさせるスタイルだったのがある時点で、戯曲を中心とするのではなく集団創作による構成劇に転換。さらには演出の安田雅弘が提唱した「ハイパーコラージュ」と呼ばれる全く新しいスタイルの演劇に挑戦を開始した。「ハイパーコラージュ」とはダンス、パフォーマンス色の強い身体表現から会話劇までそれこそ多様なスタイルの身体表現を舞台上に同時多発的に展開することで、それらが渾然一体となってそれまでにそれぞれの表現が単独では表現できなかった新たな表現を獲得しようというまさに革新的な演劇理論で、それは考え方としてはそれがもし実現するならきわめて刺激的な考えであった。

 しかし、初期の「ハイパーコラージュ」はそれこそ舞台のそこここで同時多発的に事が展開するというスタイルを取っていたため、受け取る側としてはちょっとしんどいというのがあった。というのは、様々な身体表現が舞台上に渾然一体として展開するということ自体はこれまでもやられてきており、それがまさに安田の提唱する「ハイパーコラージュ」とかなり近い形で実現されているのだが、それはダンスだからである。あるいは演劇の世界でも来月ひさびさに再演される「マックスウェルの悪魔」の立ち尽くす少女と恐竜がオーバーラップするラストシーンなどいくつかの上海太郎の舞台でもそれは実現されている。実現できるのはそこに言葉が介在しないからである。

 安田の仮説では例えば舞台中央に会話劇を続ける役者がいて、その傍らをゆっくりと通りすぎていくパフォーマーがいる。普通の見方ではあくまで会話劇が主で、通りすぎる方が従だとしてもある瞬間、あたかも老女と少女の絵が見えるだまし絵のように地と図が逆転を起こす瞬間がある。それが「ハイパーコラージュ」の狙いである。当時のパフォーマンストークでこんなことを言っていた。それが考え方としては認識論的逆転などを思わせて魅力的だったので、きわめて印象が強かった。

しかし、実作を見る限りそれは必ずしもうまく機能していないように思われた。さらに当時作品を見ながらなんとなく感じていたのは「ハイパーコラージュ」の理論は確かに面白かったのだけれど、それが論理的には可能でも人間の生理に反していて、実際には難しいのではないかという疑念である。というのは演劇においては言語テキストがどうしても作品にからんできて、これが音楽やダンスと大きく違うのは時間軸の中に意味を持って現れるころである。例えば言語をともなっていてもそれが維新派少年王者舘の一部シーンのように意味性よりは音声なり言葉のモノ性に重きを置くような使い方をするならば別だが、これが会話劇のように断片ではなく互いに意味を持つパッセージの連続からなっているとすればどうしても人間は言葉を聞き取ろうとするため、そこに集中してしまう。そうするとそこ以外の舞台というのは背景に退いてしまい、その横でいくら面白いダンスをやっていても聖徳太子ならぬ私には単なるバックダンスになってしまうからだ。

 カクテルパーティー効果という言葉があって、これはカクテルパーティ(日本でいえば立食パーティー)のような喧騒空間でも人間には意識を集中すると聞くとりたい会話だけを選択的に聞き取ることができる。これは人間の意識というものが単なる集音マイクのような機械的なものでなく、志向性を持っているものだということが関係しているのが、これを逆に考えると当該の聴き取りたいもの、あるいは見たいもの以外の情報をサブリミナルな域にとどめてシャットアウトしてしまうということである。青年団の同時多発の会話で、理解したい会話を選択して聞き取ることができるのは私たちが日常なにげなく意識しないで使っている能力を引きだすように計算がされているためだ。「ハイパーコラージュ」ではこうした意識の集中ではなく無意識にカットされている情報を舞台上から同時に感じとるためにこの逆の作用が要求されるわけで、それは難しいのではないかと考えたのである。

 実は最初の「ハイパーコラージュ」を第1期と呼ぶとすると安田はこの後、第2期の「ハイパーコラージュ」の実験に入る。それは舞台上における台詞による会話と身体のあり方を分解して、そこにそれまでの演劇のような有機的な関連性を持たせないという方法論である。今回上演された「印象 青い鳥」はこの延長線上にある演出により上演されている。この方法論に入ってもしばらくは複数のテキストの共存というのは残っていたのだが、しだいに単一のテキストの舞台化という様相が強まりこの作品にいたっては幕間に場面転換の代わりに展開されるダンスのようなシーン(かれらはルパムと名付けている)を除くとこの舞台ではほぼメーテルリンクの原テキストがそのまま使用されている。

 演劇には大別すれば「語りの演劇」と「会話の演劇」があってテキストの再現という意味においては最近の山の手事情社の表現は「語りの演劇」への傾斜を深めている。日本の伝統演劇というのは能にせよ、歌舞伎によ基本的には「語りの演劇」であって、その場合、「語り」を聞かせるに際してそれに合わせて身体表現の方にはある種の様式化がなされる。これは現代劇においてもSCOTや蜷川幸雄のある種の舞台でも同様で、「語り」が具現化されるにおいて日常性から離れた身体が必要になってくるのである。これを極端な形におしすすめたのがク・ナウカでここでは「語り」の役者は動くことなく語りのためだけに存在する。

 山の手事情社の場合、特異なのは身体の表現が「語り」を異化するための阻害物として語りと無関係に存在するような形態を取ることだ。その動きはダンスとは全く違い抑制的なものだが、台詞回しにおける感情の表出とリアルな形ではシンクロしない。これはおそらく、「語りの演劇」と「ハイパーコラージュ」の混合的な様式となっているためではないかと思われる。つまり、ここでは「語る身体」(声としての肉体)と「動く身体」が普通の芝居のように言動一致体(宮城聰の用語による)とはならずそこにズレを生むことで1人時間差のような形で、「異なったスタイルの身体表現を舞台上に同時に展開する」ことになっているわけだ。

 もっとも、この方向性にもジレンマはある。というのは無関係とはいえ、動きも語りも同一のテキストを挟んでその具体化として存在する以上、なんらかの関係を持たざるえないからで、全く無関係ならどういう動きでもいいかといえばそうではない。現にこの「印象 青い鳥」では「Folklore〜ふるさと」などこの方法論に移行した初期の作品と比べると安定感はでてきているもの依然、様式的に見るとク・ナウカ(ムーバー)やSCOTなどと比べ様式的な安定度において格段の差がある。もちろん、山の手の方が不安定(座りが悪い)のである。

 もっともここで言いたいのは「だからだめ」ということではなく、「だから面白い」ということであるのだが、様式などというものは長く同じスタイルを続けているとしだいに洗練の度をいくらとも高めていくためで、ここに不安定な形長く続けることの困難があるわけだ。ク・ナウカのようにある種の様式性を獲得して洗練の道に向かうか、それともこれまで獲得した様式性を創造的に破壊し、あくまでもまたさまよえるユダヤ人の如く、苦難の道に乗りだすのか。個人的な希望としては後者の道を選んでほしいとは思うけど、どうやら前者の方向に向かいかけているようにこの公演からは感じられた。

 今回の場合、メーテルリンクの「青い鳥」をテキストに持ってきたことにそもそも問題があるような気もしないではない。というのは今世紀の初頭に最初に構想され時には夢幻劇として様々な思想的要素を含んでいたとはいえ、現在は童話とししかほとんど知られていないこの作品を通常の形式で上演してしまえば多かれ少なかれ児童劇のようものになってしまうことは否めない。この舞台では山の手独特の安定しない(つまり通常の様式に取り込まれない)身体表現による異化効果がいくぶんそうし印象を救っていたとはいえ、正直言ってシェイクスピアから西洋近代劇に射程を広げていくのに適した戯曲を選択したのかというのには若干疑問が残った。

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