下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ももクロとの出会い(前史)「MuDAとももクロ」

ももクロとの出会い(前史)「MuDAとももクロ

2012年、この年のダンス界の発見のひとつがダンスカンパニー「MuDA」であった。そのことをその年の年間回顧に書いたのが以下の文章だが、実はこれには後日談がある。このMuDAの公演が「男祭り」であり、誰かそれを見た人の感想はないかとネット検索した結果、大量の書き込みで遭遇したのが「ももクロ『男祭り』」という謎のイベントについての書き込みだったからだ。「これはいったい何なんだ」という好奇心に駆られた私がネットで注文して手に入れたのがももクロ「男祭り」「女祭り」のDVDでこれを当時毎夜のように通っていたバー&ギャラリー「フィネガンズウェイク」の店内のスクリーンで見ることになったのが、ももクロとのファーストコンタクトだったのだ。
 運命を感じるのは以下の文章にその後、ももクロに感じることになる魅力と当時の舞台芸術の関係がもうすでに予言のように書かれていることだ。

MuDA 菌 ダイジェスト

Momoiro Clover Z: Momoclo Aki no Nidai Matsuri Otoko Matsuri 2011 Retrospective

演劇のようなダンスというわけではないが「We dance京都2012」とほぼ同時期に上演された若手ダンスカンパニーMuDA「男祭り」@京都アトリエ劇研も注目すべき公演だった。MuDAはヒップホップダンサーでe-Danceに参加していたQUICK、モノクロームサーカスの合田有紀らによるダンスユニットである。劇場での本格的な公演はこれが初めてでこちらは白い褌姿の裸体の男たちが激しく輪舞した。頭を上下に激しく振ってみたり、倒れたかと思うとすぐに立ち上がったり、その様は参加者がトランス状態になっている謎の宗教の儀式にも見えきわめて不可解なものであった。これまでに見たことがないもので、ゼロ年代を彩った身体表現サークル、コンタクトゴンゾ(contact Gonzo)に続きついにポストゼロ年代を代表するダンスが登場したと興奮した。というのは「男祭り」には「肉体の酷使による生の賞揚」という意味で先述した「再/生」と通底するような問題意識を感じたからだ。ポストゼロ年代と先に書いたのはそういう意味合いで、2000年代後半から2010年以降にかけての東京の若手劇団の舞台において、この「肉体の酷使による生の賞揚」という手法が目立つようになっている。東京デスロックがその典型ではあるが、同様の手法はマームとジプシーやままごとなどでも垣間見られる。
 さらに言えば岸田戯曲賞を受賞した矢内原美邦の作品でも「肉体の酷使」という手法は出てきているし、黒田育世のダンスなどは「酷使」そのものといってもいい。MuDA「男祭り」には明らかに最近のパフォーミングアーツにおけるそうした大きな流れと問題意識を共有する。
 SPACの宮城聰はク・ナウカ時代のインタビューで、舞台における祝祭的な空間の復活を論じて、生命のエッジを感じさせるような宗教的な場が失われてしまった現代社会において、それを示現できる数少ない場所が舞台で、だからこそ現代において舞台芸術を行う意味があるのだと強調した。九〇年代に平田が「演劇に祝祭はいらない」と主張しそれが現代演劇の主流となっていくにしたがい、宮城の主張はリアリティーを失ったかに見えたが、「祝祭性への回帰」という性向が「ポストゼロ年代演劇・ダンス」には確かにある。そして3・11を契機に生と死という根源的な問題と向かい合った作り手たちが「肉体の酷使による生の賞揚」という手法で、祝祭空間を見せる今こそ宮城の夢想した「祝祭としての演劇」が再び輝きはじめる時なのかもしれない。