下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「ドクター・ホフマンのサナトリウム 〜カフカ第4の長編〜」ケラリーノ・サンドロヴィッチ作演出@KAAT

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「ドクター・ホフマンのサナトリウム 〜カフカ第4の長編〜」ケラリーノ・サンドロヴィッチ作演出@KAAT

【作・演出】ケラリーノ・サンドロヴィッチ
【振付】小野寺修二 【映像】上田大樹 【音楽】鈴木光介

【出演】多部未華子 瀬戸康史 音尾琢真 大倉孝二 村川絵梨 谷川昭一朗 武谷公雄 吉増裕士 菊池明明 伊与勢我無 犬山イヌコ 緒川たまき 渡辺いっけい 麻実れい 王下貴司 菅彩美 斉藤悠 仁科幸

【演奏】鈴木光介(Tp)  向島ゆり子/高橋香織(Vn) 伏見蛍(Gt)  関根真理(Per) 


 この物語がカフカ的かどうかという観点に立てば、あまりカフカ的なテイストはないのではないか、というしかない。だが、きわめてケラリーノ・サンドロヴィッチらしさに満ちた作品ではあった。3時間を超える長さの上演時間でありながら、舞台自体も退屈することなく大いに楽しむことができた。
 作品がカフカらしく見えないのはこの物語(劇中小説)の主人公が女性であり、女性を中心に据えた作品がカフカにはあまり見当たらないからかもしれない。女性主人公の作品がないかどうかは確認できないが、少なくとも私が読んだものはそうではなかった。とはいえ、よく考えてみればこの舞台全体の主人公はカフカの第4の長編を出版して原稿料をもらおうと奔走する男(渡辺いっけい)の方でこの人物が行こうとする場所に行き着けずに必ず迷ってしまうこと(カフカの「城」を連想させる)とか、むしろこちらがカフカの小説の主人公的な人物と言ってもいいのかもしれない。
 一方でタイムスリップによって引き起こされるタイムパラドックスなどケラが好んで使う手法は数多く盛り込まれている。物語の筋立てとしてもカフカの伝記的な事実は十分に取材し、作品に取り入れられてはいる*1 ものの、パスティッシュとしてカフカの第四長編を捏造しようという意図はあまりなかったか、あるい最初はあったのかもしれないが、制作の過程でカフカらしさを追求するというよりも、物語をより面白く展開していく方向に傾いていったのではないかと思われた。
 作品そのものについては小野寺修二(カンパニーデラシネラ)の振り付けによる場と場のつなぎのシーンが素晴らしい。上田大樹プロジェクションマッピングや映像と相まって、カフカ=不条理の印象を色濃く舞台に醸し出した。小野寺は自身、SPAC「変身」を演出した
*2経験もあり、歪んだ現実というようなビジュアルイメージにはそうした経験も十分に生かされていたのではないか。カフカの演劇上演ではMODEのカフカ作品上演における井手茂太の集団演技振り付け
*3がいまでも印象に残っている(演出は松本修)が、今回の小野寺の仕事はそれに匹敵するものだったのではないかと思う。
 さらに今回は鈴木光介によるオリジナル楽曲を劇伴音楽に使い鈴木自身も含む生演奏のバンド演奏によって劇中で展開したが、これも舞台のトーンに大きな影響を与えている。俳優の演技に対する演出だけではなく、他にも舞台美術などこうした舞台におけるいろんな要素をうまく調整して完成度の高い舞台に仕上げていくことができるのが、ケラの最大の強みであるといえよう。

*1:以下Wikipediaより引用 カフカの晩年のエピソードとして、ドーラ・ディアマントより次のような話が伝えられている。ベルリン時代、カフカとドーラはシュテーグリッツ公園をよく散歩していたが、ある日ここで人形をなくして泣いている少女に出会った。カフカは少女を慰めるために「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだ」と話し、翌日から少女のために毎日、「人形が旅先から送ってきた」手紙を書いた。この人形通信はカフカプラハに戻らざるを得なくなるまで何週間も続けられ、ベルリンを去る際にもカフカはその少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形なのだと説明することを忘れなかった。

*2:simokitazawa.hatenablog.com

*3:simokitazawa.hatenablog.com

笑の内閣「ただしヤクザを除く」(2回目)@こまばアゴラ劇場

笑の内閣「ただしヤクザを除く」(2回目)@こまばアゴラ劇場

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作:高間響 演出:髭だるマン

日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
―ただしヤクザを除く

大手宅配ピザチェーン、ピザマッチョ広島地区エリアマネージャーの住吉は、組織犯罪対策課刑事の稲川に呼び出され、常連客である工務店への配達を断るように要請される。その工務店は表向きはカタギの建設会社であるが、ヤクザのフロント企業。ヤクザであると知りながらピザを配達をすると、暴力団排除条例違反になる恐れがあったのだ。
そもそもヤクザだと知らなかったし、商売としてピザを届けているだけなのに、釈然としないながらも警察には逆らえず署を後に店に向かった住吉。しかし、そこで彼が見たものはその工務店からの注文。しかも、今日はテイクアウト。今から断ろうにも10分後には、ヤクザが直接取りに来る。目の前で断るのは怖過ぎるけど、注文受ければ条例違反。
売っても地獄、断っても地獄。
果たしてピザ屋の運命は…?

※一部にて情報公開されておりました『東京ご臨終~インパール2020~』は、脚本家の高間響の体調不良により、2016年上演作品『ただしヤクザを除く』へ演目を変更することとなりました。


2005年旗揚げ。しばらくは実際にプロレスをする『プロレス芝居』をしていたが、体力の限界を感じて、時事ネタ・風刺ネタコメディに路線転換。「福島に修学旅行に行こう」「女性差別する女性」「芸能と契約」などといった際どいテーマで芝居を作っている。政治・言論方面には特に強さを見せ、「風営法のダンス規制」を扱った時は永田町に呼ばれたり、東浩紀氏の言論カフェで上演したり、内容が反社会的だと劇場から上演拒否にあったり、森友学園の入学説明会にいったら追い出されたりと騒ぎも多い。2019年2月、前代表が京都市議選挙に挑戦し、髭だるマンに代表を交代することとなった。
出演

髭だるマン 和泉聡一郎 (劇団道草) 熊谷みずほ 近藤珠理 杉田一起 田宮ヨシノリ(stereotype) ファック ジャパン(劇団衛星)

スタッフ

脚本:高間響
演出:髭だるマン
舞台監督:玉井秀和(劇団FAX)
照明:河口琢磨
音響:島﨑健史
舞台美術:岩崎靖史
フライヤーデザイン・写真:脇田友(スピカ)
制作:田中直樹劇団ひととせ
制作協力:吉岡ちひろ(劇団なかゆび) 齋藤秀雄(ISSO inc.)
広報協力(東京公演):月館森(露と枕/劇団ひととせ
運営:葛川友理(劇団トム論/気持ちのいいチョップ)

simokitazawa.hatenablog.com

笑の内閣「ただしヤクザを除く」(1回目)@こまばアゴラ劇場

笑の内閣「ただしヤクザを除く」(1回目)@こまばアゴラ劇場

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作:高間響 演出:髭だるマン

日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
―ただしヤクザを除く

大手宅配ピザチェーン、ピザマッチョ広島地区エリアマネージャーの住吉は、組織犯罪対策課刑事の稲川に呼び出され、常連客である工務店への配達を断るように要請される。その工務店は表向きはカタギの建設会社であるが、ヤクザのフロント企業。ヤクザであると知りながらピザを配達をすると、暴力団排除条例違反になる恐れがあったのだ。
そもそもヤクザだと知らなかったし、商売としてピザを届けているだけなのに、釈然としないながらも警察には逆らえず署を後に店に向かった住吉。しかし、そこで彼が見たものはその工務店からの注文。しかも、今日はテイクアウト。今から断ろうにも10分後には、ヤクザが直接取りに来る。目の前で断るのは怖過ぎるけど、注文受ければ条例違反。
売っても地獄、断っても地獄。
果たしてピザ屋の運命は…?

※一部にて情報公開されておりました『東京ご臨終~インパール2020~』は、脚本家の高間響の体調不良により、2016年上演作品『ただしヤクザを除く』へ演目を変更することとなりました。


2005年旗揚げ。しばらくは実際にプロレスをする『プロレス芝居』をしていたが、体力の限界を感じて、時事ネタ・風刺ネタコメディに路線転換。「福島に修学旅行に行こう」「女性差別する女性」「芸能と契約」などといった際どいテーマで芝居を作っている。政治・言論方面には特に強さを見せ、「風営法のダンス規制」を扱った時は永田町に呼ばれたり、東浩紀氏の言論カフェで上演したり、内容が反社会的だと劇場から上演拒否にあったり、森友学園の入学説明会にいったら追い出されたりと騒ぎも多い。2019年2月、前代表が京都市議選挙に挑戦し、髭だるマンに代表を交代することとなった。
出演

髭だるマン 和泉聡一郎 (劇団道草) 熊谷みずほ 近藤珠理 杉田一起 田宮ヨシノリ(stereotype) ファック ジャパン(劇団衛星)

スタッフ

脚本:高間響
演出:髭だるマン
舞台監督:玉井秀和(劇団FAX)
照明:河口琢磨
音響:島﨑健史
舞台美術:岩崎靖史
フライヤーデザイン・写真:脇田友(スピカ)
制作:田中直樹劇団ひととせ
制作協力:吉岡ちひろ(劇団なかゆび) 齋藤秀雄(ISSO inc.)
広報協力(東京公演):月館森(露と枕/劇団ひととせ
運営:葛川友理(劇団トム論/気持ちのいいチョップ)

 笑の内閣は様々な社会的な問題をコメディーに仕立てあげて上演している劇団。漫画・アニメの表現規制、クラブの深夜営業規制、ネット右翼のヘイト行為、原発事故被害に遇った福島への修学旅行などビビッドでありながら、単純に面白、おかしく取り上げることが困難な対象に果敢に斬り込んでいった。
 「ただしヤクザは除く」で取り上げたのは最近は反社会勢力との表現されるヤクザ(組織暴力団の構成員)にも人権はあるかという問題。広島を舞台にピザ販売チェーン「ピザマッチョ」で起こったピザを買おうとしたヤクザと掲載が店に圧力をかけて販売をやめさせようとする行為を巡ってのあれやこれやをコメディーとして展開していく。
simokitazawa.hatenablog.com

ももクロとAKB 対談 さやわか×西兼志 アイドル〈の/と〉歴史(「エクリヲ10」から)

対談 さやわか×西兼志 アイドル〈の/と〉歴史(「エクリヲ10」から)

「エクリオ」は佐々木敦主宰の「映画美学校 批評家養成ギブス第3期」のメンバーを中心に刊行された批評誌。お布団の公演のロビーで手に入れた「エクリオ10」は「一〇年代ポピュラー文化」が特集で、そのメイン企画のひとつがライター・評論家のさやわかと成蹊大学の西兼志教授の対談で、内容のメイン部分はAKBについての対話であるが、かなりの分量でももいろクローバーZももクロ)について語った部分があり、特に西兼志は専門はメディア論、コミュニケーション学となっているが、これまでモノノフ(ももクロファン)の遡上にはあまり上がっていない人だっただけに興味深い内容だったと思う。
 対談自体は批評誌への掲載されるのが前提であり、客観的にな語り口になってはいけるけども「僕の場合絶対ももクロについて話すと決まっているんですが」などの発言にあるように妙にももクロに前のめりであること(笑)。宮本さん(宮本純乃介)、佐々木敦規さんといった名前がポンポン出てくることからして、これはどう考えてもかなりコアなモノノフであることは間違いなさそう。この対談では一般読者を考慮してファン語りを抑制しているところもありそうで一度お会いして、より濃いももクロの話題を聞いてみたいところだ。

以下、内容の一部抜粋


さやわか「つまり『マジ』と言いながら、与えられた課題に立ち向かう際に透けて見える『普通さ』『熱意』の方にAKBの方は賭けていたんですよね。でも、おっしゃっとようにももクロはまるで逆で、運営から与えられるものをリアリティーショー的に演出しつつ、最終的に本当にそれをやり遂げる力を持つという二層のエンタテインメントにしていましたよね」

西兼志「ももクロがいまだに第一線で頑張っていることを考えてみると、他のアイドルって、学校モデルで制服的な衣装を着て、学校メタファーでやっていますよね。それこそももクロの一個下の世代とかで私立恵比寿中学とか、なくなっちゃいましたけど3B juniorとか、そうやる限りは絶対AKBのエピゴーネンにしかならない。みんなが学園的なものをやっている時に、ももクロはプロレス的なものをやるっていう異質さがあった」

ヱクリヲ vol.10 特集I 一〇年代ポピュラー文化――「作者」と「キャラクター」のはざまで 特集II A24 インディペンデント映画スタジオの最先端

ヱクリヲ vol.10 特集I 一〇年代ポピュラー文化――「作者」と「キャラクター」のはざまで 特集II A24 インディペンデント映画スタジオの最先端

  • 作者: 高井くらら,横山タスク,伊藤元晴,山下研,さやわか,西兼志,得地弘基,難波優輝,楊駿驍,横山宏介,堀潤之,小川和キ,伊藤弘了,佐久間義貴,村井厚友,福田正知
  • 出版社/メーカー: ヱクリヲ編集部
  • 発売日: 2019/05/10
  • メディア: 単行本
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新聞家と関田育子 2つの『フードコート』@TABULAE

新聞家と関田育子『フードコート』@TABULAE(曳舟

 新聞家の村社祐太朗の文字テキストを基に上演されたひとり芝居を作者自身の演出と関田育子の演出で2日連続で観劇することになった。
 両者の間では空間の使い方がまったく違っていて、演劇全体での立ち位置を大きく俯瞰してみていた時には差異よりも類似性を感じていたのが逆に方向性の明確な違いを感じさせ、そこが刺激的な試みであった。
 今回の公演の会場となったのはTABULAEという民家を改装したギャラリー空間。通常の劇場空間と大きく違うのは道路に面した壁一面が全てガラス張りになっていて、内側からは道路などの外側の空間が見渡せるようになっていることだ。
冒頭にも少し触れたが、会場の空間と村社のテキストは共通であるのに新聞家と関田育子では舞台の印象がまるで異なる。それは単に発話の方法論が異なるということだけではなく、新聞家では吉田舞雪は舞台下手に椅子を移動させて、そこに座ったままで目の前に移動させて持って来た植物の鉢植えに視線を送りながら、ほとんど動くことなく、セリフに集中して発話していく。
それに対して、関田育子演出版の中川友香は『フードコート』のテキストの中身に呼応して、ギャラリー空間をあちこち移動して回る。さらなる決定的な違いは途中でガラス窓をあけて、道まで出てしまう瞬間があることで、ここで作品の世界と場所がどのように関わるかが完全に変容してしまう。
 新聞家の公演では提示されているのはあくまで村社祐太朗のテキストを自らの丁寧な発話により俳優が具現化するということであって、ギャラリー空間は無意識にそれに関わることはあっても「それはそれ、これはこれ」というところがあった。
 ところが関田育子の『フードコート』では一度扉をあけて外に出たことによって、ガラスごしに見える道もそこを行き交う人々も舞台作品の一部と感じられるようになっている。しかもこのギャラリーは矩形に切り取られた窓から見える風景がまるで映画のフレームで切り取られた世界のように演出家により意図されたもののようにも見えてくる。
実際、この舞台の最中にも外の街頭には人通りがあり、特に下手から上手に通り過ぎていったボードに乗った人物はあらかじめ仕込まれていたような演劇性を感じた。

関田育子『フードコート』
クリエーションメンバー:黒木小菜美、小久保悠人、関田育子、中川友香、長田遼、馬場祐之介
出演 :中川友香
作:村社祐太朗

チケット一般=[前売]3000円 / [当日]3500円
会場 TABULAE(墨田区向島5丁目48-4)
助成 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人セゾン文化財

シンポジウム「アンドロイドに魂は宿るか? 漱石アンドロイドをめぐる3つの視点」

シンポジウム「アンドロイドに魂は宿るか? 漱石アンドロイドをめぐる3つの視点」

開催日時:2019年11月9日(土)13時開始

アンドロイドになって、漱石は本当に「甦った」のでしょうか。私たちは「甦らせた」と言えるのでしょうか。甦らせるためには、何が必要で、どうすればよいのでしょうか。改めて問い直す機会を設けました。
佐藤大氏脚本の漱石アンドロイドによるモノローグも上演します。

「えんげきのぺーじ」について

「えんげきのぺーじ」について

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演劇系総合サイトとしてかつて「えんげきのぺーじ」(通称エンペ)というサイトがあった。こんなことを今になって書き始めたのはネット検索をしていて、サイト本体はなくなっているものの表紙やコンテンツの一部がいまだにネット上に存在していて見ることができることを発見したからだ。    

まずは発見した表紙というのがこちらである*1。私は当時このサイトに「来月のおすすめ芝居」
*2というのを執筆するおすすめライター*3のひとりとして参加していた。この「おすすめ芝居」と読者がフォーマットに従って自分で自由に書き込みができる「1行レビュー」というのがえんぺのメインコンテンツであり、「1行レビュー」というのは無星から★★★★4つまで強制的に評価を付けさせられたうえで短い感想を書くというtwitterの生ぬるい感想のような日和見を許さない暴力性に満ちたコンテンツ。まだバズるとか炎上という概念もなかった平和な演劇界において「悪名高き」と一部の作家やファンに憎まれたという意味では当時としては画期的な仕掛けであった。
 一方、おすすめ芝居も評者全員が明らかに偏向しているということが分かるユニークなもので、これは「えんげきのぺーじ」がにしかどくんという個人のホームページであったからこそできたことで、前にも後にもあんなコンテンツは他のジャンルを含めてもあれだけだったんじゃないか。
 このメンバーで当時毎年1回年末に忘年会も兼ねて集まって決めていたのが、「インターネット演劇大賞」*4である。この賞は我々が当初は絶対に紀伊国屋演劇大賞や岸田國士戯曲賞を取ることがないような人を選考するとの意気込みで始めたのが、ちょうど第1回受賞者の松尾スズキが翌年の岸田賞を受賞したのを皮切りに受賞者が次々と未来の受賞者となっていったことで逆に一部演劇界の注目を集めるようになっていったという経緯があった。

*1:えんげきのぺーじ表紙 dx.sakura.ne.jp

*2:これはえんぺ更新終了後に自分のサイトで続けていたお薦め芝居だが、基本的にこんなフォーマットで掲載していた。simokitazawa.hatenablog.com

*3:http://dx.sakura.ne.jp/~nnn/play/hosi/writer/profile.html

*4:インターネット演劇大賞dx.sakura.ne.jp]

新聞家『フードコート』(東京公演)@TABULAE

新聞家『フードコート』(東京公演)@TABULAE

作・演出 村社祐太朗
出演 吉田舞雪、他
美術 山川陸
ビジュアル 菅幸子
協力 川原卓也、板倉勇人
演出助手 土田高太朗
加わった出演者 花井瑠奈、瀧腰教寛

会場 TABULAE(墨田区向島5丁目48-4)
5484tabulae.tumblr.com

助成 公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人セゾン文化財

「相対的浮世絵」@下北沢本多劇場

「相対的浮世絵」@下北沢本多劇場

「相対的浮世絵」@下北沢本多劇場
CAST
岬 達朗  山本亮太 (宇宙Six/ジャニーズJr.)

岬 智朗  伊礼彼方

関 守  石田 明 (NON STYLE)

遠山大介  玉置玲央

​ 野村 淳  山西 惇




STAFF


    作  土田英生

   演出  青木 豪

​   美術  田中敏恵

   照明  杉本公亮 増田隆芳

   音響  市来邦比古

   音楽  寺田英一

   衣裳  半田悦子

ヘアメイク  杉岡実加

​ 演出助手  坂本聖子 陶山浩乃

 舞台監督  田中政秀 松下清永

​企画・製作  キューブ

「相対的浮世絵」はMONOの土田英生の旧作の再演。初演は2004年と15年も前の作品だが、実はMONOは今年が設立30周年の記念の年を迎えているために劇発足から現代までのちょうど半ばあたりに位置する作品と言っていい。
 土田の作品の主題で最近、喪失と残されたものたちのモチーフが目立っていて、「はなにら」などはそういう色合いの強いものであった。「はなにら」などは被災地を描いた作品でもあり、そういう意味合いの作品かなと考えたが、「相対的浮世絵」は東日本大震災の前の作品だからもともと土田が作家として追究してきたモチーフにそれがあったのだろう。とはいっても、それをあくまでもコメディとして見せていくのが「らしい」ところである。
 

オフィスマウンテンvol.7 『NOと言って生きるなら』 @横浜STSPOT

オフィスマウンテンvol.7 『NOと言って生きるなら』 @横浜STSPOT

​オフィスマウンテンの会話劇。新しい会話劇を作りたくていろいろ試してみる。顔と上半身と下半身をそれぞれに担当して動かしてみたり。体話には見えても会話には見えない。口からでる言葉だけじゃない会話劇。まだまだ試行錯誤。(8/5)

作:山縣太一

出演:大谷能生、山縣太一、横田僚平、岡田勇人

作・演出・振付:
大谷能生、山縣太一、横田僚平、岡田勇人、萩庭真、馬場祐之介、飯塚大周

音楽:大谷能生
音響:牛川紀政

日程:2019年11月5日(火)-11月17日(日)
5日(火)20:00
6日(水)20:00★
7日(木)20:00★
8日(金)休演日
9日(土)17:00★
10日(日)17:00★
11日(月)休演日
12日(火)20:00★
13日(水)20:00
14日(木)20:00
15日(金)休演日
16日(土)17:00
17日(日)17:00

★の回はゲストをお迎えして終演後にアフタートークを行います。(敬称略)
11/6(水) 村上啓太 (在日ファンク・ベーシスト)
11/7(木) 荘子it (トラックメイカー/ラッパー)
11/9(土) 島貫泰介 (美術ライター)
11/10(日) 飴屋法水
11/12(火) 中原昌也 (作家/音楽家)

料金:
前売 3,000円
当日 3,500円
マウンテンチケット 5,000円
《特典:①台本+サントラ+振付メモ ②公開稽古にご招待(9/12 または 10/5※両日共15時開始)
③出演者4人のインタビュー映像 ④サイン入りポストカード》

《早期予約特典》9/30 (月)19時までのご予約で、
マウンテンチケットの【特典②、特典③、特典④のいずれか一つ】をプレゼント!

予約フォーム:https://www.quartet-online.net/ticket/noikiru


お問い合わせ:
mail:mountain.ticket@gmail.com
web:https://mountainticket.wixsite.com/mysite

企画・制作:オフィスマウンテン
共催:STスポット
特別協力:急な坂スタジオ

 オフィスマウンテンは観劇する人間に対して極めて高い負荷を要求する。少なくとも私に取ってはそれを集中して見続けるということは相当以上の消耗を伴う行為であり容易なこととはいえない。これは通常の演劇を見る時とも、ダンスを見る時とも異なる体験なのである。その意味でこれは興味深い試みなのだが、とはいえこれを単純に「面白い」とか「素晴らしい」と評している類の言説に対しては大きな疑問も感じる。それというのも今回もやはり舞台を見ながら感じたのだが、彼らが舞台上で試みている行為はまだしも観客である私たちがそれを見て何かを感じ取ろうとするとそこで「生理的な不可能」が立ちはだかるのではないかと思わざるえないと感じたからだ。
 それはどういうことか。それは簡単に言えば今回の 『NOと言って生きるなら』 という舞台では種類の異なる様々な情報が提示されるのだが、そのディティールを同時に汲み取ることは普通の人間の生理的キャパシティーを超えているのではないかということがひとつ。もうひとつはもっと身もふたもない言い方になってしまうけれども見えないものはいくら努力しても見えないんだという事実なのである。
 まず最初にオフィスマウンテンの発話は通常の会話劇や様式的に洗練された「語りの演劇」のように観客にとって聞き取りやすいような形で発話されるものではないため、発話されたセリフの意味内容を咀嚼するのにかなりの注意深さと集中力が必要となる。さらにいえばそのセリフは言葉遊びというか、意味と同等あるいは意味以上に語感が重要な役割を果たしている。そして、これは山縣太一自身が披露している方法論にも関わることだが、オフィスマウンテンの場合はセリフと同時に演者の動きはセリフを基にしてそれに呼応するように演者自身が創作した「第二のテキスト」を演者はそれぞれ持っていて、それぞれの演者の身体の演技はセリフではなく、そちらを基にして構築している、ということになっていて、それは発話される場合もあるが、されない場合も多い。とはいえ、それはあるんだという前提に立てばこの公演では4人の俳優が登場して、ひとりが発話してしているうちに発話者本人も含めて4人の演技がされることになるが、それを同時に把握することは生理的に不可能、人間のキャパシティーを超えることなのであって、それを感じながら演技を見続けるということは自らの「不能感」を絶えず感じ続けることになるがそれができない徒労感から消耗してしまう。それが観劇後のただものではない疲労感につながっているのではないかと思うのだ。
 もちろん、あくまでその中でぼんやりと感じ取れることのなかにも感じ取れることはなくはない。それは例えば4人の身体のありようはそれぞれ全然違っていて、それが面白いね、とか。その中で横田僚平の身体の動きはひときわシャープな陰影を紡いでいる*1とか、やはり本家だけあって山縣太一の身体所作には味があるとか。そういうことだが、正直言ってそのレベルのことがこの作品の本質なのだろうかとどうしても思ってしまうのだ。
実は内容はまったく異なるが類似の印象を以前にも感じたことがあった。それはハイパーコラージュを標榜していた時代の山の手事情社の舞台でだった。山の手事情社の舞台ではセリフを語る俳優と身体表現だけを行う俳優が舞台上で同時多発的に登場していて、通常はこういう場合演技する俳優とバックダンサーのように見えてしまいがちなのを演出の安田雅弘は両者は等価であり、ある瞬間に地と図が逆転するようなことがあると面白い。それがハイパーコラージュの真骨頂だというようなことを話していた。
 演劇理論としては非常に魅力的な立論だったのだが、しばらく続けるうちにそれが根源的な生理的不可能性を含んでいるのではないかということが判明してきた。
 というのは観客はどうしてもセリフがある方に注目する。それはセリフというのは継続的な時間の流れを前提にしていて、だから観客がそちらに注目するのは生理的に自然なことであって、それがダンスのような身体の動きとかいうことであれば注目があちらこちら移動するということはできるのだが、セリフがあるとそれは起こりにくい。つまり、地と図は逆転しないということだ*2
 オフィスマウンテンの場合もどうしても我々観客の注意はどうしてもセリフを発話する俳優に集中、それ以外の俳優の動きや演技は背景に退いてしまいがちになり、そうなるとディティールの把握は困難になってしまう*3
 もともと、オフィスマウンテンでは山縣太一が稽古初日に用意している上演テキスト(戯曲)をもとにそれぞれの俳優がそれに呼応するような独自のテキスト(マイライン)を書き上げ、発話される山崎の台本のほかにそれぞれの演技の動きや表情、所作についてはマイラインをもとに作り上げていくのだという。ここで問題があると思うのは観客である我々は観測者として、そこにないもの(発話されないマイライン)は見えず、俳優の動きは実際に発話される山崎の台本と関係付けてみることになる。
 それは俳優がマイラインから所作を組み立てることはできるとしても、観客が俳優の動きからマイラインを想像することは不可能だからだ。実は演じる側はそれぞれのマイラインがどういうテキストだということを知っているから、それを前提としてそれと込みでそれぞれの演技を解釈することになるわけだが、それは観客からは不可視でそこには絶対に超えられない壁があるからだ。
 以前、松田正隆はマレビトの会の上演でかつて演じた演技の記憶をもとにそれを再現しないで心のなかでそれを想起するだけで、実際にはただそこに立っているという演劇を上演したのだが、私は「それは無意味だ」と考えた。それは見えないものは見る側にとって「ない」のと同じで、そこに幽霊のように見えない何かを見て取るなどということは不可能だと考えたからだ。オフィスマウンテンにおけるマイラインはそれを実際に俳優が発話する場合は別だけど、そうでない時にはマレビトの会同様に不可視なものでそれゆえ、それ自体は「ない」のと同じとなるしかない。

*1:そういう意味では次は横田僚平ひとりの作品が見たいということは今回思った。

*2:その後、山の手事情社は「ハイパーコラージュ」を断念。現在も継続している「四畳半」と呼ばれる表現形態に移行した。

*3:もっとも私の場合、情報のマルチタスク的な処理が苦手ということもあり、それで余計にそういうことを感じる可能性はある。そのため山縣太一が演じる一人芝居であればそういうストレスはあまり感じないですんでいる