下北沢通信

中西理の下北沢通信

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連載)平成の舞台芸術回想録(10) 松田正隆(青年団プロデュース)「月の岬」

連載)平成の舞台芸術回想録(10) 松田正隆青年団プロデュース)「月の岬」

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青年団プロデュース「月の岬」
マレビトの会の松田正隆が1990年代には平田オリザと並ぶ現代口語演劇の旗手で、松田の颯爽たる登場が平田の存在と相俟って、アングラ演劇から野田秀樹鴻上尚史へとにぎやかである意味狂騒的ともいえるそれまでの演劇の流れを一変したのだということは現代の観客にはあまり知られていないのかもしれない。
 初期の松田正隆は平田以上に早熟の天才の冠をその紹介にかぶせたくなるような存在で、初めてその作品に出合ったのは松田の率いる時空劇場による「紙屋悦子の青春」だが、戦前の暗い時代を描き出した作品でありながら、その作品は清冽かつ新鮮な魅力に溢れていた。この作品から始まる「長崎三部作」(「紙屋悦子の青春」「坂の上の家」「海と日傘」)はまさに現代の古典とでもいうべき風格を備えていたといえるだろう。
紙屋悦子の青春

紙屋悦子の青春 予告編
 この長崎三部作は「海と日傘」が96年の岸田國士戯曲賞を受賞したこともあって、現在も様々な劇団により上演されているが、作品中のモチーフである戦争や原爆といった重い主題に引っ張られるためか時空劇場による上演のような軽やかさは感じられないことが多い。「紙屋悦子の青春」は松田の原作戯曲をかなり忠実に生かしながら黒木和雄監督の手で映画化されている*1が、その映画の方が大部分の新劇劇団の舞台よりも時空劇場によるオリジナル版の雰囲気を伝えるものに仕上がっている。
松田正隆は時空劇場解散後に「劇作家専業宣言」をして独立するが、その後にスタートしたのが青年団プロデュースによる松田正隆作、平田オリザ演出により制作された作品群であり、その代表作が今回紹介する「月の岬」(1997年)である。「月の岬」は基本的には長崎弁による現代口語群像劇であり、長崎三部作の延長線上にある作品だが、長崎のある離島を舞台に島に伝わる伝説を媒介として佐和子(内田淳子)と弟、信夫(金子魁伺)の 姉弟を中心とした近親相関をも思わせるような濃密な関係性を浮かび上がらせていく。
 作品中には観劇後も釈然としない謎めいた事象がいくつもあり、観劇後大いに困惑させられた。だが、この作品が私にとって印象深いのは、その謎解きを数カ月間にわたり徹底的に試みた挙句、これは作者自身がたとえ否定したとしても自分の方が正しいはずとの意味を込めて「深読み誤読レビュー」と題した論考を書き上げたことだ。それが私がその後、演劇やダンス、あるいはアイドルにまで一連の思考を繰り返していく際の一種のモデルとなった。私の評論活動の原点であり、すべてここから始まったといってもいい。以下がその論考の再録である。 

青年団プロデュース「月の岬」深読み誤読レビュー
 松田正隆の劇世界の特色は三角関係に代表される閉じた関係に表れる人間の心の闇をそれこそ微分するように細かく解析しえぐりだしていくことにあると思う。それは「坂の上の家」での妹、直子の兄に対する複雑な気持ち、「海と日傘」での主人公の小説家の妻に対する気持ちなどにあらわれるが、そうした感情はダイレクトに台詞として表現されるのではなく、登場人物の細かなリアクションや台詞の行間にそれこそ隠されるように暗示的に表現される。そして「月の岬」(7/12=シアタートラム)はそうした松田の世界の典型といってもいい作品かもしれない。

 物語の構造の中心をなすのは佐和子(内田淳子)と弟、信夫(金子魁伺)の近親相姦的愛憎関係にあるように思われるが、はたしてそうなのかというのが、この芝居を見ての疑問である。この関係自体も佐和子と信夫の直接の会話ではほとんど描かれず訪ねてくる女子高生や佐和子に言い寄る昔の恋人など周囲の人間に対する二人の微妙なリアクションの中で暗示的に表現される。しかし、この物語には二人の近親相関的愛憎関係に起因すると考えるだけでは説明不能の行為が多すぎるのも確かなのである。佐和子の失踪の引きがねになったのはなになのか。信夫はなぜ佐和子が失踪した後で茫然としてるだけで、行動しようとしないのか。佐和子が昔、男と駆け落ちしようとしたのはなぜなのか。1月のプレ公演を見た後もこれらのことが気になって釈然としない気持ちが残っていたのだ。その上で、今回の舞台を見て、そのナゾを解く鍵がどうやら「月の岬」という題名に隠されているのではないかということに気がついたのである。

 「月の岬」とはその岬にかかる月のことが語られることから、劇中に登場する経が崎のことであろう。岬にまつわる伝説が語られるが、それは父親と娘にまつわるものであった。昔、父親との相姦関係にあった娘がこの島に流されてしばらく住んでいたが、ついに寂しさに耐えきれずにある日、本土に泳いで渡ろうとして溺れ死んだというのだ。伝説はこの芝居の基調低音としてこの姉弟の隠れた関係=近親相姦を暗示させる。だが、それではここで語られた伝説はなぜ姉弟でなく、父娘を巡るものなのだろうか。伝説は伝説だと言ってしまえば、それまでだが、この伝説自体、「月の岬」という題名から考えて、この芝居を象徴するものと考えられる。しかもこの芝居の構造自体が神話的な構造を持っている以上、近親相姦が問題になっている以上、父娘だろうが姉弟だろうが大差ないなどという大ざっぱな考えはここでは通用しないと思うからだ。

 これがプレ公演の時から引っ掛かっていたのだが、今回の上演で氷解した。これは実は姉弟を巡る物語ではなく、父親を失ない、その喪失感を弟に向けることで生き延びた娘、佐和子についての物語だったのではないかということに気が付いたからである。佐和子は小さいころ「信夫に岬で助けられた」と信夫の妻、直子に語る。だが、この記憶は信夫によれば間違いで助けようとしたのは父親で遭難に巻き込まれて死んだのだ。これは芝居の後半に佐和子の失踪を受けての直子(藤野節子)と信夫の会話で明らかになるが、この記憶の錯誤は明らかに喪失感と自分のために愛する父が死んだショックから自分を守るために佐和子が捏造したものと考えるのが妥当であろう。

 そして、この記憶が信夫への禁じられた思いの根底にあるとすれば、佐和子にとって信夫の存在は潜在意識の奥底に閉じ込められた父親への思慕の念が自分の責任によるその死によって禁じられたことの代償に過ぎない。佐和子にとって信夫の存在は根源的なものではなく、あくまで失った父親の代わりなのだ。それが、直子の流産をきっかけに自分にも明らかになったのが、佐和子の失踪の原因であろう。そうだとすれば、直子の流産というもう一つの死を仲介として、佐和子は岬に身を投げ、自分が本来いるべきだった父親の元に帰ったことになる。もちろん、こうした深層の意識は自分には隠ぺいされているため、かつて恋人と駆け落ちしようとして失敗したり、佐和子もこの苦しさから逃れるために試行錯誤を繰り返すのだが、それが本当の自分の心に深遠との対決になっていないかぎり、彼女にとって、それで解決できる問題ではないのであり、当然ながらそうした行為は全て失敗に終わるのである。

 喪失とその代償行為は信夫から見た佐和子への気持ちにも形を変えて立ち現れる。信夫に取っては、母親の死を埋める存在が佐和子だったと考えられるからである。ここからは根拠が薄弱なので仮説の域を出ないのだが、この母親の死というのも、父親の死と関係があるのではないかと思う。そして、それぞれが、思い人でもある父、母を失ったことで、佐和子と信夫の間に父母を模した疑似的な夫婦関係である近親相姦関係が成立したのではないかと思うのだ。

 つまり、佐和子は信夫に取って母親でもあるのであり、そして、この喪失とそれを埋める代償という主題は佐和子を失った信夫に直子が取って代わることが暗示されるラストシーンによっても再び変奏のように繰り返される。この場合、死の隠喩でもある黒の礼服(着物)が母親から佐和子に、そして直子に引き継がれていることが、とても暗示的だと思う。さらに、直子の立場から考えての流産で子供を失った代償に佐和子に代わり主婦の座、すなわち、信夫を手に入れるわけで、喪失と代償行為のテーマがここでも形を変えて現れていることに気が付くのである。

 ここまで言えば分かると思うがこの芝居は父親を失った佐和子が抱えるトラウマの変奏曲であり、その心の闇は昔、恋人と駆け落ちしようとし失敗。今、またその男が島にやってきて自分に迫ることで、男の家族を崩壊させたり、教師である信夫が生徒と関係を持ったりとこの世界全体に大きく影を落としている。いわば、一つの関係が池に投げた小石が波紋を広げるように次々と他の関係に影を落していくのが、松田の描く「関係」というものではないかと思ったのである。
(演劇情報誌Jamciに連載中の「下北沢通信」の9月号に分量の制約で載せきれなかった部分を完全版として掲載)

 ここでは作中で挿入された神話を媒介にして、佐和子の一見矛盾するような統一性を欠く行為の根底に隠された動機を探ろうとしているわけだが、この新たな解釈でいろんな謎が解明された時の「ユリイカ」感は今でもはっきりと記憶に残っている。
 さらにいえば、論考を書き上げた後、この結論が正しいとして、なぜ松田はそういうことを表現するためにこんな分かりにくいことをしているのかの議論となった際、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン*2との相似性に思い当たり、これはそういう時代の空気感があるのではないか。「月の岬」=エヴァ説が知人との議論で俎上に上がったのだ。どちらの作品もすべては失われた両親との父子関係あるいは母子関係からくる主人公の精神的トラウマに原因があるが、作品の展開上はそれは隠蔽されているということだ。
 松田・平田のコンビはこの後も「夏の砂の上」「雲母坂」などを制作するが、「天の煙」(2004)を最後にこの二人によるコンビは解消*3。松田はこの後、平田と数度にわたる試行錯誤を試みたうえで、前衛的なスタイルの演劇を志向するマレビトの会を設立。劇作家、演出家としても大きな変貌を遂げていくことになる。マレビトの会以降の松田も非常に興味深い存在ではあるが、そこに分け入るには別の機会を改めて持ちたいと思う。
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公演ダイジェスト:「月の岬」 | SPIRAL MOON

*1:simokitazawa.hatenablog.com

*2:ja.wikipedia.org

*3:「月の岬」再演はその後もある。

『しおこうじのお台場フォーク村第108夜』「リモートフォーク村!生演奏」@フジNEXT

『しおこうじのお台場フォーク村第108夜』「リモートフォーク村!生演奏」@フジNEXT

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概要
ももいろクローバーZ玉井詩織THE ALFEE坂崎幸之助!ゲスト松室政哉鈴木瑛美子!しおこうじバンド宗本康兵・佐藤大剛・やまもとひかる・加藤いづみ・竹上良成

<内容>
しおこうじ=ももクロ玉井詩織×アルフィー坂崎幸之助ダウンタウンしおこうじバンド=宗本康兵音楽監督佐藤大剛・やまもとひかる・加藤いづみ・竹上良成!ゲストミュージシャン松室政哉鈴木瑛美子!第108夜リモートフォーク村!生演奏

M1「10 PUSH UP CHALLANGE」ダウンタウンしおこうじバンド
M2「レディ・メイ」坂崎幸之助×ダウンタウンしおこうじバンド
M3「星空のディスタンス玉井詩織×ダウンタウンしおこうじバンド
VTR1「玉井詩織『フォーク村』全出演」=38分28秒
VTR2「前回カットになった加藤いづみVTR」=1分09秒
VTR3「前回撰ばれなった竹上良成/前回無かったやまもとひかるVTR」=4分49秒
VTR4「前回撰ばれなった宗本康兵VTR」=1分51秒

M6「ハジマリノ鐘」松室政哉×宗本康兵
M7「今夜もHi-Fi」松室政哉×宗本康兵×竹上良成
VTR5「前回カットになった佐藤大剛VTR」=1分03秒
M8「FLY MY WAY」鈴木瑛美子×佐藤大
M9「Lay Down Sally」鈴木瑛美子×佐藤大
VTR6「前回撰ばれなかった玉井詩織/坂崎M10「感謝」坂崎幸之助 幸之助VTR」=8分15秒

リモートで生演奏というのがいままでうまくいってない例はさんざん見ているので、どうなるかと注目したがかなりうまくいっているように思われた。技術的に言うと遅延音声と遅延映像の組み合わせということのようだが、実際にはトリックもあったようで、玉井詩織坂崎幸之助は電話回線(映像なし)による完全リモートでも合奏したDMBはそうではなくて、広いスタジオの遠い場所にいてそれをそれぞれテレビの中継回線でつないで、リモート先の音声と合成していたようだ。とはいえ、この種明かしがあっても超絶技巧であるのは間違いないだろう。
 新作でよかったのはやまもとひかるのボーカルによるスティングの「Englishman In New York」。彼女と加藤いずみをメインボーカルに据えて、一度DMBだけのライブを見てみたいなという気にさせられた。ももクロがゲストで来てしまうとチケット取りにくくなってしまうから、来るにしてもゲストでひとりだけとか。それなら箱の大きさもZEPPぐらいでツアーとかできるんじゃないだろうか。というか、これ完全にやまもとひかる売り出しプロジェクトだよなあ(笑い)。
 過去回の秀作選が先月の場合、4人になって以降のものばかりだったため、やはり有安杏果の姿が映った映像は肖像権の問題もからんで一切出せないのかなと再確認させられたのだが、「事務所に所属していないから出せない」の理由付けは後輩グループからの出演者が映り込んでいる映像で現在は事務所をやめている子も含まれているから、そうした表向きの事情とは違う理由があったのかなと若干釈然としないものが残った。まあ、スタダのルールによるものなのかテレビ局側の忖度によるものなのかははっきりとは分からないが、ももクロに関してもおそらくジャニーズ事務所と同じようなことが起こっているのだろうということははっきりと感じされられた*1
 興味深かったのは今回は周到な編集作業により杏果の映り込みそうな部分は完全にカットし、5人時代も含めて、玉井詩織の名場面をつないだこと。編集には相当の苦労があったのではないかと察せられるが、いくつも「ああ、あういうのもあったね」というものもあり、永久保存版として確保しておきたい、いい名場面集ができたのではないか*2ので。
 個人的に好きだったのは川村カオリの「ZOO」だったのか、菅野美穂の「愛をください」だったのか、どちらだったのかがはっきりしない*3のだが、その曲のカバーがよかった。もうひとつはっきりと分かったのはギター(楽器)を弾きながらサイドボーカルに回るときの素晴らしさである。玉井詩織はハモにせよ、ユニゾンにせよ主旋律を歌うメインの歌い手に寄り添うように楽曲に加わった時に極めて安定感があって、相手の歌をつぶさないことで、より一層相手のよさが際立つという効果が出てくるのだ。面白いのは相手が男性であっても女性であっても同じような効果を出せることで、坂崎幸之助と組んだしおこうじではその魅力を存分に発揮しているし、相手が百田夏菜子であるとより一層そういう特性はよく分かる*4

*1:ただ、今回に関してはスタダ側の考えと無関係に映像に杏果が映り込んでいたりすると、それだけで「姿を見たくない」とか騒ぎ出す連中が出てきて、誰にとってもデメリットしかないことが起こる可能性がある、それを慎重に避けたということは考えられる

*2:杏果のファンでもあるが、それは杏果のパフォーマンスをいつか見たいのである。映り込む杏果を見たいわけではないので、この編集でカットされていることに特に不満はない。

*3:おそらく、菅野美穂版。ただ、懐かしかったのでSPOTIFY川村かおりベストの楽曲を聴いてみたのだが、これがとてもよかった、ほとんど忘れかけていた曲もあったのだが「神様が降りてくる夜」とかははっきりと思い出した。いつか玉井詩織にも歌ってほしい

*4:夏菜子の場合はメインボーカルとしては魅力を発揮するが、わきに回ると目立ちすぎて、相手のよさを潰してしまうように感じられることがある。それはこの二人が組んだ時に非常に露わに感じられた

連載)平成の舞台芸術回想録(9) 維新派「呼吸機械」

連載)平成の舞台芸術回想録(9) 維新派「呼吸機械」

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維新派「呼吸機械」
維新派の公演を巨大というしかない野外舞台を追いかけて奈良山奥のグラウンドから瀬戸内海に浮かぶ島まで非日常の空間に出会うために出かけていくことが、年に一度の愉しみだった。それが叶わなくなってどれほどの歳月が流れたことだろうか。好きな劇団はもちろん他にもたくさんあるが、維新派は唯一無二の存在であった。

維新派 - ishinha - 『呼吸機械』 (DVD映像)

 内橋和久の変拍子音楽に合わせ単語の羅列みたいな大阪弁のセリフをラップ調で群唱するのが維新派のヂャンヂャン☆オペラのスタイルだ。しかし、新国立劇場で上演された「noctune」あたりから「動きのオペラ」、すなわち動きだけでセリフがないダンス風のパフォーマンスがもうひとつの柱となってきた。「キートン」「ナツノトビラ」、前作の「nostalgia <彼>と旅をする20世紀三部作 #1 」(2007)と「動きのオペラ」への方向性はしだいに明確なものとなってきた。
 維新派のダンス的な身体表現が極まったのがびわ湖水上舞台での「呼吸機械」(2008年)であった。この作品では表題の「呼吸機械」を思わせる“ダンスシーン”を冒頭とラストのそれぞれ15〜20分ほど、作品の中核に当たる部分に持ってきた。「動きのオペラ」のひとつの到達点といえるかもしれない。びわ湖の湖面に向かって、少しずつ下がっている舞台空間、その上を流れていく水のなかに浸かりながらそれは行われた。パフォーマーの動きだけでなく、野外劇場だからこそ可能な水の中の演技で飛び散る水しぶきさえ、照明の光を乱反射して輝き、50人近い大人数による迫力溢れる群舞は比較するものが簡単にはないほどに美しいシーンであった。巨大なプールを使ったダニエル・ラリューの「ウォーター・プルーフ」、ピナ・バウシュの「フルムーン」などコンテンポラリーダンスにおいて水を効果的に使った作品がいくつかあるが、「呼吸機械」もそれに匹敵する強いインパクトを残した。特にラストは維新派上演史に残る珠玉の10分間だったといってもよいだろう。

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連載)平成の舞台芸術回想録(8) 劇団ホエイ「郷愁の丘ロマントピア」

連載)平成の舞台芸術回想録(8) 劇団ホエイ「郷愁の丘ロマントピア」

 山田百次は約10年前に上京。弘前劇場を退団した女優らとともに「劇団野の上」を設立し本格的な劇作を開始した。その活動ぶりが青年団で中心俳優だった河村竜也の目に留まり、彼らは2013年12月に青年団若手自主企画 河村企画として北海道三部作の最初の作品となる「珈琲法要」を上演し、その後の劇団ホエイにつながる活動を二人三脚で開始した。

「北海道三部作」で描く周縁の悲劇

 劇団ホエイ*1の作品群の中心となっているのが北海道に題材をとった歴史劇「北海道三部作」と呼ばれるシリーズである。
「郷愁の丘ロマントピア」はその第三弾。津軽藩士大量殉職事件を描いた「珈琲法要」が「北海道三部作」の第一弾。これは同劇団の出世作で1807年に北海道のオホーツク海沿岸の極寒の蝦夷地で多数の津軽藩士が病に倒れた亡くなった歴史上の悲劇を現代口語津軽弁で描きだした。これまで札幌での二度の上演や韓国公演でも好評を博している。
 歴史劇第2弾が「麦とクシャミ」。こちらは太平洋戦争末期の昭和新山誕生の顛末が題材で「珈琲法要」に続き北海道を舞台に歴史上に埋もれた史実を掘り起こして舞台に仕立て上げた。逞しい女優3人(中村真生、緑川史絵、宮部純子)の存在感が魅力的な舞台で緊迫した状況にもどこか呑気な男たちも登場。戦争に天変地異というシリアスな主題をペーソス溢れるタッチで描き出した。舞台ではこの地に日本各地から流れ込んできた人々が暮らしているという状況を設定し、京都、岩手、広島の異なる地域言語が同じ舞台で共存するカオスな場を描き出し、ここに満洲から戻ってきた陸軍軍人を配し、彼にノモンハン事件のことを語らせた。こうした仕掛けで北海道の寒村で起こった珍事と戦時の大陸の状況を二重重ねにして見せていく。その手つきは鮮やかなものだった。
 これらはいずれも純然たる歴史劇であり、登場人物が話す地域の言葉(方言)が交錯するものの戯曲の構造はリアルタイムで進行する群像会話劇で、平田オリザ流の作劇を思わせるところがある。それに対して「郷愁の丘ロマントピア」では夕張の炭鉱町を舞台に、数十年にわたるその盛衰をそこで働く男らの人生をからめて群像劇として描きだし、より大きな歴史的な時間の流れを射程に入れる新たな作劇手法を開拓した。

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郷愁の丘ロマントピア
 舞台では男らが80~90歳代にならんとする現代から、炭鉱でバリバリと働いていた若かりし時代までを時代は交錯しながら役者たちによって瞬時に演じわけていくのだが、観客がそれを不自然ではなく受容できるのは導入部で上演のルールが示されるからだ。まず登場人物は俳優によって完全にリアリズムで演じるというわけではない。先述した「××が演じる○○」が中間項として入り込んでくるのが「郷愁の丘ロマントピア」の作劇の特色なのだ。ここで 描かれるのは「大夕張」と呼ばれている地域。夕張市には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の3つの炭鉱があったが、現在の夕張市街地はすべて北炭があった地区である。
 これらの地域は同じ夕張市内といっても離れた場所(20キロ程度離れている)にあった。三菱合資会社大夕張大夕張炭鉱のあった大夕張地区は全盛期には2万人近くの人口をかかえていたが、廃坑とともに人口は激減した。現在はダムの完成にともないかつての市街地はほとんどシューパロ湖の底に沈んでしまった。劇団のホームページには「いま、町を弔う。」の煽り文句もあったが、この「郷愁の丘ロマントピア」はその意味で国策の犠牲となって湖の底に消えていったいまはない町への鎮魂歌といってもいい。
 冒頭、前説に山田百次が現れ、彼は「本日は青年団リンク ホエイの公演にご来場、まことにありがとうございます」と観客に向け挨拶する。続いて「皆さん夕張市はご存知ですか?」などとこれから始まる芝居の概要を話し出す。そのままニット編みの帽子をかぶり、「申し遅れました。わたくし山田百次が演じる今回の役名は鈴木茂治と申します」などと語る。最初は自分が演じる役の人物を「彼は」などと三人称で説明するのだが、「彼は御年92となりました」などといいながらいつのまにか腰をかがめた老人の演技に入っていく。演技スタイルは例えば意図的に平板なセリフ回しを多用するマレビトの会などとは違って、普通の会話口調に近いが、この舞台では「登場人物は○○」というだけではなく、登場シーンで「松本亮演じる加藤謙三が来ました」と他の俳優のセリフによって説明され「俳優、××が演じる○○」という二重性がたえず呈示される。この導入部で山田はこの上演におけるルールを観客の前に提示している。この舞台の主要登場人物は茂治と謙三のほか、地元で写真屋をやっている片腕の中村三郎と孫娘に車いすを押されて出てきた島谷紀男の4人。この2人も最初の登場シーンではいずれも茂治演じる山田自らの口から「やっときたのは河村竜也演じる中村三郎85歳」「武谷公雄演じる島谷紀男86歳」とそれぞれの現在の年齢とそれを演じる俳優の名前が紹介される。実はこれも前述したように観客に役柄とそれを演じる俳優の二重性を絶えず意識させ続ける狙いがある。舞台上の俳優は老人の声色を真似てまで老人のような演技をするわけではないが、こうした意識づけにより、俳優のちょっとした姿勢の違いだけで、それぞれの俳優が老人なのか、若者なのかを認識できるようになっている。
 チェルフィッチュ岡田利規は「三月の5日間」で役と俳優の分離を方法論的に提示し、後に続くポストゼロ年代演劇の作家たちに大きな影響を与えたが、俳優と役柄の二重性を可視化していくようなホエイの演技法もその延長線上にあると言っていいかもしれない。
 この作品は暗転や照明の変化などもいっさいないままに時空が次々と転換する。老人たちが昔のことを回想する会話の最中に両腕がまだある若き日の三郎が突然登場したり、車いすの紀男が帽子をとって立ち上がるような比較的分かりやすいきっかけで一瞬で時空が転換することが何度か繰り返されたうえで、そうした場面転換のルールが観客にも浸透したかと判断されて中盤以降はもっと無造作に融通無碍に時空の転換が行われる。こうした手法で平田オリザ流の一場固定の現代口語群像劇では描写することが難しい、戦後すぐから高度成長時代をへて、エネルギー政策の転換や、安い海外炭の普及により閉山に追いやられていくという長い歴史の流れを描き出しているのである。

劇団ホエイの非日常系作品群

 劇団ホエイには社会の周縁で起こる非日常的な出来事を描いていくという別の系列の作品群もある。2017年に上演された「小竹物語」は非日常系作品の典型だ。公演会場となった小竹向原にあるアトリエ春風舎を舞台に、この場所から怪談をネット配信する怪談師らの集団を登場させて、そこで起こる怪異譚を描き出した。
 こちらも作品冒頭で河村竜也が演じる高橋という男が「私はもうすぐあちらの世界(と舞台方向を指す)に行ってしまいますが、またこちらの世界に戻ってくるかもしれません。その時はどうぞよろしく」と客席の中央部分に設けられたネット配信の中継ブースの中から、客席に向かって話しかける。最初にこれを見た時にはただの前説だと思い、その意味するものをうっかりして見落としていた。が、実はこの部分が非常に重要なのだ。
 「小竹物語」は通常交わることがない「あちらの世界」と「こちらの世界」を対比させ、その境界を揺さぶろうとする。この場合「あちら」はまず舞台であり、「こちら」は客席だ。舞台とは役者たちが演じている「作品の劇世界」のことであり、それが「客席側の現実」と対比される。
 「小竹物語」では劇場から怪談イベント「小竹物語」をネット配信しようとしている怪談師らが描かれるが、劇中のイベントで語られるという体で観客である私たちは実際に「怪談」を見ることにもなる。本当に怪談イベントに参加している場合なら目的はあくまで「怪談」であり、さらに言えばそこで語られる怖い話を体験すること自体が目的となる。
 「怪談」にはいろんなタイプがあるが、多くの場合、この世にありえないような種類の怪異が語られる。実際の怪談イベントでも「怪談」(あちら)とそれを語る「怪談師」(こちら)というあちら/こちらの二重構造はある。けれども「小竹物語」では「怪談語り」もそれを語る怪談師もともに俳優が演劇の一部として演じていて、観客である我々はそれを舞台の外側から俯瞰してみるという構造となっている。
 劇中では「死んでいる」(あちら)と「生きている」(こちら)という2つの状態も対比される。劇中で高橋は量子論などを引用しながら、「生」と「死」はどちらも量子の振動の状態であり、「それは別々のものではなく、つながっている」と語るのだが、それがこの劇の後半に起こる大きなパラダイムシフトの伏線となっているのだ。「小竹物語」の後半部分では外部からの正体不明の闖入者として山田演じる謎の男が登場して最後には河村演じる高橋を殺してしまう。つまり、冒頭の高橋の「私はもうすぐあちらの世界(と舞台方向を指す)に行ってしまいますが、またこちらの世界に戻ってくるかもしれません」という「あちら」という言葉はここでは「死の世界」も指しているダブルミーニング(二重の意味)になっていたのだ。
 このように作品外部の人間が作品に介入していくという構造は実は「郷愁の丘ロマントピア」の山田百次が演じる演技にもつながっている。そういう意味では「小竹物語」と「郷愁の丘ロマントピア」はまったく作風の違う両極端の作品にも見えるが、実は手法的には呼応するような部分もあるのだ。
 2018年の夏に再演された「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」もやはりそうした系譜の作品。田舎の中学校の分校を舞台にそこで引き起こされる集団ヒステリーを描き出している。
「雲の脂」では全国から捨てるに捨てられぬ念の詰まったモノたちを一手に引き受けているある辺境の神社を舞台にその没落を現代の日本の滅びの形と重ね合わせた。これらが非日常系の作品群である。
 劇団ホエイはレベルの高い舞台を作り続けることで、青年団周辺の劇団のなかでも注目すべき存在になってきている。6月には新作上演を予定していたが、新型コロナの自粛にともない残念ながら中止となった。今度はどんな作品が飛び出すか期待は大きかっただけに残念だが、コロナ後に注目したい。

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*1:ホエイとは、ヨーグルトの上澄みやチーズをつくる時に牛乳から分離される乳清のことだ。産業廃棄物として日々大量に捨てられているが、うすい乳の味がしてちょっと酸っぱく、飲むことができる。乳清のような、何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたいというのが劇団名に込められた意味である。

連載)平成の舞台芸術回想録(7) 玉田企画「あの日々の話」

連載)平成の舞台芸術回想録(7) 玉田企画「あの日々の話」


映画『あの日々の話』予告編

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玉田企画「あの日々の話」
 2010年以降に活躍が目立つポストゼロ年代演劇の代表的作家としてままごとの柴幸男と木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一による作品を取り上げたが、彼らの世代に続く新世代の代表としてはともに青年団演出部に所属する玉田真也(玉田企画)と綾門優季(キュイ)が双璧といえるだろう。
 そのひとりである玉田真也の代表作が玉田企画「あの日々の話」である。この舞台はカラオケボックスでの一晩を描き、大学生サークルにありがちな軽いノリが引き起こす気まずい出来事をきわめてリアルな筆致で描きだす。
 次年度の会長・副会長ら役員を選出する投票が行われたそのサークル(軟派テニスサークル)にとっては重要な会合が終わった日の深夜。朝までコースとして2部屋が確保されたカラオケボックスの1室が舞台だ。
 メンバーの男たちがその場の悪乗りで女性メンバーのバッグを開けて避妊用具を発見。「この子とならセックスができるんじゃないか」と誰かが言いだし盛り上がったところから、女性会員を対象にした男たちの妄想が暴走していく。
 ここではその一部始終がまるでのぞき穴から目撃したかような細密な描写で描き出され、観客はその場に居合わせたかのような気まずい空気を体感していくことになる。
 だが、玉田真也の作劇・演出の妙味は「笑いが目的」と本人が話す通りにこうした気まずさを笑いへと転化させていくところだ。笑いを中心主題として掲げた劇作家には三谷幸喜ケラリーノ・サンドロヴィッチらが挙げられるが、玉田の純度の高い笑いはそれに匹敵しうるとさえ考えている。
 カラオケボックスを舞台にした群像会話劇といえばポツドール「男の夢」(2002年、駅前劇場)が想起される。年代からして地方出身の玉田が直接この舞台を見たとは考えにくいため、本人に確認したところ「男の夢」は高校生の時にテレビの「劇団『演技者』。」で三浦大輔の脚本を映画「モテキ」で知られる大根仁がドラマ化したのを見て感銘を受けたという。
 舞台の初日アフタートークでも玉田は「カラオケボックスを舞台にした芝居がやりたかった」と語っており、ポツドール(=三浦大輔)の「男の夢」への玉田なりの挑戦という意味合いがあったかもしれない。
 もっとも「男の夢」と今回の「あの日々の話」には決定的な違いがある。それはどちらも空気感としてのいやな雰囲気、あるいはいたたまれなさを観客も共有することになるのではあるが、三浦作品では男の側からの女性への妄想だけが一方的に描かれただけだったのに対し、玉田は途中で「寝部屋」と呼ばれているもうひとつの部屋にいる女性たちのことも同時並行で描き出し、観客に対してのみ登場人物が俯瞰できるような視点を提供することで、男たちの間抜けさ加減を強調し、それを笑いへと転化させていく。そこに玉田の持ち味があるのだ。
 「あの日々の話」は自らの手で映画化もされて、その際には「男の夢」の作者の三浦大輔から剽窃ではないかとの抗議があったようだ。映画には結局、三浦大輔の作品に影響されて創作されたというような意のクレジットが入ることになったが、正直言って私個人の見解ではここまでに述べたようにカラオケボックスの中で起こった出来事を群像劇で描いただけの共通点しか持たないこの作品を剽窃とするのは無理があると思わざるを得ない。
 青年団の演出部に所属して、演劇に軸足を置きながらも最近は映画製作に手を染めたほか前田敦子の主演で話題となったNHKドラマ「伝説のお母さん」
*1の脚本(やはり青年団演出部に所属する大池容子との共同脚本)を手掛ける*2など映像畑の仕事にも手を広げている。俊英が多い青年団演出部の劇作家・演出家の中でも注目のひとりと言っていいだろう。
spice.eplus.jp

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ルース・レンデル「聖なる森」@早川書房

ルース・レンデル「聖なる森」@早川書房

風光明媚な英国の田舎町キングズマーカムでは、ロンドンへの交通の便を良くするため、かねてからの懸案だったバイパス道路建設計画が、急ピッチで進められていた。しかし自然を愛する地元住民や環境保護団体が、反対運動を繰り広げて工事を妨害したため、町は騒然としていた。そんなある日、誘拐事件が起きた!誘拐されたなかにはウェクスフォードの妻ドーラも含まれており、彼は苦悩のどん底に叩き落とされる。後日、「セイクリッド・グローブ」なる団体から、誘拐した人質を引きわたす条件として、建設計画の白紙撤回を求めてきたのだが…。

 ルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズがホワットダニット型のプロットのミステリの実作者としてアガサ・クリスティーとコリン・デクスターの間をつなぐ役割を果たしていたのではないかとの仮説を基にシリーズ作品を続けて再読することをしてきた。それはかなりの程度において妥当であると、再読の課程で確信を持ったのだが、そういうことはより近作である「聖なる森」などになるともうそれほど重要なことではなくなってきたように思われた。
 実は米国における私立探偵小説にせよ、英国の現代ミステリにせよ実際にそれぞれの国やその登場人物が活動する地域に付随する現代の社会的な問題を描き出すことにかなりの力が割かれている。英国の場合を見てみてもスコットランドエジンバラを舞台としているランキンのリーバス警部シリーズでは移民の問題や貧富の差の問題、スコットランド独立をめぐるあれやこれやの政治的な動きなどが事件の背景として重要な役割を果たしていたりするし、ルース・レンデルの作品でもこの「聖なる森」では森を貫通する道路建設にともなう自然破壊に反対する環境保護運動家の動きやテロリズムの勃興などの昨今の状況を前提として作品は描かれている。
 こういう視点はクリスティーは得意ではなかったことは作品内での左翼系の運動家の描き方などを見てみればあからさまに分かることだが、初期の作品でのフェミニスト(女権論者)や性的マイノリティーなどの描き方などを見る限り、レンデルはこうした政治的な問題への関心が高いことは間違いないだろう。
レンデルのウェクスフォード警部シリーズのもうひとつの特色はウェクスフォードやバーデンといった捜査陣だけでなく、その妻や娘らなど彼らの家族たちも物語の要となる役割を振り当てられていることで、旧態依然の考えを代表するようなバーデンやそこまでいかなくても立場上保守的な立場に立ちがちなウェクスフォードに対比されるような考えを持つように描かれているのが、バーデンの二度目の妻で教師を務めるジェニーやウェクスフォードの次女のシーラ。この作品でも次女のシーラに冒頭未婚のまま母親になったことを告げられるが、そのことに特別な反感もなく、すんなりと受け入れているところにも初期の作品との世相の違いを感じる。
 さらにいえばこの作品では「セイクリッド・グローブ(聖なる森)」と名乗る環境保護団体が不特定多数の人間を誘拐し、人質を引きわたす条件として、建設計画の白紙撤回を求めてくるのだが、その人質のひとりとしてウェクスフォードの妻のドーラが捕らわれてしまい、捜査陣の要として陣頭指揮を担う役割を果たすはずのウェクスフォード自身が苦境に陥るというところから始まるのだ。
 こういう展開では捜査上の方針と妻の安否への心労とに引き裂かれて、思い悩む警部の個人的心情がもう少し前面に出てきてもおかしくないのだけれど、ルース・レンデルはそういう意味での苦悩には興味があまりないのか、ドーラは5人の人質のうちの最初のひとりとして、あっさりと釈放されてしまう。さらに言えば身内が事件に巻き込まれたが、ひとりだけ釈放され、残りの人間は釈放されず事件の捜査は遅々として進まないという状況であれば、捜査の総指揮という立場を利用して、ウェクスフォードが犯人グループと隠れて個人的な交渉を行い釈放させたのではないかとの疑いを他の人質の家族やマスコミが喧伝して、そのためにウェクスフォードが窮地に陥るという展開もおおいにありうるのだけれど、レンデルはそういうことも描かないで、捜査陣による捜査を淡々と描き出していく。
 誘拐事件という派手な展開にもなりうる題材を地道なそして着実な捜査の過程を描いていくことで突き詰めていく。最後に解決される真相にはレンデルらしいひねりがあるともいえようが、これを含めてもそこに至るまでのタッチもレンデルらしい作品といえそうだ。 

ももクロ 春の一大事2019 in 黒部市 ~笑顔のチカラ つなげるオモイ~2日目@ニコニコ生放送

ももクロ 春の一大事2019 in 黒部市 ~笑顔のチカラ つなげるオモイ~2日目@ニコニコ生放送

【日程】2019年4月20日(土)・4月21日(日)
【会場】富山県黒部市宮野運動公園 【MAP】
【DAY1】2019年4月20日(土)
【DAY2】2019年4月21日(日)
両日共通:open 13:15 / start 15:00 / (17:30終演予定)
※当日の公演内容によって終演時間が前後する場合がございます。
※雨天決行・荒天中止

セットリスト
00. overture ~ももいろクローバーZ参上!!~
01. 行く春来る春
02. 行くぜっ!怪盗少女 -ZZ ver.-
03. 仮想ディストピア×
04. DNA狂詩曲
05. 吼えろ
06. カントリーローズ -時の旅人-
07. おどるポンポコリン×
08. 笑ー笑 ~シャオイーシャオ!~
09. サラバ、愛しき悲しみたちよ ×
10. 仏桑花
11. ツヨクツヨク
12.
13. Chai Maxx×
14. ももいろパンチ
15. 天国のでたらめ
16. 青春賦
<アンコール>
17. イマジネーション×
18. ももクロのニッポン万歳!
19. 走れ! -ZZver.-
20. Guns N' Diamond
21. キミノアト

ももいろクローバーZ「MomocloMania2019 -ROAD TO 2020- 史上最大のプレ開会式」
2019年8月3日(土)埼玉県 メットライフドーム
2019年8月4日(日)埼玉県 メットライフドーム

ももクロ春の一大事 2020
2020年4月18日(土)※会場未定
2020年4月19日(日)※会場未定

×は放送されず。

live2.nicovideo.jp

 ももいろクローバーZももクロ)は4月20、21日に富山・黒部市宮野運動公園でライブイベント「ももクロ 春の一大事 2019 in 黒部市 ~笑顔のチカラ つなげるオモイ~」を開催した。ももクロの春ライブは「春の一大事」と題して、各地方の地方自治体と提携し、共同開催する今の形を取るようになってこれが3回目。これまで埼玉県富士見市滋賀県東近江市と続き、今回は富山県黒部市での開催されたが、特にこの2回はももクロ陣営が全国の自治体からライブの候補地を公募。アイドルと地域の新たな関係性を模索するような形を一種の社会実験的な実例として試みているといってもいいかもしれない。
 ももクロの大規模ライブのうち春の一大事は最近はニコニコ生放送で2日目が生中継されてはいるものの円盤化はされていない。この日はももクロ設立12周年の記念日でもあり、ライブ当日生中継もされた貴重なライブ映像をメンバー4人のリモート生中継と合わせて放送されることになった。
 ももクロは5月の連休中にYoutubeでライブ映像を連日配信。モノノフ(ももクロのファン)だけにとどまらずファン以外の人にもそのライブの魅力を広く知らしめることになったが、今回はどちらかというとももクロのメンバーがファンと一緒にリアルタイムでライブを見ながらコメントするという設立記念の日にちなんだファンイベントの色彩が強かっただろうか。ただ、冒頭の市長挨拶から始まり、この「春の一大事」というライブイベントがどのように行われてきたかが、分かりやすく伝わったとう意味では貴重な機会だったのではないかと思う。

ルース・レンデル「もはや死は存在しない」(角川文庫)

ルース・レンデル「もはや死は存在しない」@角川文庫

「もはや死は存在しない」
“聖ルカの小さな夏”と呼ばれる小春日和の一日が終ろうとする頃、少年行方不明の報がキングズマーカム署に届いた。最近ロンドンから移ってきた母子家庭の10歳になる少年である。捜索隊が組織されたが、見つからないまま、その日は暮れた。ウェクスフォードもバーデン刑事も、8ヵ月前から行方不明のままの、もう一人の少女のことを思い出した。はたして二つの事件は関連があるのか?やがて少年のものらしい切りとった金髪の束が送られてきたが…。

 「もはや死は存在しない」は連続して少女少年が行方不明になるところから物語が始まる。
「死のチェスボード」も若い女性の失踪からはじまり、失踪するが死体は見つからないまま捜査が進行していくという筋立てはいくつかの作品をまとめて読んだところ、ルース・レンデルが得意とする筋立てのようだ。この作品も失踪事件から始まるが、事件の様相が見えてこないというレンデル流ホワットダニットである。
 とはいえ、「もはや死は存在しない」は少年の母親であるジェンマ・ロレンスと少女の両親であるアイヴァー・スワン、ロザリンド・スワンの2組の被害者の親族の物語が興味の中心となっていく。
 ミステリに恋愛を絡めることのぜひはクリスティーの場合にも取り沙汰されたが、レンデルの特色はプロットのメインの部分にそれがかかわってくることだ。「もはや死は存在しない」では事件の真相の解明というミステリ本来の謎解きの興味に拮抗するような重みで、ウェクスフォードの部下のシリーズレギュラーであるバーデン警部と失踪少年の母親、ジェンマとの交流が捜査陣としての規範を逸脱するほどに深まっていく様相が描かれ、それが物語の中核に置かれている。
 バーデン警部はそれまでその性格を仕事第一の堅物とのみ描かれてきたきらいがあったが、愛妻ジーンを若くして病気で失ってからはその喪失に耐えかねるような描写もあり、家庭的には妻の妹グレースが同居して子供たちの世話や家事一般を手掛けてきたが、ジーンの後を埋めてバーデンと一緒になりたいという思いが強く感じられるようになって、それを忌諱するバーデンは一層家に寄り付かなくなっている。
 そこに息子が失踪したジェンマと捜査上で出会い、その関係にバーデンは後ろめたいものを感じながらも次第にその魅力にのめりこんでいく。
 こういうところの心理描写はレンデルはうまくてそれだけでも読ませるものがある。もう一組のスワン夫妻の人物造形もなかなか興味深く、やはり読ませるところがあり、こういうところがレンドルの魅力であるのは間違いない。
 だが、この作品はミステリ的な仕掛けそのものは他のレンデル作品と比較すると弱いのではないかとも感じた。捜査も淡々と進みすぎて、その延長線上でついに犯人に到達するのだが、ウェクスフォード警部の推理にはモースのそれのようなひねりはあまりなく、読んだ印象では
バーデン警部とジェンマの関係の方が主筋で、事件が背景としての脇筋のように感じてしまうのだ。 
simokitazawa.hatenablog.com

(1977)

2年前に失踪して以来、行方の知れなかった女子高生バレリーから、両親に手紙が届いた。元気だから心配しないで、とだけ書かれた素っ気ないものだった。生きているのなら、なぜ今まで連絡してこなかったのか。失踪の原因はなんだったのか。そして、今はどこでどうしているのか。だが、捜査を引き継いだモース主任警部は、ある直感を抱いていた。「バレリーは死んでいる」…幾重にも張りめぐらされた論理の罠をかいくぐり、試行錯誤のすえにモースが到達した結論とは?アクロバティックな推理が未曾有の興奮を巻き起こす現代本格の最高峰。

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連載)平成の舞台芸術回想録(6) 木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談」

連載)平成の舞台芸術回想録(6) 木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談

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木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談
 ポストゼロ年代演劇と私が呼んでいる2010年以降に台頭してきた世代を代表する存在が木ノ下歌舞伎である。京都造形芸術大学の学生であった木ノ下裕一、杉原邦生らが2006年5月に旗揚げ。設立時から「歌舞伎を現代演劇として上演する」ことを目的として掲げてきた。「歌舞伎の現代演劇化」といえば過去にも加納幸和らによる花組芝居などの例はある。しかし学生出身の劇団が日本の古典劇である歌舞伎の上演を目的として発足するということ自体珍しく稀有な事例ではないかと思う。実は当時、京都造形大は歌舞伎や能・狂言という古典の実演が必修となっており、若手の演劇人がこういう古典のテキストに興味を持ち、上演してみようと試みたのはそういう背景があってのことかもしれない*1
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木ノ下歌舞伎「東海道四谷怪談」チラシ
 その代表作として東海道四谷怪談 (2013年、池袋あうるすぽっと)を取り上げることにした。鶴屋南北(大南北)による歌舞伎を代表する人気演目である。
 そのあらすじは以下の通りだ。

夫の不行状を理由に実家に連れ戻されていた岩を取り戻すために民谷伊右衛門は左門に岩との復縁を迫る。しかし過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害してしまう。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助も袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。そこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言い、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。
(ここまでが第一幕である)
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 民谷家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになる。高師直の家臣である伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿にと望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。
 袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。
 蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った。与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。

 歌舞伎だけにとどまらず、映画や小説などでもさまざまなバージョンが作品となっている。原作の歌舞伎を見たことがない人でも、「四谷怪談」の名前を聞けば「お岩さんの幽霊が化けて出る怪談」ということぐらいは「日本人なら渋谷の街角を歩いている普通の女子高生でさえ知っている」(木ノ下裕一)ほど知名度は高い。
 「東海道四谷怪談」は木ノ下歌舞伎にとっても因縁の演目だ。なぜなら「四谷怪談」は2006年の旗揚げ時にも、杉原邦生演出版、木ノ下裕一演出版と2度にわたって上演。その時には劇団としてまだ試行錯誤の時期だったこともあり、木ノ下・杉原の2人にとっても完全に満足した出来栄えとはいえず、いつか再演することで落とし前をつけたい作品でもあった。この時の舞台の感想も短く書き留めていたのでその一部を紹介する。
 

 杉原の演出は舞台後方に大きな幕が張ってあって、その場面、その場面で登場する人物が黒い台のような舞台装置に乗って、それが黒子に押されて、幕の奥から舞台前面に出てきては芝居をするというもので、この趣向はなかなか面白かった。「東海道四谷怪談」の「雑司ケ谷四ツ谷町、 伊右衛門浪宅の場」「同伊藤喜兵衛内の場」というと本来の歌舞伎でいうと、2幕にあたる部分で、怪談としてのスペクタクルよりも、それぞれの登場人物の人間ドラマに焦点を置いた場面が中心。もちろん、大南北の芝居だから、この場面でも有名な「髪梳き」などの趣向はあるが、怪談としての最大の見せ場である「蛇山庵室の場」のような外連(けれん)はなく、それゆえどちらかというとそれぞれの俳優にも現代劇に近いような演技スタイルで演技させるというのが今回の演出プランだったようだ。ただ、この舞台では脚本自体は若干のテキストレジストを演出の杉原が行ってはいたようだが、基本的には鶴屋南北のせりふをそのまま使うということだった。これはやはりかなり無理があったのじゃないかと思う。(中略)歌舞伎のような「語り」の技量のない俳優がこういうせりふを成立させるためにはやはりなんらかの様式化が必要で、それにはやはり時間がかかる。今回のように大学生か、卒業してすぐというようなキャリアの浅い俳優だけでそれを成立させるのは難しいと思われた。そのため、やはり全体としては完成度という面ではまだまだ荒削りで「学生演劇としてはまあまあのできばえ」というレベルでしかないというのが正直な感想。どういうスタイルを志向するかも含め、新しい歌舞伎を本格的に志向するのであれば公演を続けながらまだまだ試行錯誤が必要だと思う。ただ、これはどうやら京都造形芸術大学の場合、歌舞伎や能・狂言という古典の実演が必修となっているせいか、若手の演劇人がこういう古典のテキストに興味を持ち、上演してみようと試みること自体が珍しいことでもあり、ここから今後どんなものが生まれてくるのかおおいに興味はそそられたのである。

 「通し上演」版にはいくつかの特徴があったがひとつは上演において、現代口語に翻案したセリフと鶴屋南北の原典通りの言い回しを状況や配役に合わせて自由に組み合わせたことである。旗揚げ時の初演では上記の通り、鶴屋南北のセリフをそのまま使用した。しかし、これをキャリアの少ない学生らだけの手でそのまま上演するには無理があった。ただ、この時点で私は大きな勘違いもしていた。
 これまでも歌舞伎のような古典テクストの現代演劇としての上演はさまざま劇団によって試みられてきた。先行世代でもネオ歌舞伎を標榜して独自のスタイルを確立した花組芝居をはじめ、山の手事情社ク・ナウカなどがこれに取り組んできた。古典演劇に取り組むにはもちろんさまざまなアプローチが考えられるが、その代表的なひとつが「語りの演劇」の範疇に入るものだ。上記の3劇団のようにその劇団特有の身体メソッド、あるいは「語り」のメソッドを持ち、古典的なテクストをそれに落とし込んでいくことで、もともとの「歌舞伎」とは異なる様式でありながら、新たな様式を再構築するという方法論だったからだ。だから、旗揚げ時の木ノ下歌舞伎はその技術が俳優にないから、そのようになったと思っていたのだ。
 ところが実は木ノ下歌舞伎はこうした従来の劇団がとってきたような戦略とは根本的に異なる戦略でもって古典劇である歌舞伎にアプローチしていることにその後、気が付いた。そして、そのアプローチの仕方にきわめてポストゼロ年代のほかの若手劇団との共通点があるのだ。
 木ノ下歌舞伎には集団固有の様式・スタイルがない。そのスタイルは作品、あるいは公演ごとに変化していく。どういうことかというと、通常はどの劇団にも固有な演技、演出のスタイルというのがあって、そこに鋳型のように個々の作品のテキストを落とし込んで作品化していくわけだが、木ノ下歌舞伎ではまったく逆である。まず原点となる歌舞伎の演目というのが先にある。そこから木ノ下が中心になって、その演目を徹底的に分析し現代劇としてそれを上演するのに合致する様式、演技、演出を導き出していく。演出のできる杉原邦生がメンバーにいたのにもかかわらず「演出家を固定化しない」としていたのはこのためで、演目に合わせてその演目にあった演出家も外部から招へいするというのが、木ノ下歌舞伎の最大の特徴なのだ。その根底には「歌舞伎が元をただせばそういう風に作られていたから」という認識があり、それも含めての「歌舞伎の現代劇化」なのだ。

 この時の上演では現代口語と南北そのままのセリフが劇中で混在した。これももともとの南北のセリフ自体が当時の現代口語体、歌舞伎特有の古語、そのどちらでもない言葉が場面により使い分けられているのによったものだ。固有の身体メソッドはないと前に書いたが、実は木ノ下歌舞伎にもひとつ方法論らしきものはある。それは合計で2カ月の稽古期間があるなら最初の1カ月は実際の歌舞伎上演の映像などを基にそれを完全コピーする。そうしたうえで、実際の上演に向けては歌舞伎そのものに近い口調を別のものに移し替えていく。「四谷怪談」で言えば現代の若者に近い口調のロロの亀島一徳の民谷伊右衛門がそうであり、原文に近い言い回しながら、声色の変化を極限まで使い、遊び心をもって演じている乗田夏子の「地獄宿の女お大、伊藤家後家お弓」の演技がそうである。
 私は歌舞伎ないし南北の専門家ではないので正確なところは分からないが、南北の「四谷怪談」のセリフがこんな込み入った古語と口語を混淆した独特な配分となっているのはこの歌舞伎が「忠臣蔵」の世界を本歌取りして、その外伝としての性格を持つこととも関係が深いかもしれない。というのは歌舞伎では通常、武士の世界は時代物(古語)、町人の世界は世話物(口語)で表されるわけだが、この物語に大勢登場するのが純粋に町人でもないがもはや武士ではない浪人たちだからで、木ノ下らがこの作品に読み取った本質はそこにあり、それが今回の演出にも反映されている。
 この原作絶対主義とでもいうべき考え方はこれまでの別の作品でも貫かれており、昨年の「義経千本桜」と今年の「東海道四谷怪談」がどちらも通し上演といってもその意味合いが大きく違うことがこの集団の特徴を表している。一番大きな違いは「義経千本桜」が多田淳之介、杉原邦生、白神ももこと各幕ごとに3人の演出家を起用したのに対し、今回は杉原がひとりで演出を担当したことだ」。これは「義経千本桜」がもともと二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳という3人の作者による合作であること。さらに上演された3幕のうち「渡海屋・大物浦の段」は時代物、「鮨屋の段」は世話物、「道行初音旅」は舞踊劇とそれぞれ性格も内容も違う。対して、「東海道四谷怪談」が鶴屋南北単独の創作で幕による世界観の違いはそれほど大きくはないといういうことが反映されている。
 さらに現行の歌舞伎上演では上演されないことが多い場も含め、全幕を上演した。
 現行の歌舞伎上演ではこの演目は戸板返し、仏壇返し、提灯抜け、忍び車のような仕掛けが駆使されたスペクタクルな作品として上演されることが多い。もちろん、それらの仕掛けは南北の初演の時にすでに考案されていたものが多く、そういう人を驚かす趣向ではあるのだが、それが重視されるばかりにそれが頻繁に出てくる「隠亡堀の場」「蛇山庵室の場」などだけが抜粋されることが多く、そのことで外連に溢れたスペクタクルな作品との印象が強い。ところが今回、全幕上演でしかもどちらかというとそうしたスペクタクルを排したような演出でこの作品を見ると「忠臣蔵」として知られる事件に巻き込まれていくことで、さまざま状況の若者たちが悲劇的な運命に翻弄されていくさまを描いた群像劇として描かれていたことに初めて気が付かされた。以前からの歌舞伎ファンには外連的な演出がないことで、物足りなさを感じた人もいたようだが、実はこれが全幕上演の最大の眼目だったのではないかと思う。逆にこれまで以上に重視したのが、「夢の場」でここで「岩と伊右衛門の愛」が歌い上げられる。このあたりの衒いのなさもなんともポストゼロ年代演劇的と感じさせるところで、逆に言えばこのあたりがすんなり受け入れられるかどうかが木ノ下歌舞伎評価の成否のキーポイントになるかもしれない。
 作品ごとに舞台のスタイルや演出が原作戯曲の要請に合わせて大きく変容するのが、木ノ下歌舞伎の特徴だが、河竹黙阿弥の「三人吉三」もそうした作品のひとつ。6月に通し上演が予定されており、チケットも確保して楽しみにしていたのだが、コロナ禍により公演自体が中止になってしまった。返す返すも残念だが、この集団がポストゼロ年代を代表する劇団であることは間違いなく、今後の作品にもおおいに期待していきたいのである。
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*1:市川猿之助(先代)が学部長を務めていたこともあり、特に猿之助一門とは深い交友関係があり、退団後に杉原邦生は猿之助(現)とスーパー歌舞伎Ⅱ『新版 オグリ』の共同演出を務めた。