下北沢通信

中西理の下北沢通信

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異才の肖像 ポかリン記憶舎・明神慈論~「存在の演劇」についての一考察~

2006年10月29日

雑誌「悲劇喜劇」2001年10月号
異才の肖像 ポかリン記憶舎・明神慈論~「存在の演劇」についての一考察~
中西理著より抜粋

90年代半ば以降の日本現代演劇を振り返ると群像会話劇の形式でその背後に隠れた人間関係や構造を提示する「関係性の演劇」が大きな流れを作ってきた。平田オリザ(青年団SEINENDAN)・岩松了宮沢章夫らがその代表である。2000年以降、「関係性の演劇」を凌ぐ大きな流れになっていくのが「存在の演劇」である。「舞台上の俳優ならびにその関係が醸し出す空気をただ見せていく」というもので、明神慈もそのひとりである。

微妙に現実からずれた世界。まったくの異世界ではなく、微妙な距離で現実との接点を持っている世界を描き出し、そこから醸し出される「そこはかとない空気のようなもの」を観客に共有させる。彼女はそれに「地上3cmに浮かぶ楽園」と名付けた。この芝居では台詞と台詞のあいだにに非常に長い間(ま)があって、台詞以上にその間や台詞がないところでの俳優の演技が重要な意味を持つ。時には間と間のあいだにポツリポツリと台詞が置かれ、その中には極端に長い間もあり、それがスタイルの特徴をなしている。

多くの場合、語られるのは「異世界」との邂逅であり、それは近代会話劇というより、むしろ能楽やバレエといった古典劇との近親性を感じさせる。演出的にも世阿弥の「複式夢幻能」に近い劇構造を持つのだ。「回遊魚」において非日常的な身体を具現化する実験が試みられたことにより、明神は群像会話劇のスタイルから様式化された身体表現へと大きく舵をきった。「舞台上の俳優ならびにその関係が醸し出す空気をただ見せていく」(=存在の演劇)という新たなフィールドを想定し、そこに補助線として明神慈を置き、太田省吾(転形劇場TENKEI)の沈黙劇へのベクトルを引いた時にそこに新たな演劇の地平が立ち現れてきた。ここに明神の作家としての重要性がある。どんな地平を開いてゆくのか。新世紀演劇において見届けたい試みのひとつといえるだろう。