下北沢通信

中西理の下北沢通信

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珍しいキノコ舞踊団 「牛乳が、飲みたい。」 文責中西理

 「今度は『夢』の中に安住するだけでないものを見たい」――。前回のキノコの公演「私たちの家」のレビューをこう結んだ。それは作品自体はダンスとして面白かったものの、インティメートな少女たちだけの空間(私たちの家)に徹底的にこだわった舞台に外部に対し、開かれていない自閉的な匂いをかいだからである。それゆえ、前回、少女性という自分らの砦に立てこもった彼女らが、今度の新作ではどのような姿を見せるのか。そこに固執し続けるのか、それとも外界に向けて泳ぎだすのかというのがこの舞台を見るにあたって注目したところであった。

 ところが、実際の舞台を見て当惑をいまだに隠せないでいる。「牛乳が、飲みたい。」は大きな牛乳瓶のかぶりものをした山下三味子が登場するなど、遊びっぽい冒頭でキノコらしい遊び心を演出しようとはしているものの、舞台は作りこんだ「私たちの家」とは対照的にがらんとした素舞台に近いステージの左右に数対の椅子だけが配置された抽象的な空間である。衣装も靴下の色や形を一人づつ変えてバラエティーをだしてはいるものの、少女性へのこだわりを捨てて、普遍的なムーブメントに還元されるような方向に歩みだしているように見えた。それはそれで、前回公演で感じたある種の閉じた空間からの脱出のようであり、歓迎すべきことではあったのだが、大きな問題も抱えていたのだ。つまらないのである。ダンスの動きそのものが……。

 もちろん、動きそのものが完全に抽象化されたものになっているわけではなく、アクセントとして入ってくる仕草性の強い動きなどの部分でキノコらしさというものは残してはいるが、全体としてはオリジナリティーに欠ける印象なのだ。ラテンの音楽に合わせてダンサーらが前を向いてステップを踏むところなどは、アビニョンで見たダニエル・ラリューの舞台に似ている。もちろん、ムーブメントをそのまま写したわけではないので模倣というのは語弊があるのだが、ラテンの音楽がクラシック系の歌曲と重なり合いながら曲調を変えていく構成などにも影響が強くみられる気がした。しかし、ラリューの舞台ではこうした曲調の変化がダンサーのムーブメントの変化とシンクロして、構成にメリハリが感じられたのだが、ここでは女性ダンサーだけだというのが不利に働いているのかもしれないが、アクセントがもうひとつつかずに平板になってしまっている。

 また、これは意図的なものであろうが、これまでキノコのダンスでは個々のダンサーの動きそのものよりもユニゾンや対位法といった群れの動きを縦横無尽に組みあわせていくことで生まれるダイナミズムがある種のリズムを生んでいた。ところが、今回の舞台では七人のダンサーがバラバラの動きをすることが多く、そうするとどうしても見る側として個別のダンサーひとりひとりの動きを目で追うことになる。ところが、そうなるとキノコの振付ではアクセントとしての仕草性はあっても、基本的にはムーブメントそのものはそれほど複雑というわけではなくミニマルで、モダンダンスのように自己表出的な動きが前面にでてくることも超絶技巧的なテクニックを見せるわけでもないので、ダンサーとしてのみせどころが少なく、ともすると退屈してしまうのである。

 これだけなら、ただ退屈した。今回は凡作だったと切り捨ててしまうことも可能なのだが、困惑したと書いたのは理由がある。前半の一連のやや抽象的なダンスが終わり、インターバルをはさんで後半に入るとあれほど退屈だった舞台ががぜん生気を取り戻したからである。バケツを持って、舞台に水をやるところからはじまり、舞台後方には天井から吊られることで、左右一対の大きな弦に花をつけた植物をあしらった美術が表れる。ここで、舞台の雰囲気もメルヘンチックに変わり、一転して、曲もダンスもコミカルな要素を持ったものに変化して、ダンサーらも楽しく踊ってるのが客席にも共有されるような楽しい雰囲気が醸し出されてくる。こういう風に「ダンスについてのダンス」という前衛的なコンセプトなのにもかかわらず、親しみやすいムードが生まれるのが珍しいキノコ舞踊団の本来の魅力なのである。

 しかし、こういうことが起こったのが普遍性を感じさせる前半ではなく、どちらかといえばこれまでのようにメルヘン=少女性と結びついた後半だということは果たして偶然なのか、それともある程度の必然的な関係性があるのか。この舞台を見ただけではそのことについての結論ははっきりとは分からなかった。

 「ダンスについてのダンス」というコンセプトが本来持っているはずのより広い射程を少女性などのキノコのほかのコンセプトと切り離して、より広いフィールドに飛びだすべきなのか。それとも少女的なるものは本質的にキノコのダンスの生命線なのか。そのことについて再び考えさせられた舞台であった。

(99年1月30日 8時〜 スパイラルホール)