下北沢通信

中西理の下北沢通信

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弘前劇場「召命」

弘前劇場「召命」(2時〜)、ク・ナウカオイディプス・レックス」(6時〜)を観劇。

 弘前劇場「召命」について書くことにする。この舞台は弘前劇場の俳優である畑澤聖悟の作・演出による。この芝居でも登場する俳優らはそれぞれ普段使っている日常語(主として弘前地方の方言)を劇中で話し、その意味で現代口語津軽弁演劇という長谷川孝治の提唱する弘前劇場のスタイルは一応、守られてはいる。けれども、これは長谷川が作演出する時の弘前劇場とは全く毛色の違う芝居である。長谷川の作品が日常的な関係の微細な描写から、それぞれの登場人物の間に生じている様々な隠れた関係性を浮かび上がらせていくの対して、畑澤聖悟は全く違う演劇的アプローチで作品を作り上げているように思われるからである。

 「召命」で描かれるのは近未来の中学校である。その時代の中学校は授業崩壊などと言われる昨今の情況をはるかに超えた荒廃ぶりとなっている。そうした情況下で中学校の校長の死亡率は自衛隊員、原発職員に匹敵するほど高い。そこで校長のなり手がいないため、くじで選ばれた「当該学校の教職員による民主的な話しあいに決定する」ことになっている。だれも自から希望しては校長になりたがらないからだ。その話しあいの場所となる校長室にベテランの学年主任から、新採用の教師、校務員、一般社会人から期間限定で採用されたレンタル教員まで8人が集まってくる。このうちだれが校長に選ばれるのかがこの物語の焦点になるわけだ。

 畑澤は校長選びの話しあいを喜劇的なタッチで描いていく。冒頭いきなりギターの弾き語りで校務員が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を吟じるほか、駄洒落を連発する教頭、学校の中ですぐに道に迷ってしまう赴任したばかりのレンタル教師らリアルというよりはコミカルにデフォルメされた人物が多数登場し、スラップスティック調で展開していく。

観客は笑っているうちに、いつのまにか重いテーマに引き入れられていく。これが畑澤の狙いである。というのはここでの校長選びは実は8人の中から1人生贄としての犠牲者を決めるということ。ここには「校長選び」=「生贄の王(カミ)選び」という神話的構造が隠されているからである。「生贄の王」とはある共同体を安定化させるために、なにかことがあった時にその首を「供犠」としてさしだす存在である。この物語での校長は「学校でなにかことがあった時にその首をさしだす人物」として生贄の山羊そのものなのである。

 この物語の中には新任の国語教師が使っている教材に出てくるという仕掛けで瓜子姫やオウゲツヒメのことが出てくる。これらの神話はその死によって、その死体から農作物が発生するという形を取る。これは「姫」の死により発生したとされる特定の食物(瓜子姫の場合はソバ)の起源を説明する食物起源神話であると。さらに、底で引用される書物ではその「死」が豊穰を約束するという意味で、隠ぺいされた「供犠」についての物語でもあるとの説が紹介される。

 この物語でのテーマはこの「生贄の王(カミ)」がいかなる構造において誕生するのかということだ。長谷川の場合にはこうしたテーマは作品には直接登場せずに暗示されることが多いのだが、畑澤は「校長選び」という表のテーマが直接的にこうした構造を提示するという意味でこうした構造を明示するところにその作劇の特色がある。

 「生贄となる王」は瓜から生まれた瓜子姫が川を上流から流れてくるように、共同体の外部ないし周縁のマージナルな部分からやってくるものが選ばれる。民俗学者折口信夫はこれを称して「マレビト」と呼んだ。この芝居は芝居の形式を踏んだ畑澤聖悟の「マレビト」論なのである。もちろん、この芝居での「マレビト」は中学校という運命共同体において外からやってきたレンタル教師仰木であり、そのためにラストシーンにおいて「マレビト」たる仰木は「生贄の王」として校長を引き受けるのである。

 さて、ここまではこの芝居において畑澤聖悟が仕組んだ構造の説明なのだが、これだけでは芝居の骨格にすぎない。この芝居が面白いのは共同体において存在する「生贄の王」という厳しい現実をシリアスな会話劇の形で提出するのでなく、あくまで喜劇として提出していることである。劇作として考えると「校長選び」が最後の「生贄の王としてのマレビト」につながっていくプロセスにおいて、この芝居ははっきり言って強引なむりやりな展開が目立つ。これは平田オリザがどこかで言っていたような「演劇は嘘であるのだから、どうせ嘘をつくなら、うまい嘘をつく」という考え方とは正反対といってもいい。人の出入りを無理やりに作るために議論が煮詰まるとすぐに休憩をいれる司会役を用意してみたり、本来緻密さが要求されるシテュエーションコメディーとしてこれを見たら到底評価に値するものではないともいえる。

 こうした無理からの展開をなんとか流れとしての芝居に引きとどめているのはちょっと普通じゃない人物を演じさせても、それゆえにこそ光る弘前劇場の俳優陣の力であろう。

 駄洒落を連発し一見、軽薄な人物に見えながら、実は謀略家であり、熱情家でもある教頭を演じる福士賢治。やはり、どこかずれた人という軽めのキャラクターを楽しそうに演じながらも「召命」というこの芝居のテーマであるラストシーンの微妙な表情をみごとに演じきってみせた後藤伸也。長谷川演出では最近は物語のキーポイントとなるシリアスな役柄を演じることの多いこの2人の看板男優をあえて一見、軽めの性格のキャラとして起用し、自由に遊ばせながら、後半2人が対立するシーンではちゃんと俳優としての凄みも引きだすなど、畑澤聖悟という演出家はなかなかの戦略家だと感じさせたのである。もっとも、これは持ち駒があってのことで、この芝居俳優がだれでも成立するものではないとは思ったのだが。

 スラップスティックないしはファルスの衣をまとった重厚な思想劇。これが「召命」において畑澤が見せてくれたもうひとつの弘前劇場である。