下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

2000年4月下北沢通信日記風雑記帳

 5月1日観劇オフ会の方はいるかHotelの「花火みたい」(5月3日 6時〜)についてはさらに2人がメールで参加表明してくれて、総勢3人(+おくむらさん微妙)になりました。せっかくですので、5月2日の深夜まで待ちますので引き続き参加表明をお願いします。それ以前の回を見たという人で宴会のみの参加も歓迎です。その場合、参加表明をしたうえで、終演後、駅前劇場ロビーで集合。おそらくしばらくはごったがえすと思うので残っていて下さい。弘前劇場「三日月堂書店」(5月4日 7時〜)についても引き続き募集中です。こちらの方も3人の予定でその後、参加者増えていないようで寂しいのでよろしくお願いします。

 

 4月30日 ゴキブリコンビナート「ぷちさらだ記念日(字は?)」観劇後、夜はにんじんボーン「い・い・ひ・と」を観劇。ゴキブリコンビナートは人に薦める気には相変わらずならないが、面白かったしこういうものを好む人たちが一定数でてくるのは分かる気はする。いるかHotel弘前劇場ともに観劇オフ会希望者増えない。観劇オフ会ということにはならないかも知れないが、希望者にはチケット手配しますので、引き続き締めきり(5月2日深夜まで)参加希望者募集してます。初めての人、大歓迎。

 4月29日 LED「彼女が死んだ日」を観劇。観劇後、オフ会にも参加。舞台についての感想は後ほど詳しく書くことにしたいが、推理劇としてはなかなかよく出来ていたのではないだろうか。観劇オフ会は2次回も参加しようと思っていたのだが、うろうろしているうちに新宿の雑踏の中で集団を見失ってしまった。我ながら情けない(笑い)。 

 4月28日 とりあえず参加希望者がでてきたのですが、いまのところいるかHotel観劇オフ会(5月3日6時〜)で1人(+ひょっとしたら1人)。これじゃちょっと成立は難しいので、参加希望者ひき続き伝言板で募集します。弘前劇場観劇オフ会(5月4日7時〜)の方も募集中。

 4月27日 連休の予定がほぼ決まった。とはいっても以前に書いたように当初は利賀新緑フェスに行ってク・ナウカの「オイディプス王」を見ようと考えていたのが上演日の5月6日が出社日になって無理になったので、下北沢に居残りいるかHotel弘前劇場にかよいっきりになりそうだが。29日は昼、演劇集団円「からさわぎ」を見た後、LED「彼女が死んだ日」を見る予定。30日はゴキブリコンビナートの後、にんじんボーン「い・い・ひ・と」。5月1日は出社。2日は休みでいるかHotel「花火みたい」の初日を見る予定。3日はチケットが取れればバレエを見た後、夜、いるかHotelオフ会のはずだったのだが、いまだ参加希望者ゼロなんで、今週いっぱいは待ってみるけどそれでもいなければ中止になるかも。4日は弘前劇場「三日月堂書店」オフ会の予定だけどこちらも反応ないようなので、中止になるかも。すでに個人的に名乗りでていただいてる水鳥川さん。中止になっても劇場に来ていただければそれなりの対応はしますので。この後は利賀行きが中止になったんで、今のところ具体的な予定は6日に会社に行くことぐらいしかないのだけど、たぶん、下北沢周辺をふらふらしてると思います。、一応、今週いっぱいは待ってみるつもりだけど、今回は動き出しが遅かったのでやむおえないけどなんかオフ会は厳しいかなという感じですね。

 4月26日 今日は観劇オフ会申し込みは出てこず。連休だしこの時期はやはり東京にいて芝居を見ようという人は少ないのだろうと思い少しがっくり。いるかHotelの観劇オフ会の方はどうやら谷省吾さんが役者さんと一緒に顔を見せてくれそうです。もっとも、それも参加者が集まり観劇オフ会が開ければということなので、引き続き伝言板でお待ちしています。 

 4月25日 伝言板では先行して募集を開始しましたが、今月のお薦め芝居でいずれも★4つで推薦したいるかHotel「花火みたい」(5月3日6時〜、下北沢駅前劇場)、弘前劇場「三日月堂書店」(5月4日7時〜、下北沢ザ・スズナリ)の回で観劇オフ会を開催したいと思います。

 見てみたいけどチケット取るの面倒だしという皆さん。チケット幹事確保(私が頼んで当日受け渡し)いたしますので、この機会にぜひともご覧になって下さい。このページの<伝言板あるいは表紙からの私宛のメールで、ただいま募集受け付け中です。内容について詳しく知りたいという人は弘前劇場といるかHotelのホームページを参照のこと。チケット自力で確保ずみの人は観劇後の宴会のみの参加でも大丈夫です。費用はチケット代(前売り料金)と宴会の実費(下北周辺で予定してるので、そんなに高くはならないはず)だけです。

 それぞれについて簡単に紹介しておくといるかHotelは大阪の劇団、遊気舎に所属している俳優、谷省吾が主宰する劇団で東京では昨年2月に上演された「破稿 銀河鉄道の夜」が評判になりました。この公演については2月12日の日記を参照のこと。谷省吾の芝居については谷省吾(いるかHotel/遊気舎)インタビューも参考にしてほしいのだが、会話劇の形態において出身地でもある神戸の現代口語にこだわった芝居作りをしているのが特色で、今回上演される「花火みたい」も谷がかかわってきた神戸の演劇ワークショップから生まれた作品の再演である。今回は「破稿〜」にも出演した宇仁菅綾、三谷恭子に加え、遊気舎からうべん、工藤まき、魔瑠と谷が信頼する3人の女優陣も迎え、谷自らもキャストに加わるなどよりパワーアップした舞台が展開されそう。

 ホームページ覗いて見たところ24日現在でチケットぴあの前売りが37枚しか売れてないらしく、相当のピンチのようなのでオフ会に参加、不参加にかかわらずぜひとも見て欲しい作品なのである。

 一方、弘前劇場「三日月堂書店」は主宰、長谷川孝治によるひさびさの新作。これもいるかHotel同様に俳優が日常話している口語表現にこだわった芝居である。特にこの劇団の中心俳優である福士賢治、畑澤聖悟、後藤伸也らには東京の劇団ではちょっと見ることのできない存在感がある。長谷川の戯曲は登場人物の「関係性」を重視した群像会話劇だが、俳優の自由奔放さは岩松了平田オリザの芝居からイメージされる「関係性の演劇」とは全然違うものであり、演劇ファンはもちろん、群像劇を上演している東京の劇団の俳優・演出家にも一度ぜひ見てもらいたい。

 さて、宴会場所の確保の問題もあるので、観劇オフ会参加したいという人はスケジュールの不確定な人は直前まで待ちますので、できるだけ早く参加表明だけはしてほしい。まだ、いまのところ参加希望者は1人しかいないので、劇団関係者にもゲストとして参加してくれるように交渉するつもりなのだが、参加者が2、3人ではそういうわけにもいかないので。

 故林広志プロデュース「漢字シティ すりる」について。故林広志の作品は彼が上京してくる以前のガバメント・オブ・ドッグスの時代から継続的に見てきたせいで、上京後これまでの故林作品には「今夜はポピュラー」にせよ、コントサンプルにせよ、どうしてもガバメントないしMONOの土田英生、水沼健らガバメントのメンバーの影を見てしまうことが多かった。今回の「漢字シティ すりる」はそうしたことがなかった点で故林広志が新たな方向性に向けて明確に歩みだしたという印象を初めて受けた。

それはこれまでも村岡希美を起用した「薄着知らずの女」などで少しはそうした試みはあったのだが、意識的に非日常の領域に住まうものとして、それを女優に担わせることをしたことにあるのではないかと思う。ガバメントにはもちろん女優はいなかったわけだが、客演としてもその舞台に一切女優を上げることをしなかったのは故林の中に舞台における女優の存在と純粋の笑いへの志向性が抵触するとの考えがあったのではないかと思う。もちろん、女優にも優れたコメディエンヌはいるわけだが、多くの場合、そうした女優は観客との親和性を武器にしていることが多いので、ある意味で観客を突き放すような故林流の笑いとは折りあいが悪いということはあるかもしれない。それゆえ、私は故林の舞台で見事に精彩をはなった村岡希美を見るまでは故林は女優は使えないのじゃないかと考えていたのだが、村岡との共同作業を契機として、故林は新たな女優の使い方の枠組みをマスターし、それが結実したのが今回のこの舞台と思ったのである。

 それが体現されたのが「気分転換の話」「彼岸花の話」「理解者の話」の3篇である。ここでは女/異世界の存在なのである。故林は異世界のものゆえ本質的に理解不可能な女とのちぐはぐな会話にふりまわされる男たちの姿をシニカルに描いていく。和風スケッチとは銘打っているがこのコントの特色は必ずしも笑いということだけを純粋には追求していない。そこから立ち上ってくるのはある種の悪意である。もっともここに登場する女性たちは特に悪意を被害者である男性に向けているわけでもなくて、その直接的な悪意の不在がかえってそこに登場する男性を翻弄していくところの怖さのようなものが浮かび上がってくるという構造になっているのだ。

 特に「彼岸花の話」というのは故林によればアルフレッド・サキの短編からモチーフを取ったものらしいのだが、考え落ちのある怪談の形式を踏んでいる。もちろん、前段の寺の住職の気弱な態度など笑えるところはあるのだが、笑っているうちにいつのまにか怖い世界に巻き込まれていくわけで、笑いはあくまで最後に落とすための伏線のようなものであり、このスケッチの眼目自体はこの底知れぬ不気味さにあるといえる。

 もぅとも、今回のスケッチ集では「ソンさんの話」や「憑依の話」のように故林がこれまで多用してきたネタの焼き直しと思われるものも含まれており、先ほど挙げた3篇にしても怖さとか不気味さのようなものが十全な形で表現されるとこまでいっていないきらいもある。そうであっても、こういう方向性にこれまでの故林のコントには見られなかった新たな可能性の影のようなものを感じたし、これを続けていくことで今後なにが出てくるのかが楽しみな公演だったのである。   

 4月24日 LOOP「シンクロニック・スライダー」について。何人かの人からけっこう面白いという評判を聞いていたのである程度の期待をして見に行ったのだが、正直言ってちょっと困ってしまった。やりたいことの方向性(「カッコイイ」と「笑い」の共存なのだと思う)は理解できるような気がするし、それはコンセプトとしては間違っていないとは思うのだが、身体表現でも、それ以外の部分でも(厳しい言い方になってしまうが)見せるための技量が不足している。ダンスやある種の身体的な表現を主体とする演劇でもそうなのだが、それを観客に提示するには最低クリアされていなければならない身体訓練(それが様式を作る)のレベルというのがあると思う。あるいはそれがない場合、それを見せるのを回避する戦略というのも当然、舞台表現にはある。ある程度の技量があるからといってそれを「私うまいでしょ」とばかり見せるのは表現としては愚の骨頂だと思っている。が、この作品を見た印象では自分たちの技量にあまることをやろうとしてしかもそれが出来てないことに対して無自覚な感じがするところに戦略のなさを感じてしまったのだ。

 ダンス作品なのだから出演するパフォーマーが踊れた方が踊れないよりはいいが、陳腐な振付を踊り回るよりは踊らないという戦略はあるわけだ。巷にダンスが下手などと陰口をたたかれるカンパニーの中にはそこそこ踊れる程度のメンバーを揃えた凡庸なカンパニーの何倍も面白い作品をつくるところがある。だから、ダンスカンパニーについてはダンスが下手だけと貶すのはよそうとは考えてはいるのだが、実は世間一般にいわれている「ダンスがうまい下手」とは別のところでその集団が面白さを勝負している以上、面白い表現を作っている集団はそこ独特のメソッドにおいてかなり高度な表現が要求されているものなのである。これは上海太郎舞踏公司やイデビアン・クルーなどを見ればよく分かる。もちろん、この2つのカンパニーのダンサー(パフォーマー)がダンスが下手といっているわけでなく。ともにそこで舞台に立つには独自の身体言語をマスターする必要があるという意味でだ。

 もちろん、LOOPはまだ若いカンパニーなので技量の部分はさし引いて判断しなければいけないとは思うのだが、気になったのはダンスだけでなく、例えば舞台上でスライドする板状のオブジェ(?)ひとつの作りこみにしてもあまりにもずさんな感じがしたことである。カッコイイ路線を少しでも狙っているのだとすればもう少し見栄えのするものを作らないとこれが動いて出きる幾何学的な空間構成はすっきりしたものにはならない。ダンスはまあ一朝一夕にうまくなるものではないから仕方ない面もあるが、せめてこの美術などをきっちりと作れば印象も変わってくるのにそれをしてないところからして、この辺をあまりに安易に考えているのじゃないかと思ってしまうのだ。ネタ的にみてもいまさらマトリックスネタをそのままやるというのはどう考えても安易。まあ、このネタの部分については前日に見たネザーランドダンカンパニも「タイタニック」のパロディを安易にやってたから50歩100歩といえないことはないのだけれど(笑い)。   

 4月23日 LOOP「シンクロニック・スライダー」(4時半〜)、故林広志プロデュース「漢字シティ すりる」(7時〜)を観劇。

 4月22日 ネザーランドダンスシアター2「インディゴ・ローズ/ソロなど」観劇。ネザーランドダンスシアターの公演は4人の振付家の作品を並べたガラ形式の作品で目先が変わって飽きることなく楽しめた半面、特定の作家については複数の作品でもう少しじっくり見たかったなというもの足りなさも感じた。ネザーランドダンスカンパニーといえばイリ・キリアンのカンパニーというイメージが強かったのだけど、、キリアンは以前アーティスティックアドバイザー、常任振付家として大きな影響力を維持はしているものの作シーズンで芸術監督からは退いているということを今回の公演パンフで初めて知った。現在はジャラールド・ティブスという人が芸術監督の座にあり、常任振付家としては他にハンス・ファン・マーネンがおり、振付家としてポール・ライトフット、ヨハン・イングルが所属するといういわば集団指導体制のような形をとっているということらしく、あくまで推測に過ぎないが日本公演のプログラムがこの4人の作品をショーウィンドウ風に並べることになったのはそういう事情があるせいかもしれない。

 プログラムは以下の通りである。

 1、「インディゴ・ローズ」イリ・キリアン振付 
 2、「ソロ」ハンス・ファン・マーネン振付(合計35分)
  (途中休憩)
 3、「メランティッド」ヨハン・イングル振付(30分)
   (途中休憩)
  4、「スケウ・ウィフ」ポール・ライトフット(11分)

 今回のプログラムの中でもっとも分かりやすく面白かったのがヨハン・イングル振付による「メランティッド」である。これはいわばダンス版のお笑い「愛と青春の旅立ち」とでもいったらいいだろうか。幕が開くといきなり舞台下手に6人のダンサーが並んで記念写真のようにかなりわざとらしい作り笑いをして、ポーズを取っているところからなんか変だなという予感がしていたのだが、振付には一応、かなりの技量がないと踊りこなせないバレエやコンテンポラリーダンスのテクニックを駆使しておりダンサーもそれにこたえて踊っているので、普通のコンテンポラリーダンスのような見せかけを取っているのだけど、実は内容自体は相当べたな笑いを意識したバカダンス路線。突然、上から等身大の人形が落ちてきてこれがダンサーとすり代わったり、わざとらしく花が落ちてきた後、女性ダンサーがそれをいそいそと拾ってみせたり、男性ダンサーがフロアに敷かれた黒いラバーの下に潜水艦のように潜りこんでみせたり相当変なことを喜々としてやっているのだ。全体の構成も巧みで振付家としてのキャリアが浅い割には相当の力を感じさせるのだが、この作品を見ただけではこの人の振付家としての方向性が完全には見えてこない嫌いもある。ヨハン・イングルという人は経歴を見るといろんな振付家の作品に中心ダンサーとして参加しているのだが、この作品については明らかにオハッド・ナハリンの影響が強い。人形が落ちてくるところなどナハリンのぱくりだといっても否定できないところがあるし、群舞の時の変な動きもそういう匂いが気になってしまう。もっとも、完全に真似と言いきってしまうにはこの人の個性というものも感じる。だから、この人の作品はもう少し他の作品を見てみたいという気にさせられたのである。

 イリ・キリアンの作品は下手側に三角形に張られたロープによってさいたま芸術劇場大ホールの大空間を区切り、そこにそれぞれのダンサーを配置していくような振付構成で、こうした無機的な空間の使い方のうまさには感心させられた。このダンサーと周囲の空間、そして、照明が織りなす構図には質のいい抽象画(例えばカンディンスキーのような)を見るときのようなある種の幾何学的な美を感じるのだが、キリアンの振付のムーブメントそのものにはあまり魅力を感じられないのだ。この舞台を見ていてもダンサーの動きがスムーズに流れて、あまりにもひっかかりがない感じがして、そのムーブがある種のポーズとポーズをつなぐ連鎖の過程にしか感じられない。これがどうにももの足りない感じがしてしまうのである。キリアンの作品は典型的な抽象バレエだと見えるのだが、動きそのものはオーソドックスというかフォーサイスやラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスのようなはっきりと分かる過剰性がなく、かといってベジャールピナ・バウシュ、あるいはちょっと方向性は異なるがマッツ・エックのように表出的な表現でもないがゆえにその特色をつかみかねるところがある。ここで例に挙げた振付家の作品は多くの場合、ちょっとした動きを見せられただけで、その振付家の個性が刻印されているのに対して、私にとっては上品すぎてひっかかりがないのだ。

 東京バレエ団のオール・キリアン・プロのチケットも取ってあるのでキリアンについてはそれを見てからもう一度考えてみたいと思うのだが、そういうわけでキリアンという人は私にとっては依然としてちょっとつかもどころがない感じがする振付家なのである。  

 4月21日連休に利賀に行こうと計画していたのだが、ク・ナウカが「オイディプス王」を上演する5月6日の土曜日が仕事で出社ということになり涙を飲んで今年も利賀行きは断念することにした。そういうわけで、連休中、けっこうべったりと東京にいることにならそうなので、いるかHotel「花火みたい」と弘前劇場「三日月堂書店」で観劇オフ会を開催することにしたいのだが、なにぶん、連休中。参加希望者はいるだろうか。参加者の状況によって流動的なので、この段階で日程をフィックスはしないつもりだが、一応、5月3日にいるかHotel 、5月4日に弘前劇場(もちろん、いずれも夜の回)とした場合、参加したいという人はどの程度いるだろうか。希望者はメールないし、伝言板への書き込みで表明してほしい。  

 4月19日 今週末はなんとか休めそうだ。土曜日の夜はチケットの確保してあるネザーランドダンスカンパニー(さいたま芸術劇場)に行く予定。日曜日は夜は故林広志プロデュース。昼は当日券があるのならば新感線に挑戦してみようかと考えているのだが、はたしてどうなるのだろうか。後、それがだめなら、以前から気になっていたダンスカンパニーLOOPの「シンクロニック・スライダー」(というような題名だったような)を見にいこうかと思っている。

 4月18日 演劇屋バンソウコウ3「独裁者」(7時〜)について感想を書く。違っていたらすまないけれど、確かこの劇団は惑星ピスタチオ西田シャトナーが東京で上演した舞台の主演者らが中心になって結成されたのだったと思う。だから、この芝居を見ても惑星ピスタチオが好きで、そういうような芝居をやりたいんだろうなとは思わせるところがある。そして、そういうものとしては欠点はあるにしても思った以上によくできた芝居だった。殺陣を始めとしてけっこう訓練がなされているし、その意味では楽しめもする。惑星ピスタチオを最初に見た当時と比較しても全体的な完成度は高いかもしれないと思う。

 しかし、残念ながら彼らの表現からは惑星ピスタチオを最初に見た時ほどの刺激は感じることはできない。というのはスイッチプレーもカメラワークもすでにピスタチオがやってきたことの写しであり、まだ、この集団の芝居からは自分たちにしかできないこと、失敗してもいいから私たちはこれでいくという実験精神が感じられなかったからである。もっとも、旗揚げしばらくの劇団が勉強のためになにかの芝居を写すというのは決して悪いことではない。現に関西では80年代初頭につかこうへいが猛威をふるい劇団★新感線もM.O.P.もそとばこまちも今からは信じられないかもしれないけれど皆つかこうへいの芝居のコピーをやっていたのだから。だが、その後のそうした集団がどこかでかすかにそうした匂いを感じさせることはあってもそれぞれが独自の表現を追求してきているのだから。だから、今回のような芝居を一概に否定したくはないのである。だが、オリジナルな表現として評価の対象にするのは難しいのも確かなのである。もちろん、彼らはことさら腹筋がやるようなパワーマイムの真似とかはやりはしないし、その意味では単なる真似のつもりはないのかもしれないが、そうであるとすれば自分たちの表現にするためにはシャトナーが考えもしなかったことをやってほしいのである。

  

 4月17日 勅使川原三郎演出によるオペラ「トゥーランドット」はエジンバラ公演の抜粋をNHK衛星放送で見て勅使川原の演出自体にはあまり感心できなかったので、生ではどうなのだろうと思って見にいったのだが、これが意外と面白かったのである。もっとも、これはテレビで勅使川原の今回の演出を見て大体知っていたので、新演出にまどわされずに単純にオペラとして楽しめたからかもしれない。ミュージカルも同じであるのだが、やはり音楽の力というのは観客の知的な部分でなく、感情に直接働き掛けてくるのにすごく力があるのだなと改めて思った。演劇には大きく分けて、それを演じる俳優が直接的に観客に働きかけてくる種のものと俳優同士のやりとりが織りなす舞台上での事件ないし、関係を観客に提示し、観客はそれを俯瞰してみたり、登場人物のだれかに感情移入していくことでその舞台とかかわっていくものと2種類がある。オペラというのは演劇の形式として見た場合、典型的に前者にあたるもので、もちろん、個々の登場人物の間にはやりとりはあるのだけど、たいていの場合、それは登場人物(ということはオペラ歌手)のそれぞれが演じる人物がそれぞれの思いのたけを歌に託してぶちまけるという感じ(笑い)で、いわゆる近代劇がそうであるような会話(あるいは対話)になっているわけではない。

 もちろん、もっと会話劇に近いような形態を取るようなオペラもあるにはあるのだろうが、プッチーニによる「トゥーランドット」などというのはその典型であるといえる。最後には「愛の勝利」による大団円があり、これがいわばオペラの約束事であるのではあるが、近代劇以降の感覚からいえばストーリー自体は破たんしてるもいいところである。主人公のカラフにしてからが、トゥーランドットに一目ぼれしたというのまではいいにしても、リューが自ら命を立った後、すぐに臆面もなくトゥーランドット姫に言いよるし、ほとんど自分のことしか考えていない我がままもの、鼻持ちならない自信過剰としか思えないし、いくら乙女心は分からぬといっても、あれほど毛虫でも見るように毛嫌いしていたカリフに最後になんで「その名前は愛」などと言ってしまうのか醒めた目でみるといろんな疑問がふつふつと湧いてくるのだ。

 こういうことばかり書いているとまたバレエファンやオペラファンからお叱りを受けそうで怖いのだが、私がここで言いたいのはそれほど問題点がある台本なのにもかかわらずそれをオペラという形で見ると必ずしもそうは思えないし、ラストシーンにも納得してある種のカタルシスを感じてしまうということにオペラという芸術の本質があるのではないかと思ったのである。

 

 4月16日 Bunkamuraオペラ劇場「トゥーランドット」(3時〜)、演劇屋バンソウコウ3「独裁者」(7時〜)を観劇。

 先月の日記コーナーで以前、じゃむちに掲載した宮城聡、安田雅弘、上海太郎の鼎談のことについて述べたのだが、自宅でパソコンをいじっていたら、元原稿がでてきたので掲載することにしたい。私が演劇とダンスにおける身体表現について考える時にこの時の3人の会話は非常に刺激的であった。

 4月15日 P.E.C.T.「99+」(7時〜)を世田谷パブリックシアターで観劇。チラシに10周年記念と書いてあったから旗揚げして10年ということになるのだろう。以前から名前は知っていて、機会があったら見てみたいとは思ってたのだが、神奈川を拠点としている劇団のようで、これまでスケジュールをチェックしたことは何度かあったものの、未見の劇団をわざわざそれだけのために見に行くのもなあと思って、そのままになっていたのだった。さて、見ての感想をいうと生演奏の音楽やダンスなどいろんな要素を芝居の中にちりばめた構成で、ダンスは別にして、歌にしても中心の俳優の演技にしてもそれなりのキャリアを集団として積んできただけあって、かなりレベルは高いのだけど、どうにも全体のバランスが悪い感じなのである。

 歌にしたってせっかく生でやるのだから、もう少し芝居全体の中で有機的に生かせばもっと効果的になりそうなものを芝居は芝居、歌は歌という感じで全体に散漫な感じが否めない。そこのところがどうにももどかしい感じの芝居であった。このあたりのところは今回がたまたまそうであるのか、それともこの劇団のスタイル自体が大体においてこういう感じであるのかが分からないので、この芝居だけでは判断に苦しむところがあるのだけれども、構成がいまいちバランスが悪く感じられてそれが気になるのはこの芝居については脚本の弱さじゃないかと思う。この芝居は全体がサン・ティグジュベリの「星の王子様」を下敷きに作られている。砂漠のホテルに墜ちてきた飛行士、そこに狂言まわしとして蛇が登場してきた時点でなんとなく分かってしまったから、特に最後の方でわざわざ種明かしするところなど完全に蛇足の感があるし、これは演劇の世界では寺山修司北村想が使ってきたモチーフだから、今さらやるとしたら、もう少しひねりを利かせなかったら、これだけで持ちこたえるのは無理じゃないか。しかもそれに合わせて、蠍釣だの宮沢賢治的な匂いのするキャラクターをそのまだだされても見ててちょっと照れ臭くなってしまった。

  

 4月14日 今週末は16日日曜日はBunkamuraトゥーランドット」(3時〜)を見た後、演劇屋バンソウコウ3(本当は3剰ようなのだがフォントがない)「独裁者」(7時〜)。土曜日17日はまたもや朝から出社なので、予定は入れてないが仕事が早めに終わるようなら以前から気にはなっていたのだが、これまで周りあわせが悪くて見たことがないP.E.C.T.という劇団を見てみようかと考えている。

 ラッパ屋が約1年ぶりに復活。「ヒゲとボイン」という芝居を上演する。新宿のシアタートップスで6月7日〜7月2日まで約1カ月間である。劇団から FAXで公演概要を送ってもらったので、お薦め芝居にはまだ時期が早いけど簡単に紹介することにする。この劇団の作演出を務める鈴木聡の作品は東京に来てラッパ屋の舞台を見る以前にミュージカル「OKUNI(阿国)」で見ていて、ひそかに注目していたのであるが、その後、いくつかの作品を見てけっこう気に入っているのである。ただ、最近、売れてメジャーになってきたのはいいのだが、鈴木自身がウェルメードの喜劇の作り手として、ポスト三谷幸喜のような言われ方をされたこともあって、けっこう損をしているところがあるような気がする。というのは三谷の作風が乾いた笑いで、いわゆるドアコメディーといわれるような緻密に構成された綱渡り的な芸としての笑いを見せるのに特色があるのに対して、鈴木聡の作風は大人の童話風の設定に人情喜劇的な要素がからんでくることが多く、この2人の資質は明らかに水と油ほども違うからである。

 もっとも、この2人には共通点もある。それは2人とも明らかにハリウッド映画が好きで、そこから大きな影響を受けていると思われるところである。しかも、ハリウッド映画といっても今のようなアクション、SFXの大作というのじゃなくて、フランク・キャプラビリー・ワイルダーに代表されるような旧きよき時代のハリウッド映画である。鈴木聡についていえばそういうところが、人情喜劇とは呼んだものの松竹新喜劇とかのようなべったりとウエットにならないで済んでいるところであろう。さて、今回の新作だが、「ヒゲとボイン」などという題名も聞いてしまうと恥ずかしくてほとんどもうだめだという絶望的な気分になってしまう。もっとも、ボインなどというのは今となってはほとんど死語といっていいのでそれが実際に使われていたころのコンテクストを知らない若い人たちが、この語感からどういうイメージを受けるのかは私なんかにとっては神のみぞ知るという感じだが、どうなんだろうか。「ヒゲとボイン」というのは資料によると小島功の漫画から取られたらしいが、この題名で目指すのはお色気満載のスーダラ会社員ものの喜劇だという。スーダラというのはもちろん、クレージーキャッツ植木等が流行らせた流行語だが、思えばこの言葉もひさしぶりに聞いたような(笑い)。もちろん、この人はもともと(今も)CMプランナーだから普通の劇作家以上に芝居の題名についてもセンシティブなはずで、わざとレトロな言葉を連発しているのにはしたたかな狙いがあるとは思うのだが、この芝居ははたしてどうなんだろうか。   

 4月13日 さっそく、伝言板に書き込んでくれた人がいたので、少し嬉しい。このページにしてもこれまで書いてきた演劇についての文章についてもなんのために書いているんだと問われれば、基本的に自分のために書くのであり、それは人に読ませるためでも、作り手の人に読んでもらうためでもないと答える。それはそれで、嘘ではないのだけど、なんらかの形で公開しているかぎり、なんかの反応があったりすると嬉しかったりするのは人情というものじゃないだろうか。インターネットは本来インタラクティブなメディアなどと大上段に振りかぶったことをいわなくても。そういうわけで、下北沢通信に書かれたことや伝言板に書かれたことについて、質問や疑問でもあればできるだけこたえたいと思ってるので、メールや書き込みをよろしく。

 そういうわけで、燐光群「パウダー・ケグ」についてとくながさんが無言の圧力をかけてきているので、なにか書かなくてはいけない。実はRSCの「マクベス」と燐光群の「パウダー・ケグ」を先週の週末に続けて見て、どうしても舞台と自分との間にある種の距離感を感じてしまったのである。

 それはこの2つの芝居が(もちろん、「マクベス」については特に今回の演出についてそう思われたということだが)、コソボの問題を含めて、自己増殖していく「暴力」について、昨今のバルカン半島の情勢なども背景に見据えて作られた芝居という感じが強くしたのである。「マクベス」はともかく、ユーゴスラビアの劇作家デヤン・ドゥコフスキによって1993年に創作された「パウダー・ケグ」という芝居は表題のパウダー・ケグというのがそのまま火薬樽を意味するようにまさしくヨーロッパの火薬庫といわれるバルカン半島の状況ソのものを描いた芝居である。もっとも、この芝居で実際に登場するのは個人同士の争いにおける「暴力」の連鎖であって、それは殺人ではあっても、戦争そのものが描かれるわけではないが、短いシークエンスをつなぐ手法で次々と突然、咽もとにナイフを突き付けられたような問答無用の暴力が続く芝居であってみれば、それがバルカン半島における血で血を洗う争いの連鎖のある種のメタファーとして描かれていることは間違いないだろう。しかも、それはほとんどが復讐とかそういうことでもなくて、無意味とも思われる突然の暴力の爆発で、こういうものを単調に続くヴァリアントとして続けて見せられると私などは生理的に不愉快な思いにとらわれてくる。

 無意味に近い暴力の連鎖を淡々と描いたものとしては北野武の映画やこの戯曲を映画化されたものが、ヨーロッパの「パルプ・フィクション」との評価を与えられたということでも分かるとおりに「レザボア・ドッグス」をはじめとする一連のクウェンティン・タランティーノ監督の作品などが思い出されるが、これらの作品においてはよくも悪くも暴力がある種のカタルシスにつながる部分があるのに対して、この「パウダー・ケグ」では背景にバルカンの政治的な状況があるのが、強く感じられるために暴力のカタルシスにつながる回路がどうしても、切断され、状況的な不愉快さだけが増幅された形で残るというのがある。エンターテインメントと割り切るのが難しいのだ。さらにいえばともすれば完全な同じシークエンスも含む同工異曲の暴力シーンが繰り返される戯曲の構成は娯楽演劇にはなりえないと思う。

 もっとも、劇作家の狙いの一部がそうした不愉快な感情を観客に与えることにあるのだとすればその意味では燐光群による今回の上演は成功しているということがいえるのかもしれない。ただ、そうではあっても、例えば、青年団が以前に上演した「バルカン動物園」で示唆されたバルカン半島の問題は自分とこの問題との距離感をちょうど移すような形で、問題が取り上げられているので一定のアクチャリティーを持ちうるのだが、まさにその状況の内部にいた人が書いた戯曲を「いまここで」上演されたのを見るとどうしても実感が湧いてこなかったのである。  

 4月12日 表紙に置いてあるトリのマーク観劇伝言板なのですが、書き込みがほとんどないようなので、なにか違うことに使うことにしたいのだが、なにかいい考えはないだろうか。といっても、普通の伝言板の方でさえ、最近は以前と比べ、書き込みが少ないようなので、なにか限定した用途で、書き込み数を確保するのは難しいのかもしれないのだが。特に全体としてもアクセスカウント数が伸び悩んでいるので仕方ないが、以前は少しはあったこのページを読んだニューカマーの人の書き込み(ないし、表紙からの読者メール)が最近は全然ないのが寂しい。意見、感想なんでもいいのでお便り(書き込み)お願いします。

 4月11日 燐光群「THE POWDER KEG」について、書こうと思いどのように書いたらいいのかを考えあぐねていたのだが、伝言板の方で希望があったので、とりあえず先に同じ日に見たアンファンテリブル・プロデュース「SOUL OF RUBY」の感想を書くことにする。前川麻子が一緒に舞台に立ちたいと考えた役者を招いて、セッション風の芝居を続けてきた「ソウル・オブ・カラー」のシリーズは以前にも何度か見たことはあるのだが、私にはそれほど複雑な関係性の提示につながらない2人芝居、しかも台本的に練られたというよりはエチュードで作られた感のある芝居の方向性が今ひとつピンとこなかった。今回の芝居も方向性としては大きな変化はないのかもしれないのであるが、2人芝居ではなく、群像劇であったこととと、劇中劇という趣向が盛り込まれたメタシアターとしてうまく決まっていたことで、面白く見られた。

 この芝居はドキュメント志向の演劇とでもいったらいいのだろうか。劇場というよりはステージのあるショーパブといった会場である「将軍」という場所の特性をうまく利用し、観客の椅子の他に会場の中に何個所かあるソファに役者が始めから寝ている。児童劇の劇団がこれから「オズの魔法使い」をもとにした芝居の上演をこの会場で行うのに仮眠をとっているという設定で開演時間が来ると音楽も暗転もなく、ソファから起きだして通路を歩く役者の姿に芝居は始まったのだなと分かるのだが、それも遅れてきた客と最初は区別がつきにくいほど自然な調子の演技なのである。一方、しばらくするとやっと目を覚ました俳優たちと演出家らによって「ドロシーと仲間たち」の場当り稽古が始まるのだが、こちらの方は一転「なんだかなあ」という演技である。さて、この芝居で面白いのはこのほぼ同じ劇中劇のシークエンスが何度となく繰り返されるのだが、この時のそれぞれの演技ぶりとその稽古と稽古の間に交わされる短いやりとりの中で、しだいにこの劇団における人間関係が明らかになっていくというその趣向である。

 冒頭、ドキュメント志向と書いたのは登場人物のうち前川麻子木村健三、山田伊久磨がこの芝居にはそれぞれ役柄はあっても実名で登場していることだ。それぞれの役柄もこの児童劇団を率いる演出家を実際に自分の劇団では演出もしている木村がやるなど当て書きに近い形で役柄を振り当てている。ところが、ここで興味深いのはこの3人の関係を描いた部分の演劇のスタイルがこの芝居で地の文をなす他の役者たちのナチュラルな演技とも劇中劇のデフォルメされたスタイルとも異なることだ。特に木村が演出上におけるダメだしにかこつけて、山田をやりこめていくところ、それに対して前川が「私も児童演劇界の杉村春子といわれた女」などといって見えを切るところなどどことなく、「つか芝居」を思わせるようなことさらなにや節的な展開を挿入した感じがあって、こうした3つのフェーズの演技が虚実ないまぜにしているところが面白かったのである。

 もっとも、こうした展開はえてしてわざとらしくなりがちで、本家のつかこうへいといえどもこうした難点を免れえないことが多いのだが、この芝居では構成上の巧みな仕掛けがそれを救っている。それは最後に「劇中劇」に託して、演出家の木村が自分の気持ちを語るところで、それまではほとんど生気のなかったいかにも児童劇的にデフォルメされた「ドロシーと仲間たち」の台詞が木村のここでの心情と完全にシンクロして劇団、そして自分の元を去っていこうとしている前川(もちろん劇中登場人物としての)へ送るぎりぎりのエールとして、突如、生気を放ち始める。この幕切れはある意味で、劇作家、前川麻子の自分が演劇を続けていることに対する自らへのエールとも受け取れるし、劇団の解散や事実上の崩壊に立ちあってきたこれまでの前川、木村らの過去も連想させるところがあって、いろんな意味で興味を引かれた芝居であった。 

 4月9日 燐光群「THE POWDER KEG」、アンファンテリブル・プロデュース「SOUL OF RUBY」を観劇。物事は調べてからやるものである。7日の日記に演劇屋バンソウコウ3「独裁者」を見に行きたいと書いたのだが、土曜日に念のために確認してみるとその公演が行なわれるのは来週でしかも燐光群は日曜日に夜の回はないことが分かったのだった。事前に気が付いてよかったともいえるが、相変わらずの間抜けぶりにほとほといやになってしまった。大分、前に覚書で手帳に書き付けて、それをそのまま信じていたらそれが実は間違いだったということなのだが、そういうわけで急きょ、燐光群を昼の回に予定を切り替え、空いてしまった夜はどうしようかと迷ったのだが、ぴあを見て前川麻子の芝居を見に行くことにした。

  

 4月8日 RSC「マクベス」を東京グローブ座で観劇。すいません。さすがにRSCでよくできた芝居だとは思ったのだが、前の日、3時間くらいしか寝てない状態で体調がが最悪、しかも開演30分前の駆け込みで、当日券に挑戦したら、キャンセル待ちで、3階席からの立ち見だったこともあり、気が付くと目を閉じて、イヤホンガイドの声に耳を傾けている状態(全く意味がない)だったので、どうしても注意力散漫になり完全には芝居に入り込むことが難しかった。この芝居についてはあまり自信を持ってよかった悪かったを判断できる状態にないのであった。上演時間が2時間強でテンポが早く、なんとか体力的に持ちこたえたけど、これが「ハムレット」か「リア王」だったら死んでたかも(笑い)。それでも、演出についていえばそのスピード感もそうだが、場面転換のスムーズさと前半の魔女の予言から、王の暗殺、マクベスの即位、マクベス夫人の狂乱、最後のダンシネーンの丘での戦場場面と立て続けに起こる事件が息をつかせぬテンポで展開し、歯切れのよさを感じさせるもので、もし、体調が万全で平土間での観劇だったら、もっと違う印象だったかもしれないと思うと悔やまれて仕方がなかった。

 やはり、英語劇、しかもシェイクスピアを原語で観劇するというのは私の語学力ではけっこう集中力を要求されるので、芝居が「マクベス」で筋立てがあらかた分かっているとはいっても(今年になってからもすでに自転車キンクリート版を見てるし)、気になるとついついイヤホンガイドに頼ってしまう。そうすると今度は台詞のニュアンスを聞き取れなくなるという悪循環をこの日は繰り返してしまった。 

 4月7日 今週末の予定。明日、8日は朝から出社だが仕事が早めに終われば東京ブローブ座でRSC「マクベス」を見たいと思っている。9日は招待状を送ってくれたので以前から気にはなっていた若手劇団の演劇屋バンソウコウ3「独裁者」(下北沢駅前劇場)を昼に見た後で、夜は燐光群「THE POWDER KEG」を見たいと思っているのだが。4月は見たい芝居/ダンスが同一スケジュールの中に固まっていて、どれをとるべきか本当に考え込んでしまった3月とは異なり、観劇スケジュールはまだ流動的。もちろん、それというのも当初、見るつもりでスケジュールを開けていたNODA MAP(15日夜)と新感線(23日昼)とかが、チケットが取れなかったせいでぽっかり空いてしまったせいもあるのだが。当日券に挑戦してみようかとも思うが、仕事の関係もあって開演近い時間でないとかけつけられないので、躊躇してるという感じなのだ。今のところ16日は勅使川原三郎演出・振付のオペラ「トゥーランドット」(3時〜)。これは昨年高額チケットを手に入れていたのに仕事の関係で行けず無駄になり、さらにエジンバラの公演に行こうと準備していたのにそれもだめだったので、再演があるということを知ってついふらふらとチケットを手に入れてしまったのである。ついふらふらというのはこの公演自体はエジンバラ版をNHKの放送で抜粋を見ていて、あまり感心できなかったからなのだが。

 東京バレエ団くるみ割り人形」(モーリス・ベジャール振付、4月1日ソワレ観劇)についてちょっと遅ればせながら感想を書く。キャストはピム/吉田和人、母/遠藤千春、猫のフェリックス/後藤和雄、M/首藤康之、妹のクロード、プチファウスト/高村順子、光の天使/高岸直樹、後藤晴雄、妖精/井脇幸江、佐藤志織、マジック・キューピー/飯田宗孝、グラン・パ・ド・ドゥ/斉藤友佳理、中国=バトン/市来今日子、アラブ/吉岡美佳、ソ連/荒井祐子、パリ/井脇幸江

 この「くるみ割り人形」はベジャールが7歳の時に亡くなった母親へのオマージュとして作られた自伝的な作品である。それに加えて母親の死後出会ったバレエへの賛歌にもなっていて「くるみ割り人形」の振付家でもあるマリウス・プティパに捧げられている。 ベジャールという振付家にはジョルジュ・ドンの「ボレロ」をはじめ近作でもクイーンの音楽に振り付けた「バレエ・フォー・ライフ」など人間の鍛えられた身体を媒介に「エロスと死」といったきわめて、精神性の高い表現を純粋なダンスという形式でまとめ上げた傑作群があるかと思えば、妙な東洋趣味やメッセージ性に毒された「こういうものを評価しちゃいかんだろう」という失敗作も多い。これが私の個人的な見解なのだが、この作品は「永遠に失われた母親に対する憧憬」が核にあるだけに生命を燃焼し尽くすというようなエロス/タナトス性には欠けている点でベジャールの作品としては物足りなさもないではないが、その分、自分の少年時代を懐古しての遊び心にも溢れた作品で、気軽に楽しく見られるように工夫がされている。

 このベジャールの「くるみ割り人形」では古典の全幕バレエとは違って東京バレエ団のオールスターキャストといった感じで、アラブのデュオでは吉岡美佳が細身に似あわぬ強靱さと柔軟性を合せ持ったコンテンポラリーダンスの踊り手として非凡なところがあるのを十分に見せてくれたり、斉藤友佳理がベジャールの作品でありながらここだけ引用の形で踊られるマリウス・プティパ振付の「くるみ割り人形」のパ・ド・デュを見せてくれたり、荒井祐子がテクニシャンぶりを見せてくれたり、それぞれが持ち味を発揮してくれるので、ちょっと得した気分になれたのである。特に荒井祐子というダンサーは今回初めて名前を知ったのだけど、小柄ながら芯がしっかりした感じの踊りで身体に切れもあり、次に見る時は要注目と思った。吉岡美佳は以前にローラン・プティの作品を踊っているのを見た時から「いいぞ」と思っていたのだが、この日のアラブも期待を裏切らぬものだった。ダブルキャストで母親もやっているということで、この日、母親を踊った遠藤千春というダンサーは悪くはなかったのだけど、ちょっと線の細いところがあって、それははかないところなどベジャールのキャスティングの狙いでもあるのだろうけど、タイプが全く違うだけに吉岡がどう演じたのかは気になるところであった。

 一方、男性陣は光の天使を演じた高岸直樹などはいくらなんでもあの役では見せ場の作りようがないだろうと可哀相になったものの、主要キャストである後藤和雄、首藤康之ははっきり言って物足りない。特に首藤の演じたMはベジャールバレエ団ではジル・ロマンが演じた役というから、深みの点でかなり不満の残る内容であった。首藤はいまやこのカンパニーの看板的存在であり、男性バレエダンサーとしては日本をしょって立つ存在になりつつあるだけについつい厳しい見方になってしまうのだが、踊っていない時の存在感がどうも希薄なのが気になった。

 作品全体として見ると斉藤友佳理を見られたのはよかったけど、クライマックスに近いところでプティパの振付をそのまま引用したのはやはり構成的に破たんしている感じは否めなかった。しかも、そのパ・ド・ドゥでタキシードを着た男性ダンサーをバレエを見る観客役として舞台に出し、女性ダンサー(斉藤)が踊っている時はうっとりと見ていて、男性ダンサーになると知らんぷりというのはどうしたものか。恐らくベジャールの若い時の体験なんだとは思う。そして、ベジャールに男性中心のバレエを作るにいたらせたのはうがった見方をすればこうした体験がもとになっているかもしれずおそらくこの部分は古典バレエに対するベジャールのアンヴィヴァレンツな感情がそのまま舞台に現れてしまった部分なのかもしれないのだが、どうもこの作品の中では座りが悪いというか居心地が悪い感じがした。

 ここからは完全に蛇足だが、こんなことをベジャールがやったので私は上海太郎が演じた「パ・ド・ドゥ」(ひとり芝居で「海賊」のパ・ド・ドゥの男性のところだけゐ踊るネタ)を思いだしてしまった。(笑い)「麻雀ボレロ」でベジャールの振付をコケにした(本人はオマージュであり、夢の中にベジャールがでてきて、上海くんやってもいいよと許されたといっていたが)、上海にそんなことをいえば自分のアイデアベジャールがパクったとでもいいかねないので、これは本人には内緒だけど。

 

 4月6日 お薦め芝居5月分を掲載。月始めには掲載しようと頑張ってはいるのだが今月も遅れてしまった。

 4月5日 山田正紀「女囮捜査官4」「女囮捜査官5」、エラリー・クイーン「青の殺人」、法月綸太郎法月綸太郎の新冒険」、殊能将之ハサミ男」、アントニイ・バークリー「地下室の殺人」を読了。それぞれの感想については後ほど書くことにしたいが、「ハサミ男」は傑作である。まさか、あんな手でやられるとは。犯人の一人称描写が続いて、それでもその正体が明らかにされていないということに途中で気が付いた時にはアイラ・レヴィンの「死の接吻」以来の超絶技巧ぶりに思わずうならされてしまった。 

 4月4日蜷川幸雄演出「三人姉妹」について。蜷川版のチェホフは昨年見た「かもめ」がよかったので「三人姉妹」にも期待したのだけど、今回の「三人姉妹」についてはこの芝居の上演としては悪くはなかったけど、もう少し軽みがあってもよかったんじゃないかというのが正直な感想である。女優陣に演技力のある人がそろっていたので確かに見ごたえはあったんだけど、その分、台詞に引っ張られて熱演しすぎて、芝居が重くなってしまった感じがあるのだ。

 数年前に加藤健一事務所、東京乾電池演劇集団円の3劇団がほぼ1月ぐらいの短期間に相次いで、「三人姉妹」を上演したことがあって、そのうち、加藤健一事務所の舞台が私にとってはもっとも面白かったのだが、それはその時の加藤健一の演出がチェホフの歌うような台詞にいちいちつきあうことなく、スピード感に溢れたものだったからだ。その時の上演時間は確か途中休憩なしで2時間ぐらいだったと思うのだが、今回の蜷川版では途中休憩15分を挟んで3時間強となっていた。

 もちろん、蜷川幸雄という演出家は台本にある台詞の丁寧に自ずから語らせていくタイプの演出家であるので、そのせいもあるとは思う。チェホフの戯曲の特色は俗物といっていい卑小な人物がその性格に似あわぬ詩的であったり、高邁であったりする台詞や哲学を語るところにあって、その落差がアイロニーとなって、おかしみを呼ぶという構造にあるんじゃないかと思っている。その中でも「三人姉妹」はもっとも典型的な芝居で、「かもめ」とかではまだ芸術ないし芸術家というモチーフがあるので登場人物の全てが俗物としてシニカルにだけ描かれているわけじゃないけれど、こと「三人姉妹」についていえばここには一人として、等身大を超えた偉大な人物は出てはこない。

 もちろん、戯曲の構造としては一方に俗物の俗物性を代表するような人物(ナターシャ、クルイギン)が配置され、それとオーリガ、マーシャ、イリーナの3 人姉妹や哲学的な台詞を好んで語るヴェルシーニン、トゥーゼンバッハといった人物が対比されような形になってはいるのだが、人間としての卑小さという点からいえばもっとも純粋なイリーナでさえも五十歩百歩ということをチェホフは冷徹な筆致で淡々と描き出していくのである。もちろん、それだけではただ暗い重い話にしかならないところだが、そうした凡庸な人物らが喜々として哲学的な台詞を語ったりするところにこの芝居の面白さはあって、だから、この芝居ではこうした名台詞に完全につきあわないで淡々と流したほうがいい台詞がかなりあると思われるのである。

 これまで見た「三人姉妹」の上演では特に新劇系の劇団の上演で、三人姉妹を演じる女優がそれぞれ「ここは私の見せ場」というような感じで、名台詞を滔々と語るというようなのがあって、それはチェホフとは違うんじゃないかと頭をかかえてしまうことがある。もちろん、さすがに蜷川演出はそういうことはないのだけど、それでも冒頭のマーシャの台詞などはちょっと語りすぎているんじゃないかと感じた。もっとも、蜷川の今回の芝居では冒頭と最後の姉妹の台詞は会話劇としての間尺に合わないと判断したためか全体を枠構造にして、枠の外に置いていたような演出だったのだが、ここだってもう少しさりげなくていいのではないだろうか。

 もっとも、つい批判的になってしまうのは「三人姉妹」という戯曲に思い入れが強いためで、イリーナ役の川本絢子をはじめ魅力的な役者が多く、芝居そのものは十分に楽しめたのだけど。

 4月3日 トリのマーク「幌馬車とコーヒー」について。トリのマーク12カ月連続公演の第3弾。トリのマークの芝居を大作だ小品だと分けるのは語弊があるが、このところスズナリ、東京グローブ座と壮大なイメージの広がりを見せる作品が続いたのに対して、今回の芝居は一転して、室内楽的な印象を与える小品の感が強く感じられた。こういう軽やかな感じもこの集団の持ち味ではあり、今回使われたギャラリーブロッケンという外光を取り入れた室内空間がスズナリやグローブ座で見せたような作りこんだ世界よりもラフスケッチな感じ之する今回の芝居に似あっていることも確かではある。今回公演から新人の中村智弓と櫻井拓見がキャストに加わった。どちらもまだいかにも初舞台という感じで、初々しくはあってもこの集団の中において自分のキャラクターを完全に発揮するというところまではいっていないが、これは以前、トリのマークに出演していた嶋森千広などにも同様のことがいえたのだが、あまり役者っぽくないキャラクターにおいて共通するところがあり、面白い素材であるだけに今後、どのようにこの集団においてのプレゼンスを高めていくかが期待されるところである。

 4月2日 トリのマーク「幌馬車とコーヒー」(2時〜)、蜷川幸雄演出「三人姉妹」(6時〜)を観劇。 

 4月1日 ナイロン100℃「絶望居士のためのコント」(2時〜)、東京バレエ団くるみ割り人形」(ベジャール振付)(6時半〜)を観劇。 

 ナイロン100℃「絶望居士のためのコント」(2時〜)はよく出来たコントオムニバス公演で、いとうせいこうの幻のコント集「幻覚カプセル」に収録された7本を中心にケラ自身、ブルースカイ、さらに別役実と笑いのセンスにおいては当代一流の作家がそれぞれ新作書下しコントで参加。目先も変えていくことで、内容的にもバラエティーに富んだものとなった。別役作品はひとまず置いておくことにしても、確かに面白くはあったのだが、これがなぜか抱腹絶倒というわけにはいかなかったのである。そして、それがどうしてだかが分からないので、全編を見終わった後、少し考え込んでしまった。第1に考えられるのは複数の作家が参加したとはいっても、12本のうち7本がいとうせいこうの台本だということもあって、全体のトーンを決めたのはいとうの世界だといっていいとは思うのだが、これがどうもあまりに丁寧にシュール系のコントのパターンを踏襲しているためほとんどどういう風に落とすのかも含めて流れが読めてしまったということがあるかもしれない。構成が比喩的にいえばあまりに幾何学的に整っていて、破たんがないのである。

 冒頭の「幻覚カプセル」なんてのはその典型であって、研究者と思われる3人の人物を登場させて、順繰りに「幻覚」というネタを振りながら状況をエスカレーションさせていく。「告知」「トランプ」「反故になる誓い」「絶望呼びの男」というのもほぼ同じ構造を持っていて、それでも例えば「反故になる誓い」などではつい笑ってしまうのは大倉孝治、峯村リエ村杉蝉之介の3人のキャラクターの対比がうまくはまっていたからで、そういうところが弱かったりするとちょっとしんどくなってきてしまう。

 さて、このコントオムニバスでもっとも注目していたのは別役実のコントなのだが、これはコントといえるのだろうか。まさにおなじみの別役ワールドそのもので、その意味では楽しませてもらったのだが、単に短いというだけで、普通の別役芝居と全然変わりがないのである。もっとも、これを見ながら恐ろしいことを考えて思わず自分の中だけで笑ってしまったのだが。それはもしこういうコントが12本続くという芝居があったらそれはちょっと恐ろしい。題してナイロン 100℃「ベツヤクのためのコント」(笑い)。長編ではなく、死体がでたり、首つりの縄がでたり、このコントにように濃縮された別役のシチェエーションの 12連発……。見物だとは思うがついていける人がどれだけいるだろうか。