下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

WHAT’S NEWと日記風雑記帳6月

WHAT'S NEWと日記風雑記帳6月
 7月1日 デス電所「ジャパン」(2時〜、ウイングフィールド)、スクエア「泊」(5時〜、アイホール)を観劇。

 6月30日 トリのマーク「bamboccio」(2時〜、横浜ギャルリーパリ)、CAB DRIVER「。穴」(7時半〜、下北沢駅前劇場)を観劇。 

 6月29日 黒テント「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」の感想を執筆。     

 6月28日 「ジャン・コクトー 堕天使の恋」(2時〜、シアター・ドラマシティ)を観劇。

  ローザスの感想(6月6日)を追加。

  スカパーのシアターテレビジョンで劇団☆世界一団「645」、水と油「不時着」を観劇。残念なのはまだビデオでの録画ができないことだ。見逃していた飛ぶ劇場「ジ・エンド・オブ・エイジア」はもう生で見られる回がないのでどうも再放送があるまでお預けになりそう。水と油はやはりテレビ画面で見てもハイスピードで展開していく空間構成が素晴らしい。厳密な意味ではダンスとはいえないとは思うのだが、動きにはグルーブ感が感じられ、そこで表現されている独特な奇妙な世界とそれが見事なまでにマッチングしている。次の本公演(来年春)まで、しばらく待たないといけないのが残念である。

 6月27日 黒テント「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」を観劇。

 本当はこの芝居の感想を書くのは避けて通ろうと思っていたのだ。しかし、リクエストを戴ければ感想書きますと宣言していたところだったので仕方がない。あまり、気が進まないのだが書くことにしよう。というのはひさびさにどこが面白いのか全然分からない芝居を見てしまったというのが正直な感想だったからだ。それにしても黒テントはいったいどうしてしまったんだろうか。

 9割方の責任は松本大洋の戯曲にあるんじゃないかと思う。漫画家としての松本大洋はファンではないけれどけっこう買ってはいるのだけれど、こういうものを見せられると果たして劇作家としてはどうなんだろうかと疑問を感じてしまう。というのはこの芝居では妙に前衛的なことをやろうとしている印象を受けるからだ。小説家、漫画家、シナリオライター、詩人など演劇の外で活躍しているクリエーターが書いた戯曲が上演されたのを見た機会は以前にも見たことはあるが、実はあまり面白いと思った記憶がない。これは結局、演劇になにを求めるのかということにもつながるのだが、少なくとも最近の演劇状況のようなものが分かっているうえで、方法論的な実験をやっているような戯曲(演劇)に私の場合には魅力を感じるので、演劇がよく分かっていないという作家のものにはそうした刺激をあまり受けないからだ。漫画のネームを戯曲もともに会話文を綴っていくものであるゆえ、漫画家が戯曲を書くということは一見、それほど無理がないことかというように感じる人もいるかもしれないが、映画と漫画にはある程度(あくまである程度であるが)の共通点はあるが、演劇は大きく違う。それは映画のカット割り、漫画のコマワリのような分節が演劇にはないからで、途中までのストーリーがそんなに面白く思えないのはそこでそれほど面白いということを狙っていないとも考えられるので、仕方がないところがあっても、ここで描かれている世界の仕掛けが立ち現れてくる後半部分ではもし、これが漫画だったら、コマワリのやり方しだいで、ビジュアル化して構造やイメージそのものを見せていくことでもう少し刺激的なものになっていたのかもしれないところ、今回の公演での黒テントの芝居はそういうものを拾い上げることに失敗してしまっているように思われた。

 これは戯曲を書いた松本ひとりの問題でもなく、ひょっとすると黒テントという劇団の芝居の質感と松本の世界が齟齬をきたしているという部分もあるかもしれない。選曲ひとつにしてもそうなのだが、果たして生演奏を交えた黒テントのスタイルは松本大洋の世界の再現に向いているのか。速度感はどうなのか。言葉は悪いがすべてが生ぬるい印象を受けてしまう。佐藤信の戯曲とブレヒトの戯曲を交互に上演してきたようなところがあったかつての黒テントが突然、松本大洋原作の作品を手塚とおるを主演にして上演。その後も松本と組んでその書き下ろし戯曲を連続上演しはじめたのには驚かされたのだが、それは劇団としては新しい血を導入することで、形態としては膠着しつつあったスタイルを脱皮しようという意図があったのじゃないかと思う。

 しかし、今回の芝居を見た限りはそれがあまりいい方向に行っているという風には思えない。片桐はいりが主演しての「セツアンの善人」(違う題名での上演だったと思うが資料がなく思い出せない)の方がはるかに面白かったし、この公演では斉藤晴彦以外のベテラン俳優がキャストから抜けてしまっていたこともあり、正直いって演技の面でもレベルが低下してしまったように思えてしまった。    

 6月26日 「トリプル・ビル」(23日)の感想を加筆。  

 6月25日 映画「Stereo Future」(中野裕之監督)、映画「メトロポリス」(りんたろう監督)を見る。



 6月24日 故林広志prd.「当時はポピュラー3」(2時〜、シアタートップス)、ロリータ男爵緊急イベントライブ「タナベさんが火を出した」(6時〜、下北沢・駅前劇場)を観劇。

 故林広志prd.「当時はポピュラー3」は面白いコントという期待には十分にこたえていた舞台だったとは思うが、出演者のこれまでに見せてなかった新しい面白さを引きだすという点ではそれほどでもなくて、全体的にちょっと大人しかったかなという印象。ナイロン100℃の長田奈麻も持ち味を発揮して笑わせてくれたのだけど、使い方がほとんどナイロンと違わないことには不満が残った。故林の場合、現在は別のユニットを複数かかえているということもあって、実験的なことは「漢字シティ」「薄着知らずの女」などでやっていることもあり、年1回で比較的、知名度の高いゲストも客演で迎える「当時はポピュラー」ではどちらかというと保守的な内容になってしまうのはやむおえない部分もあるのだが、今回のキャストにはガバメント時代のアッチャマンや前回、出演した松尾貴史のような舞台をかき回してしまような個性に欠けることもあり、どうしても地味な印象になってしまった感は否めない。

 もちろん、もともと大爆笑というよりは分かる人だけくすくすと笑うというような引いた笑いが故林ワールドの持ち味でそれはこの公演でも味わうことができるのだけれど、故林はそういうシュールとか不条理とかいったセンス系の笑いだけに留まらず例えばガバメント時代にはアッチャマンや水沼健の身体的特異性などを用いて、露骨にヒキョーな手を使って笑いを取りにいくところもあり、それが全体の構成の中ではアクセントになっていた。今回の公演ではそういう場面がないのでそれぞれのコントにはよくできたものがあっても、それがあるシチュエーションの中で連続して繰り返されるとしだいに慣れてきて単調に感じてしまうところもあった。

 とはいえ、「当時はポピュラー」が私に取って物足りないと感じられてしまったのはなにも今回の公演の出来栄えがよくないとかそういうことじゃなくて、観客としての私が故林に期待するものが、「漢字シティ」「薄着知らずの女」以降は単なる笑いから微妙にずれているせいもあるかもしれない。それがなになのかはもう少し考えてみないといけないのだが、最近の故林の作る世界には笑いに解消できない微妙な気持ち悪さがある。それはある種の悪意をその中に含んではいるのだが、単なるブラックユーモアとも違っていて、あえていうならば昔、江戸川乱歩が「奇妙な味」と名付けたようなものに近いのではないかと思う。

 「当時はポピュラー3」ではそういうものをそれほど感じることができない。それは「漢字シティ」などで試みていることがそれほど万人受けするものではないということから意識的に排除しているところもありそうなので、これに対して不満を述べるのは「木によって魚を求む」の類かもしれないのだが、そういう微妙な世界と比べた時、達者に作られてはいるものの予定調和的な匂いもそこに嗅ぎ取ってしまったのだ。

    

 6月23日 新国立劇場バレエ「トリプル・ビル」(3時〜)、ピーター・ブルックハムレットの悲劇」(6時〜)を観劇。

 新国立劇場「トリプル・ビル」は「テーマとバリエーション」(バランシン振付)、「リラの園」(アントニー・チューダー振付)、「ライモンダ 第3幕」(マリウス・プティパ振付、牧阿佐美演出)の3本立てなのだが、寝過ごして会場に着くのが遅れたため、後半の2本だけの観劇となってしまった。新国立劇場の「テーマとバリエーション」は以前に見ているし、まあいいやと自分を慰めるが、前に見たのは伊藤範子の出演したバージョンで身体の切れ味とかがバランシンとしてはイマイチという印象があり、この日は宮内真理子が出演していただけにこれを見逃したのは残念。それと2本だけではプログラムがちょっとというよりもかなり、物足りなかった。

 もっとも、この日のプログラムが物足りなかったのはお目当ての酒井はなが踊ったのが「リラの園」だったこともあるかもしれない。プティパのような完全な古典作品となってしまえばそれはそれなりにただ古いという風には感じないのかもしれないのだが、チューダーのこの作品は同じ演劇的な要素を取り入れた作品といってもマクミランなんかを見慣れた目にはあまりに古色蒼然としているのでちょっと入っていきにくかった。もちろん、新国立劇場は新しいバレエ団なので、最初はまず「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「ドン・キホーテ」「バヤデルカ」といった代表的なクラシックの演目からはじめて、アシュトンの「シンデレラ」やマクミランの「ロミオとジュリエット」にと全幕もののレパートリーを広げていくのに加え、この「トリプル・ビル」などを通じて、バランシンやフォーキンの「レ・シルフィード」などもプログラムに入れてきたところで、その意味ではチューダーの作品もレパートリー化を進めるのはバレエ団の方向性として基本方針に沿ったものではあるのだろうが、こういう演目では小気味のいい切れのある動きとかいうような私が求める酒井はなの魅力が十分には発揮されないので欲求不満に陥ってしまったのだ。作品が持っている制約を除けば酒井の演技自体は悪くなく、今年この後、予定されている「ロミオとジュリエット」でどんな演技ぶりを見せてくれるのかについて、これまで彼女の踊りは「白鳥」「ドンキ」のようなクラシックバレエ作品でしか見てなかった(「ラ・シルフィード」のいかにも気の強そうな妖精は見たけれど)ので期待が膨らんだし、超絶技巧のテクニックを発揮するような場がない作品においても彼女が優れた踊り手(演技者)であることは確認できたのは収穫ではあった。

 ただ、昨年見た「白鳥の湖」の時にどうも故障していたようだというのを後から聞いて、4月の「眠り」は見そこなってしまったので、体調がどこまで回復しているのかが知りたかったのだけれど、「リラの園」ではそれはよく分からなかった。

 一方、「ライモンダ 第3幕」(マリウス・プティパ振付、牧阿佐美演出)はボリショイからのゲストダンサーであるアナスタシア・ゴリャーチェワとイルギス・ガリムーリンのペア。これもいつか全幕上演をするという考えから今回は第3幕だけということなのかもしれないが、これは他の2本と違ってプティパの原振付をもとに芸術監督の牧が自ら演出を手掛けているのにかかわらずライモンダを踊るのがなぜボリショイからのゲストダンサーなのかというのが理解に苦しむところであった。ゴリャーチェワという人は以前にガラ公演とかで見た可能性はあるけれど、全然記憶がなく、この日の踊りも可もなく不可もなくといった程度。このくらいだったら、新国のダンサーのうちのだれかを起用してほしかったと思ってしまった。 

 6月22日 さっそく、弘前劇場勅使川原三郎ローザスのレビューを書いてほしいとのリクエストがあったので、とりあえずこの3本を優先的に書くつもり。とはいっても全部書き終わるのは今月いっぱいぐらいになってしまいそう。 

 6月21日 CS8のレビューを執筆しはじめたがなかなか全部書き終わらない。      

 6月20日 日記コーナーの6月10日のところにreset-N「キリエ」の感想を追加。なんとか、貯まっていた借金を少しだけ返した気分にあるが、ジャブジャブサーキット、青年団弘前劇場、いるかHotel、上海太郎ひとり舞台、CJ8、ローザス勅使川原三郎……と書いてない感想が山積なのでどうしようかと思っている。

 今週末は土曜、日曜とまた東京に行って、土曜日は新国立劇場バレエ「トリプルビル」(3時〜)、ピーター・ブルックハムレットの悲劇」(6時〜)、日曜日は故林広志prd.「当時はポピュラー3」(2時〜)、ロリータ男爵緊急イベントライブ「タナベさんが火を出した」(6時〜)を観劇予定である。

 それまでにはいくつかを片付けておきたいのだが。どう考えても物理的に1日に1本書くのが精一杯なのでどうしようか。最近は伝言板への書き込みが(自分の以外は)減っているので景気づけの意味からも劇団関係者でもファンでもいいから、これを先に書いてというリクエストをくれれば人情からいってそれを優先するのだけれど。それから、すでに書いた感想への感想(変な表現だが)も歓迎。なにかと励みになります。   

 6月19日 利賀フェス2001レポートを執筆掲載。5月の利賀フェスで見た山の手事情社「平成・円朝牡丹燈篭」、ク・ナウカマクベス」を中心に利賀で考えたことを書いてみたら、長大かつ大上段に振りかぶったような内容になってしまった(笑い)。


 カズオ・イシグロ日の名残り」、アゴタ・クリストフ悪童日記」、真保裕一「トライアル」、レナード・ニモイ「わたしはスポック」、赤坂憲雄「東西/南北考」、河合信和「ネアンデルタールと現代人」を読了。相変わらず節操なく読み散らしているので最近読んだ本はこれが全部じゃないのだが、読んだうちで面白かったものを挙げてみた、全部の感想を書き始めたらいくら時間があっても足りないので、ここでは書かないが、最初の2冊は最近早川書房が創刊した新しいハヤカワepi文庫で出てたやつで現在3冊目の「第3の男」を読んでいる途中なのだが、次回以降の配本リストを見てもなかなかに期待できそうなラインナップである。もっとも、最近は記憶が弘前劇場で福士賢治さんが演じていた人と大差ない状態なので、2冊とも初読じゃなくて前に読んでいた可能性が高い。「日の名残り」は映画は絶対に見ていてなんとなくその前後に読んだような記憶があるがそれも間違いかもしれない。どちらにせよ面白く読むことができたからそれはもうどちらでもいいのだけれど。

 一応、演劇に関係する話題にもちょっと触れておくとレナード・ニモイ「わたしはスポック」はもちろんスタートレックで有名なレナード・ニモイの自伝で番組や映画の内幕話も興味深いのだけれど、これで初めて知ったのはニモイが舞台にも出演している演劇人でもあることだ。しかも、その出演している芝居というのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエ、「キャメロット」のアーサー王、「エクウス」、「王様と私」のタイの君主、「オリヴァー」のフェーギン、「ヴィンセント」(ゴッホを取り上げたひとり芝居でこれは企画も担当)というのだから、これはなかなかに大したキャリアじゃないのだろうか。特に「屋根の上のヴァイオリン弾き」は日本では森繁と西田敏行が演じているのでニモイが演じるというのは彼がユダヤ系だというのはあるにしてもちょっとピンとこないのだけれど、どんな風だったんだろうか。.  

 6月18日 PAN-PRESS通信のための原稿(利賀フェスのレビュー)を執筆。これが終わらないと書きかけのreset-Nの感想も弘前劇場のレビューも手をつけることができないのでなんとかしなくちゃならないのだが、なかなか進まない。

 ワールドユース2001、日本代表vsオーストラリア代表をテレビ観戦。前の年代ほどには期待できないのに加え、大久保、阿部といった主力選手が次々と脱落していたので内心苦しいとは思っていたのだが、やはり2-0の完敗。今回の大会は1次リーグがオーストラリア、チェコアンゴラという列強のいない比較的楽そうなグループに入っただけにこれならどうかなという期待はあったのだが、結果は初戦完敗で思うようにはいかないものである。もっとも、この組はチェコアンゴラスコアレスドローで引き分けているので、残り2試合を日本が勝ちさえすればアンゴラチェコはいずれも勝点は最大4で得失点の争いにはならないはず。2点取られたのが今後に響くことがないのが日本に有利な点ではある。といっても2連勝が条件になるのは間違いなさそうだが。

 6月17日 上海太郎ひとり舞台「BAD TRIP」(5時〜、大阪芸術創造館)を観劇。

 終演後、打ち上げに参加。ひとり芝居を終わったばかりなのになぜか妙に元気な上海太郎、上海のそとばこまち時代の後輩でプロ雀士(自称)で麻雀関係の雑誌のライターをするかたわら劇団を主宰する天生龍志氏、名前を失念してしまった(失礼)のだが神戸大学の学生で神大自由劇場の若者というメンツで麻雀を打った。結局、朝方近く(というか完全に朝)までかかって、半荘4回をやった。結局、3人へこみで上海太郎のひとり勝ちとなったのは少ししゃくだが、私は半荘3回までは大きく沈んでいた。特に3回目にはついに箱割れでの終了(当然、その時点では断トツの最下位)という屈辱的な状況だったのを最後の半荘で上海太郎を飛ばして、プラス70という大きなトップでそれまでの負け分をほぼチャラにして、マイナス2とほぼトントンまで持っていき少しだけ溜飲を下げた。トータルでもプロ(笑い)を押さえて2位まで上がったし、まあ満足しなきゃいけないだろう。しかし、天生氏は鳴いての逃げの的確さや守りに回っての硬さはさすがに手だれという感じで一人負けになった学生君は少し可哀相だった(彼もそんなに下手というわけではないと思う)が、ひさびさにうまい相手と手合わせできたことは非常に楽しかった。

 PS、関西在住で麻雀の相手をしてくれる人がいればぜひメール下さい。私は上海太郎氏のようにそれで稼いでいるわけじゃありませんので(笑い)。 

 6月16日 勅使川原三郎「Luminous」(2時〜、びわ湖ホール)、いるかHotelウィルキンソンジンジャエール」(7時〜、扇町ミュージアムスクエア)を観劇。

 梅田東通り商店街の「ガルーダ」という店でいるかHotel終演後、観劇オフ会を実施。名乗りでてくれていた人のほか飛び入りも含め、6人が参加してくれて、いるかHotelからも谷省吾さんをはじめ役者さんも参加してもらいかなり盛況なものとなった。参加者の皆さん、ありがとうございます。募集していた時にはまったくの反応のなさにオフ会なんか募集しなければよかったと何度も思ったのだが、なんとか無事に終わってほっとしている。でも、関西で観劇オフ会成立させるというのはそんなに簡単なことではないぞというのも実感として分かったし、オフ会の席では関西のネット状況の一端もうかがい知ることができ非常に興味深かった。


 勅使川原三郎「Luminous」はダンスの根源に迫るような感動的な舞台であった。  

 6月15日 上海太郎ひとり舞台「BAD TRIP」(8時〜、大阪芸術創造館)を観劇。

 観劇オフ会を開催。安元さん、川島むーさんの2人が参加してくれた。どうもありがとうございました。

 6月14日 いるかHotelの観劇オフ、締め切り一度延ばして呼びかけたものの反応は皆無。やはり、関西での観劇オフ会は厳しかったようだ。そういうわけで参加表明していただいた皆さん、当日会場でお待ちしております。

 青山円形劇場から依頼されていた「笑い以外のKERA演劇」なる原稿をなんとか脱稿。当日パンフに掲載されるのだと思うので、会場でパンフを買った人はぜひ読んでみてほしい。青山円形劇場プロデュース「室温 〜夜の音楽〜」の方はどうやらKERA初のサイコホラーということらしいが、果たしてどんなものになるのだろうか。しかし、KERAにサイコホラーを書かせようというのはそれほど意外というわけではないが、これってやはり昨年パルコプロデュースの「人間風車」が評判を呼んだからでてきた企画なんだろうか。そのパルコの「Vamp Show」再演というのも単純に三谷幸喜の作品だからと思っていたのだけれど考えてみると二匹目のドジョウって感じもあるよなあ。まあ、作品さえ面白ければそれでよしなんだが。

 6月13日 観劇オフ会の募集の締め切り日である。駆け込みで何人かの人が申し込んでくれないかと期待していたのだが、そうは都合よくいかなかったようで、1人上海太郎の方にメールで名乗りでてくれたのだが、その結果、上海太郎/2人(安元さん、川島むーさん)、いるかHotel/3人(もみゃ。さん、和田さん、八幡さん)というますます微妙なことになってしまった(笑い)。かなり、当初の予定と違ってしまったわけだが、せっかく参加表明していただいた人がでてきているのだから、中止にはしないでなんらかの形で開催することに決めた。名乗りでていただいた皆さん、感謝しています。どうも有り難うございました。

 ただ、この人数では場所を確保しての正式オフというのも微妙なので、とりあえず一日早く期日が迫っている上海太郎ひとり舞台の方はここで一時締め切って、「観劇ミニオフ」という形で開催することにした。参加者の人は当日終演後に受け付けのあたりで集合としますので、分からなかったらだれか劇団関係者(のようにみえる人)をだれでもいいからつかまえて中西の居所を聞いてほしい。開演前に聞く余裕があればその方が終演後慌てなくてもいいので、できたらそうしてほしい。川島さんはチケット確保しておきますので、受付で私の名前を出してください。

 一方、いるかHotelの方はもう少し参加者が増えることを期待して、取りあえず参加表明の締め切りを1日延長して木曜日の深夜ということにする。伝言板への書き込み、私あてのメールで引き続き参加表明よろしくお願いします。こちらも当日は終演後ロビーの受け付け前で集合ということにします。不明な点がありましたら、私あてのメールでお願いします。

 伝言板の方には書き込んだのだけれど、表紙の写真を上海太郎舞踏公司の舞台写真に変えた。これは上海太郎舞踏公司的題目(テーマダンス)というシーンでこの集団の名刺代わりのようなシーンとして1つの作品だけでなく、「ダーウィンの見た悪夢」「非ユークリッド恋愛学」など複数の作品の冒頭で踊られるダンスシーンである。今度の公演は上海太郎のひとり芝居だからこのシーンは当然ないのだけれど、これを見ていただければ上海太郎という人がスタイリッシュな群舞の創作に優れた才能を持っていることと、「舞踏」公司などと名乗っているけれど、これがいわゆる「舞踏」(つまり土方巽を起源とする暗黒舞踏)と全く関係のないものだということも理解してもらえると思う。この写真の舞台がいつのどの公演でのものかというのは逆に分かりにくかったりするのだけれど、多分、一番最近上演された「ダーウィンの見た悪夢」じゃないだろうか。だれか分かって人がいたら教えて(笑い)。 

 6月12日 エメスズキDANCEPACE「aquanoise#2  four seasons 2/4」(8時〜、トリイホール)を見る。  

 6月11日 このところホームページのレビューを書くのが遅れぎみですっかりしこっているうえに飛び込みで依頼原稿が入ってきたので(そのこと自体は嬉しいことだが)、死ぬほど忙しくなりそう。これも頼まれていた原稿を1本やっと書き上げて送ったものの、これはちょっと訳ありで書き直さなければならないかもしれず、公演が迫っているのに全然台本が書けない劇作家の心境が少し分かる気分である。

 観劇オフ会2人新たに参加者が名乗りでてくれたのだけれど、いずれもいるかHotelの方でこれでいまのところ参加希望者は上海太郎/1人、いるか Hotel/2人という非常に微妙な数字のままである。引き続き募集を続けるけれど、当初目標の5人は厳しそう。せめて、3人いればなんとか開催できるかと思うのだが……。 

 6月10日 弘前劇場「月と牛の耳」(2時〜、ザ・スズナリ)、reset-N「キリエ」(5時半〜、スフィアミックス)を観劇。

 この日は朝一番の新幹線で東京に行き芝居2本をはしごしたうえ、ホテルにとんぼ帰りしてサッカーコンフェデ杯決勝を観戦。その後、弘前劇場の打ち上げにも少し顔を出したので、大阪〜下北沢〜品川(天王洲)〜渋谷〜三軒茶屋とほとんど休むことなく移動。さすがに少し疲れたが、それでも快い疲れであったのは芝居が2本ともよかったからだ。サッカー日本代表の試合もフランスとまともにやれば3―0か2―0くらいの実力差のあるところをそれなりに健闘したと思うし。これが芝居が2本ともつまらなくて、日本代表が5―0で負けていたら、ちょっと立ち直れなかったと思う。

 なにかネット上や新聞の一部評論家の論調を見ると「惜敗」じゃなくて「惨敗」だとか、フランスは手を抜いていたとか書いている人たちがいるのだけれどなにを日本代表(あるいはフィリップ・トルシエ)に求めているのだろうか。そもそも日本代表の目標は本来1次リーグ突破じゃなかったのか。私も代表を応援しているので、強くなってはほしいけれど、いくらフランスにジダン、アンリがいないといっても決勝の日本荷は中田英も名波も中村も高原もいなかったわけで、そういうチームがいくらホームとはいえ、フランスに勝つというのを本気で思っていた人はどうかしていると思う。フランスだってわざわざ決勝まで出てきたからには勝たないとまずいわけでパフォーマンスが後半落ちたとすればそれは連戦で疲れていたせいだと思う。

 日本チームに限界があったのは明らかだし、パサーを次々と外してしまったトルシエの采配に全面的に賛成のわけではないが、中央に移った小野は明らかに消えていたことは否定できないし、点が取れなかったのはそのせいだとの批判は結局、結果論に過ぎない。元々、変えるべき持ち駒が限られている以上、だれが監督でどんな采配であっても点を取るのは僥倖が起こるしかない。だから、フォワードを増やし、守備のキープレーヤーであった戸田は変えないで稲本を外し、小野を外し久保を入れたのは間違いとは言えないと思う。

 なぜ久保だったのか。これまで使わなかったのにこの場面で投入するほど久保を買っていたのかには確かに疑問が残るのだけれど(オーソドックスならここで中山だったろう)、柳澤も高原も鈴木もいない中では確かに手駒がいない。ここで秘密兵器、久保を投入したのは仕方ないだろう(秘密のまま終わってしまったが)。

 reset-N「キリエ」を観劇。夏井孝裕の新作である。「Knob」で一昨年、劇作家協会新人戯曲賞を取った夏井だが、受賞以前(「Knob」上演より後)に上演された「COVER」を最後に「黎明」「LOCK」と再演が続いたので、今回の「キリエ」はそれ以来の新作となる。本当は個人的には夏井には同性愛の女性同士の微妙な関係を微細に描いた会話劇であった「COVER」の後を書いてもらいたかったのだが、今回の作品はどちらかといえば一人の女性とそれを巡る男たちの関係を描くという意味では「黎明」「LOCK」の系譜に属する作品、特に登場人物の関係が物語の進行につれ、しだいにミキ(町田カナ)との関係に収束していくという全体の構造は「LOCK」とほぼ同型といってもよく、その意味では「キリエ」は「LOCK」で扱った主題をもう一度深く掘り下げたような作品に仕上がっている。

 物語は映画に曲の提供を求めてこれが第1作の若い映画監督シライシ(山本尚明)とその友人であるプロデューサー、ハスミ(久保田芳之)が音楽家、ミサワ(太田宏)の家を訪ねるところからはじめる。ミサワにはミキ(町田カナ)という妻がいるのだが、この2人の関係にはどこか異常なところがある。物語は夫公認で複数の男と異常な交際を続けるミキとそれに巻き込まれてしまった男たちの関係を巡って、進行していく。シライシと映画を作るはずだったハスミはミキと SMの関係となり、友人であるハスミを裏切り映画製作からドロップアウトしてしまう。しかし、ハスミはミキと女王様/奴隷という隷属関係はむすんでも、そこには性関係そのものは介在しなくて、ミキはハスミ以外にムカイという男とセックス(肉体)だけの関係を結んでいる。

 ミキがこうした異常とも思える関係を周囲と結んでいくことは「LOCK」でやはり町田カナが演じた女主人公を彷彿とさせるところがある。また、ミキという女性は「Knob」でやはり町田が演じたSMの女性(こちらはMだったが)ともイメージが重なる。いわば、夏井が描き出す女性ヒロインの典型的造型といってもいいのだが、基本的に異常な関係を通してしか人との関係がうまく結べないという「関係不全症」的なキャラクターとして描かれていても、ミキがこれまでのヒロインと違うのはこの芝居ではこうなってしまった原因が明かされていることだ。

 「LOCK」の場合、そういう性癖の人と知りあってしまったのだから仕方ないという感じの話だったのが、ここではミサワとミキの不毛な関係が実はミキの姉の自殺をきっかけに生じてしまったということが物語の中盤以降、ミキの告白により明らかになるのである。この芝居は扱っている関係の特殊性からいって、日常劇とは違う趣きを持っているのだが、それでもここで描かれるのは通常の関係を持てないことの描写もふくめて関係そのものであり、その意味で夏井の作品の中でももっとも純化された形での「関係性の演劇」といってもいいだろう。

 夏井はこの舞台に登場してくる人物からこのインナーサークルで起こること以外の社会性を完全にはぎとってしまっており、この物語の背後に隠されている関係の結節点として、すべての謎の核になっているミキはもちろんのことミサワもシライシもきわめて記号的な人物であり、方向性の違いはあるが、別役実の登場人物がやはり、そうした属性を剥ぎ取られているように抽象的に描いていく。

 そうしたスタイルにおいては同じ関係を描くにしてもそれをより日常的なディティールの中で描いていく松田正隆長谷川孝治とは大きく異なるのではあるが、それでもこの作品にはそうした作家による先行作品をどことなく連想させるところがある。それは例えば松田正隆の「月の岬」や長谷川孝治の「F・+2」と同様、この芝居に登場する人物のうち核となるミサワ/ミキの関係(ないし関係不全)の背後にこの舞台には登場しない「ミキの姉の死」というのが大きな影を落としていることが物語の進行にともなって分かってくるからである。

 ミサワはもともとミキの姉と交際していたのだが、姉にかかわるレイプ事件をきっかけにミサワと姉は普通の付き合いからSM的(支配/被支配)に入っていく。ところがミサワがまだ高校生だったミキと性関係をむすんでしまった事をきっかけにそのことに耐えられなかった姉は自殺してしまう。これがミサワ/ミキの間に隠された過去であった。ミキはミサワと別れ、デザイナーのカワラザキと婚約するのだが、結局、直前になってそれを解消して、「恨みを晴らすため」と称して、ミサワと結婚する。

 ミキがもがき苦しんでいるのは結局、ミサワのことを愛しているのにもかかわらず姉の死に対する罪の意識からそれを受け入れることができないためだ。ミキの一見、奔放に見える行動は姉の死(原罪)によって、ミサワとの間にかつてあった他人との全人的な関係を失った(楽園追放)ため、複数の人間との間に「支配/被支配」関係と「性的」関係を分けて結ぶことでしかコミュニケーションが取れなくなってしまっているためなのだ。

 私は姉の死といっしょに死んでしまったとミキがつぶやくのはこのためで、死が「永遠の関係の不在」であるとすればミキはその死を生きているということになる。

 こういう風に考えれば実はこの物語の本当の主人公はミキではなくて、ミサワだということが見えてくる。ミサワという人物はまったく行動をしないでただ見ているだけに人物なので普通の意味ではきわめて感情移入をしにくい人物だといわざるをえない。しかし、以上、考えてきたことを元にミサワの立場を見直すならば彼がミキと結婚したのは「すでに死んでいる」ミキが自殺してしまうのを防ぐためだったというのが分かってくる。でたらめな生活を続けるミキを彼が放置しているのは彼はミキのためには見守る以外のなにも出来ないし、やはり、かつての恋人を自殺に追い込んだという「原罪」を背負っているミサワには例えミキを愛していてもどうにもできないからだ。

 ここまでくれば現代劇の意匠をまとっているこの芝居が「キリエ」という題名を持つことの意味も明らかになってくるであろう。この物語には実は旧約聖書ギリシア神話を思わせるような神話的な構造が隠されている。ただ、この物語がそうした先行の神話群と大きく違うのは原罪を背負った人間には神なきこの世界では来世の救済はこないということである。ミキは結果として、ムカイを自殺させ、罪の連鎖は続いていく。

 ただ、夏井はこの物語において、パンドラの箱のようにひとつの希望を提示した。それはシライシが完成させた映画であり、ミサワがそれにつけた音楽である。もちろん、それはけっして芸術による救済などというものではあるまい。それを救済として提示するほど夏井が楽天的だとは思わないのであえて、パンドラの箱の故事をここで持ちだしたのだが、絶望的な状況であったとしても、あるいは絶望的な状況であるからこそ、芸術は希望になりうるという芸術家としての矜持を夏井はシライシの映画に仮託したのではないかと思う。

 この芝居を語るに際して、途中で松田正隆の「月の岬」のことを引きあいに出したのだが、それはミサワを演じた青年団の太田宏が「月の岬」にも出演して心に闇を背負った男を好演したことからくる連想もあった。太田は「月の岬」の初演の後、青年団に入り、現在はすでに中核的な俳優の1人として活躍しているのだが、ここでも、表面的には見えない業を深く心に秘めた役柄を演じてその真価を発揮してみせてくれた。

 平田戯曲にはあまりこういう種類の登場人物は出てこないので、夏井戯曲でその健在ぶりを見せてくれたのは今回のキャストの白眉といえたのじゃないかと思う。

 reset-Nはこの後、ポかリン記憶舎との合同公演も予定されているのだが、演劇に対するアプローチの大きく異なる夏井と明神慈の共同作業からどんなものが飛びだしてくるのか。不安もあるが期待して待ちたいと思う。

      

 6月9日 WHAT'NEW+日記風雑記 (6月)を執筆掲載。依然として、観劇オフ会反応なしである。一応、宴会場確保の問題から締め切りは水曜日の深夜までとすることにした。もう両方が成立するのは無理だとほとんど諦めかけているのだが、せめて、一人参加者が名乗りでてきてくれている上海太郎ひとり舞台の方だけでもなんとかならないだろうか。行きたいのだけど自分は行けないという人、せめて友人にでもこういうのがあるらしいのだけどうだろうかと耳打ちしてくれないだろうか(笑い)。

 6月8日 困っている。10日に5時半からreset-N「キリエ」を観劇することにしているのだが、わが日本代表(もちろんサッカー)がコンフェデレーション杯の決勝に進出してしまいその決勝戦が7時からあるからである。芝居自体は上演時間80分くらいらしいので、6時50 分には終わるはずだが、なんといっても会場がスフィアミックスなのでそこからホテルを取ってある渋谷に戻るとなるとどう考えても40分くらいはかかる。こんなことなら天王洲か品川にホテルを取ればよかった。天王洲でライブで中継放送見られるところないだろうか。いくらなんでも公演に行きますと返事をしていたのに東京まで行っていながらふけるわけにもいかないものなあ。ああ、前半は諦めようか、ここが思案のしどころなんである。

 6月7日 電話回線が不良と伝言板には書いたのだが、自動払い落しにしてなかったので、払いにいくのが面倒で放置しておいたらいきなり電話回線を止められてしまったのである。だから、その間、原稿を書いてはいたのだが、ホームページに掲載することができなかったのだ。本当に情けない。

 6月のお薦め芝居はそういうわけでえんぺの締め切りもぎりぎりになってしまったが、ただいま執筆中。表紙の写真も上海太郎舞踏公司から送付してもらったのを今月分として使うことにしたのだが、掲載が遅れてしまっている、それにしても困っているのは観劇オフ会に前々参加者がいないことだ。こういうのって、夜中とかになんか大きな気分になった時につい募集してしまったりするのだけれど(関西の観客ネットワーカーの人と知りあうためどこかではやろうと思っていた)、このページの書き込みも東京の人の方が多いという状況(そのこと事態は悪くないけど)ではやはりまだ時期尚早だったようだ。とはいえ、最初から中止になってしまうともう当分は事実上、関西では開くのが難しくなってしまうのでなんとかしたいとは思っているのだけれど。

 6月6日 ローザス「ドラミング」(7時半〜、びわ湖ホール)を観劇。

 ベルギーの振付家、アンヌ・テレサ・ド・ケースマイケルの率いるローザスの6年ぶりの来日公演である。「ドラミング」は98年にウィーンのダンスフェスで初演された後、ワールドツアーで100ステージ以上の上演をへての今回の来日公演である。

 ローザスといえば映像作品にもなっている「ローザス・ダンス・ローザス」に代表されるように女性ダンサーの群舞に特色があり、音楽の構造をそのままユニゾンや対位法を多用して、ダンスの構造に移していくという手法がひとつの持ち味であったが、この「ドラミング」はそういうものとは違う新たな傾向を反映した作品。音楽はスティーブ・ライヒが1971年に作曲した「ドラミング」を使用しており、それがそのまま表題にもなっていることからも依然重要な要素であることは間違いないのだが、この作品ではダンサーの動きが初期の作品のようにライヒの「ドラミング」と同期して呼応しているわけではない。もともと「ドラミング」とは別の演劇的なテキストを元に作られた作品に後から、音楽を合わせて作られたということで、ダンス自体はあくまで抽象的なものでそこから物語を読み取ることはできないが、ミニマルなドラムの音が繰り返させるごとに微妙に変化していくという音楽自体が持つ構造とは別の構造により、作品自体は構成されていくことがうかがえる。

 ダンサーは舞台がはじまる前から舞台上の上下に控えており、音楽がスタートするとそのうちひとりがいきなり凄まじいスピードで踊りはじめ、次にもうひとりとダンサーの数は増えていく。ただ、群舞においてもその構造には以前のように位置がほぼ静止したままでの全員が同期するユニゾンの動きなどはなく、はっきりした幾何学的な構造が見えるというよりもソロ、デュオ、グループの動きが流れながら推移していくような感じの脱中心的な構成である。

 流れの中にあっても全体の動きによどみがなく、時折見せる魅力的な動きそのものの力によって、見せていく技量には卓越したセンスを感じさせられる。脱中心といえば聞えはいいが、こうした抽象的な群舞の場合、ユニゾンとか対位法的な文脈をいれないと作品として散漫、バラバラになってしまいがちなのが、ローザスの場合、どこを切り取っても構図としての破たんがない完成度の高さにも感心した。

 しかし、一方では動きそのものは超絶技巧を誇示するようなものではないため、この作品は1時間の間、集中力を途切れさせないで見続けるにはかなりの努力が必要なことも確かなのである。そこにはフォーサイスやラララ・ヒューマンステップスなどで感じられる過剰性というものがいっさいない。それは意図的に剥ぎ取られている部分もあるのだろうが、全体としてあまりに淡泊に進行し過ぎるため、見ているうちに次第に欲求不満を感じてしまったのだ。

 「ローザス・ダンス・ローザス」などではビート感のある現代音楽に合わせて、キレのある動きの繰り返しをすることで、しだいに見る側もダンサーとある種の共鳴現象を起こし、それがクライマックスに向けて高揚感を引き起こしていくような作用があったのだが、「ドラミング」にはずらしによってそれを拒絶しているようなところがあったのが、どうしてもこの作品には客体的に反応してしまい作品との一体感を感じられなかったのも欲求不満感の原因かもしれない。

 もっとも、このダンスの構造は千変万化するフラクタル図形のようなところがあるので、見る側が構えを変えて能動的に視点を変えていくことで、そうした点はかなり、解消されるところもあるのだろうが私が見たのはびわ湖ホールの一番後方の座席でどうしても個々のダンサーの動きよりは全体を俯瞰してみてしまうような位置だったということもこうした印象に多少関係をしているかもしれない。逆にいえば見る位置によってかなり印象が変わりそうな作品でもあり、見られたのがびわ湖の1ステージだけだったのは残念であった。

 この作品には7人の女性ダンサーと5人の男性ダンサーが出演しており、女性ダンサーだけのカンパニーだった時とはまったく印象が違うのはそのせいもあるのだろうが、それでもやはりこのカンパニーのダンサーで印象に残るのが女性であるのはあながち私が男性であるからだけではないだろう。特に後半に金色の衣装を着て登場したラテン系と思われる黒髪のダンサーははっとするような美少女系でいかにもローザスならではのフェロモンを匂わせていたし、2人の日本人ダンサーのうち若いダンサーの方もちょっと中性的な魅力で目立っていた。

 世界的なカンパニーでニュースはいろいろ聞いていたので前に横浜で見てから6年も経っていたということに今回の来日であらためて気が付き驚いてしまった。今後はもう少し頻繁に来日してもらいたいものだが、ローザスにしてそうなのだからコンテンポラリーのカンパニーの来日公演というのは興行的に厳しいということなのだろうか。   

 6月5日 北村成美「北村成美のダンス天国」(7時半〜、トリイホール)を観劇。いろんな意味で唖然とさせられた舞台だった。完全に破たんしているのだが、とにかくよくやるよというインパクトは凄い。なにが彼女をそうさせるのか。本当に不可思議なダンサー/振付家である。

 どうしても外せないしかも平日公演が続いたために朝からの勤務を3日連続で希望。早起きして出社しなくちゃいけないこともあってホームページの更新ができない。とりあえずそれぞれの公演について一言コメントを加筆した。

 最近発売された「創元推理21」に掲載されている犯人あて「廃虚の死体」(芦川澄子、問題編)を読み私なりの解答を考えてみたので、書いてみることにする。とはいっても実はここで解答を書くことにはこの作品に犯人あてとして解答するというよりも解答編が掲載されていない犯人あて(つまり一応私の考えでは私の解釈を書いてもネタバレにはならない)の解答を試みることで普通の「犯人あて」とは微妙に異なる独自のルールを持つゲームであった「京大ミステリ研」時代の「犯人あて」についてちょっと説明がしたいという気が起きたからだ。

 「廃虚の死体」を一読して考えたのはこの作品で解答に到るために使われている証拠が「こう解釈すれば筋道が通る」という類の蓋然的推定がほとんどだということである。通常のミステリ小説はともかく「犯人あて」では「こうしか考えようがない」という必然の論理が必要だと考えているのでここでの根拠は弱いと考えざるをえない。しかし、解答を曲がりなりにも提出するには作者はどの程度の論理でよしとしたのだろうということを推定せざるをえないし、京大時代の犯人あてと違い作者は目の前にいず直接確かめることができないので、ここではこちらのルールではなく、相手がどのようなルール(コード)に基づいて作品を構築しているのかについて推定をせざるをえないことになる。この種の作品を解答する時の難しさはほとんどここにある。

 まず、なにを考えるべきなのか。この作品には末尾に「読者への挑戦」がついている。それは「さて、ここでみなさんに挑戦します。桜井邸の被災現場に残された4人の死体の中で、被害者と犯人と探偵は、A・B・Cのどの部屋に死んでいた誰なのでしょうか?(以下略)」というものである。つまり、単純に犯人を当てるというのではなくて、三役を当てさせるというところにこの作品のミソはある。

 解答の前の準備として、論点の整理をしよう。部屋ABCで発見された死体を仮に死体ABCと名付けておく。この桜井邸にはその他にも2つ部屋があり、そのうち桜井夫人の発見された部屋を部屋D、死体が発見されなかった部屋を部屋Eと名付けることにしよう。ここでまず死体のことは一時置いておいてまずそれぞれの部屋で見つかったものを整理してみる。

 部屋A(「桜の園」の舞台写真)、芝居の台本、未使用の芝居チケット)、部屋B(イニシャルMSのスーツケース、石橋英一名義の宝石・コートの受け取り、石橋満太郎名義の演劇教室在籍証)、部屋C(特に記述なし)、部屋D(下宿代の帳面、ミンクのコート)、部屋E(植木宛の手紙類)。

 さて、次は死体ABCの所持物とその特徴である。死体A(30歳ぐらい、無精ひげ、芝居の切符の半券)、死体B(白いリネンのハンカチ、銀行強盗事件の新聞切り抜き)、死体C(きれいなGIカット、50歳くらい、古ぼけた写真、よし子15歳と正夫5歳)。

 地震で桜井邸が壊滅する以前の状況として、1年ほど前に近くの相互銀行に2人組の強盗が入ったこと。そのうちの1人はどうやら足を引きずっていたこと。銀行強盗のことを巡って、犬塚と石橋がなにやら争っていた次の日の7時〜11時の間に犬塚がなにものかに殺され、その犯人は銀行強盗事件のことで口論していた相手の石橋ではないかと疑われる。それを不審に思った植木がそれを調べようとする。さらに石橋は桜井夫人への家賃を払っていないらしいこと。

 さて、これで一応の準備は終了。解答に入ろう。まず、死体ABCのうちだれがだれなのかの確認から始めたい。植木は事件の前日、床屋の谷川を予約していた。このことからして、きれいなGIカットの死体Cは植木ではありえない。無精ひげのAが怪しいがBは風貌の記述がないのでひとまず保留。これで植木=AorBである。

 一方、ここからは論理がやや甘いのだが、二人組の銀行強盗の片割れは足が不自由。問題編の最後に桜井夫人のハイヒールのかかとがおかしいという記述がある。これからして、銀行強盗の片割れは桜井夫人。部屋Bで見つかった石橋あての受け取りからしておそらく共犯は石橋。しかも受け取りと在籍証の名前が違うことからしておそらく石橋というのは偽名であろう。ここで死体Cの持っていた写真が注目される。このよし子が桜井夫人だとすればおそらくこの2人は兄弟で、弟の名前は正夫。年は桜井夫人が40歳ぐらいだから、共犯者である弟(正夫)は30歳前後。よって、石橋が銀行強盗の共犯であれば50歳ぐらいの死体Cではありえない。つまり、石橋=AorBとなり、よって必然的にC=犬塚となる。

 さらに犯行推定時刻は昨晩の7時〜11時であり、死体Aはこの時間に行なわれた芝居の半券チケットを持っている。アリバイがあるので犯人ではありえない。ゆえに死体Aは探偵役の植木で残ったBが石橋。よって、「被害者と犯人と探偵は、A・B・Cのどの部屋に死んでいた誰なのでしょうか?」との設問に対する解答はA=植木(探偵)、B=石橋(犯人)、C=犬塚(被害者)と簡単に解けそうだが、ここで実は問題がある。

 次にそれぞれの部屋がだれの部屋かを考えてみる。植木の部屋は植木あての手紙類のある部屋E、部屋Bは銀行強盗のものと思われるスーツケースがあるから石橋の部屋、残る部屋Aが犬塚の部屋ということになりそうである。そうなると自分の部屋(部屋B)にいた石橋(死体B)がなぜ銀行強盗についての新聞の切り抜きを持っていたのか、事件について調べるつもりの植木(死体A)がなぜ犬塚の部屋で見つかったのかなど説明できない点が多すぎる。どうやら見落としがありそうである。

 ここで問題文をもう一度読み直してみると大事なことを忘れていたことに気が付いた。植木は犬塚の死亡推定時刻を地震前日の7時〜11時と推定し、「その時間に、邸の中で人一人を倒すほどの重いものが落ちた音を聞いていない」と床屋の谷川に証言している。先ほど犯人でないので植木がこの時刻に行なわれる芝居のチケット半券をポケットに入れていた死体Aだと推定したのだが、この時間帯に植木は邸にいたので死体Aは植木ではない。よって、死体Aは石橋、死体B が植木となるのである。

 さて、ここで壁にぶちあたる。ここまでの結論で死体Aは石橋、死体Bが植木、死体Cが犬塚ということになったのであるが、今度は死体Aである石橋には芝居に行っていたというアリバイが成立してしまい少なくとも犬塚殺しの犯人ではないことが判明してしまった。では犬塚殺しの犯人はだれか。ここで俄然クローズアップしてくるのがもともと銀行強盗で石橋と共犯であった桜井夫人の存在である。彼女はその時間帯にアリバイはなく、犯行可能。しかも、犬塚がもともと写真を持っていたのは銀行強盗のことを探っていたと推定できるので、当然この件に関しては桜井夫人にも犯行すべき理由はあったのである。

 これで一見起こった事件についての真相は解かれたかに思われるがここで困ってしまうのは挑戦状である。「さて、ここでみなさんに挑戦します。桜井邸の被災現場に残された4人の死体の中で、被害者と犯人と探偵は、A・B・Cのどの部屋に死んでいた誰なのでしょうか?」というのが挑戦状の内容なのだった。ここで被害者=犬塚、犯人=桜井夫人、探偵=植木と答えると桜井夫人は自室で死んでいるので「A・B・Cのどの部屋に死んでいた誰なのでしょうか」という挑戦状のフォーマットと仕様が合わないのだ。「A・B・Cの」のくだりさえなければいいのだけれど。

 この問題では作者のレベルの推定からこのフォーマットに合わない解答が正解の確立が9割だと考えているのだけれど、実は根拠は貧弱なのだが、ここまでたどり着いた解答と挑戦状を擦りあわせた結果、出てきた解答がある。それはこれまでの推定では桜井夫人に殺された犬塚=被害者という前提だったのだが、写真を元に銀行強盗の真相に迫ろうとしていた犬塚はある意味で探偵と考えることができるというものである。つまり、探偵はCの部屋で死んでいた犬塚。そして、新聞記事を持ってやはり真相を探ろうとしていた植木は決定的な証拠であるスーツケースを見つけるが、それを石橋に見つかり地震の直前に石橋の部屋(部屋B)で殺されてしまう。つまり、部屋Bで死んだ植木が被害者。そして、地震が起こるまでの間に犬塚の部屋に入ってなにか証拠隠滅工作でもやっていたのが石橋(本名はおそらく桜井正夫)というものである。

 この解答は3人の中で探偵、犯人、被害者がいるという挑戦状のフォーマットをクリアーしているし、自分で検討したところでは電話の後で植木が殺されたということに対する直接的な証拠はないが、ミステリ研でよくやられていた一種の挑戦状トリックにもなっていて、なかなか自分でも気にいっている解答なのである。

  実はやっかいな問題としてこれまで横に置いておいたのにアリバイのない植木犯人説がある。アリバイもなにも犬塚の死亡推定時刻は植木の証言によるものだから、植木が犯人とすると困難な問題が起こってくる。難点としては植木犯人説を取ると犯人である植木がわざわざ谷川に事件のことを知らせてくる理由が思い浮かばないということがあるのだが、もしその点が解消されると探偵花山が発見した現場は別にしても被害者がいるとしてだれがいつ殺されたかも植木が全て嘘をついている可能性がある限り分からない。現場の状況からだけで一応、石橋と桜井夫人が銀行強盗だったのは推定できるが、アリバイが関係なくなればチケット半券も証拠として役にたたないし、床屋にいくつもりだったというのも嘘だったかもしれず、死体Cを犬塚とした先ほどの論理も成立しなくなるからだ。せっかくなので遊びとしては植木=犯人という論理からなにが出てくるのかというのはもう少し考えてみたいとは思っているのだが(笑い)。 

 6月4日 「CJ8」(7時〜、京都芸術センター)を観劇。カナダ、日本のそれぞれ4人の振付家が相手国のダンサーに振付して作品を創作するという交流企画。ダンサー、振付ともになかなか粒ぞろいの公演となった。8本がかなり作風的にバラエティーに富んでいるので好みは分かれそうだが、鎌倉道彦、椙本雅子の出演した「VIA」、山田せつこ振付の「She Who Devours the Moon」が出色の出来だった。カナダ側の振付家は初めて聞く人ばかりなのだが、「VIA」はムーブメント、照明、音楽など全てにおいてかっこよくセンスを感じさせるもので、Hoiy Body Tatoo(Dana Gingas & Noam Gagnon)の名前は記憶にとどめておいた方がよさそうだ。

 6月3日 OMSプロデュース「この鉄塔に男たちはいるという」を観劇。OMSプロデュースとはいっても作出演が同じではやはり、MONOの舞台としか受け取りようがない。初演の印象はコントグループを登場させたことで笑いにやや傾いていた印象が強かったが、それと比べると今回は「戦争」というモチーフがより前面に出てきて、その分、コメディーとしての印象は薄くなっている。それがこの芝居にとってよかったのかどうかというのはちょっと考えさせられてしまった。

 6月2日 SPAC振付コンクール(2時〜、静岡芸術ホール)、現代舞台芸術ユニット'Ort'「ハムレット〜オフィーリア・プログラム〜」(6時〜、倉迫康史演出、楕円堂)と兵庫県立ピッコロ劇場「マッチ売りの少女」(8時〜、高橋健二演出、野外劇場「有度」)を観劇。

 6月1日 このホームページを立ちあげたのが1998年の6月からになるので、足掛け3年である。このページの下の方に過去ログへのリンクがあるので時々前年や前々年なにをやっていたかを調べてみたりしているのだが、あまり進歩がないのだなあ、これが(笑い)。

 おそらく、このページをアップするころには8万アクセス達成しているはず。このページを覗いてくれた皆さんどうも有り難うございます。関西に来てからニューカマーも減ってしまったようで伝言板なんかもこのところ活気がないので相変わらず落ち込んでいるのだけれど、東京の芝居やダンスも継続して見にいってたりするので軸足をどこに置いたらいいのか少々悩んでいる。依然、反応はないのだけれど、せっかく募集をかけたこともあり、観劇オフ会の告知、今月の日記にも転載しておくことにする。

  
下北沢通信観劇オフ会募集

  6月15日の上海太郎ひとり舞台「BAD TRIP バッドトリップ(ABSURD改メ)」(大阪市立芸術創造館、8時〜)と16日のいるかHotelウィルキンソンジンジャエール」(扇町ミュージアムスクエア、7時半〜)で関西で初の観劇オフ会を募集することにした。いずれも観劇とその後、劇団からのゲストを迎えての懇親会(宴会)を予定しています。

 関西に来てはや3カ月ほどが立ちましたが、週末けっこう東京に行ってしまっていることもあって、なかなか関西でのネット関係の知りあいも増えないので、参加者がいるかどうかは分からないものの、とりあえず東京公演でもかつて観劇オフ会を企画したことのある2劇団の公演を機会に観劇オフ会を開催してみることにしました。

 チケットは自力確保の他、劇団に了解を取っての幹事確保(このページでのネット予約)も可能に。参加希望者は皆さんお話しましょう(伝言板BBS)への書き込みか私あてのメールで参加表明お願いします。すでに他の回で観劇済みの方の観劇オフ会の後の宴会のみの参加も歓迎です。

 ここでは明らかにできないものの、宴会には特別ゲストとしてそれぞれの劇団の関係者(ひょっとすると主宰者)も顔を見せてくれるかも。あまり数が少ないと困るので一応、どちらも参加者が5人以上でた時点で成立するということにします。参加表明はぎりぎりまで待つつもりではあるが参加者の見込みがたたないと会場の予約など苦しいので参加希望者でできるだけ早く名乗りを挙げてほしい。

 上海太郎ひとり舞台は上海太郎舞踏公司を主宰する上海太郎によるひとり芝居。97年に「ABSURD」という題名で上演されたものを練り直して再演するもので、人間がどこかに秘めている、狂気的な面を浮き彫りにした作品。妄想の世界に入り込んでしまった登場人物を台詞を使うことなく演じ分けていく上海太郎の醸し出す狂気が売り物のひとり芝居である。

 一方、いるかHotelは遊気舎の俳優でもある演出家、谷省吾が率いる新進気鋭の劇団で、若手の女優たちは美人ぞろいと巷で評判。懐かしくもせつない物語を丁寧な演出で紡いでいくのが谷ワールドの特徴だが、今回はどんな世界が展開されるか。

 いずれも詳しい内容については今後も取材して、レポートしていくつもりだが、いずれも6月のお薦め芝居でも★★★★でイチ押しの予定の注目の舞台。まだ、見たことのない人にはこの機会にぜひ一度見てもらいたいのである。

 とりあえず、上海太郎ひとり舞台については以前に掲載した公演概要を再掲載しておくことにする。

大阪市立芸術創造館提携公演
上海太郎ひとり舞台
「BAD TRIP バッド トリップ(ABSURD改メ)」
構成・振付・演出・出演/上海太郎
振付/室町瞳

日時/6月15日(金) 20:00
     16日(土) 16:00/19:00
     17日(日) 14:00/17:00
 *開場は開演の30分前
 *入場整理券の配付は開演の1時間前に開始

会場/大阪市立芸術創造館
     大阪市旭区中宮1-11-14
     06-6955-1066
  京阪「森小路」下車徒歩10分
  地下鉄谷町線千林大宮」下車徒歩10分
  市営バス 幹33・78系統 大阪駅発新森公園行
   「旭区役所区民センター前」下車すぐ

料金/前売 2800円
   当日 3300円
    全席自由席

前売開始/4月28日(土)

前売取扱/チケットぴあ 06-6363-9999
       (Pコード:P000-000) 
   ローソンチケット 06-6387-1772
       (Lコード:L58547)
   旭区役所 企画総務課広聴企画係
           06-6957-9683

ご予約・お問合せ/芸術創造館 06-6955-1066

劇団お問合せ/上海太郎舞踏公司 06-6477-0291

 「ぶたぶた」「ぶたぶたの休日」(矢崎存美著)を読了。