下北沢通信

中西理の下北沢通信

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 大駱駝艦「2001年 壺中の旅」(7時〜)をフェスティバルゲートのシアターdBで観劇。大駱駝艦の「壺中天舞踏公演in大阪」の第1団。「壺中天」というのは同集団がアトリエ公演として行ってきた小規模な公演で、ここでは振付・演出(振鋳・鋳態)を主宰の麿赤児以外が担当している。この「2001年 壺中の旅」は向雲太郎が振鋳・鋳態。自分自身を含め10人の男性ダンサーが参加している。
 正直言ってちょっとびっくりさせられた。これは舞踏公演そのものというよりは舞踏の要素を活用しながら、それを笑いに強引に持っていったコント的な公演にも見えたからだ。作品は7つの場からなるのだが、閻魔大王夫妻が出てきて、それぞれの男の股間からはみだしている一物(もちろん、ソーセージで擬そうはされてくる)を切り取って、天秤に乗せていく場面から、それで去勢されたという設定だろうか、全裸のままで性器は股間にはさんで見ないようにして集団で踊る群舞はこういう風に隠すやりかたは舞踏にもともとあるものではあるのだけれど、こういう風に集団でユニゾンで踊られると相当に馬鹿馬鹿しいものがあるのである。
 状況劇場にも参加していたし、麿が笑いが分からないということはないとは思うが、少なくとも最近の大駱駝艦の公演では哄笑的な色合いではなく、明らかに笑いを取りにいった場面はあまりなかったし、かつて若手公演として上演されていた若衆公演でもそういうことはなく、その当時の大駱駝艦の本公演の流れの中にあることを感じさせた。
 それに対し、「2001年 壺中の旅」は最近の麿の傾向とは明らかに一線を画した独自性を持つ舞台であった。舞台が明転するとそこにはドラマチックな音楽が流れ、紙吹雪が舞う。この舞台は幕切れにふさわしい劇的クライマックス場面からはじまるのだ。その意味でこれは通常の作品の作り方に対して距離を置いて、それを揶揄したり、引用したりするようなことをやっているわけで、どちらかというと求道的になりがちな舞踏のなかでは実にユニークな個性を見ることができた。