下北沢通信

中西理の下北沢通信

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京都造形芸術大学特別公演(dots)「10の地点」

 京都造形芸術大学特別公演(dots)「10の地点」(春秋座)を観劇。

構成・演出・美術プラン > 桑折
テクスト > 太田省吾作品より引用
『水の休日』『↑』『elements』

cast 荒木優光
入江慧 牛尾千聖 坂原わか子 信貴千春 高木貴久恵 服部みゆき 宮本統史 山崎彰久 山田晋平  
staff 舞台監督 : 規矩泉美
照明 : 高原文江
音響 : 土井新二朗
音楽 : 清原丈嗣・前田大作
映像制作 : 矢島祐介
映像技術 : 岸上正義
衣装 : 伊藤正浩
宣伝美術 : HICOH・高木貴久恵
制作 : 城島里美

マルチメディアパフォーマンス集団、dots*1を主宰する桑折現らが京都造形芸術大学の卒業制作として上演した「10の地点」の再演である。この作品は太田省吾のテクストを元にした「演劇作品」であり、いつものdotsとは少し違うスタイル。dotsについては前回見た「Mable」についての感想*2で「壁面いっぱいに映し出される映像と舞台上にオブジェ的に配置されたパフォーマーのミニマルな動きを組み合わせたパフォーマンス」と書いたが基本的には演劇の言語テキストを使っているということはあっても、そうした基本的な特色はほぼ踏襲されている。それゆえ前回も指摘した「全体としてなかなかよくできてはいるが、こうした映像と実像の組み合わせという手法はすでにいろんなところで目にしたことがあり、ダンスとの組み合わせであればダンス部分の振付が面白ければ映像の使い方としては効果的なこともあるが、これだけで勝負するというには表現の強度という点で少し物足りない感はいなめない」という欠点もそのまま抱え込んではいるのだが、この作品は歌舞伎の上演可能な劇場として構築された春秋座の広い空間を映像と美術の配置により、うまく使いこなしていたことと、とっかかりとしての言語テクストがあったということが大きな違いで、これまで見た彼らの作品のなかでは一番見やすくいろんな点で巧みに構成された舞台であった。
 演劇作品と書いたがこの舞台は太田省吾のテクストのうち、「↑(やじるし)」三部作といわれる『水の休日』『↑』『elements』の3つの作品からテクストの一部をそれぞれ断片的に抜粋して、コラージュ風に再構成した。それゆえ、一貫した物語のようなものをそこから読み取ることはできず、出演する10人のパフォーマーは台詞としてそのテキストを語るのだけれど、それはマイクによって拾われて微妙に加工されることで質感を消すような処理がなされており、その意味では通常の演劇のスタイルあるいはオリジナルである太田省吾による上演の形式ともまったく異なるパフォーマンス色の強いものとなっている。
 コラージュと書いたが、それぞれのテクストの配置はそれぞれひとつづつの場面に対応するように使用されていて、同時多発的に展開されるというようなことはなく、それゆえ、個々の場面ではその時に使用されるテクストから喚起されるイメージのようなものを照明、映像、パフォーマーの台詞、動き、美術などを組み合わせることで丁寧に見せていくというような構成。それゆえ、舞台から受ける印象はダイナミック(動的)なものというよりはスタティック(静的)で、パフォーマーが映像だけでなく、生の形で出演する舞台でありながら、よくも悪くも身体性がまったく希薄であるのがもうひとつの特徴といえる。
 こうした作り方は言語的なテクストがほとんど存在しないようなこれまで見たdotsの舞台ではともすると舞台のなにを見たらいいのか、それぞれの要素があまりにミニマルなだけに困惑させられ、舞台に対する集中力を持続することが困難になるきらいがあったのだが、今回は言語テクストの存在で、言葉が持つ意味性とそこでビジュアルイメージとして提出される言語以外の要素とを反芻しながら自分のなかでいろいろ考える時間が与えられ、その意味で少なくとも現在の時点では今回の舞台のように言語テクストがあるほうが、この集団の舞台としては受容しやすいという意味でもしばらくは演劇寄りの舞台に傾斜した方がいいのでないかと思わされた。
 舞台を見て感心したのはもともと歌舞伎の上演に向いた空間として構築された春秋座の大空間を若い集団であるにもかかわらず彼らが非常に巧みに使いこなしていたことだ。こうした大空間を使いこなすということには演出家としてのそのための才能が必要で、振付や演出の才能はある人でも空間が大きくなると舞台がまるでスカスカになってしまう例は枚挙にいとまがないほどこれまでに見たことがあるのだが、今回の舞台ではそういうことは一切なくて、むしろ演出の桑折現という人は「Mable」が上演されたremoのような小劇場よりも広い空間の方が向いているのではないかと考えてしまったほどである。
 ただ、ひとつ難を言うとすればこの舞台を見ても今回の公演で使用したテクストがなぜ太田省吾のものであるのかという必然性があまり感じられなかったこと。このスタイルと太田のテクストがうまくかみ合っているのかというのにも疑問が残った。
 太田省吾のこの3本のテクストによる舞台はこれまで見たことがなく、戯曲も読んでなかったので、それぞれのテクストが原戯曲ではどのようなコンテクストで使用されているのかを知らなかっこともあり、そういう判断をするのは困難ではあるのだけれど、少なくとも上演からはどういう必然性があって、テクストのうちその部分を抜粋したのかという必然性があまり納得がいくような形で了解できた部分は少なかった。先ほどの事情からこれはあくまで舞台から私が受けた印象でしかないが、どちらかというと原戯曲のうちの周縁的な部分をことさら取り出したのではないかとさえ考えさせられたのだ。
 太田省吾のテクスト自体の質感にも抜粋されたのが2つの場面(犬の子供が自分から生まれたと語る女性の独白と死を迎える前の一週間の記述)を除くと非常に散文的な部分が多いためdotsのスタイルとの距離感においてこれが効果的であったのかどうかについて若干の疑念を抱いた。
 これはあくまで私の好みの問題ではあるのだが、原テクストの持つ生々しさのような身体的な質感から距離を置いて、どちらかというと淡々とイメージを提示していくような桑折現のセンスで処理されたテクストとしてもう少し湿気のあるようなテクスト(例えば松田正隆)を使用したらどうなるのか、むしろそういう傾向のものを見てみたいという気持ちが舞台を眺めているうちに湧き起こってきたのである。